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第二章 ヒラタクワガタ (2)

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2003/05/23 Fri.

 テストは午前中で終了した。午後からは学年集会と大掃除が予定されている。
 昼休み、葺合はいつものようにするりと教室を出た。いつもと違って廊下で一度立ち止まり、中窓越しに僕を見た。
 後を追いかけようと立ち上がった僕の肩に誰かが手を置いた。
「壬生先生が呼んでるよ」
 御影だった。僕はその手をふりほどいて出口に向かおうとした。ほんの数秒のロスだったのに、葺合はもういなくなっていた。
 むすっとした僕を見て御影が半歩さがった。
「……保健室で待ってるって」
 ブッチしても何も言われないだろうけど。
 先生には借りがひとつある。しかたない。

 保健室は珍しく無人だった。
 患者用の丸椅子に腰掛けて所載無く座面を揺すっていたら、ぱたぱたと壬生先生が走り込んできた。
「ごめんねえ、呼び出しといて待たせてもたかしら」
 両腕に抱えた何冊ものファイルを目の前のデスクにどさりと置いて、奥に引っ込んだ。
 ファイルの山のてっぺんから、むきだしの書類が一枚、滑り落ちそうになった。受けとめて元に戻したとき、見てはいけないとわかっていても目に入ってしまった。
 生徒健康調査票。個人情報なのに。ルーズな先生だ。
 生徒氏名。「葺合滋」
 保護者氏名。「葺合徹」
 現住所。国道沿いの県営住宅。
 連絡先の下の保険証番号、かかりつけ医、健康状態、既往歴などの欄はすべて空白だった。
 先生はわざわざ冷たいお茶を汲んで戻ってきた。
 ゆるゆるの花柄ブラウスとフレアスカート。身体の線がまったく見えない服装がよけいに肥満体型を強調してしまっている。
 先生はデスク前の事務用椅子に座り、僕がひと口お茶を飲むのを見て笑顔を作った。
「どない?元気にしてる?」
「まあ、それなりです」
「長居くんのとこへ行ってくれてるんやてね」
 世間話の続きのように切り出された。
 僕は湯飲みをデスクに置いて上目遣いに先生を見た。
「下校時の寄り道。校則違反のお説教ですか」
 千林が話したはずはない。
 先生は僕の口振りにちょっとたじろいで、神経質そうに両手の指をこすりあわせた。
「長居くんのお母さんが喜んではったわ。小学校からのお友達に来てもろて、少しは気分が晴れたんやないかて」
 自分のことを親が教師にべらべらしゃべっているのを、長居は承知なのか。
「ちょっとお礼を言うときたかったんよ」
 僕が黙っていると、先生は視線を泳がせてお茶を飲んだ。それから何気ない調子を装って話題を変えた。
「烏丸くんのクラスに転校生が来たでしょ」
 僕は肩をすくめてくるりと椅子をまわした。
 予想外の反応だったのか。先生はあわてて弁解するように言った。
「詮索してるわけやないんよ。声をかけてもなかなかうち解けてくれへん子やから、気になって……」
「あいつが何か問題をおこしてますか?周りが絡んでるだけでしょ」
 先生方を含めてね。
 口に出さなかった思いもしっかり伝わったようだ。
 むきになって弁解された。
「あの子が悪いなんて思ぅてへんわ。少なくとも、私や玉出先生は」
 中学生と本気で言い合うつもりですか。
 先にむきになったのは自分だということに、そのときの僕は気づいていなかった。
「どうぞ本人とじかに話す努力を続けてください。もう戻ってもいいですか」
「ちょっと待って」
 腰を浮かしかけた僕を先生はあわてて押さえ込み、すぐ横のキャビネットに両手をつっこんで大きな紙袋を抱え上げた。
「これを、葺合くんに渡してもらえへんかしら」
 僕は胸に押しつけられた紙袋の中身をのぞいた。中古の指定ジャージだった。
「こんなの、購買部に行きゃいつでも新品が買えるでしょ」
 考えなしに言ってしまってからはっとした。ことはそう簡単ではないのだ。
 葺合は今週も古い体操服を着て授業に出ている。伏見先生はいまだに外周ランニングを続けさせている。彼の脚力は他の教師たちの目にもとまりだした。
「ちゃんと計測したらええ記録出すんとちゃうか。陸上部に誘ってみるか」
「校則違反をしたままでは、しめしがつかん」
 そんな雑談が職員室で聞かれた。伏見先生は葺合を放免するタイミングを図りそこねていた。
「そう簡単なことでもなさそうなの。私にはどうしても話してくれへんけど」
 先生はもじもじとブラウスの裾を指でもんだ。
「今着ている制服かて、裾上げしたらずっとましになるから、いつでも直したげるからて言うてるのに」
 僕は紙袋を先生のデスクに置いた。放っておけない気持ちは本当なんだろう。
 でも僕だっていまだに仲良くなれた自信なんてもてないのだ。
「これは先生から渡された方がいいです」
「けど……」
「もってまわったやり口は嫌うやつだと思います。ど真ん中ストレートで勝負するしかないんですよ」

 教室に戻り、食事中の生徒たちの間をぬって席にもどった。
 今更ながら、それぞれの昼飯の違いにひっかかった。
 手製の弁当を持ってきているのは御影や大宮をはじめ、クラスの六割ほどか。校内で販売されるパンを買っているのが常盤や門真。千林のはおかずが全部冷凍食品。三国のはコンビニ弁当をタッパーに移し替えただけ。住之江は何種類ものサプリメントを持たされていて、錠剤だけで満腹になりそうだ。
 高井田と葺合は教室にいない。葺合は青池でサンドイッチをかじっているのだろう。高井田はどこで何を食べているんだろうか。
 宇多野先生が昼食指導に出てこなくなって久しい。うっとうしいのは買い弁禁止の校則ではなく、同級生の視線なのだ。

2003/05/24 Sat.

