第二章 ヒラタクワガタ (3)
2003/05/25 Sun.
勇がお使いに出かけたのは午後二時頃だった。近所のスーパーには切干大根がなかったので、駅前の生協まで買い出しを頼まれたのだ。自転車なら往復一時間もかからないはずが、日暮れ時になっても妹は帰ってこなかった。
とうとう母さんが僕の部屋まであがってきた。
「悪いけど、勇を探しに行ってくれへん?」
「宿題が残ってるんだよ」
寝転がって本を読みながら言えたせりふじゃない。それでも母さんは怒ったようすもなく、首をかしげた。
「女の子やから、つい余分に心配してまうんよ。このごろ駅前でちょっと勘違いしてそうな男の子たちを見かけるし」
それ以上の抵抗はできなかった。僕は読みかけの本をベッドに放り投げて部屋を出た。勇がママチャリに乗っていったので、車庫には小学生用の自転車しか残っていなかった。わざとらしい英字のロゴなんかがデザインされていて恥ずかしいけど、買い換えをねだれるほども僕の身長は伸びていない。仕方なくサドルを引き上げて高さを調節し、夕暮れの街にこぎだした。
空には暗い雲が垂れこめて今にもひと雨きそうだった。
国道をゆっくり走ってJR駅前の繁華街まで出た。
バス乗り場のあるロータリーの周辺には生協の店舗が入ったテナントビルの他にも、一階が薬局の診療所ビルやパン屋、うどん屋などが建ち並んで結構なにぎわいだ。店の中、レジの外、駐輪場から出てロータリーをぐるりと見て回ったが、勇も自転車もみつからなかった。
ハンバーガーショップの店先で茨木たちが地べたに座りこんでいた。名前を知らない二年生に混じって、高井田や門真、三国までがいた。目をあわさないように通り過ぎようとしたのに、紙コップを投げつけられた。自転車のペダルにあたった空のコップをつま先で押しのけたら、車道にころがっていって通りすがりのタクシーにつぶされた。高井田のはやし声が聞こえたが、僕は振り向かずに先を急いだ。
国道を逆行して家の前まで戻った。母さんに声をかけたが、勇はやっぱり帰っていないという。はじめは顔を見たら思いっきり嫌味を言ってやろうなどと思っていたのに、いないとなるとだんだん心配になってきた。
普段通い慣れている道をはずれたのだろうか。
もう一度家から折り返し、国道より一筋北の旧街道にはいってみた。
幅が狭い砂利道のうえに古い民家が両側に軒をならべている。植木が枝を張り出したり、庭石がはみだして置かれていたりするから走りにくい。対向車にも気を遣う。最徐行で進んでいたら、前方からやたらと景気のいい歌声が近づいてきた。
勇が自転車のハンドルを握って押し歩き、アニメ映画の主題歌を大声で歌っていた。
その自転車の後部を持ち上げながら一緒に歩いてくる少年を見て、僕はサドルから転げ落ちそうになった。
葺合だ。この場で見かけただけでも驚きなのに、彼はなんと控えめな笑顔をみせながら勇にあわせて小声で口ずさんでいたのだ。
もう少しで自転車どうし正面からぶつけてしまうところだった。
焦って停車した僕の前に、葺合がすっと動いて立ちはだかった。一拍おいて、彼が不審者から女の子を守ろうとしているらしいと気がついた。
「お兄ちゃん!」
勇が脳天気に手を振ってきた。
葺合は拳をゆるめて僕らを見比べた。
「……妹か」
僕は葺合の肩越しに勇をにらんだ。
「何やってんだよ。ばか」
「自転車の鍵なくして動けなかっただけだもん。そしたら、この人が一緒にさがしてくれたんだもん」
だからって、ロックされた後輪を持ち上げたまま家まで送ってもらうつもりだったのか。
「そんなときはさっさと電話してこいよ」
勇は餌を口に貯めたリスみたいに頬をふくらませた。
「テレカ持ってなかったんだもん」
まともに言い争うのもばかばかしくなった。僕はあらためて葺合に頭をさげた。
「迷惑かけたみたいだね。ありがとう」
「兄妹そろって鈍くさいやっちゃな。兄貴ならしっかり面倒みたれよ」
口の悪さは相変わらずだが、今日はなぜだか機嫌がいい。僕は葺合が手を離した自転車の後輪をのぞきこんだ。リング式の鍵がスポークをがっちり固定している。
「鍵を壊しちまおうかな」
「チャリパクや言われたら、うざいやろ」
