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第一章 モンシデムシ (4)

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2003/05/15 Thu.

 教室では朝から常盤たちのグループを数人の外野が取り囲んで、噂話に花を咲かせていた。群れの外側で、なんとなくくっついたり離れたりしている連中も何人かいる。全員が制服姿なので遠目にはアメ玉に群がるクロオオアリのようだ。
 聞きたくなくても聞こえてくるのは、旧校舎最上階に殴りこみをかけた転校生の武勇伝。常盤が尾ひれのついた話を見てきたように吹聴している。
 住之江はぽかんと口をあけて心底感心したように聞き入っていや。今日は自分がいじられていないので緊張が緩み、ズボンの前ファスナーが下がっているのにも気がついていない。
 あいつは他人の話を全部真に受けてしまう。先週も、女子のひとりがお前に惚れているぞ、とだまされて大恥をかいたばかりなのに。またぞろいいように乗せられて痛い目にあうんじゃないか。
 もちろんクラス全員が与太話に乗っていたわけではない。千林はいつもと同じく我関せず、予習に没頭しているふり。御影は女子どうし別のグループをつくっておしゃべりをしていた。
 高井田が門真をつれて教室にはいってきた。
 わざとらしく鞄を机にたたきつけて大きな音を立てた。それが合図だったかのように、生徒たちのかたまりはさらさらとほどけてなくなった。
 金岡は今朝も顔色が悪かった。そわそわと教室を出たりはいったり、待ち人がなかなか現れないという風情でちらちらと窓の外を見たりしている。脇を通った門真が、ばかにしたように声をかけていったのにも気づいていない。
 僕は葺合に話しかける機会をうかがっていた。しかし、彼は周囲の噂などまったく気にせず、昨日と変わらぬ姿勢のまま休み時間も席をはなれようとしなかった。
 ようやく昼休みを告げるチャイムがなった。僕はざわざわと動きまわる生徒たちのカオスをかきわけて窓際の席に近づこうとしたが、そこにいたはずの葺合は知らぬ間に姿を消していた。
 弁当も開かずに教室を出て、あてもなくうろうろと校内を歩きまわった。どこにも彼の姿はなかった。ひょっとしたらフェンスの外に出て行ったのかもしれない。そう思いついた時には、昼休みは終わってしまっていた。

 五限目は体育だった。男子は校庭でサッカーの基礎練習をしたが、葺合だけは体育の伏見(ふしみ)先生に学校外周のランニングを命じられた。指定のジャージを着てこなかったというのが理由だった。小学校の校章をひきはがしただけの体操服と臙脂色の短パンという格好を見れば、彼がまだこの学校の指定品を整えていないことくらいわかっただろうに。「罰則に例外をつくらない」ことに伏見先生は固執した。
 葺合は黙々と走り続けた。授業終了までの正味四十分間、まったくペースは落ちなかった。僕は彼が一周五百メートルの道路を少なくとも十周したところまでカウントした。あとは自分の立ち位置が移動したので見えなくなってしまったが、旧校舎の窓から走者を見下ろしている連中がいることはわかった。
 伏見先生は罰則を科した生徒のことをうっかり忘れてしまったらしい。終了を知らされなかったせいで、葺合はいちばん最後にひきあげてきた。途中、養護の壬生先生に呼び止められてさらに遅れたようだ。六限目の始まりに間に合わなかった彼に、数学の安土(あづち)先生は宿題の解答を板書するよう命じた。
 彼が転校してくる前に出題されていたプリントだ。
 先生は「やってきてへんでも、今ここで解けばええ」とこともなげに言ったが、葺合は黒板をにらんだまま彫像のように動かなくなってしまった。
「わかりません」とひとこと言えばいいのに、黙っているものだから教師も意地になった。
 高井田の野次も他の生徒たちの笑い声も彼を動かしはしなかった。
 結局、数学の時間はみんなが葺合の背中を眺めるだけで終わってしまった。
 安土先生が出て行ってしまってから千林が毒づいた。
「五十分、丸々無駄にしたじゃないか。まわりの迷惑考えろよ、ばか」
 御影が冷ややかに言葉を返した。
「そう思ってたなら、さっさと答えを教えてあげればよかったんじゃないの」
 気まずい空気の溜まった教室に、妙な音が流れ出した。堪え損ねたすすり泣き。金岡だ。
 彼の机のまわりは住之江が茨木にひっくり返されたときよりもちらかっていた。鞄の中身と引き出しの中身を全部放り出してかきまわしたようだ。
「無い、無い、ない……」
 床にはいつくばり、バラバラに散らばったプリント類に指をつっこんでさらにかきまわしながら、うつろな声をあげて泣きひしっている。
 僕らが唖然としているところへ、宇多野先生が現れた。
「またお前か」
 前回の盗難も金岡が被害者だったことは暗黙のうちに知れわたっていた。だからといって、担任教師が平然と言いはなっていいことだろうか。そんなことを気にかけるのは僕だけか。
 宇多野先生は金岡に
「あとで職員室に来い」
とだけ声をかけてSHRを始めた。

