第四章 クマゼミ (2)
2003/08/06 Wed.
午後、ふたりでJRの踏切をまたいで駅の南へ出かけた。
住宅地のはずれでは大きな池を半分ほど埋め立てて造成工事がすすめられている。新しい公園ができるそうだ。水を抜かれた池の底、キャタピラの轍が走る泥んこに、腐った水草と小魚の死骸が埋もれていた。岸辺をコンクリで固めた清潔な池に水を入れ直したとき、いったいどんな生き物が住み着くのだろうか。
工事現場の隣にはひと足先に図書館の分室がオープンしていた。南側の壁面がほとんどガラス戸で広いテラスのついたぴかぴかの建物は、震災で傾いだままの木造住宅に囲まれて浮きまくっていた。がらんとした駐車場とぎゅうぎゅうに混雑した駐輪場の裏手には、まだまだ広い水田が広がっていた。
朝から断続的に強い雨が降っているせいで、空気は湿りを含んでぽってりと重い。カエルをさがすにはちょうどいい案配だ。
タモ網を構えてゆっくりとあぜ道を歩いていくと、緑色の稲株の陰から跳ね出すやつがいる。そこへすかさず網をかぶせて竿をひねる。
「今度はでかいトノサマだ」
さっきからつかまるのはトノサマガエル、ツチガエルにアマガエル。ダルマガエルがいないかと捜しているのだが、まだ一匹もみつからない。
僕が網を裏返して逃がしてやったカエルを、キアがさっと素手でつかみとり、両足を持ってぶらさげた。
「たいして肉はついてへんな」
「……食べるの?」
「もも肉な。ウシガエルやったら高級やけど、今日はみつからんな」
残留農薬が心配だと言いかけてやめた。冗談なのか本気なのかよくわからなかったから。
足を放してもらって手のひらに載せられたカエルは、すぐに跳びおりて田んぼに消えた。
江坂と出会って以来、キアは僕が外出するたびにぴったりはりついて護衛を務めるようになった。直接暴力に訴えてくるタイプじゃないと説明しても、なかなか納得してくれなかった。
これからのことは相手の出方次第だ。あいつら今頃は僕らをどう料理するかじっくり考えているんだろう。ゆかいな状況ではなかったが、そればかり気に病んでいてもしかたない。
ムシやカエルを追いかけて遊んでいる間は、キアも見かけ無邪気につきあってくれていた。
一学期に比べれば、キアはずいぶん朗らかになった。けれども、夜の公園で見た凍りついた顔は忘れられない。僕の見まちがいだったと思いこもうとしたが、うまくいかなかった。かえって他のことまで思い出しそうになって、それが何なのかわかるよりさきに押し戻すのに苦労した。
用水路の傍に並んで立ち小便をした。ふたりともまだ「生えていない」ことを確かめて、なんとなくほっとした。
「また降り出しそうだな」
僕は今にもはち切れそうに垂れ込めた雲を見上げてつぶやいた。
そのとき、いきなり足元がゆらりと動いた。
キアがびん、と背をのばした。
「地震や」
「えっ」
僕は自分が立ちくらみでもしたかと思ったのに。唇をひきむすんで図書館の建物めざして駆けだしたキアをあわてて追いかけた。
ふたりで駆け込んだ時にはもう一階ロビーの大型TVの前に図書館中の人達が集まっていた。
平和祈念公園の中継映像にニュース速報のテロップが重なり、しばらくしてスタジオに切り替わった。地方局のアナウンサーが臨時ニュースを読みあげはじめた。
震源地は県の東部。この付近の震度は二。津波の心配はなし。JRは一時的に停車したがすでに運転を再開……
「震度二やて。そんなもんやった?」
「もうちょっと強かった気ぃもしたけど」
たいして被害が出ていないとわかると、TVの前の女子高校生たちがおしゃべりを始めた。
「うちらへん、前の時は五強やった。本棚がひっくり返って往生したわ」
「私の家は大丈夫やったのに、お隣の屋根から瓦が落ちて、植木鉢を割ってもたんよ。弁償せえとも言われへんし……」
「お父さんたちが神部のおばさんと電話が通じへんゆうて、車で出かけようとしてん。そしたら、真っ黒い煙がもくもく上がるんが見えて、びっくりしたて。まるで戦時中の大空襲の時と同じ……」
砂でも噛んだみたいに口の中がざりざりして気分が悪くなった。
僕の横ではキアが食い入るようにニュースの映像を見つめていた。
『……俺はこのへんで生まれてんで……六歳で引っ越してん……』
こいつは八年前の大震災を経験しているんだ。
僕はTVに背を向け、画面にかじりつく人たちの肩にぶつかりながら混雑を抜け出した。
出入り口のドアを思い切り押し戻したら、閉まるとき予想外に大きな音をたてた。
受付の女の人が眉をひそめるのがガラス戸越しに見えたが、僕はぷいと横を向いて大股でテラスの外に出た。
駐車場のはずれでキアに追いつかれた。
「黙って出てったらわからんやろが」
「いやなんだよ。ああいう話を聞かされるの」
足元の小石を前も見ずに蹴飛ばした。小石はけっこう高く飛んで街路のサルスベリの枝にぶつかり、濃いピンクの花びらを散らした。
