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第九章 ミノムシ (4)

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2004/3/6 Sat.

 僕は早朝、デイパックを背負って家を出た。途中、JRの沿海都市部を走る路線から山間部に向かう路線へ乗り換えた。同乗した乗客の多くは温泉街の最寄り駅で下車していった。僕はそのひとつ先の小さな駅で列車を降りた。家を出てから二時間以上たっていた。
 十苅水源池はダムで川をせき止めて作られた人工湖だ。大正時代に建造されてからずっと神部市へ水道水を供給しているという。湖畔にはサクラがたくさん植えられていて、花や紅葉の季節には観光客でにぎわう景勝地だとも聞いた。
 この季節まだまだ花芽も固いというのに、僕のほかにもかなり高齢の男女グループが来ていた。チェックの綿シャツにニッカボッカ、トレッキングシューズという本格的なスタイルだ。フリースとジーンズにスニーカーの僕は軟弱に見えただろうか。おばさんのひとりがパインアメをくれた。
 僕らは駅前からハイキングコースの道標にしたがって舗装路をてくてくと歩いた。浄水場を通過してさらに渓谷沿いに歩き続け、十苅ダムを目指した。
 アカマツの植え込みをぬけると、どっしりとしたコンクリート造りの堰堤が薄く靄のかかった空を背景にそびえたっていた。
 ハイカー達はいくつもの補修跡が残る無骨な壁面をバックに記念写真を撮り、小休憩の後は西に折れて寺に向かう道を進んでいった。僕はひとり堰堤のすぐ下流にかかった細い橋をわたり、池の東岸に沿って北上を続けた。
 湖面を渡る風が木々の梢をざわめかせた。未舗装の山道はだんだん細くなり、アカマツやヒサカキのあいだにコナラをみかけるようになった。
 秋に降り積もったまま柔らかくなった落ち葉のおかげでほとんど足音はたたなかったが、別れ道を過ぎてから誰かがついてくる気配はずっと感じていた。
 ホオノキの群落を抜けると地肌の露出したガレ場に出た。土砂崩れの跡のようだ。薄茶色の土と砂利の斜面に沿ってすべり降りてみた。
 ダム湖の全容が目の前に広がっていた。満々と水をたたえ、向こう岸は靄にかすんで距離がつかめない。あたりにはもうサクラの並木もなく、こわれた防護柵の隙間から水際に近寄ることができた。
 途中、僕はなるべく平たい石をさがしてポケットに入れていた。岸辺ぎりぎりに立って息を整え、できるかぎり水平に石を投げた。一、二、没。その波紋が消えぬうちに別の石が横合いから飛んできた。一、二、三、四、五。見事な軌跡を見送り、振り向いて投手をさがした。
「キア……」
 声をかけてしまってからどきりとした。キアじゃない。いや……。
 そこにいた少年は僕より背が高かった。こざっぱりした長袖Tシャツとジーンズ。すらりと伸びた手足。やや痩身だが肩幅はかっちりと広く、引き締まった腰までしなやかな筋肉の輪郭が見てとれた。切りそろえられた黒い前髪がさらさらと風に流れた。
「……ラス」
 ぽかんと口を開けて突っ立っていた僕は、ふいに呼ばれて跳びあがった。
 聞いたことのない、かすれた低い声だった。
 僕はもう一度、まじまじと相手をみつめた。
「……キア……」
 キアは軽く肩をすくめて口の端をもちあげた。以前ならやんちゃできかん気に見えたしぐさに、今は制御された力強さを感じた。
「背が伸びたね」
 間の抜けた挨拶をしてしまった。
「アホほど食うとうからな。お前も……」
 そう応えかけて、キアはまぶしそうに目を細めた。
 今度は僕のほうがしげしげと観察されて首筋がむすがゆくなった。
「最初に会うた時はひよひよした頼りないやつやて思うたけど」
「そうだったの?」
「見違えたで。骨が太うなった」
 キアは自分の言葉に照れたように後ろを向いて、ついてこいと手を振った。
「もう俺がおらんでもいじめられたりせんやろ」
 僕はキアの後に従ってまた林の中へ、今度は登山道と湖のあいだをぬって南へ引き返した。道らしい道もないのに、キアの歩みは自分の家の庭でも案内するみたいに迷いがなかった。
 コナラの小枝の先の新芽を指さされた。よく見ると小さなクモの擬態だった。
 立ち枯れたアカマツの樹皮の裏ではカメノコテントウが集団越冬していた。
 一本だけはやばやと花をつけたマンサクの木。
 伐採跡の陽だまりにはオオイヌノフグリの花畑。
 次から次と案内されるたびに息をつめて夢中で観察を続ける僕の傍らで、キアは努めてなにげない態度をとろうとしていた。それでも顔がにやけるのは抑えようがなく、こっちまで笑ってしまいそうになった。
 このあたりはすっかり、こいつのフィールドなんだ。
「よくこれだけ調べあげたな」
「詳しいおっさんがおったからな」
