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第二章 ヒラタクワガタ (5)

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2003/05/29 Thu.

 昼食をすませた住之江がトイレに行くというので、僕は廊下まで出て見守った。
 出入り口あたりですれちがった男子生徒のひとりが、住之江の肩にぶつかりかけて何か言おうとしたが、僕に見られていると気づいて不機嫌そうに離れていった。
 油断も隙もあったもんじゃない。連れションまでしたくはないけど、目を離すわけにもいかない。
 こんな状況がいつまで続くんだろう。

 ゴルフボールの一件以来、住之江は葺合になついた。
 始業前や休み時間、今までは高井田や門真にひっぱられるままになっていたのが、葺合の横にへばりついて一方的に話をして過ごすようになった。
 葺合は返事をするでも世話をやくわけでもなかったが、邪険に追い払ったりばかにしたりもしなかった。
 さすがに昼休みだけは葺合についていかないよう僕が引きとめた。
 反射神経の鈍い住之江が青池に出て行こうとしたら、あっという間に誰かにみつかってしまうだろう。
 かわりに僕が弁当をつき合うはめになった。
 葺合におかずを分けてあげることはできなくなったが仕方ない。この状況で先生の見ていないところに住之江を置き去りにしたら、アリの巣のそばに落ちた青虫のようにばらばらにされてしまう。
 僕か葺合の目が届いているかぎり、他の男子たちは住之江にちょっかいを出さない。
「コバンザメ」などという陰口も聞こえてきたが、それを本人が気にするようすもなかった。
 かわりに小突きまわされるようになったのは金岡だ。
 なんとかしてやりたいと思わなかったわけではないが、金岡は住之江よりずっと気位が高かった。
 僕が声をかけようとしても聞こえないふりをして離れていってしまう。
 盗難騒ぎが起こらなくなったのは、金の受け渡し場所が変わっただけのことだろう。高井田たちが直接手をださないのは大事なカモだからだろうが、他の生徒から守ってやっているようにもみえなかった。

 昼休み終了ぎりぎりに葺合が戻ってきた。いたずらっ子のような目をしたと思ったら、僕の机の上にころんと何かをころがした。
 驚きで息がとまりそうになった。黒光りする広い背中の甲虫が起き直り、猛々しく大顎をふりたててこっちを威嚇していた。
「ヒラタクワガタだ。ど、どこでみつけてきたの?」
 思わずどもってしまった僕を見て、葺合は目をくりっと動かして笑った。
「こんなもんが珍しいか」
「自分でつかまえたんだろ?」
「もっとみつけたいか」
 こくこくと頷くのがやっとだった。
「日が暮れたらすぐに池に来い」
「行く行く!」
 いきなり割ってはいって元気よく返事したのは住之江だ。
 葺合はちょっとむっとしたが
「僕はかまわないよ。なっ」
 あわててフォローをいれたので、仕方ないというように肩をすくめた。

