第一章 モンシデムシ (3)
2003/05/14 Wed.
昨日の午後には教室に机と椅子がひとつずつ運び込まれていた。
それでなくても手狭な空間に、これできっちり四十人分。机の脇に掛けた鞄にぶつからずに歩くことさえ難しい。
僕が登校した時には、転校生は最後列の新しい席に脚を投げ出してすわり、腕を組んで窓の外をながめていた。昨日と同じ、大きすぎる古びた制服の胸に似つかわしくない新しい校章と名札。
「葺合」
フキアイと読むのだろうか。
近寄る者も声をかける者もいない。同級生たちは明らかにその存在を意識しながら、わざとらしく見知った者どうしでかたまっている。好奇心まるだしの数名も、今は遠目の観察を決め込んでいる。葺合のほうは他人のことなどまったく気にかけていないようだ。詰襟から半分だけのぞいた顔は一度もこちらを向かなかった。
宇多野先生はSHR終了まぎわに教室に現れ、ぶつぶつと小言をまいてすぐに出て行った。
転校生の紹介すらしなかったな。
僕のすぐ前の席の女子、本山(もとやま)がさらに前の席の友人とけっこう大きな声で話し出した。
「見た?ウタノン、昨日とおんなじスーツとシャツ。アイロンもかけてへん」
「奥さんいてへんの?」
「家族はおるはずやけど、最近愛想つかされてんのとちゃう?靴もみがいてへんし、弁当も持ってこんようになったし」
「せやけど、帰宅はえらい早いよ。時間が来たら焦って飛び出していきよるわ」
「浮気でもしとんかな」
「そんな甲斐性ある?」
耳障りな笑い声。聞かされて気持ちのいい話ではなかったが、僕は黙って聞き流した。
クラスの生徒たちはもう、この担任に何も期待していない。いつもと変わらぬ退屈な授業が始まった。
ことが起こったのは二限目終了後の休み時間だ。
腰パンのポケットに両手をつっこんだ二年生が僕らの教室に現れた。
所属以外の教室へ入ることは校則で禁止されているが、とがめるやつなんていない。しんとした下級生が道をあけるのを当然のように、二年生はずかずかと入りこんでぐるりと頭をめぐらした。
目的の人物は見つからなかったらしい。不満そうに手近な机の脚を蹴って出て行こうとした。たまたま向きを変えたそのときに、隅っこの転校生に目を留めた。
二年生は子猫の尻尾をつかまえた幼児のように、にんまりと笑って葺合の席の前に立った。
「昨日、玉出を投げ飛ばしたいうんはお前か」
えらそうに胸をそらした態度にしらけた。かっこつけているつもりだろうが、体格も顔つきも貧相でB級劇画のパロディにしか見えない。
「転校早々派手にめだっとるやないか。気に入ったで。この茨木(いばらき)さまの弟子にしたるわ。光栄に思えや、新入り」
葺合は返事をしなかった。
何も聞こえていないみたいに、平然と窓の外を見ていた。
シカトされたと思ったらしく、茨木の口元がゆがんだ。
「何すかしとんねん。ダボカスが」
襟首をねじあげようとしたのか。喉輪をかまそうとしたのか。
眼前に突き出された茨木の腕を葺合の左手がひょいとつかんだ。
茨木はあわてて身をひこうとしたが、腕を不自然な角度に固定されてうまく力をいれられない。葺合の手はびくとも動かない。
茨木の顔色が変わった。あいた方の手をあげようとして、あっというまに葺合の右手につかまれ、両腕を延ばして開いたまま動けなくなってしまった。
茨木は必死に身をよじり、のけぞって大声をあげた。
「離さんかい、おら!」
葺合がいきなり手をゆるめた。
茨木の身体が跳ねとんで後ろの机にぶつかった。
がたん、と大きな音がして、クラス中の生徒たちがびくりと振り返った。
「覚えとれよ!」
チンピラは捨てぜりふを吐いて出口に向かった。教室へ入ってきた金岡が話しかけようとしたのも無視して、他の生徒の机をふたつみっつ蹴倒していった。
被害にあった生徒のひとりは住之江だった。床に散らばった鉛筆やノートを拾い集めながら、恨めしそうに葺合を見あげた。
葺合は何事もなかったかのように窓の外を向いて座っていた。あまりに動かないので息をしていないんじゃないかと不安を覚えた頃、その視線がすいと流れた。つられて追いかけ、同じものを見た。
教壇横のケージ。文鳥が止まり木の上でせわしなく羽繕いをしていた。
三限目が始まる前には葺合の机の周囲にせいいっぱいの空間ができていた。
クラス中が「自分は関係ありません」という顔をして、次におこる災厄の予感におののきながら息を殺していた。
茨木の郎党は放課後まで姿をみせなかった。一年生たちの恐怖心をあおろうとしたのか。見せしめとして効果的なタイミングをねらったのか。
終業チャイムがなり、生徒たちが吐き出された校庭の真ん中で、五、六人の二年生が葺合を取り囲んだ。
茨木がいた。柔道部の淡路(あわじ)もいた。かなりの長身だがそれ以上に胴回りが太くてコガネムシを思わせる体格だ。あとの連中はよくわからない。三年生や名前の知られた二年生はいないようだ。
背丈の低い一年生の姿は人垣に埋もれて見えなくなった。上級生たちは団子状態のまま旧校舎の入り口へ吸い込まれていった。
「終わりやな」
僕の背後で高井田がにやにやしながら言った。
「せっかくやから、あの世間知らずがどんな顔んなって出てきよるか見といたろか」
旧校舎は四階建、一応は鉄筋コンクリート造りだが築二十年を越えたバラックだ。外壁には震災時にできたひびわれの補修跡が数カ所、灰色の稲妻のようにはしっている。最上階は名目上は文化部の部室、実際には物置状態で出入りがあるのは将棋部の区画だけ。そこが連中のたまり場になっていることは誰もが知っていた。
隔離された部屋で進行中の事態を考えると、酸っぱいものが喉にこみあげてきて気分が悪くなった。
僕にできることは何もないと無理矢理自分に言い聞かせて立ち去ろうとした時、頭の上で誰かの叫ぶ声がした。
見上げた最上階の窓ががらっと開いたと思うと、小さな影が空中へダイブした。
僕のすぐ横で女生徒が悲鳴をあげた。
落とされた!