「施設の人?今度会わせてもらえる?」
 キアはちょっと困ったように鼻の頭をかいた。
 ひょっとしたら、僕と会っていることを大人に知らせていないのか。それ以上追及するのはやめておいた。
 背の高いホオノキの根元にデイパックを置いて昼休憩にした。
 僕が弁当をひろげると、キアはなつかしそうに鼻をひくつかせた。
「お前のおかん、煮物がうまかったな」
「食べる?」
「ええよ。俺も作ってもうたから」
 ウエストバッグから取り出した弁当箱は小ぶりだったが、ぎゅうぎゅうに白飯とおかずが詰まっていた。
 施設の厨房に頼んで、アルバイトに出かける高校生たちの分と一緒に包んでもらったのだそうだ。
 しばらくはふたり黙々と食事をした。じんわりと汗の浮いた身体に、大きな落ち葉の香りが心地よかった。
 後片付けをすませ、僕はのんびりとホオノキの幹にもたれてあくびをした。
 キアが遠慮がちに話しかけてきた。
「明智はどないや」
「ここよりも気温は高くなってるよ。ムシはまだあんまり出てこないけど、もう少ししたらツクシが摘めると思う」
 僕の返事は期待にそわなかったようだ。
「……県住は……俺の家はどないなっとう?」
「お父さん……会いに来てないの?」
 キアは黙ってうつむき、スニーカーのつま先で落ち葉をほじくった。
「十月の終わりに行ってみたけど……もう引っ越したあとだったよ。お隣さんも管理人さんも、転居先は知らなかった」
 手紙には書きそびれた事実。僕も下を向いてふたりの足元に視線を泳がせた。
「児相の人にも連絡してこないの?」
 キアは落胆を隠すように声の調子を上げた。
「まあ、どうせまた舞い戻ってくるやろ。明智で生まれ育って、他へ出たこともなかってんからな。俺が先に帰って待っとればええことやし……」
 僕はぎょっとして立ち上がった。
「おい……本気かよ。帰ってきてまた父親と暮らすつもりか?」
 キアは表情の読めない顔で僕を見つめ返した。僕は頬を赤くして言いつのった。
「だって、今はもう食べるものがないとか着るものが合わないとか、そんなこと気にしなくていいんだろ?夜中に追い出されるとか殴られるとかも……」
 僕の声は大音量のサイレンにかき消された。短い休止をおいて二回目。さらに三回目。登山道の看板で読んだ。ダムの放流を知らせる警報。
 キアはしんと醒めた目を僕に向けたまま立ちつくしていた。
「帰ってきていらん、てか」
「……え……?」
 口元だけに貼りつけたような笑みをうかべ、キアはバッグから角ばった紙包みをひっぱりだして僕の胸に押しつけた。
「世話んなったな。まあ、達者で暮らせや」
 紙包みの角が破れて萌葱色の封筒がのぞいた。冷や水を浴びせられたように青ざめた僕をおいて、キアはひとりさっさと林の斜面を下り始めた。
「ちょっと待てよ!おい!」
 キアは待たなかった。信じられないような身のこなしで密生した木々のすきまを駆け抜けていった。
 僕はそのあとを追い、死に物狂いで走った。二人の距離は広がる一方だ。近道を選んだつもりが根株に足をとられて転倒した。身体をまるめたまま、あちこちにぶつかりながら斜面を転がり落ちた。川のほとりまで来てやっと停まった時には身体中がきしんだが、移動時間を短縮することはできた。
 起きあがってあたりを見まわした。いつの間にかダムよりも下流に来ていた。
 キアは川にそってさらに南へと向かっていた。僕は口元の血をぬぐい、痛む足を無理にも前へ運んで走りだした。背後からまたサイレンが三回、尾をひいて鳴りひびいた。
「待てったら!」
 キアは意地でも振り向かなかった。橋もないのにいきなり護岸堤防の縁から飛び降りたと思ったら、対岸まで渡された丸太のような水道管の上を駆け抜けていった。
 僕も遅れてその後に続き、鉄管の上に降り立とうとした。
 はるか前方で、やっと振り向いたキアの顔がひきつった。同時に僕の足首ががくんとねじれた。スニーカーが金属の曲面をすべり、足が宙に浮いた。
「ラス!」
 とっさに両手をのばして水道管にしがみついた。つかむ手がかりなどどこにもない。フリースの袖が管の表面をずるずるとこすってようやく止まった。僕は両腕を鉄管にはりつけたまま、両足をぶらぶら垂らすはめになってしまった。
 キアはこちらへ走って戻りながら声をはりあげた。
「誰か!来てくれ!助けが……」
「ちょっ……人なんか呼んだら黙って会ってたのがばれちゃう……」
「黙っとれ、あほう!」
「たいした高さじゃないよ。このまま手を離して落ちても……」
 僕はそう言いながら下を向いて、初めて川の様子がさっきまでと違うのに気がついた。
 土色に濁った水面は一見、床のように平らだった。違和感を持ったのは河原や中州がすっかり見えなくなったせいだ。水はひたひたと堤防を洗い、石積みのすきまから生えた雑草が見る間に水没していった。上流から流れてきた落ち葉が僕の足の下をすいと通り過ぎて、あっという間に視界から消えた。
