第一章 モンシデムシ (2)
2003/05/13 Tue.
予鈴一分前、一年C組の教室になんとかたどり着いて鞄を机に置き、その上に頭を載せて目を閉じた。
僕は生まれつき朝に弱い。最近さらに体質が悪化して、一限目は授業内容も頭にはいらない。居眠りとまちがえられないように前を向いているだけでもつらい。せめて授業の始まる前くらいは休んでいたかった。
チチッと小鳥のか細い鳴き声がした。と思う間に、耳障りな笑い声にかき消された。
僕は腕枕の隙間から薄目をあけて騒音の出所をうかがった。
教室の隅に数名の男子がかたまっていた。
高井田が門真と三国(みくに)を従えて住之江(すみのえ)をとりかこんでいる。
ちょっと見には四人ともけらけらと冗談を言い合っているようだが、よく聞けばネタにされているのはひとりだけだ。
住之江は門真に何を言われてもへらへらと笑っている。連中のすぐ隣の席にいる千林(せんばやし)のほうが、かえっていらいらしている。教科書を読むふりをしながら集中できずに鉛筆をかじりだした。
他の男子たちは自分がババをひかずに済んでほっとしている。女子たちは仲良しグループ以外のことなど校庭のサクラほどにも気にかけていない。注意しようとか止めに入ろうなんてやつはひとりもいなかった。
僕はため息を飲み込んで、もう一度目を閉じた。
そっとしておいて欲しいときに限って声をかけてくる間の悪いやつがいる。今朝の御影涼香(みかげすずか)がそうだった。
「聡。大宮(おおみや)さんが、もう一度あんたに会って話をしたいって」
僕の顔の向きにあわせて首を傾げたことで、肩の上で切りそろえた髪が白桃色の頬にかかった。細い眉の下に澄んだ榛色の瞳。なめらかで艶のある唇。初対面ならはっとするほどの美少女なのだが、六年以上毎日顔をつきあわせてきたので今さら何の感慨もわかない。
「大宮って?」
セーラー服の襟元から目をそらして、わざとめんどくさそうに返事した。御影は教壇横の一隅をほそい顎で指し示した。
見覚えのある女生徒が文鳥のケージから餌入れを取りだしているところだった。
「昨日はすごく失礼なことをしちゃったから、わざわざ謝りたいって言ってるのよ。乙女の誠意にはちゃんと答えなさい」
大宮って昨日の女の子の名前だったのか。
「男どもに無理矢理ひっぱられたんだろ。気の毒だったよな。あの子のせいじゃないんだから、気にするなって言っといてよ」
「そういうことじゃなくって……」
御影はじれったそうに言葉を重ねようとしたが、僕にはそれ以上つきあう気はなかった。
椅子から身体をひきはがすように立ち上がってトイレへ向かった。
廊下に出ると真正面の窓の惨状が目にはいった。砕けたガラスの破片が窓枠に残ったまま、段ボールをかぶせてガムテープでおざなりに固定してある。
この春、明智市立西小学校卒業生の三分の一は私立や大学付属の中学校に進学していった。
元同級生たちの選択の理由に僕が気づいたのは、市立西中学校に入学してしまってからだ。
登校時に正門前で制服や持ち物をチェックされているはずなのに、男子トイレの壁はタバコの焦げあとだらけ。予鈴が鳴ったあとも、廊下にたむろしている上級生たちは腰をあげようともしていなかった。
いったん大人のいうことをきかなくなった生徒たちを檻に押し戻すのは大変なことなのだろう。予防が優先とばかりに教師たちの指導は新入生に集中していた。
休み時間に他の教室に移動するな。昼の弁当は自分の席で食べろ。部活以外で上級生と私語をかわしてはいけない。
脅しまじりの居丈高な教師たちを前にして、ほんの数週間前まで小学生だった生徒たちは身を縮こまらせた。
それでもゴールデンウィークがあける頃には、一年生たちの態度にもはっきりとした差がみえはじめた。
ぼくと一緒に西小から来た長居(ながい)は、五月になって一度も登校してこない。校則違反なんてしたこともないやつなのに、クラスの連帯責任を問われて指導を入れられたホームルームで限界を超えてしまったらしい。一方で中央小出身の高井田や門真は教師の怒声にも慣れ、上級生の尻馬に乗って校則をすり抜け始めていた。
結局、学校の指導方針は聞く耳持たぬ連中の抑止力にはならず、大人の顔色を気にする連中をますます怯えさせただけだったのだ。