キアはあきれたように鼻の頭をかいた。
「ああいう話て、震災のことか?」
「言っただろ。小学校にはいる前は関東にいたんだから、僕は地震なんて知らない。あんなふうに体験談だの苦労話だのひけらかされるのがうざったいんだ」
「お前が知らんかて誰も悪いとか言うてへんやろ。黙って聞き流しとったらしまいやんか。何けんつくしとんや」
返事のしようがなかった。自分でもなんでこんなにいらつくのか、わけがわからなかったのだ。
「……顔色悪いで」
いつもなら素直に聞けるキアのことばが、今日ばかりは僕の神経を逆なでした。
「放っといてくれよ!ガキじゃないんだから。護衛づらされるだけでもいいかげんうっとうしいのに、不機嫌だとか顔色悪いとか、お前の知ったこっちゃないだろ……」
止めようもなく自分の口をついて出たことばに、ぎょっとした。
いったい僕は何をしてしまった?
キアは表情を硬くしたが、怒りも言い返しもしてこなかった。
ただ黙って僕の前に立ちつくしていた。教師にどなられても、ふてぶてしくにらみかえすようなやつなのに。
いっそ悪態つかれてぶん殴られたほうがましな気分だったろう。
長い沈黙に僕のほうがいたたまれなくなって、その場から小走りに逃げ出してしまった。
「もう夕刊配達の時間だろ」
とってつけたように言い捨てて。
キアは追いかけてこなかった。
旧住宅街のまがりくねった細い道をあてもなく歩いていくうちに、アップテンポの明るい音楽が聞こえてきた。いつのまにか校区の西端に新しく整備された幹線道路まで来てしまったのだ。
音楽は道路と同じ時期にオープンした大型スーパーから流れていた。
僕はカラータイルをあしらった歩道の縁にスニーカーの裏をこすりつけて泥土を落とした。
だだっぴろい駐車場に結構な数の自動車がひしめいていて、大きな荷物をかかえたカップルやベビーカーを押す女の人、元気のあり余った子供たちがにぎやかに行き来していた。
そんな中、ちょっと古めのワゴン車の前に、所在なげにたたずむ中学生がいた。
「長居!」
思わず大声で呼んでしまった。
長居はびくっと振り向いて、僕だとわかると安心したように相好を崩した。
「烏丸かあ。おひさ」
「珍しいな」
こんな人混みのなかに出てくるなんて。
「夏休みだから。母さんの買い物についてきたんだ」
学校に行っていなくても夏休みは楽しいのかな。そのへんの気持ちはよくわからなかったけど、長居が元気そうなのはうれしかった。
「店には入らないのか?」
「……誰に会うかわかんないし。狭いとこは……」
逃げ道がないものな。
「VFの新機種がはいったって聞いたから、やってみたかったんだけどさ」
「ここのゲーセンか……」
僕は長居の肩をぽんと叩いてあごをしゃくった。
「一緒に行こう。ここまできて遊んで帰らない手はないだろ」
「でも……」
長居は心細げに身をすくめた。この店のゲームセンターには西中生もしょっちゅう出入りしている。
「いちいち気にするなよ。何も悪いことしてないんだから」
ためらう友達を半ば強引に店舗ビルへひっぱっていった。
自動ドアが開くとひんやりと乾いた空気が身体を包み、いっぺんに汗がひいた。三階のゲームセンター目指してエスカレーターを駆け上がった。
さすがに夏休みらしく、フロアは小学生とその母親らしき人たちで混雑していた。甲高い電子音と子供たちの歓声が店内にきんきんと反響した。普段の僕は買い物の待ち時間や妹につきあって遊ぶ程度で、とりたてて好きな場所ではなかったが、今は多少強い刺激で憂さを晴らしたい気分だった。
しばらく順番を待って、長居がプレイしたがっていた格闘ゲーム機につき、対戦を始めた。
まずは僕が先制ポイントをとった。相手が周囲を気にして落ち着かなかったせいだが、これが長居の負けん気を刺激した。
本気で集中されると、形勢はすぐに逆転した。
「さすが。年季が違うな」
長居の表情がほぐれた。
「烏丸に会えてよかった。ほんとは地震のあと、ひとりで留守番してるのが怖かったんだ」
そう言ってしまってから、顔を赤らめた。
「おかしいだろ。でも、ぐらっと来ると、やっぱ今でもびくついちまうんだよ。お前にはわからないだろうけどさ」
僕は黙って新規の対戦を開始した。
長居があわてて参入した。
画面と手先に神経を集中しようとしても、頭のなかには別の思いがうずまいていた。
こんな気分になるのは今日が初めてではなかった。
小学校の六年間、防災訓練だの震災記念日だのの行事のたびに、僕はひとり取り残されていた。
同級生たちがおぼろげな体験談や親から聞いた話を交換しあっているあいだ。
「烏丸くんは知らないのよね」
そう先生に言われるたびに黙って下を向いていた。誰も僕にそれ以上のことは聞いてくれなかった。
……聞いてくれなかった?何を話すというんだ?
