第九章 ミノムシ (3)
2004/1/05 Mon.
見上げると青い空をごつごつと切り抜いたようなクロマツの高枝に、二匹、三匹とミノムシがぶらさがっていた。その木の低い枝には細長く畳んだ薄紙がびっしりと結びつけられていた。
松葉を傷つけないようにおみくじをほどいて集めるのが今日の仕事だった。海に近い丘の上の神社では寒風をさえぎるものなどなく、初めて手伝う僕の指はすぐにかじかんで思うように動かなくなった。隣では長居が慣れた手つきで黙々と働いていた。
「やっぱ二人だとはかどるな。助かるよ」
「こっちこそ。奥さんに会う段取りを整えてくれてありがとう」
「神社の手伝いをしてて、たまたまわかっただけのことさ」
さらりと言ってくれるけど、僕が気にかけている家族のことがそう都合よく話題にのぼるはずはない。心のなかでもう一度礼を言って作業を続けた。
しばらくすると燃えるゴミ用の袋が紙屑でいっぱいになった。
「これ、ゴミの日に出すんじゃないよな」
「佐義長でお焚き上げだって」
「ふうん……」
「二日の晩にもかなりほどいたんだけど、また貯まっちゃったな」
「大晦日も正月も働きづめだったんだろ。えらいな」
「父さんがずっと家にいたからさ。酒飲みながら愚痴ばっかり。このままお宮の下男になる気か、なんて言ってくるし。休みが終わって母さんもほっとしてるよ。烏丸の親父さんは物わかりよさそうでいいよな」
「……それも善し悪しさ……」
長居はそれ以上話しかけてこなかった。新しいゴミ袋の口を広げてから思い切って訊いてみた。
「金岡はどうしてる?」
「暮れに母親が家を出た」
「えっ」
「あいつ、今まで祖父ちゃんには手を出せなかったけど、これからはどうなるかな。頭を冷やすいい機会かもな」
「頭を冷やす……って、誰が?」
「家族全員」
長居の声は淡々としていた。秋よりまた一段と肝が座ってきた感じだった。
「ここには誘ってやらないのか?」
「まだ時期じゃない」
「そんなもんなのか……」
ふたつめの袋がいっぱいになったところで、学生バイトの巫女さんがお三時だと呼びに来てくれた。
社務所の奥の間にあがると、割烹着のよく似合う初老の女の人が待っていた。お供え餅のように柔らかい笑顔でお茶とカリントウをすすめてくれた。
「えらい待たせてもてごめんね。お話を聞きに来とってやのに、手伝いまでしてもうて」
「いいえ。こちらこそお時間をとっていただいて……」
僕は畳に正座してかしこまり、固唾をのんで奥さんを見つめた。
「……震災前の滋を知っている人がみつかりました。澄吉神社の宮司さんの奥さんです。滋のお祖母ちゃんが氏子さんのまとめ役をしていたので、よく一緒にお仕事をされたそうです。娘さんのお婿さん(つまり、滋のお父さん)は境内の道場で剣道の先生を手伝っていたとか。当時のお祭りは今よりずっとにぎやかで、結構な人手だったこと。葺合さんの一家もよく遊びに来ていたこと。お神輿の見物をするのに、婿さんに肩車してもらったお孫さんが大はしゃぎでちっともじっとしていないので、娘さんが後ろからお尻を支えていたこと。元気で仲の良い家族だったと、とてもなつかしそうに話してくれました。
不思議だね。滋のことを覚えている人たちは、みんな僕のぶしつけな依頼にちゃんと応じてくれたよ。誰かに話す機会が来るのを待っていた。そんな気がしたほどだ……」
2004/1/17 Sat.