 僕は早めに夕食を済ませ、午後七時きっかりに青池に着いた。
 夏至まであと一ヶ月。この時期日暮れはどんどん遅くなっている。
 長袖長ズボンにキャラバンシューズ、首まわりには手ぬぐい。軍手をはめて懐中電灯と虫かごのストラップを肩にかけ、ウエストポーチにはシャベルとペンライトとピンセットとラジオペンチと針金と救急セット。思いつく限りの装備をそろえて他の二人を待った。
 住之江は重そうなデイパックを背負って現れた。半袖のポロシャツにハーフパンツとスポーツサンダルといういでたちを見てため息がでた。
「そんな格好で林にはいったら、虫さされやウルシでひどい目にあうよ」
「塾に行く途中なんだもの」
 それが言い訳になるかのように、住之江がむくれた。
「お前こそ、ニューギニアでも探検に行くつもりか」
 ひょっこり顔を出した葺合が僕をみてにやにや笑った。
 Tシャツはさすがに長袖だけど、道具は何も持っていない。
「遅うならんうちに、行こか」
 葺合は返事を待たずに歩き出した。国道と旧街道を横断してさらに北へ。フェンスを乗り越え、側溝を跳び越え、田んぼのあぜ道と駐車場と果樹園と墓地を無造作につっきってずんずん進んだ。
 これって家宅侵入じゃないかと冷や汗がでたが、まごまごしているとあっという間に取り残されそうだ。
 必死に追いすがって上り坂を歩き続け、あたりが薄暗くなる頃に目的地に着いた。
 いつのまにかゴルフ場の敷地にはいりこんでいた。見渡せば広々とした芝生に池やバンカーの砂地が点々とちらばっている。僕らがいるのはコースの縁にせりだした雑木林だった。
 あとから植樹されたのではなく、もとからの林をここだけ伐採せずに残したのだろう。木々の背は見上げるほど高く、幹はごつごつと太く、樹齢は僕らより上のようだった。
 住之江はアラカシの木の幹にデイパックを押しつけ、大汗をかいて息をきらしていた。運動は苦手なのに、よくここまでついてこれたな。
 葺合は忍び足で林にわけいった。
 あとに続いて枝をくぐると、すぐに甘ったるい樹液の匂いが鼻をくすぐった。一本のクヌギの幹にカナブンがぞろぞろとたかっていた。
 僕を追い越して木に駆け寄った住之江が歓声をあげた。
「カブトムシ!」
 葺合はしっと制して、さらに林の奥へと向かった。
 腐葉土が厚くつもったぶかぶかの地面を踏み分け、小枝をよけながらゆるゆると歩き続けて、ようやく立ち止まったのは、太い幹がこぶだらけ、ひびだらけのクヌギの老木の前だった。
 一見ひっそりして生きものの気配は感じられなかった。葺合は昼のあいだに目星をつけていたのだろう。迷うことなく樹皮が浮いてはがれかけた箇所に顔を寄せてのぞきこんだ。
 しばらくすると僕に手招きして場所をかわってくれた。
 樹皮をペンライトで照らすと、奥のほうでがさがさと何かが動いた。
 息をつめてピンセットをさしこみ、木肌に傷をつけないように注意しながら中にいるものをほじりだした。
 住之江は僕の指につままれて怒ったように足を動かすムシを見て、首をかしげた。
「コガネムシ?」
「ヒラタクワガタのメスだよ」
 僕は惚れぼれとムシを見つめた。オスほど派手ではないが、黒光りのする前翅や小振りでも頑丈そうなあごがとてもきれいだった。
 葺合は僕の幸せそうな顔を見て、ちょっと得意げに鼻をかいた。
「さて、と……」
 僕はもとのクヌギの幹に、いまつかまえたムシをそっととまらせた。ムシは樹皮の上をがさがさと歩きまわってすぐに視界から消えた。足元におっこちてしまったかもしれないが問題はないだろう。
 それから、虫かごに手を入れて昼間もらったオスをつまみだした。
「こいつも戻してやろう」
「……なんでや」
「もう十分観察したし。雄雌いれば、また繁殖できるだろ」
 葺合が眉間に皺をよせた。住之江は物欲しそうに親指の爪をかんだ。
 僕は二人にはさまれて、ムシをつまんだまま動けなくなってしまった。なんだか気持ちが行き違ってしまったらしい。
 仕方なく虫かごにクワガタを戻し、そのまま住之江に手渡した。とたんに無邪気な笑顔がひろがった。うれしそうに虫かごを放りあげるのではらはらした。
「飼い方は明日教えてやるから。それまでいじりまわすんじゃないぞ」
 一応釘は刺したが、どこまでわかってもらえたか。
 葺合はそのようすをじっと見ていた。しばらく間をおいてぼそっとつぶやいた。
「欲しなかったんか」
 僕はあわてて言った。
「生息地が見られただけでいいんだよ。ありがとう。本当にうれしかったよ」
 葺合がそれで納得したようには見えなかった。
 あからさまに文句は言わなかったが、ふんと肩をすくめて来たのとは別の方向に歩き出した。
「ちょっと……」