 終業後、同級生達が三々五々出て行ったあとも、僕は自分の席に残り、頬杖をついてぼんやりと葺合の席をながめていた。
 校庭で練習する運動部のかけ声が聞こえる。入学時には絶対どこかの部活に所属しろと言われて、あちこち見学はしてみた。結局どこにも入部する気になれまいまま、ずるずると日がたってしまったな。
 僕の他には金岡だけが居残って、鼻をすすりながら机と鞄の中身を片づけていた。
 がらんとした教室に、文鳥の鳴き声が妙に甲高く響いた。
 金岡がいきなり立ち上がって、手にした教科書をケージに投げつけた。重い本がぶつかったはずみでケージはぐらっと傾き、ぎりぎりのところで倒れずに弧を描いて、かたかた揺れながら元に戻った。中の止まり木もゆさぶられて、驚いた小鳥が羽毛を散らして羽ばたいた。
 僕は舌打ちし、ケージに寄って中を確かめた。餌と水が散らばって底に敷いた新聞紙を汚していた。
「やつあたりすんなよ。みっともない」
 金岡は返事をしなかった。ページの折れた教科書を拾い上げて鞄にねじこみ、わざとらしく大きなため息をついて出て行こうとした。校舎の出口ではなく、奥へ向かおうとしていることに気がついて、僕はまた余計なことを言ってしまった。
「職員室になんか行く必要ないよ。宇多野先生はもう帰っちゃってるからさ」
 金岡は立ち止まり、うっとうしそうに僕を振り向いた。
「生徒を呼んだことなんかもう覚えてないよ、あの先生は。きみもいいかげん学習しな。同じ失敗を繰り返してさ。金を盗ったやつはもうきみの行動パターンを読んじゃってるんだよ。わかるだろ?」
 金岡は僕の話を最後まで聞いていなかった。街頭キャッチセールスを振りほどくみたいに足早に出て行ってしまった。
 僕は雑巾を取ってきてケージの乗った机を拭き、新聞紙を交換した。
 失敗するとわかりきっているのに、同じ行動をくりかえすやつの頭の中なんて理解できない。中途半端に忠告したって無駄だし、うざったいと思われるだけ損なくらいだ。
 そこまでわかっていて声をかけてしまう僕も、結局バカのひとりなんだろう。
 このまままっすぐ家に帰ったら、また勇にやつあたりして嫌味を言ってしまいそうだ。小鳥をいじめるのとちっとも変わらないじゃないか。

