第四章 クマゼミ (3)
2003/08/07 Thu.
眠れない一夜が明け、僕は朝食もそこそこに家を飛び出した。
昨日は次の約束をしないままに別れてしまった。キアをつかまえるには朝刊の配達が終わるところを待ちかまえるしかない。
販売店につく頃には気温がぐんぐん上がり、日なたに立っているだけで額を汗が流れ落ちた。僕の見ている前でバイクを押した従業員や自転車に乗ったアルバイトたちが次々と帰ってきたが、そのなかに友達の姿はなかった。
店の前をうろうろしている僕を見とがめて、店長の奥さんが表に出てきた。
「葺合は?まだ帰ってこないんですか?」
僕が尋ねると、奥さんは不機嫌そうに自分の腰を平手でぱしりと打った。
「休んどうよ」
「病気なんですか?」
「知らんよ。近頃の子は電話もしてこうへん。なめとんのかね」
自分が叱られたみたいにおどおどしている僕を残して、奥さんは店の奥にひっこんでしまった。
自転車を整理していたごま塩頭の従業員さんが僕に目配せした。
「心配せいでも、奥さんはいっつもあの調子やで」
「無断欠勤したら、クビになるんですか?」
「滋が休んだんは初めてや。今まで他のやつの倍はがんばっとうよ。うちみたいに人使いの荒い店には得難い人材やて」
僕は親切なおじさんに頭を下げて店を離れた。
あとはもう確実なあてなどない。
青池。クワガタをみつけた林。笹藪の横の駐車場。コガネムシを捜した小さな牧場。
今までに二人で遊んだ場所をしらみ潰しに見てまわった。
水田。キャベツ畑。ドライヴインのゴミ置き場から海辺まで、昼飯抜きで歩き続けた。
日が傾くころになってもキアはみつからなかった。
夕刊配達の時間を見計らって店に戻ってみたが、キアは出勤してこなかった。さすがに店の人も心配しだした。
「家に電話しても誰も出えへん」
朝方、声をかけてくれた従業員さんがため息をついた。
そこでやっと気がついた。僕は以前、あいつの住所を書類で見たことがある。どうしてすぐに思い出さなかったんだろう。
「僕、直接行ってみます」
国道をずっと東に行った先の県営住宅だ。急いで店を出ようとしたところで足がもつれて転びそうになった。
ほどけたスニーカーの紐を踏みつけていた。結びなおそうとしゃがみかけて、かくんと膝が折れた。
なんとか体勢を立て直し、重い足をひきずって歩き出した僕の傍らへ、さっきの従業員さんがスーパーカブ90を押してきた。
「これ飲み」
ペットボトルに半分残ったウーロン茶をさしだされた。
受け取って礼も言わずに飲み干してから、喉が渇いていたことに気がついた。
「ありがとうございます」
従業員さんは空のボトルと交換にヘルメットを押しつけた。
「乗せったるよ」
「でも……」
「どうせ帰り道やし」
少し躊躇したが、結局はありがたくカブの後部座席にまたがった。
県住まではだらだらと長い登り坂だった。バイクに乗せてもらわなければ、日暮れまでに到着することはできなかっただろう。
従業員さんは高層住宅の階段前に僕をおろし、
「ほんまは俺、あの子とはあんまり話したことないんや。後はまかせるわ」
照れくさそうにそう言って帰っていった。
少し軽くなった足でコンクリートの外階段を上った。
記憶していた部屋番号は四階のつきあたりだったが、郵便受けに名前は書いていなかったし、表札もでていなかった。
チャイムを押してみたが何の音もしない。故障しているのだろうか。ためらいがちにノックしてみても返事はない。ドアノブは施錠されている。
玄関の前は殺風景だったが、それなりに土ぼこりを掃いたあとがついていた。室外機用のくぼみには段ボール箱に放り込まれたシュロの箒とプラスチックのちりとり。空き家には見えない。
留守なんだろうか。ドアの隙間に耳をよせてみた。なんとなく、室内で誰かが息を殺しているような気配を感じた。
「葺合さん?」
もう一度強めにノックしてみた。
がちゃりとドアが開いたのは隣の家だ。
「うっさいぞ」
初老の男の人が顔を突き出して怒鳴った。無精髭をはやした口元からぷんと甘酸っぱいにおいがした。この時間からお酒?
「すみません」
一歩下がって頭をさげてから、図々しくきいてみた。
「こちらはお留守なんでしょうか」
「知るか。ゆうべは遅うまでがたがた音たてくさって、おかげでこっちは寝不足や」
「……今は静かですね」
男の人は鼻を鳴らして頭をひっこめ、ばたんとドアを閉めた。
僕はフィールドノートのページを一枚破りとって手紙を書きかけた。そこでふと迷い、紙をにぎりつぶした。誰とも知れない人の手に書いたものが残るのはいやだった。
もう一度ドアの隙間に顔を近づけて声をかけた。
「キア?そこにいる?」
何の反応もなかったが、かまわずに続けた。
「僕、明日から旅行なんだ。帰ってくるまで一週間くらい会えないけど……」
こら。先に言わなきゃならないことがあるだろ。
「……昨日はごめん。僕が悪かったよ。帰ってきたら、もし……」
苦いものがこみあげてきて、声がつまった。
「……もっかい、ちゃんと顔見て謝りたいから。その時くらいは会ってくれるかい?」
やっぱり何の返事もなかった。人がいると思ったのは僕の錯覚だったのか。それともキアはもう僕に言葉を返す気もないんだろうか。
隣の家からわざとらしい咳払いが聞こえた。
僕は仕方なく撤退した。コンクリに散らばった茶色い松葉を踏みながら、すごすごと階段を降りていった。
西の空に見事に赤い夕日が沈むところだった。県住の向かい、ナス畑の真ん中に古びた空き倉庫が建っていた。窓ガラスが割れた隙間からコウモリの一群がひらひらと飛び立っていった。
いつもならわくわくする光景のはずなのに。なんだか世界が煤けてひどくつまらないものに見えた。
たった一日会えなかっただけなのに。
あいつと一緒にいろんなものを見ること、一緒に何かすることが、いつの間にか当たり前になってしまっていた。
以前の僕は、いったいどうやってこんな毎日をやりすごしていたんだろう。
ぼんやりと夕日を見ている僕の横を、スポーツバッグを肩に掛けた高校生やスーツ姿の女の人、買い物袋をさげた男の人、塾の鞄を背負った小学生などが次々と通り過ぎ、建物のなかに吸い込まれていった。
西中生も数名いた。僕を見てなにごとかささやきかわしながらすれ違っていったが、誰も声をかけてはこなかった。
2003/08/08 Fri.