 朝からの好天で、昼過ぎには夏並みに気温が上がった。僕は前から気になっていた金魚水槽の大掃除を始めた。ガラスにつく藻類はこまめに掻きおとしているが、たまには底砂もさらってやらないと茶ゴケが大発生してしまう。
 車庫の前にしゃがみこみ、たらいに入れた砂をじゃらじゃらとかきまわしていたら、御影が姿を見せた。
 小学校低学年の頃は毎日公園を走りまわって遊んだ仲だったが。最近の訪問は親の使いがもっぱらだ。
「ご苦労さんね。妖怪小豆とぎ」
 へその見えそうなチビTシャツの胸元に、ラップをかけた大皿を両手でまっすぐ支えている。その下には、膝上丈のスパッツ、まっすぐな脚とミュールをはいた素足。
 僕はうつ向いてたらいの水を乱暴に流した。
「やだ。足がぬれるじゃない」
「いくら家が近いからって、部屋着で出てくんなよ」
「変な目で見たら、おばさんに言いつけちゃうからね」
 脅し文句を無視してもう一度たらいに水を張った。
 御影は鼻を上に向けて勝手口にまわっていった。すぐに台所から「おすそわけ」とか「初物」とかにぎやかな話し声が聞こえてきた。
 力をこめて水をかきまわしたら、しぶきが跳ねとんだ。それがたまたま通りかかった男の人のズボンに数滴かかってしまった。僕はあわてて立ち上がった。
「すみません!」
「かめへん。もともとヤスモンやし」
 男の人はあっさりと手を振ったが、声は不機嫌そうだった。そのまま歩き去ろうとして、何か思いついたように引き返してきた。
「きみ、ひょっとして西中の生徒か?」
 僕は黙って濡れた手をTシャツの裾で拭いた。男の人は父さんより少し若そうだが、体格はずっと大きい。ネクタイを緩めてワイシャツの襟をはだけているので太い首がむきだしだ。まくりあげた袖からは毛の濃い筋肉質の腕がのびていた。セールスマンや宗教関係者には見えないけど、なんとなく殺伐としたにおいがした。
「別に怪しいもんやない」
 僕の態度をとがめるでもなく、男の人は小脇にかかえた背広の内ポケットから革表紙の手帳を出してつきだした。
「警察のもんや。ちょっと話聞かせてぇな」
 手帳はせっかちに引っ込められたので「堂島順慶(どうじまじゅんけい)」という名前と「巡査部長」という階級しか読めなかった。
「警察の人が中学生に何のご用ですか?」
「最近、このへんで盗難事件が増えとってな。電動自転車とか、ミニバイクがほとんどやねんけど……学校のなかでも何か盗られた、のうなったいうことはないか?」
 金岡の顔が頭をよぎったが、口をついて出たのは全く別のことばだった。
「不良少年の悪さにわざわざ聞き込みですか?」
 堂島さんの大きな目がぎょろりと動いた。それだけでぞくりと背中に冷たいものが走った。
 まただ。僕はいつも耳障りなことを口走っては自分の立場をややこしくしてしまう。
 そこへ御影がするりと寄ってきて、手にしたガラスコップを差し出した。
「麦茶です。どうぞ」
 美少女に微笑みかけられて、堂島さんはとまどいながらも表情をゆるめた。
「おおきに」
 コップを受けとって一気に飲み干し、青空を見上げて息を吐いた。たちまち汗の玉が額に浮いた。
「土曜日もお仕事って、たいへんですね」
「んなもんは関係ない」
「学校の先生にもお話を聞きに行ってこられたんですか」
「今日やないけどな。何もしゃべらん連中やった。聞きしにまさるわ」
「PTAとか教育委員会の人が相手でも、校長先生ってそんな感じみたいですよ」
「あほくさい。隠し事があるんも、うまいこといってへんのもバレバレやがな」
「そういうのってよくないって思ってる先生もおられるんですけどね」
 堂島さんは空になったコップを返しながら、あらためて御影をじろじろと見た。御影はムシも殺さぬ面もちで微笑み返した。
「平日六時過ぎたら、残業してるのは熱心な先生だけですよ」
「まあ、日を替えて試してみるわ。お邪魔やったな」
 去り際に僕に向かって声をかけた。
「ええ彼女やな」
 その姿が見えなくなってから、御影は腰に手をあてて僕を見下ろした。並んで立つとミュールのヒール分だけ僕より背が高い。
「痛くもないお腹をさぐられるような態度とらないでよね。どじ」
「いちいちおせっかいなんだよ。お茶なんかださなくたっていいだろ」
「おばさんにはあんたにって頼まれて持ってきたの。飲みたかったのならもう一度……」
「いいよ。自分で取りに行くから」
 たらいをかかえて勝手口に向かう僕の背中に御影が言い放った。
「同じ警察でもふだん不良たちを追いまわしてる人じゃないよ。駅前とか商店街とかでもここ数日見かけるようになったわ。気をつけてよ」

 僕は部屋に上がって水槽に砂を流し入れた。
 御影に言われなくても、堂島さんが補導センターの人や交番のお巡りさんたちと全然人種が違うことは感じていた。
 捜査が必要なほどの事件がこの近辺で起こったなんて聞いていない。犯罪があったとしても西中とどういう関係があるのかもよくわからない。かえってあのいかつい人がやっかい事を運んできそうな、いやな予感がした。


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