第二章 ヒラタクワガタ (6)
2003/05/30 Fri
住之江は朝から欠席だった。
昼休みになると、葺合は僕の席の前で足をとめ、まっすぐこっちを見た。約束の守り方がバカ正直で笑ってしまいそうだったが、つとめてまじめに返事をした。
「住之江が遅刻してくるかもしれないから、ここにいるよ」
葺合はうなずいて出て行った。それを見計らったように、千林が寄ってきた。
「烏丸。昨日ゴルフ場に入り込んでいただろ」
僕は机に頬杖をついたまま平静を装った。
「住之江から聞いたのかい」
二人が同じ塾に通っていることは、住之江がぺらぺらしゃべっているからC組の全員が知っている。千林はそれがいやで、能力別のクラス編成でレベルが全然違うのだと始終弁解していた。
「ゆうべ遅く、あいつの親からうちに電話があった。親に内緒で塾をさぼったらしい。頭にいっぱい木の葉をつけて、腕を真っ赤っかに腫らして、へろへろになって帰ってきたそうだ。道に迷って何時間もうろうろしてたんだな」
「……そうか……」
準備不足や無断欠席は自己責任としても、葺合を追うのを優先してほったらかした僕も悪かった。このまま出てこれないようなら、見舞いに行ってやらないと。
千林の関心は別のところにあったようだ。
「住之江をぶっちぎったあと、葺合と何してたんだよ」
「何だっていいだろ」
楠さんと会ったところは見られていないはずだ。
千林は少し間をおいて食い下がった。
「僕から長居に電話してみた。こないだ気がつかなかったか?あいつの部屋の窓からはゴルフ場の林や掘建て小屋が丸見えなんだよ」
思わず千林の顔から視線を泳がせてしまった。
カマをかけられたと気づいたときには千林はあきれたように首を横にふっていた。
「まさかと思ったけど、あそこのホームレスと会ってたのかよ。さすが類友だな」
自分の脈拍が速まるのがわかった。
「やめろよ。そういう言い方」
千林は話をやめなかった。
「あっち側の味方につくんだな。お前、あの低能が転校してきてから趣味が変わっちまったな」
こいつ、葺合が今は校内にいないとわかっていて強気に出てるんだ。
「この学校じゃまともなオツムをした数少ない人間のひとりだと思ってたのにな」
「僕は変わってなんかいない」
千林の目を見据えて言ってやったが、相手は態度をかえなかった。
「なんでわざわざ自分の格を下げるような連中とつきあうんだよ。恥ずかしくないのか」
頭の血流がどっと増えた気がした。腹が立つというのがどういう感覚か、久しぶりに思い出したようだ。
「住んでるとこや成績で人間の格を決めるほうがよっぽど恥ずかしくないか」
千林もとうとう顔色を変えた。
「逆ギレかよ。いい子ぶってんじゃねえよ。わざわざ忠告してやったのに」
「中傷だ。忠告なんかじゃない」
だんだん声が大きくなっていたらしい。クラスの生徒たちが唖然として僕らを見ていた。この二人が口げんかするなんて今まで思ってもみなかったのだろう。
「もういい。話すだけ無駄だったな」
千林は吐き捨てるように言って席へ戻っていった。
僕は千林が手をついた机の表面をハンカチでぎゅっと拭った。
しばらくして葺合が戻ってきた。不審そうに僕の顔を見ていたが、何を言われたかなんてとても話せなかった。
放課後ひとりで住之江の家に謝りに行った。
中央小学校区の田んぼの真ん中。もともとの集落からはかなり離れた場所に、ただ一棟そびえ立つ高層分譲マンションの最上階だ。
住之江の母親は身なりも化粧もきちんとして隙のない人だった。外出する予定もなさそうなのに。のんびりリラックスしている姿が想像できない。
「ちゃんと送ってあげなくて、塾に遅れちゃってごめんなさい」
「もう中学生なんですから、庚一(こういち)が自分で考えて行動しないといけなかったんですよ」
僕の謝罪に、住之江夫人は見かけとても礼儀正しく応対してくれた。
「さきほど、あなたのご自宅にお電話をしました。昆虫採集に出かけるのは許可したけれど、連れがいるとは知らなかった。ご迷惑をおかけしたと謝っていただきました。立派なお母様ね」
それでも住之江には会わせてもらえず、玄関先で慇懃に追い払われた。
うちの電話番号は千林が教えたのだろうかとか、葺合の家にも連絡したのだろうかとか、いろいろ気になったけど訊けそうにもなかった。
中学校区の東端から北端へ。薄い雲に覆われた夕日を見ながらてくてく歩いて長居の家に着いた。
今日も長居の家族は留守だった。
「母さんは弟を英語教室に連れて行ってるんだ。僕のぶんまで期待がかかっちゃって、あいつもご苦労さんだよ」
長居は淡々と話しながら自室にあがらせてくれた。
部屋の中は雑誌やプラモの散らかりようも空気の湿り具合も前回の訪問時とほとんど変わらず、ここだけ時間がとまったような感じだった。