確かに、大人の同伴なしで警官に呼び止められるのはいやだった。
「ここに置いといて、母さんに車で取りに来てもらうよ」
僕は乗ってきた自転車のサドルをさげて妹に押しつけた。
「これに乗ってさきに帰りな」
勇は明らかに不服そうだったが、自分の立場がまずいとは思ったようだ。僕にはふくれっ面を向け、葺合にはにこにこと手を振り、ひらりと自転車にまたがってまっすぐ家に帰っていった。葺合は見送りながら、いつになく優しげな顔をしていた。
「何年?」
「勇かい?小二。おしゃべりでかなわなかったろ」
僕の気持ちも緩んで口が軽くなっていた。
「同じ学年やな。俺の……」
葺合が言いよどんだことを意識していなかった。自転車を空き地ぞいの路肩に寄せながら、なにも考えずに話し続けてしまった。
「妹さん?西小にいるの?」
「希(のぞみ)は……ここにはおらん」
冷たいものが、ぽつりと額に触れた。空を見上げた僕の肩が背後からつかまれて引き寄せられた。
「えっ……」
泡を食った僕の耳に葺合がささやいた。
「兄貴やったら、きっちり妹を守ったれよ」
ふりむくと、真剣な目にひたとみつめられた。
僕はあいまいに頷いた。葺合はすっと身を離し、ちょっとだけ笑った。
「すぐ本降りになるで。急げよ」
そうしてふだん通りの軽快な足取りで旧街道を走り去った。
僕がぽかんと見送るあいだにも、雨粒はさわさわと数を増やして薄いカーテンとなり、遠ざかっていく後ろ姿を包み隠した。
母さんが僕を乗せてワゴンRを運転し、雨に濡れた自転車を荷台に押し込んで家に持ち帰った。その間に父さんが帰っていて台所仕事を引き継いでくれていた。それでも夕食の時間はいつもより大幅に遅れてしまった。別段文句を言うものはいなかったが。
父さんが静かにぐい呑を傾けているのも、勇がノンストップでおしゃべりしているのもいつも通りだ。
自転車の鍵を失くしたことが話題になったのも成り行きだった。
「そういう時にはお店の前に置いてきてもええんよ。ようあそこまで運んだわね」
母さんの言葉に僕のほうがどきりとしたが、勇は大鉢のサトイモを取り分けながらさらりとこたえた。
「お兄ちゃんのお友達が一緒にさがしてくれて、それから途中まで自転車持ってくれたの。めっちゃ優しくて、きれいな目の人」
「へえ?」
母さんが僕を見た。
「クラスメートだよ」
ちょっと声がうわずったかもしれない。
「そう。良かったわね、勇。お礼を言わんとね、聡」
「僕から言っといたから」
「でももう、鍵は失くさんよう気いつけてよ。いっつも優しいお姉さんが助けてくれるわけやないからね」
勇は聞こえなかったふりをしてサトイモをほおばっていた。肯定も否定もしないのが計算ずくだとしたら、たいしたものだ。
母さんはそれ以上つっこんでこなかった。
僕は改めて妹の顔をまじまじと見た。
優しくてきれいな目の人……。
勇は自分が感じたままを言葉にした。嘘もごまかしもないから、母さんもすんなり納得したのだろう。
僕なんか葺合が「勘違いしてる男の子」ではないことをどう説明したものかと思い悩んでいたのに。
とてもまねできない。妹のようにまっすぐに見ること、感じたまま話すことは。
いつの間にか父さんが僕を見ていた。
「中学校でもそろそろ友達ができたかな」
「四分の一は同じ小学校だよ」
「顔見知りでも居場所が変われば、今までと同じようにはいかないだろう」
僕は返事をせずに皿に残っていた料理をかきこみ、お茶で飲み下した。
湯飲みを置こうとした手が大鉢をもちあげようとした勇の腕とぶつかった。小さなイモが鉢からこぼれてころころとテーブルに散らばった。
「きゃいん!」
「何やってんだよ、どじ!」
「ちょっと、さきにイモ拾ってよ。下に落ちへんうちに!」
つるつると箸から逃げるイモを追いかけ、ねばねばになったテーブルを拭く騒ぎにまぎれて、父さんの話はうやむやになった。
母さんの後について台所に台拭きと鉢を運びながら、勇は僕だけに見えるように目配せした。
借りを返したつもりだろうか。次を期待しているのか。
こうして葺合の件は兄妹だけの胸にしまわれた。
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