僕と父さんは祖母の墓参りをすませ、ワゴンRで山麓のドライブウェイを走った。
自然公園の展望台に着く頃には夕焼け空が東から闇に沈みかけていた。次々と灯りのともり始めた街の一角を父さんが指さした。
「あのあたりだよ。九年前に一夜を過ごした建物は」
「お祖母ちゃんもあそこに運ばれてたの?」
「いいや。地震の前日に具合が悪くなって、自分で病院に行っていたんだ。検査中に容態が急変して深夜に亡くなった。明け方のどさくさで、誰にも連絡がつかないまま時間がたってしまったわけだが」
「お葬式は?」
「現地で簡単にすませた。お骨にしてもらって神部のお墓に納めて帰ってくるのがやっとだった」
「僕がいたせい?」
「ご近所の人たちに手間を取らせたくなかった。あちらのほうが大変な状況だったからね」
「お祖母ちゃんの友達だった人たちは優しかったよ。家をなくして避難してきてるのに、僕のことずいぶん心配してくれてた」
「ずっと覚えていたのか」
「ううん。あの時は怖いことばかり立て続けに起こったから。これはきっと悪い夢なんだ、夢なら早くさめてくれって思ってた。そしたら本当に目が覚めて、いつもどおり常浜の家にいて、母さんもすぐに退院してきて。当たり前みたいにいつもどおりの生活が戻ってきたから、ああ、やっぱり夢だったんだってことにしちゃった」
「夢だと思っていたほうが良かったのかな」
「最初は自分でもそう思ってたんだろうけど」
夢にしてしまったせいで祖母のことも、親切なおばさんたちのことも思い出さなくなっていた。母さんは僕に調子をあわせるために、お墓参りもしなかった。そのうちに明智に引っ越してきて、怖い夢に追いかけられるようになって、いつの間にか父さんを避けることにまでなってしまった。
「友達に言われたんだ。自分がどんな道を歩いてここまで来たのか忘れちゃいけないって」
「厳しい友達だな」
「自分にはもっと厳しいやつなんだ」
はるか遠景、立ち並ぶビルのすきまからわずかにのぞく湾岸の公園に淡いオレンジ色の「7」の数字が光っていた。この距離から見分けることはできなかったが、数字の描線をつくっているは六千余りのロウソクのはずだった。
「父さんは慰霊祭に行ったことはないの?」
「立場がちょっと違う気がしてしまってね。地元の人たちのおじゃまにならないかと。いらん気遣いなんだろうが」
やっぱり、僕の性格は父さん譲りだな。
デイパックから小さな燭台を取り出して地面に並べた。竹を輪切りにして節に釘を打っただけの簡単なつくりだ。ロウソクに火をつけてそこに一本ずつ立てていった。僕の祖母の分。希ちゃんの分。そして、何年か遅れて後を追ったはずのキアのお祖母ちゃんの分。
ロウソクの炎は山の風に吹かれてゆらぎ、何度も消えそうになりながら燃え続けた。
九年前の僕はたぶん、人間があまりにも簡単に、あっけなく死んでしまうことに気がついて、そのことに耐えられなかったんだろう。だからこそ今ある命を大切にしろと、祖母は教えてくれていたはずなのに。
キアは一度も忘れなかったのだ。明智から荻筋、埠頭、逢坂、ふたたび明智。住処を転々と変えながら、希ちゃんの気持ちを抱き続けてきた。
きっと今も。これからも、ずっと。
夕日の残光がすっかり消えたあと、眼下には宝石箱をぶちまけたようにきらびやかな夜景が広がっていた。
風に揺らいで微妙にまたたく「7」の字の灯火は、さほど明るくはなくても周囲の無機質な電飾よりずっと暖かく見えた。目の前のみっつの灯火も同じ空の下で同じ風にゆれていた。
2004/2/2 Mon.
明智市の冬は雨が少ない。
山から吹き下ろす乾いた風が、ため池の水面にさざ波をたて、田んぼの土にひびをいれる。
空は抜けるように青いのに、僕は浮かない気持ちをもてあましていた。
通学鞄の底には萌葱色の封筒が一枚と便箋が一枚だけ残っていた。
一月十九日に震災記念日の報告を書き送ってから二週間。これまでのペースでいくなら、今日にも次の手紙を出さなくてはならない。
でも、何を書けばいいのだろう。
三学期になってようやく補充の教職員が出揃い、ほったらかされていたキアの机が片づけられた。門真は他の中学校の非行グループにすりよっているようだ。取り残された三国はおとなしい生徒たちに混じって息をひそめている。本山は茨木の彼女になった。一年C組の日常は退屈なパターンの繰り返しになり、誰もが転校生なんかいなかったみたいに過ごしていた。
僕が排斥されていたわけじゃない。常盤はカラオケに呼んでくれたし、いろんな部活からの勧誘もあった。みんなから距離を置いたのは僕の身勝手だ。
終業後いつも通りにひとりで正門をくぐり、いつもとは違う道を選んだ。
久しぶりに訪れた青池の周辺はすっかり様変わりしていた。
池は小島や橋もろとも掘り返されて底からコンクリで固められた。祠は岸辺に移設され、手すりの代わりにぐるりと張り巡らされたフェンスで池ごと隔離されてしまった。
林のあった場所は市営の駐輪場になっていた。
僕はアスファルト舗装の通路に立ち、祠を隔てるフェンスの出入り口とそこにかけられた南京錠を見つめた。
女子生徒がひとり後ろから静かに歩いてきて僕の横に並んだ。大宮だった。
しばらくは二人とも黙って立っていた。クロマツの木陰もなくなってしまったので、沈む寸前の頼りない太陽が僕らを照らして長い影をつくっていた。
さきに話し始めたのは大宮だった。
「烏丸くん、五月にここでムシを見ていたんやったね」
