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第四章 クマゼミ (4)

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2003/08/14 Thu.

 温泉旅行のあと常浜の伯父さんの家にやっかいになり、祖父母の墓参りもすませた。
 伯父さんと父さんが飲み歩いているあいだに、伯母さんは母さんに思いきり愚痴をこぼしてすっきりしたようだ。女の子たちはTVゲームのペット育成に熱中していたので、僕の子守もわりと楽にすんだ。
 父さんはUターンラッシュを避けて帰宅を今日に決めた。
 早朝に出発したこともあって高速道路の流れはスムーズだった。ワゴンRは軽快に走り続け、明智市がぐんぐん近づいてくるにつれて、僕の背中はバックシートにずぶずぶとめりこみそうになった。おっぽりだしてきた宿題の重さが耐え難くのしかかってきていた。
 明智西ジャンクションから一般道へ降りたところで最初の信号につかまった。排ガスのにおいにうんざりしながら窓の外を見た。
 道路沿いに並んだドライヴインと一膳飯屋のあいだに一軒分のすき間があって、通りの裏の水田がのぞいていた。ちょうど正面奥に何本かのクスノキがこんもりと茂っていた。
 信号が青になって車が動き出してから、その大枝にまたがる人影に気がついた。僕は運転席のシートにかじりついて叫んだ。
「停めて!ここで降ろして!」
「そんな大声、急にだしたら事故になるやないの」
 母さんの声も相当に大きかったが、父さんは焦らずあわてず、なめらかに徐行して車をコンビニの駐車場に停めた。
「先に帰ってて!」
 両親に言い捨てて車を降り、駐車場の裏手から水田のあぜ道に跳び移って駆けだした。
 さわさわと揺れるクスノキの葉陰でキアが笑っていた。
 僕が木の根方にたどり着くより先に、するすると降りてきた。
「さすが、ええ目しとうな」
 一週間たす一日前と、まったく変わらない口振り。まるで何事もなかったかのように気さくに話しかけられ、ほっとした一方で何をどう言ったものかわからなくなった。
「今日この時間に帰ってくるってどうしてわかったの?」
 間の抜けた質問に、キアはちょっとおおげさに両手をひろげた。
「一週間やて言うてたやろ。なーんとのう今時分かなて思うただけや。マンが良かったな」
 やっぱりあの時、家にいたんだね。
「……この前はごめん。僕が……」
 キアの指がすいとのびて僕の唇をおさえた。
「お前のせいやないで。バイトも行かんとシケとったんは」
 そうしてぴっと自分の右目を指さした。眉の下あたりにうっすらと茶色くなった打ち身の痕が残っていた。
「帰りが遅い言うて親父にしばかれた」
「ええっ」
「正拳くらって人相変わってもてな。腫れがひくまで、かっこ悪うて外へ出れんかった」
 あっけにとられて二の句が継げなかった。
 こいつの顔面を殴れる人がいるなんて。それも父親?
 僕があんぐりと口をあけているのを見て、キアが声をたてて笑った。なんだかいつもとは違うテンションの高さに違和感を覚えた。
 上目遣いに相手の顔色を見ながらぼそっと訊いてみた。
「なあ、実の父親ってさ、息子が悪さしたら殴り倒すものなのかな、ふつう」
 今度はキアのほうが虚をつかれたようにかたまった。
「……お前んとこは殴らへんのか?」
「まあ、そうだけど……変かな?……」
「いや……」
 さらに居心地が悪くなって、あわてて話題をかえた。
「明日またつきあってくれるかい?そろそろツクツクボウシが鳴き出すから、天気が良かったら雑木林で……」
「ああ。金土日はいけるかな。来週から補習やから……」
「補習?何の?」
 キアはしまったというように頭をかいた。
「学期末に言うてへんかったか?安土の数学」
「それって期末が欠点だったやつが受けるんだろ?なんでお前が!」