僕は窓際のがらくたを寄せて腰をおろした。長居は敷き布団の指定席で膝をかかえた。
「もう、来てくれないかと思ってた」
「どうして?」
「千林がさ。烏丸は交友関係が変わっちゃったって。もうあてにすんなって……」
「新しい友達ができたからって、古いつきあいがなくなるわけじゃないだろ」
「そりゃそうだけどさ……」
長居は居心地悪そうにコントローラをいじくった。
僕は窓に向きなおってカーテンを開けた。今まで気にとめていなかったが、確かにゴルフ場の隅の林も楠さんの小屋の青いビニールシートも視界の一角にはいっていた。
長居はうつむいたままだったが、僕が何を見ているかはちゃんとわかっていた。
「ゴルフ場なのに人が住んでるんだよね。ときどきみかけるよ」
「……目障りかい?こっちを見られてる気がするとか言ってたけど」
「見られてるっても、なんとなく漠然となんだ。あの人がって感じじゃなくて。歳の離れた人って、僕あんまりぴんとこないし。でも……」
「でも?」
遠くから救急車のサイレンがかすかに聞こえてきた。
「……父さんが言うんだ。あれがお前の人生の末路だってさ」
胃酸が逆流して喉を焼いた気がした。
吐き気をこらえ、ブルーシートから目をそらしたところで、正面のアカマツに気がついた。樹皮のえぐれがこの前より深くなっている。
「練習してるのか。たいした腕前だな」
サイレンの音がかなり近づいてきていた。
「僕じゃないよ。最初はエアガンでねらってみたけど、へたくそでさ。きっちり的にあててるのは、千林だ」
「……え……」
うるさいほどに接近していたサイレンの音が唐突にやんだ。
ゴルフ場の通用門付近、民家など一軒もないところで赤い灯がまたたいていた。
僕は坂道を転げ落ちるように走った。赤い灯はすぐそこに見えるのに、ゴルフ場のフェンスに阻まれてけっこうな遠回りを強いられた。通用門にたどり着いたとき、救急車はエンジンをかけながら、まだ発進していなかった。
車体の後部で言い争う声が聞こえた。救急隊員らしき男の人に、今にもつかみかかりそうな勢いで怒声をあげているのは葺合だった。
僕がたどりつくより先に、隊員は大柄な身体にものをいわせて葺合を押しのけ、車の後部ドアをばたんと閉めた。サイレンがまた耳をこわしそうなほどに響きわたった。救急車は僕の前を徐行で通り過ぎ、するするとスピードをあげて走り去った。
葺合はそのあとを数メートル追いかけて走り、地団駄を踏んで叫んだ。
「クソッタレのわからんちん!ダボカス、どあほ!」
僕は葺合に駆け寄ろうとして、何か柔らかいものを踏みつけた。
救急車が未舗装道に残した轍のそばにころがっていたもの。拾いあげて息が止まった。縞柄の野球帽だった。
「おい。今、連れて行かれたのは楠さんか?」
葺合が振り向いた。
西日を浴びた瞳が険しく細められていた。
「俺が知らせたったのに。孫でも息子でもない言うたとたん閉め出しよった!」
「何があったんだよ!」
葺合は自分の拳を後頭部にこつん、とあてた。
「ゴルフボールや。爺の後ろ頭に命中してすっころばせた。始めは大丈夫や言うとったけど、だんだんしんどそうになって、吐き出して……」
話しながら声がうわずり、破裂しそうに力のこもった肩が震えだした。
「コースをそれて飛んできた……」
「ちゃう!俺は見てた。ボールはフェンスの外から飛ばされてきた!」
いきなり詰め襟をつかんで引き寄せられた。うろたえた僕にぶつかりそうなほど顔をよせて葺合が叫んだ。
「おい!あいつはどこに住んどんや!うちのクラスのガリ勉!」
「……まさか、そんな……」
視界の隅を何かの影が走った。
葺合は僕を突き飛ばすように離して駆けだした。ユーカリの陰から必死で逃げだそうとしたやつにすぐに追いつき、飛びついて地面に組み伏せた。
「千林!」
「この、くそ……」
千林は悲鳴をあげて顔を手で覆った。僕は葺合がふりあげた拳にしがみついた。
「ちょっと!待っ……」
足が宙に浮き身体が半回転して尻にずん、と衝撃が来た。また投げとばされたのだ。
「あほ!」
葺合の気がそれた隙に、千林は身をよじってその腕から逃がれた。
「いきなり手ぇだすな言うたやろ!」
「だいじょう……から……ちついて……」
僕を助け起こそうとかがんだ葺合の肩口を、何かがひゅん、とかすめて飛んだ。葺合はがばっと身を翻し、次に飛んできたものを前腕ではじいた。
失速したゴルフボールが僕の足元にころがった。
数メートル離れたところで、千林が左腕をまっすぐ僕らに向けて伸ばしていた。左手に握りしめられた取手から金属製の支柱が伸び、前腕に金具で固定されていた。取手の下部からは二股の短い棒がつき出ていて、両端に幅広のゴムベルトが繋がれていた。