 僕はまたあわてて追いかけた。
 住之江はその場に棒立ちになった。
「もう行かないと。塾が終わっちゃうよぉ」
 たった今、時間の経過に気がついたようだ。
「帰り道くらいわかるだろ」
 ずんずん遠ざかっていく葺合を追いながら、そう声をかけるのがやっとだった。
 丈の高い雑草をふみしめ、低木の枝をかきわけ、もう先を行く人影を見失うと覚悟したとき、ふいに葺合が立ち止まった。
「何うろうろしとんや。私有地やぞ」
 突然の男の人の声にぎくりとした。
「お前、こんなとこまで坊を連れ込んだんけ」
 葺合の頭越しに見覚えのある野球帽が見えた。
「楠さん……」
 ほっとしたとたんに、どっと疲れを感じた。
「くそ爺かて、黙って入りこんどうやないか」
 葺合の反論にも楠さんは動じなかった。
「この林はもとからわいのねぐらや。ゴルフ場がでけたせいでちいっと狭なったけどな。特別に招待したってんから、わきまえんけ」
「そうだったんだ」
 それで得心がいった。引っ越してきたばかりの葺合が僕も知らない穴場をみつけられたわけに。
 葺合はぶすっとしたまま足元の落ち葉を蹴った。
「クワガタを見つけたんは俺やからな」
 楠さんは火のついていないタバコを舌にはりつけたまま、へらっと笑った。
「せっかくや。お供えの礼もあるさけ、ちょっと寄ってき」
 そうして僕らの先に立ってさらに林の奥へ案内してくれた。
 敷地の境界をしめすフェンスが申し訳のように張りめぐらされてはいたが、林の下草や蔓草はそんなものは無視してはびこっていた。足元の様子からして、ゴルフ場の人たちもここまではめったに入ってこないのだろう。
 そのフェンスを支柱に利用してトタン板を組み、ビニールシートをかぶせて小さな小屋が建てられていた。
 小屋の手前、猫の額のような空き地に、楠さんは素焼きのバケツのような道具をごろんと持ち出して据えつけた。
「……七輪?」
「カンテキや」
 楠さんは細長く削いだカマボコ板をカンテキの底に放り込み、マッチで火をつけると下の窓からうちわでぱたぱたとあおいだ。頃合いを見てレンコンのお化けのような練炭を載せ、器用に火をおこした。
「ぼけっとしてんと、そっちの皮むいとけ」
 指さされた先には長さ一メートルほどの木の棒のようなものが積み上げてあった。
 笹タケノコだ。茶色い皮をぺろぺろとむくと白っぽいつるんとした中身がでてきた。店で売っている孟宗竹のタケノコと違って、ゴボウほどの太さしかない。
「こんなもん、どこでぺちってきたんや」
「ひとを泥棒にすな。隣の笹藪から駐車場に越境してきよんや。さっさと掘らな車が停めれんようになるやろが」
 ぱちぱちとはぜる炭火の上で、細長いタケノコがじんわりと焦げ色をつけた。
 ぱらぱらと塩をふったのを、さっきむいた皮にのせて手渡された。おっかなびっくり口をつけてみたら、ほこほこして意外とおいしかった。
 熱々のタケノコをふうふう吹きながらかじる僕を見て、葺合がぽつっと言った。
「爺に出されたモンは喰うねんな」
「まだ、こだわってるの?クワガタをあげちゃったこと」
 僕は隣にすわった葺合の顔をそっとのぞきこんだ。
「今日は誘ってもらえて楽しかったよ。それでいいだろ」
 葺合は細長いタケノコの皮をカンテキにつっこみ、燃え上がった炎をみつめた。瞳に映った赤い光がちろちろとゆれていた。
「でももう、追っかけっこはしたくないよ。これからは、ちゃんと顔見て話して欲しい。だからさ……」
 もう一枚、皮をつっこんだところで楠さんが葺合の手をうちわではたいた。
「こら。火遊びすな。寝小便たれるで」
「うっさいわ」
 反射的に毒づいてから、葺合はあわててつけたした。
「今のんは爺に言うてんからな」
「じゃあ……」
「……もう、黙って放っぽっていかへん。それでええんやろ」
「……ありがと」
 葺合は前髪に指をつっこんでくしゃくしゃとかきまわした。
 誉められたり感謝されたりすると返事に困るのか。
 指についた煤が額をよごしたことも気にかけていないようだ。
「おい。そろそろ、坊を送ったれ」
 あたりはもう真っ暗になっていた。
 僕は楠さんにごちそうのお礼を言い、葺合に手をひかれてゴルフ場を抜け出した。
 彼の手はほっそりしているわりに指の関節がこりっと大きくて、ざらざらしたマメができていた。
 国道に出たところで別れを告げ、家に向かって歩き出した僕を葺合はその場で見送っていた。約束はちゃんと守るからというように。僕のほうからその姿が見えなくなったあとも、しばらく立ち続けていたのだろうと思う。


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