2003/08/18 Mon

 僕は補習の始まる十分前に職員室に乗り込んだ。
 安土先生はひと口かじったあんパンを缶コーヒーで飲み下してから、きょとんとした顔で僕の質問を復唱した。
「葺合を補習に呼んだ理由、てか?」
 なんでそんなことを気にするのか、わけがわからないと言いたげだった。
「期末考査の成績はあいつから直接聞いています。住之江と高井田は呼ばれてないみたいだけど、あの二人のほうが素点は低いはずです」
「他の生徒の点数を調べてまわったんか?お前それはちょっと……」
「不適切な行動だというなら謝ります。さきに質問に答えてください」
 直立不動で畳みかけるように言いつのる僕の前で、先生はやれやれとため息をついた。
「住之江の不参加は保護者の意向や。自宅で家庭教師つけてみっちり勉強さすて親御さんが言うてきた」
 僕は住之江の母親のすまし顔を思い出した。
「高井田には先にせなあかんことがある。今頃は玉出先生や親と一緒に県警の青少年相談室に行っとうはずや」
 名前をあげた二人の事情はわかった。それにしてもキアが呼び出されたわけは説明されていない。
 僕が納得していないと知って、安土先生はしかたないなと首を振った。
「最初は葺合を呼ぶつもりやなかった。期末の採点した時にはようがんばったと思うたよ。けど……」
「けど?」
「あいつがカンニングしてたて情報がはいってな」
「……千林ですね」
 怒りを抑えたつもりだったが、しっかり声にでてしまった。先生がわずかに椅子をひいた。
「葺合に数学を教えたのは僕です。中間の追試から、成績は上がってきていたはずです」
「そうか。きみから先にそない聞いとったら……」
 いくら相手が教師でも、もうがまんしきれなかった。
「先生は成績の順に生徒の言うことを信用するんですか」
 キアよりも千林を。千林よりも僕を。
 先生はむっとした顔で言い返してきた。
「努力して結果を出すもんを評価して悪いか」
「それを言うなら、住之江はせいいっぱい努力してましたよ。結果がだせなければ切り捨てですか。いくら教えても進歩しない生徒を補習で教えなくて済んで、助かったって思ってるんじゃないですか」
「烏丸!」
 先生の怒声に職員室にいた全員が振り返った。
 おかげで僕の頭の熱は少し冷めたが、逆にぱさぱさにしらけた気分が胸に溜まった。
「失礼しました」
 僕が職員室を出て扉を閉めるのとほとんど同時に、安土先生の声が聞こえた。
「成績はええけど、難儀な性格やな」
 廊下を蹴飛ばすように足音をたてて歩いた。
 教室の手前で登校してきたばかりのキアに追いついた。
「お前、安土先生の誤解を知ってたのか?」
 キアはなにごとかというように足をとめた。僕は職員室での一部始終を説明した。あたりに響かないよう声を抑えるのに苦労した。
「終業式のあとで急に呼ばれたからな。なんかあったんやろとは思うとったけど」
 キアはまたのんびりと歩き出した。
「そないにかっかせんでもええで、ラス」
「濡れ衣着せられて悔しくないのかよ」
「慣れとうよ」
「慣れるなよ!」
「ほんまのとこ、補習は受けたい思うてたんや。せっかくやから」
 キアは照れくさそうに髪をかきあげた。
「俺、アホやからどうせ勉強はできへん思うてた。そうでもないとわかって、ちょっと欲がでてきてん。もうちっと間ふんばったら、何か変えられそうな気がしてな」
「それなら、僕が教えてやる……」
「無理せんでええて。またピーゲリになっても困るやろ」
「それとこれとは関係ない!」
 顔を赤くして叫んでしまった。廊下をすれ違った他クラスの生徒がけげんそうに振り向いた。
「気持ちだけもうとくよ」
 教室につき、キアは僕の耳に一瞬だけ顔を寄せた。
「……ありがと、な」
 僕は出入り口の前で立ちすくんだ。さっきよりよけいに顔が赤くなったみたいだが、気持ちはぜんぜん違っていた。
「か……感謝されたくてやってんじゃないからな」
 先に教室に入っていったキアに僕のつぶやきは聞こえなかっただろう。
 門真と、あと数名の男子生徒が僕を押しのけるようにして出入り口をくぐっていった。


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