「気持ち悪いやつだと思っただろ」
「ううん。烏丸くんが好きなことなら、私も知りたいて思うててんよ。高井田くんたちがいてへんかったら……」
「プールサイドで文鳥をみつけた時も、いやな思いさせちゃったし」
「あれは私が悪かったんよ。わざわざ来てもうたのに悲鳴あげて逃げ出したりして」
なぜだろう。大宮と話をしていると、何を言えばいいのかわからなくなってしまう。僕はしかたなくムシの話題をつないだ。
「ヒラタシデムシはわりとどこでもみかけるけど、ここでモンシデムシをみつけたのはちょっと驚きだったんだ。雄雌一緒に幼虫の世話をする珍しい甲虫で、親虫は鳴き声で幼虫を餌のありかに導く習性も持ってる」
大宮は首をかしげておさげ髪に指をからめた。
「お父さんも子守唄を歌うムシなんやね」
ふいをつかれて、胸に苦いものがこみあげた。
また黙りこくった僕の横で、大宮は懸命に言葉を探しているようだった。
「烏丸くん、最近元気ないよ」
「別に何も変わったことはないけど」
「十月にいろいろあって大変やったはずやのに、そのあと冬休み頃まではすごく忙しそうに動きまわってたでしょう。あの頃より今のほうがしんどそう」
「……やることがなくなっちゃった、てのはあるかな」
「葺合くんのこと?なにか困ってる?」
きみがどうしてそんなことを気にかけるんだ。そう声に出して訊かないくらいの分別はあった。
大宮は今までも、なにくれとなく僕らを助けてくれていた。
みっともない姿も何度も見られている。今さら取り繕ってもしかたない。
「返事をくれないんだ。ずっと手紙を書いてるのに」
正直に言ってしまってから、自分の声が腹にこたえた。
二宮さんには、返事なんかいらないと啖呵をきった。入院中や施設入所の前後は字を書く余裕などなかっただろう。新しい環境に慣れるまでは昔の友達と距離をおいたほうがいい。そんなふうに大人が考えることもわかっていた。
それでも、もう四ヶ月だ。
手紙が届いていないのなら仕方ないが、それならば二宮さんが僕に待ったをかけてくれたはずだと思う。
読んでいて返事をくれないのなら、いったいキアは何を考えているのだろう。
僕は他人の物語に踏み込みすぎてしまったのだろうか。西中での事件も含めて、今までのことは忘れてしまいたいと思っているのか。
大宮は僕の頭越しに祠の屋根と、そこに掲げられた額を見上げた。
「ここは竜の神様のお社なん?」
「ああ。そうだね」
気のない返事をしながら、頭のなかでは出口のない思いが渦巻いていた。
僕はキアの写真を一枚も持っていない。
四月にクラス写真を撮影した時にはまだ転校して来ていなかったし、行事の時にもカメラの前にでしゃばるようなやつじゃなかった。
記憶の中には今でも鮮やかに、清々しい笑顔が残ってはいた。けれどもそれが、僕の思いこみがでっちあげたイメージではないという保証はどこにもなかった。
「昔流行ったマンガに、神の竜がでてきて願い事をかなえてくれる話があったね」
「……うん」
「今なら竜神様に何をお願いしたい?」
大宮は知らずに言ったのだろうけど、僕は初夏にこの場所で聞いた楠さんの言葉を思い出した。
「……神さんには何をお願いした?青池の竜神さんの御利益は確かやで……」
あの時の願い事はかなったんだろうか。
「……会いたいです」
僕はフェンスの鉄線に指をからめて頭を垂れた。
「あいつは、どこかで生きているんです。忘れてしまうのも、きれいなだけの思い出にしてしまうのも嫌です」
シデムシ、シデムシ、死骸を目にしたくない連中のために、毛を抜いてまるめて、のっぺりした無臭の塊にし、跡形もなく埋めてしまう。そこに誰がいたか、何があったかなんて覚えておく必要はない。
「会うたらええやん」
大宮がさらりと言った。
振り向いた僕のとまどいなどおかまいなしに、にっこりと笑った。
「烏丸くん、自分がやると決めたら、誰に何言われてもやり通してきた人やないの。それくらいの押しがないと葺合くんには通じへんかったんでしょ」
赤みを帯びた日の光が大宮の顔を照らし、おさげ髪に反射して輝いていた。
僕は目をつぶって大きく息を吸い、吐き出した勢いで目の前の金網にとりつき、両手両足をかけて一気によじ登った。フェンスのてっぺんから反対側に飛び降り、池の周囲に沿って駆け出した。
五月にここでキアに出会った。空き缶拾いしているところをみつけ、楠さんの世話になった。弁当を分け合い、数学の勉強をし、ふたりだけの名前をもらった。
会いたい。会ってくれ。また罵倒されようが冷たくあしらわれようがかまわない。どこに行けば会える?教えてくれ。僕はもう我慢しない。
フェンスの切れ目をすり抜け、公道に走り出てしまってから大宮に礼を言っていないのに気がついた。振り返るともう祠の前には誰もいなかった。池の対岸を制服姿の女の子がふたり、僕に背をむけ肩を寄せ合って去っていくところだった。
あとはもうわき目も振らずにひた走り、家に帰りつくとすぐ、最後の一枚の便箋に短い文章を一気に書きあげた。
2004/2/13 Fri.
手紙の返事が届いた。官製はがきの表には僕が封筒に書いたリターンアドレスをコピーして貼りつけただけ。裏には「十苅水源池 3、6、10」とだけ書かれていた。
名前など書いていなくてもひと目でそれとわかる。なつかしい金釘流の筆跡だった。
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