 少し頭を冷やしてから帰宅したかった。ひさしぶりに長居に会いに行ってみようと思いついたのは正門を出てからだ。
 長居の家は校区の北のはずれ、最近山腹に造成されたゴルフ場の隣にある。
 アカマツの並木道をだらだらと登ると、積み木のようにくっつきあった同じ形の小さな一戸建てが並んでいた。そのなかの一軒の前に立って呼び鈴を押した。
 ドアを細くあけて顔を出したのは千林だった。
「……烏丸か」
「長居のお母さんは?」
「留守だけど、かまわない。はいれよ」
 長居はカーテンを閉めた部屋の隅、しわの寄った布団に寝そべってTVゲームをしていた。身につけているTシャツとトランクスからは汗が乾いたあとの酸えた匂いが、わずかに漂っていた。千林が床に散らばったマンガ雑誌やプラモデルを寄せて僕が座る場所をつくってくれた。
「湿気がこもってない?窓あけちゃだめかな?」
「外からのぞかれるんだよ」
 ゲーム画面を見据えたまま、長居が言った。
 僕はそっとカーテンの裾を持ち上げて窓の外を見た。
 家が斜面にはりつくように建てられているので、玄関は一階に見えてもこちら側は二階の高さだ。眼下にはアカマツとユーカリがまばらに生えた急斜面がゴルフコースの芝生まで続いている。芝生の向こうはまた崖になっているようで、平野部の市街まで見渡せた。
「こっちの窓には誰も近寄らないと思うけど」
「見られてる気がするんだよ」
 長居は苛立たしげにそう言って、コントローラのボタンを連打した。
 千林は台所に立ってごそごそしていた。勝手知ったる他人の家か。半分残ったコーラのペットボトルを持ってきて、コップみっつに均等につぎわけた。
「この部屋にいても人目が気になるんなら、月面にでも行くっきゃないな。それとも、周りを月面なみに掃討しちまうか」
 皮肉を言われても長居は相手にしなかった。
「千林は、ずっと来てくれてたの?」
 僕がこの前ここに来てから一ヶ月以上たっていた。長居が教室に姿を見せなくなってから、なんとなく遠慮してしまっていたのだ。
「部屋にいれてもらえたのはおとといからだよ。お前のほうがタイミング良かったな」
 TVから気の滅入るようなメロディーが流れた。ゲームオーバー。長居は悪態をついてコントローラを投げ出し、僕が手渡したコーラを一気飲みしてむせた。
 千林は乾いた笑みをうかべ、学習机の上に飾ってあったライフルを取り上げて僕に投げてよこした。
 玩具のつもりで受け取ったら、意外にずしりと重くてびっくりした。全長八十センチはありそうで、つや消しの黒い銃身が本物っぽい質感だ。エアソフトガンというやつだろうか。台尻の部分はかなり使い込まれたようにてかりがあって、ちょっと寒気がした。これって十八歳未満所有禁止なんじゃないのか。それを言うなら、さっきから長居がプレイしているゲームもR18指定のようだけど。
「弾はでないよ」
 千林が銃を構えるジェスチャーをして窓の外にあごをしゃくってみせた。
 僕はぎこちなくその動作をまねて、カーテンのすきまに銃口を差し込んだ。スコープを覗くと、すぐそこにゴルフ場のアカマツが見えた。樹皮の一部がえぐれて白っぽい木質が露出していた。
「もちっと下、狙えよ」
 枝のすきまから西中学校の校舎がぼんやりと見えた。射程外なのはわかりきっていたけど、腹の底が冷たくなった。TVゲームのBGMがずっと遠くで鳴っているようだった。
 背中に何かを期待するようなふたりの視線を感じた。唾を呑んで校舎からそろそろと照準をずらした。藪の切れ目から青池が姿を現した。昨夜の雨が空気を洗い流したせいか、小さな池の水面は鏡のかけらを置いたようにきらきらと日光を反射していた。
 その光を遮って動く小さな人影をみつけてはっとした。この距離からはっきり見えるはずもないのに、それは確かに「あいつ」だという気がしたのだ。
 僕はライフルを千林の手に押しつけて立ち上がった。
「また来るよ。じゃましたな」
 長居が振り向いて僕に手をのばしかけた。千林が何か言ったようだったが、はっきりとは聞き取れなかった。
 僕はもう大あわてで運動靴をつっかけ、家の外に飛び出していたから。