 流れの速さと水量の多さに改めて思いいたり、手のひらがじっとりと汗ばんできた。
 キアの呼び声に応える者はいなかった。ほんの数十秒の間にも水面はじわじわとせり上がり、スニーカーの先を濡らしそうになった。
「動くなよ。ええか。じっとしとれよ」
 キアはもう一度水道管に乗り、振動を与えないようにそろそろと歩いて僕のところまで来た。自分の胴回りより太い管にまたがってウエストバッグのストラップをはずし、這いつくばって僕のベルトに手を伸ばした。金具をひっかけようとした瞬間に僕の手がずるっとすべった。キアがとっさにベルトをつかんで支えてくれたが、ストラップはバッグごと川面に落ちて沈んでしまった。
「くそっ」
 キアはやおら両腕をTシャツの襟ぐりからひき抜き、ぶらさがった片袖を僕のベルトに巻きつけてしばりあげた。結び目をつかんで自分の体重を思い切り反対側にかけ、僕の体をひっぱった。
 彼ひとりの力で僕を持ち上げることはできなかったが、過重が減ったことでなんとか両手をたぐりよせ、鉄管の上に腹をのせることができた。
 ジーンズの前ポケットあたりで何かがひっかかった。片足をまわして鉄管に抱きついたひょうしに、紙包みがほどけて中身がこぼれ落ちた。
 萌黄色の封筒が吹き下ろす風にあおられてばらばらと飛び散り、川面に落ちていった。茶色い落ち葉にまじって若葉のように色あざやかな点々が流されていくのを、僕らは呆然と見送った。
「おい。動けるか?」
 キアに声をかけられて現実に引き戻された。
「そのまんま、ちょっとずつ下がれ。腿の力、抜くなよ」
 僕らは細い葉の先に向かいあってとまったテントウムシのような姿勢のまま、じりじりともと来た岸辺に向けて移動した。
 ようやく足が堤防と鉄管の連結部に届いた。ほっとして気が抜けた。途端に、バランスを崩した。
 シャツの命綱でつながったまま、僕にひきずられてキアも転落した。
 頭まで冷たい水に浸かって目の前が真っ暗になった。息をしようとして水を飲み、むせかえってさらに水を吸った。そのまま流されそうになった僕の腕を、キアがつかんで引きとめた。
「暴れんな!だぼ!」
 やみくもにじたばたするのをやめたことで、かえって身体が立ち直り、なんとか川底に足をつくことができた。
 ようやく頭を水面からもちあげて咳こみ、泥水と一緒に昼飯を吐き戻した。水は腰の下あたりまでしかなかったが、それでも流れに足をすくわれそうになるのを堤防の石のすきまに手をひっかけてなんとか持ちこたえた。
 キアが下流の一角を指差した。堤防に小さな階段が刻まれていた。
 石積みにへばりつくようにしてそろそろと移動するうちに水かさは少しずつ減っていった。
 ようやく乾いた地面に這い上がってへたりこんだ。何時間も水と格闘した気分だったが、太陽はまだ南の空の高い位置にあった。
 びしょぬれの身体が風にさらされて震えあがった。隣で膝をついたキアのほうが僕よりひどく震えていた。
 ランニングシャツからのぞいた肌は青ざめ、左肩の傷痕だけが赤っぽくうきあがっていた。
 早く乾いた服に着替えて身体を暖めなければ。
 僕は紫色になった爪でなんとか命綱の結び目をほどき、濡れそぼったTシャツの残骸を脱がせようと、膝をついてキアのそばににじり寄った。
「……ごめん……僕が……」
「簡単に謝るな!」
 いきなり怒鳴りつけられて、びくっと手をひっこめかけた。キアはその手をつかんで引き寄せ、痛いほど握りしめた。
「謝ってすむかい……あほう……」
「ごめ……あ……え……」
 キアは声をつまらせた僕の手を抱え込み、血が通っていることを確かめるように眉間に押しあてた。揺れる前髪からしずくが流れ、顎までつたってぽたぽたとこぼれ落ちた。
「……お前まで……たら……」
 嗚咽がもれて言葉が聞き取れなくなった。
 僕は身動きとれないまま、自由のきくほうの手でキアの背中をこすり続けてやることしかできなかった。
「手紙……また、書くから」
 返事はなかった。 
「帰ってくるまで。待ってるから」
 ようやく、かすかにうなずいてくれた。
 百メートルほど川下の木立をぬけて、若い男の人がぶらぶらと歩いて来た。望遠レンズをつけた大きなカメラをかまえて、ぐるりとあたりを見まわした。たまたまこっちを向いたとき、ファインダー越しに僕と視線があった。
 男の人はカメラをおろして、両目をレンズのように丸く見開いた。それからあわてて、腕を振りまわしながら走ってきた。
「おい、どないしたんや。きみら、大丈夫か?」


 キアが西中学校に戻ってきたのは、水源池で会った日から数えて一年十ヶ月後だった。


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