とうとうキアに会えないまま、父さんの運転するワゴンRで家族旅行に連れ出された。早朝に出発して、ときどき母さんに運転を交代しながら高速道路をひたすら東に走り、当海の温泉旅館で伯父さん家族と合流した。
従妹の智沙(ちさ)は伯父さんの一人娘で幼稚園の年長組だ。まだ薄くて頼りない髪を長くのばし、おしゃまなツインテールにまとめている。勇が大好きで、二歳の年の差などおかまいなしにまねをしようとする。勇もお姉さんになりきれずにはりあってしまうので、ふたりだけで放っておくととんでもないことをしでかしそうだ。
母さんと伯母さんが買い物に出かけている間、僕がお守り役をまかされた。
女の子たちは客室の煎茶セットを使ってままごとを始めた。
「わたしがパパ、智沙ちゃんがママで、お兄ちゃんは赤ちゃんね」
お湯のポットには触らない約束で、それでも智沙は一所懸命お茶をいれるふりをして勇に湯飲みを差し出した。
「はいどうぞ、パパ」
「ああ、ありがとう」
父さんのまねをして受け取った勇を見て、智沙が口をとがらせた。
「なんでパパがありがとうっていうの?」
「えー、言うでしょ、ふつー」
「いわないよぉ。パパがだまってるとママがつんつんして、ちがうおへやへいっちゃうの」
「智沙ちゃん、これはおままごとなんだから、ほんとのパパとママのまねしなくても……」
「赤ちゃんはしゃべらないの!」
勇にぴしゃりと叱られ、僕は首をすくめて寝ころんだ。
こいつ、智沙の前では僕が怒らないとわかっているから、態度がでかい。
「ママ、どうしたの?すねてないでこっちに来なさいよ」
「ちがうよお、パパはママよんだりしないもん。いいからほっとけっていつもいってるもん」
「そうなの?勇のパパはいっつもママのごきげんを気にしてるよぉ」
智沙が僕の頭をボールのようにつかんで自分の平らな胸に押しつけた。
「あかちゃんはママのみかたでちゅよねえ」
勇が僕の両足をひっぱって広げた。
「パパがおむつをかえてあげようね」
「ちょっと待て勇……」
「赤ちゃんはしゃべらないの!」
母さん、早く帰ってきてくれ!
「にぎやかだなあ。仲良く遊んでるかい」
部屋に入ってきたのは浴衣姿で手ぬぐいをさげた父さんだった。
勇は僕の足を投げ出して父さんの腹に抱きついた。
「パパ、お帰りぃ!」
智沙が持ちあげていた僕の頭からぱっと手を離し、負けじと父さんの背中にくっついた。
「あそぼ、おじちゃんもいっしょにあそぼ!」
父さんはふたりの頭を順番になでて微笑んだ。
「ママに荷物運びを頼まれてるんだ。そろそろ出かけてくるよ」
「チサのパパは?」
「もうしばらくお湯につかっていたいそうだよ」
「ねえ、おじちゃんはどうしておばちゃんのいうこときくの?」
智沙の真剣な質問に、父さんは苦笑した。
「お願いをされて、むげに断ることはないと思うけどね」
「ママはおねがいするんじゃないの。『これくらいしてくれたっていいでしょ』っていうの。そしたらパパがいうの。『なんでおればっかり!』って」
父さんは腰をかがめて千紗と目の高さを揃えてから静かに言った。
「じゃあ、こうしようよ。千紗ちゃんと勇で、千紗ちゃんのパパにお願いをしておいで。みんな一緒にお出かけがしたいから、パパの大きい車に乗せていってちょうだいってね」
「パパ、いやだっていわないかな」
「千紗ちゃんと勇が一所懸命お願いすれば大丈夫だよ」
ふたりの女の子は元気よく大浴場に向かって走っていった。
父さんはその姿が見えなくなってから、やれやれと手ぬぐいで頭を拭いた。
「兄貴も、もうちょっと大人になればいいのにな」
それからようやく、大の字にのびていた僕を見た。
「聡は私と乗っていくか」
「伯父さんがイプサムを出すなら、父さんも一緒に乗ってけるじゃない。僕は留守番してるよ」
「……そうか」
父さんは「わがまま言わずに一緒についてこい」とも「遠慮させて悪いな」とも言わなかった。わかっているといいたげな態度にかえっていらっとした。
僕は父さんを見上げて無言で問いかけた。
あなたはいつもそうやって、冷静に気を配り、そつなく人当たり良く、事態をきれいにまとめて、それが役目だとでも思っているのですか?
あなたは自分のふがいなさに腹をたてたり、思い通りにならない状況に悪態をつきたくなることはないのですか?
声に出さない質問に答えがかえってくるはずもなかった。
「そのへんを散歩してくるから」
それだけ言って起きあがり、父さんを残して部屋を出た。
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