 坂道をころげるように駈け降りた。
 走りながら、自分に言い聞かせた。期待なんてするな。あとでがっかりするだけだから。世の中そう都合良くことが運ぶわけがないだろう。いいかげん学習しろよ。
 青池につながるあぜ道にたどりつき、大きく息をついた。鼓動が早いのは走り続けてきたせいだけではなかった。
 どうやら僕は、この先十年分くらいの幸運を今、使い果たしてしまったようだ。
 池のほとりに葺合がいた。制服の上着を脱ぎ、カッターシャツの袖をまくりあげ。一心に水面をみつめる横顔は年齢よりも幼く見えた。複数の上級生を足蹴にした猛者だとは信じられなかった。
 葺合は手すりを乗り越えて水辺に身を屈め、長い竿のようなものを池の隅の淀みにさしのべていた。竿の先には鉤状の金具がつけてあった。彼はそこに何かをひっかけて、ひょいとすくいあげた。地面に転がされたのは発泡酒の空き缶だ。
 彼の背後には空き缶の小山ができていた。学校を出てから一時間ほどしかたっていないはずなのに、たいした収穫だ。雨水路から流されてきたゴミが溜まっていたのだろう。
 こちらから声を掛けるより先に気づかれた。葺合は無言でひゅん、と竿をひるがえし、僕の鼻先に向けてぴたりと止めた。ぶつかる距離ではなかったが、十分に威嚇的な態度だ。僕はといえば、とっさにどう反応したものか思いつかず、泥水の滴る鉤をみつめたまま立ちすくんだ。
 冷たい目でにらまれて、何か言わないと、と焦った。
「つっぱりポールとワイヤーハンガーかな?うまいこと細工したね」
 うわ。まぬけなこと言っちまった。
 葺合の気合いがすこん、と緩んだ。こいつアホか、と言いそうな顔になって竿を引き上げ、元の作業に戻っていった。
 僕はその場に立ったまま、しばらく彼を見守った。
 鞄を提げた手がだんだん痺れてきた。下校時なのになんでこんなに重いんだろうと考えて、ようやく昼飯を食べていなかったことを思い出した。
 手つかずの弁当を家に持ち帰ったりしたら、母さんを心配させてしまう。僕は鞄の底をさらって採集用のポリ袋をさがしだし、弁当箱の中身をあけて口をかたくしばった。帰り道にどこかのゴミ箱に放り込むつもりだった。
 気がつくと、葺合がじっと僕の手元をにらみつけていた。
 僕と目が合うと、すっと下を向いて竿を縮めた。そうして集めた空き缶をひとつずつ手に取り、飲み口を下にしてとぽとぽと水を出していった。スチール缶とアルミ缶を別々にスーパーのレジ袋に詰め、地面に放り出していた制服に手を伸ばした。
 僕は葺合の鞄を拾い上げて差し出した。彼はすぐには受け取らず、僕をとがめるように見上げた。
「食いもんを粗末にすんな」
 はじめて彼の声を聞いた。グラスを弾いたように透明感のあるボーイソプラノ。心臓が喉から飛び出しそうになった。僕は自分の鞄とポリ袋を持ったほうの手をさっと身体の後ろに隠した。
「……ごめんなさい」
 葺合は意外にくるっとした目を見開いた。
「こんくらいのことで簡単に謝るな」
「……ごめ……じゃなくて……ええと……」
 しどろもどろになった僕を前に、その目尻がすこしだけ緩んだ。
「お前、カエルか?こないだから池のはたにばっかりおるやろ」
「シ……ムシを見ていただけだよ」
 今度は口の端をちょっともちあげた。なんだか僕の反応をおもしろがっているみたいだ。
「米の飯よりコバエでも喰いたいか」
 およそ美声にそぐわないばりばりの関西イントネーションだ。
「ハエを観察するのは好きだけど、食べたいとは思わない」
 とうとう、くくっと声をあげて笑われた。
 あどけない顔立ちが、日の光が射し込んだみたいに明るくなった。ばかにされたのかもしれないが、不思議と腹は立たなかった。
 そのときだ。彼のベルトのあたりでぐるぐるとヒキガエルの鳴くような音がした。葺合がはじめてうろたえた。日焼けした頬が赤くなった。
「……おなか、すいてるの?」
 芸のない質問に答えようともせず、僕の手から鞄をひったくると、くるりと向きを変え、両手いっぱいの荷物をさげて走り出した。
「ちょっと待って!」
 後を追って駆けだしたが、僕の足で追いつけるスピードではなかった。
 かどを曲がった先は田んぼと竹藪と果樹園だ。イチジクの木の列に遮られ、彼がどちらに向かったのか見当もつかなかった。


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