トイレを出て教室に戻ろうとした僕の前方から、どすどすと足音をたてて大柄な教師が歩いてきた。
上下そろいのジャージに健康サンダル。学年生徒指導の玉出(たまで)先生だ。今まで僕が注意を受けたことはないが、襟足からかかとまでねめまわされるのは気持ちのいいことじゃない。
目を伏せてやりすごそうとした時、僕の横をすいと追い抜いた男子生徒がいた。ふっと、どこかで覚えのある匂いがした。
「こらーっ、お前、記章名札はどうした!」
玉出先生が突進してきて男子生徒の腕をつかもうとした。
その次の動きはあっと言う間のことだったので、すぐ横にいた僕にも何が起きたのかとっさにはわからなかった。
とん、と軽い音がしたと思ったら、玉出先生がその場で尻餅をついていたのだ。当の先生も狐につままれたような顔をしていたが、すぐに赤くなって立ち上がった。どうやら男子生徒が先生の腕を逆手にとり、つかみかかられた勢いをそのまま利用して転がしたらしかった。
僕は改めて男子生徒を見た。ぶかぶかの詰襟に顔の下半分を埋め、上半分には長めの前髪がかかっていたので、見分けるのに数秒かかった。
昨日、池のほとりで見かけた子だ。
並んで立つと、僕より五センチほど背が低い。大きすぎる制服の袖口とズボンの裾をまくりあげ、服の中で細身の身体が泳いでいる様はまるで案山子だった。
先生は男子生徒のリーチの外から声をはりあげた。
「お前、何年何組や!」
「転校生ですよ」
思わず口走ってしまってから、僕は喉元に手をあてた。手遅れだ。出してしまった声を押し戻すことはできない。
先生はぎろりと僕をにらんだ。
男子生徒は黙って立っていた。涼やかな目は人ごとみたいに落ち着き払っていた。
僕ら三人の周囲にはざわざわと物見高い人だかりができ始めた。
廊下に座りこんでいる上級生たちも野次馬根性丸出しでこっちを見ている。
地面に落ちてのたくる青虫がスズメについばまれるのを待ち受けているみたいだ。
先生は胸をそらして眉をつりあげた。
「違反は違反や。職員室まで来い」
不必要に大きな声で指示されながら、男子生徒は怯みも反発もしなかった。わずかに肩をすくめ、黙って先生のあとについていった。
二人が階段を降りて姿を消したとたん、うわん、と低い音が廊下に反響した。その場にいた連中がてんでにしゃべりはじめたのだ。
「見たか?タマがあっさりころがされたで」
「新入生か。チビのくせに態度でかいな」
「おタマに目えつけられたらしまいやな」
同じクラスの常盤(ときわ)が僕にすり寄ってきた。
「烏丸。お前の知り合いか?」
ちょっとうわずった声で言って、唇をなめた。目新しいネタをみつけたことがよほどうれしいらしい。
「知らないよ」
僕は肩にのせられた常盤の手を払って教室に向かった。
担任の宇多野(うたの)先生はSHR終了五分前に教室に現れた。
チャコールグレーのスーツ。きっちりと締めたピンストライプのネクタイ。ビジネスマンに見えないのは肩にちらばったフケのせいだ。先生は眉をしかめてこつこつと教卓を叩いた。
「昨日、この教室で現金の紛失があった」
声は大きいが、視線は生徒たちの顔を避けるようにただよっている。
「三限目の体育と四限目の音楽の間だ。多額の現金を持ち込んだ馬鹿者のせいで、お前ら全員が疑われるんだぞ」
先生はそっぽを向いたまま目だけ動かしてこっちをにらんだ。
僕のななめ前の席で男子生徒がびくっと首をすくめた。
金岡(かなおか)か。
意外ではなかった。経験もないのに無理して入った空手部で、あっと言う間に練習についていけなくなったらしく、このところクラブ仲間から置き去りにされてうろうろしていた。
原因か結果かはわからないが、群からはぐれた個体は捕食動物にとっては格好の標的だ。盗られた現金の本来の受け取り手もおおよその察しがついた。
「教室まわりで不審な人物をみかけた者がいたら、ここに書くように」
罫線を刷ったA6のコピー用紙が前の席からまわされてきた。
「今度何かあればまた全員指導だからな。他の者も気をつけろ。これ以上私に面倒をかけるな」
僕は机の下でその紙を握りつぶし、みつからないように鞄の底へ押し込んだ。
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