あっと思ったときには遅かった。ゲームオーバー。僕のキャラは長居の見事なコンボに叩きのめされていた。
機械を次の人にゆずり、自販機の炭酸飲料を買って一服した。
「他のゲームもするかい」
「もう帰らないと。母さんも戻ってる頃だし」
「じゃあ、そろそろ……」
何気なく出入り口を見やってどきっとした。
数組の親子連れが楽しげにおしゃべりしながら帰っていく。その向こうにキアがいた。
泥だらけのタモ網を小脇に挟み、壁にもたれて石のようにじっとしていた。
僕は目をそらして炭酸を飲み干し、アルミ缶をくずかごに放り投げた。
「悪い。もうちょっとここにいるよ」
長居はちょっと困った顔をしたが、もそもそとあたりを見まわして中高生がいないらしいのを確かめると、そそくさと店を出て行った。
途中キアの目の前を通り過ぎたが、西中生だとは気づかなかったようだ。彼が転校してきてから一日も登校していないのだから無理もないが。
僕は店の隅の古びたゲーム機の前に移動してプレイを始めた。単純な「落ちもの」なので、注意集中を怠らなければいつまでも続けていられた。
しばらくしてそっと出入り口をうかがった。キアはまだそこに立っていたが、こちらを見ようとはしなかった。
店内放送で「蛍の光」が流れ始めた。
僕は出入り口とは真逆の隅へ向かった。大型ゲーム機の並びに狭い隙間をみつけ、店員の目を盗んでするりともぐりこんだ。抜け出た反対側は家電売場だった。
目と鼻のさきに非常階段があった。降りる前にもう一度後ろを振り向いて……背筋に冷や汗が流れた。
家電売場のはずれに高井田と門真がいた。
なにごとかぐちぐちと話しながら監視している視線の先はゲームセンターの出入り口のはずだ。あいつら、いつからここにいた?
階段を駆け下りて駐車場に飛び出した。もわっとした熱気のなか、汗をぬぐいながら走った。
長居の家のワゴン車はどこにも見あたらなかった。
もういちど店内にもどろうとして警備員に押し戻された。
「もう閉店ですよ」
結局キアや高井田たちの消息を確かめることはできなかった。
家に帰りついた時にはとっくに夕食の時間を過ぎていた。
母さんが冷たくなったチキンカツをレンジに入れながら、いつもとかわらぬ調子で言った。
「遅うなるんやったら電話くらいしてよ」
「公衆電話がみつからなかったんだよ」
「『捜さへんかった』のまちがいやないの」
やべ。かなり怒ってる。
「ごめんなさい」
こういうときには素直に謝るに限る。
母さんはちょっと機嫌をなおしたようで、カツの横にポテトサラダをたっぷりのせて僕の前においてくれた。
「そうそう。常浜、あさって出発よ。支度しといてね」
「えっ」
口一杯にほうばったサラダを喉につめそうになった。
「今年は伯父さんが当海温泉にみんなで行こ言うて宿をとってくれはったんよ。お盆は高いから前倒しやねんて」
「そんな……急に決めないでよ」
「他に予定でもあるん?」
「……そうじゃないけど」
毎年、父さんの盆休みには常浜市の伯父さんの家に行くのが我が家の習わしだ。しかし、出発がこんなに早くなるとは思っていなかった。僕はまだキアに何も説明していない。
大人の勝手な都合だ。腹が立ったが、母さんにあたるわけにもいかなかった。
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