千林はゴムベルトにゴルフボールをはさんできりりと後ろに引き、さっと手を離した。風を切って飛んできた三発目を葺合は手のひらで受けとめ、射手をにらんだ。
スリングショットだ。おもちゃのパチンコと原理は同じだが、威力はけた違いだ。射出点が手よりも下側になる構造なので、長袖の制服を着てしまえば目立ちにくい。
僕がそんなことを考えているあいだに四発目が発射され、葺合の腕にはじき落とされた。葺合は臆することなくじりじりと千林との間合いをつめていった。
「こっちへ来るな。来るな来るな来るなぁっ」
千林の声がヒステリックに高くなった。飛び道具を構えているくせに、膝ががくがくと震えていた。
僕は両手をきつく握りしめ、ようやく言葉を絞り出した。
「どうして。どうしてこんなことしたんだよ。楠さんが、お前に何かしたか?」
「お前が悪いんだ烏丸。バカだの乞食だのとつるんでチャラチャラ遊びやがって。長居が迷惑してんだよ。だから僕は、僕は……」
僕の頭には血がのぼって痛いほど激しく脈を打っていた。
「長居はそんなこと言ってない。腹をたててたのはお前だろ、千林。友達をだしにするな」
「黙れ。黙れだま……」
「僕に腹が立つなら、僕を狙えばいい。高井田が悪いって思うなら、あいつを撃てばいいじゃないか。なんで住之江なんだ。なんで楠さんなんだ」
葺合が目前に迫っているのに、五発目は大きくねらいをはずれて虚空に消えた。
「お前は、卑怯者だ!」
千林はくるりと後ろを向いて逃げ出した。スリングショットを雑草の茂みにかなぐり捨てて坂道を駆けおり、つまずいて転びかけて、こちらに歩いてきていた男の人にぶつかりそうになった。
男の人は太い腕をのばして千林をひょいと支えた。
「どないしたんや」
「堂島さん!」
千林は刑事さんの広い背中にすがるように身を隠して叫んだ。
「た、助けてください!やられる、なぐられる……」
堂島さんはあきれたように千林を見下ろし、じろりとこっちを向いた。
葺合の背筋にびん、と緊張がはしった。爆発寸前だった怒りが瞬時に抑え込まれ、つま先から指先まで統制されて相手の攻撃を待つばかりの構えをとった。
堂島さんも表情を変えた。子供相手とは思えない、敵の度量を推し量るような鋭い目でにらみかえしてきた。
「お前、日曜日に駅前をうろちょろしとったガキやな」
「葺合は僕の友達です!」
僕は大あわてで割り込んだ。堂島さんの眉根がわずかにゆるんだ。土曜日のことを覚えていてくれたようだ。
「砂を洗っとったボクか」
思い出したのは僕のことだけではなかったのか。何か気がかりなことが増えたみたいにあごをしごいた。
「フキアイ、てか……」
「刑事さん!」
僕の呼びかけに千林がびくっとふるえた。
こいつを訴えるなら今しかない。目の前の茂みをさらえばスリングショットはすぐにみつかるだろう。あいつのポケットにはもう残弾は残っていないかもしれないが、周囲に不自然に散らばったボールを確認してもらうことはできる。それに、葺合の腕には擦り傷ができて、わずかに血がにじんでいた。
「烏丸くんやったか。さっき通り過ぎた救急車は知り合いか?」
せっかく聞いてくれたのに。がたがた震えている千林と目があったとたん、僕は話を続けられなくなってしまった。刑事さんに話してしまったら、千林はどうなる?まだ十三歳だから傷害罪にはならないのか?警察に補導されたらその先は……その時の僕には少年法の知識なんてなかった。
躊躇しているあいだに千林は堂島さんからも身を離し、あたふたと逃げていってしまった。
その後ろ姿と、黙って立ちつくす僕と、まだにらみつけている葺合を見比べて、堂島さんは肩をすくめた。
「ケンカもほどほどにせえよ」
刑事さんはのっそりと大股で坂を登っていった。
僕と葺合と、長く延びた影だけが残された。
あたりは急に静かになった。群れ集ってねぐらを目指すカラスの声だけが遠くから響いていた。
僕は手のひらの汗をズボンでぬぐって唇を噛みしめた。
「……小学校では友達だったんだ」
葺合は腕にこびりついた血糊をなめて道ばたに唾を吐いた。
「俺は消防署に行くで」
「今から?」
「救急車の帰りを待ち伏せして、爺の行き先を吐かしたる」
「千林はどうするんだ」
「あんな抜けソにかまっとれるか。どついたかて爺は治らん」
「もう、やり返す気は無いのか?」
「アホはどこにでも、よおさんおる。いちいち気にしよったらきりがない……」
「……僕は我慢できないよ」
肝心なときに踏ん切りをつけられなかった自分が情けなかった。千林への怒りは胸の内でふつふつとたぎっていた。
葺合が意外そうな顔で僕を見た。
「烏丸……」
「このままじゃ、おさまらない。あいつに思い知らせてやるよ。僕なりの方法でね」
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