「さざなみ国語教室」実践記録集によせて
高 野 倖 生

 ずいぶん前のことであるが、N先生がS小学校へ教頭として赴任された。ところがその学校には教師の旗印とも言うべき研究紀要的なものが、ほとんど残されていない。つまり、日々の実践記録は使い捨てられていたのである。その理由の一つは予算がない、という単純な理由からである。それなら別に問題はなかろう、ということて問題提起した。ところがである。猛烈な反対が起こった。つまり、書くことの抵抗があったのである。記録にすることは、いつまでも残ってしまう。責任が伴う、迷惑だという訳である。子どもには作文を書かせている。しかし教師は作文をしない。こんなことで、子どもの作文がよくなる筈はない。N先生は強引に説得を重ね、ついに発行にこぎつけられた。その一冊を私も頂戴したのであるが、その時、つくづく言われたことを今でもはっきり覚えている。「この薄い小冊子が、この学校にどれほど大きな刺激を与えたか。書くためには、それなりの勉強が必要だ、そのことが明日への糧になる。それを気づかせただけでも、大きな収穫だった。…」と。なお、S小学校では、それが伝統となり毎年発行されている。

 こうしたことを前提に、この「さざなみ国語教室」の発足に際し、吉永さんから研究会を創立する話を聞いたとき、もちろん全面的に賛同すると同時に、機関紙発行を条件にしたのである。つまり書くことによって、研究内容を高め、責任を感じさせる厳しさを枷にしたのである。また、締切日を厳守すること。これも、すべて自分のためであることを認識させた。

 この一年、「さざなみ国語教室」をタイプしつづけて感じたことの一つは、初期の頃には、果たせなかった約束事が、最近ではなくなったことである。例えば、字数制限、用紙に書く場合は、少々はみ出しても影響はないが、一字一字タイプするときには、句読点一つにしても影響する。従って、そんな場合は不必要な言葉を削除したり、また違った言葉で表現したりした。この結果、面白い現象が現れた。つまり、各自の個性で文体が築かれているため、同じ意味のことであっても、自分の語句にならない、というとまどいが生じたのである。そこはそこ、こうした集いで自己研鎖を目指す誇り高き若き実践家たち。すばやくこの事実を察知、以後そうしたいいかげんさは姿を消したのである。これも、成果の一つでもあろうか。
(昭和58年3月執筆。『国語の授業』第1集(さざなみ国語教室・昭和58年6月刊)から、一部分を抜粋。)