思わず両手で顔をおおった。
永遠のような数秒がたったが、何の音もしないのでそろそろと目をあけた。
葺合は三階の窓枠に右手をかけてぶらさがっていた。左手にさげた通学鞄を校舎裏の草むらめがけて投げ落とし、両手を窓枠にかけて、くいと身体を持ち上げ、勢いをつけて横に振った。窓の横の雨樋に脚をひっかけて飛びうつると、樋を伝ってするすると降りてきた。
着地した葺合が鞄を落としたあたりへ駆け出すのと、茨木たちが一階の出口から飛び出してくるのがほとんど同時だった。
「待たんかぃ、クソぼけがぁ!」
僕の前を走り抜けた茨木の制服の背中には、くっきりと運動靴の足跡がプリントされていた。
淡路の頭も踏みつけられたらしい。狭い額が泥まみれだ。
「こけにしくさって!」
葺合の姿は草むらにまぎれて手品のように消えた。
二年生たちは怒声をあげ、雑草を蹴散らしてうろうろしていた。
同じ土汚れなのに、肌につくと茶色く、制服につくと白っぽく見えるのはどうしてだろう。ばかみたいな疑問が頭に浮かんだ。
ぼんやりしていたせいで逃げ遅れた。いきなり前髪をつかまれてひっぱりあげられた。目の前には青筋をたてて目を血走らせた淡路の顔。
他の生徒たちはもう潮が引くようにいなくなっていた。
「あのカスぅ、どこへ逃げよった?」
僕はかかとが浮く高さまで持ち上げられたまま、髪の生え際がじんじん痛むのを堪え、黙って淡路を見た。淡路はようやく僕を思い出したようだ。
「なんや。お前か」
さっきまでのうろたえようが妙に落ち着き、いつもの人をばかにしたような笑みがもどった。
生徒たちの騒ぎを聞きつけたのだろうか。新校舎から玉出先生と養護教諭の壬生(みぶ)先生が走り出てきた。
玉出先生は旧校舎の前まで来てぎろりとあたりを見まわした。その姿を見た二年生たちは身を起こし、素知らぬ顔をしてばらばらと散っていった。
洋なし体型の壬生先生は保健室からダッシュしてきただけで息を切らしていた。
校内でもめ事が起こったときに姿を現す教師はたいていこの二人だけだ。あとの先生たちは何も聞こえないふりをして職員室にとどまっている。
淡路はとっくに僕から手をはなし、旧校舎にむけて歩き出していた。
壬生先生がもの問いたげに僕に歩み寄ってきたが、僕も知らんぷりをして校門に向かった。
一旦校門を出てしばらくまっすぐ前を見て歩いた。百歩数えたところでUターンし、そっと校庭に戻った。
上級生たちがいなくなっているのを確かめてからフェンスに近寄って身をかがめた。膝をついてそろそろと移動しながら足もとを観察した。
丈の高い雑草がはびこっているのでわかりにくいが、フェンスの下端と地面の間には五センチほどの隙間がある。
二、三メートル移動したところで、野猫ががさっと草むらから飛びだし、僕の前を走っていった。その出どころをたどり、地面がえぐれて隙間の広がっているところをみつけた。僕がくぐりぬけられるぎりぎりの幅だ。淡路には無理だが、葺合なら簡単に通れただろう。
反対側に抜けて立ち上がり、胸元の土汚れと葉っぱの切れ端をはたき落とした。下草がぼうぼうに茂った藪のなかだ。低木の小枝がからまりあい、とげを誇示して行く手を阻む。それでもよく見れば木々のあいだを縫うように誰かの歩いた痕跡が残っていた。
僕はあるかないかの隙間をたどってゆるゆると前進した。頭を下げてヒイラギの枝をくぐったところで藪がとぎれた。
眼前にしんとした水辺が姿を現した。少し強くなってきた風がさざ波をたて、頬をかすって吹きすぎた。真正面には祠つきの小島。ここは青池だ。
校門から車道を通っていくと遠回りなのは知っていたが、藪を抜けるとこれほど近いとは意外だった。
僕がはじめて見かけたとき、葺合はちょうどこの位置に立っていたのだ。
手すりに上るわけにはいかず、そのへりに腹を押しつけて岸辺をそろそろと伝い歩いた。
池をほとんど半周して一昨日と同じ林の前まで来たが、葺合はおろか人っ子ひとりにも出会わなかった。
林にはいってみると、ネズミの死骸はすっかり姿を消していた。地を這うムシやハエの姿もなく、あたりには生っぽい新緑のにおいが満ちていた。
ムシに掘り返され埋め戻された土は柔らかく、ほんのわずか色が違っていた。地中ではきれいに加工された肉団子に、まるまるとした幼虫が群がっていることだろう。
僕は青池のほとりに戻って水面に小石を投げた。なるべく平たい石を選んでなるべく水平に飛ばしたつもりだったが、石は一度もはねずに水没した。
ときどき思い出したように試してみても、飛び石が成功したことはない。僕の運動神経なんてこの程度だ。
雨をはらんだ雲が西の空から広がってきたのを潮に、家に帰った。
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