第一章 モンシデムシ (5)
2003/05/16 Fri.
いつもより十分以上も早起きした僕に、母さんが声をかけた。
「なにか食べて行きなさいよ」
「今すぐは無理だからさ」
僕は食卓から殻つきのゆで卵とミカンを選んでクロスに包み、弁当箱に載せて鞄につっこんだ。
「学校に着いてから食べる」
指定の登校路を途中からはずれて青池に向かった。小島に渡って祠の小さな格子戸の前にクロスをひろげ、卵と果物を載せてぱんぱんと手を打った。
背後のクロマツが、がさりと枝を揺らした。ぎくりとして振り返った僕の頭上で、ハシブトガラスが一声鳴いた。なんとなく気が引けて、学校めざして一目散に駆けだした。
走りとおして予鈴ぎりぎりに教室に飛び込んだというのに、宇多野先生はSHRの終わりまで姿を見せなかった。
朝の教職員会議が長引いていたのだと、常盤が言った。
「例の転校生や。校門指導の玉出ともめて、また職員室にひっぱってかれた」
「そんなん、会議と関係ないやん」
「あいつ、ちょっとおかしいねん」
常磐はことばを切って唇をなめ、思わせぶりに声を低くした。昨日のハイテンションぶりとは全然態度が違う。葺合に対する教室全体の風向きが変わってきたのを敏感に察知しているのだ。
「他の組に親が西支所の窓口に勤めてるやつがおんねんけど。連休からこっち、西中の校区に転入してきた家族なんてないそうや」
「市役所で手続きしたんかもしれへんやん」
女子のひとりが言ったが、誰も賛成はしなかった。
このあたりは明智市も西のはずれだ。わざわざ東端にある市役所まで転居届けを出しにいく人がいるだろうか。
「ほなら、あいつの家がどこにあるか、知っとうやつはおるんか?」
生徒たちはなんとなく顔を見合わせた。
一限目国語の宮木先生と葺合が一緒に教室にはいってきたことで、話はとぎれた。
葺合の前髪が短く切られていた。適当にハサミをいれたとしか思えない、不揃いで不格好なありさまだった。門真の笑い声が数秒間ひびいて唐突にやんだ。髪のバリアを取り払われた葺合の目に射すくめられ、喉を詰まらせたようだ。
「校則だからって、ちょっとひどいんじゃないか」
僕のつぶやきに、御影がこたえた。
「自分で切ったのよ。私、校門前で見てたの。玉出先生に注意されて、その場で先生からハサミをひったくって、じょきじょきじょきってね」
昼休み、僕は大急ぎで教室を出て校舎の外階段を駆け上がった。屋上へ通じるドアは施錠されていたので、そのすぐ下の踊り場からコンクリの塀ごしに身を乗り出し、旧校舎の裏手に目をこらした。思った通り、丈の高い雑草の茂みがフェンスに向けて揺れ動くのが見えた。
地上まで降りようと振り向いたところで脚が止まった。すぐ下の階に二人の女子生徒が待ちかまえていた。
セーラー服のスカーフをいじりながらもじもじしているのは大宮だ。その後ろには保護者みたいに御影がくっついていた。
「……お詫びとかはもういらないんだけど……」
僕がもごもごと言いかけたのを無視して、御影がわざとらしくにっこり笑った。
「いい場所みつけたわね。先生や上級生もここまであがってこないと思うけど、念のため見張っといてあげるわよ」
そうして何かを放り投げてきた。あわてて手を伸ばし、なんとか受けとめてみると、僕の弁当の包みだった。
「ごゆっくり」
御影は僕と大宮を残してさっさと階段を降りていってしまった。勝手に鞄を開けられたことを怒るひまもなかった。
僕がよっぽど情けない顔をしていたのだろう。大宮がおずおずと聞いてきた。
「……やっぱり、迷惑やった?」
「いや……大宮さんさえ嫌じゃなけりゃ……」
優柔不断といわれてもしかたない。そのまま二人ならんで階段に腰をおろし、弁当を食べるはめになった。大宮は手のひらより小さな弁当箱からピンポン玉より小さなおにぎりをついばんだ。しばらくはどちらも黙々と箸を運んでいたので、タクアンをかじる音が相手に聞こえるんじゃないかと思ったほど静かだった。
大宮のほうから気をつかって話しかけてきた。
「教室の文鳥、私以外にお世話してくれてるの烏丸くんだけでしょ。優しい人やなって前から思うてたんよ」
「……人間の身勝手で生きものが死ぬのを見たくないだけだよ」
文鳥のケージを教室に持ち込んだのは宇多野先生だ。自宅で飼っていたつがいの一羽が死んでしまって嫌気がさしたんだろう。そう常磐が見てきたように噂していた。
「野生の生きものかて、死んだらかわいそうよね」
大宮はシデムシの餌になったネズミを思い出したのだろうか。
「自然界では生死は循環システムだ。個体数は淘汰されてこそバランスを保つ。死骸は他の生きものに利用される。僕がいやなのは、自力では生きのびられない状況に隔離しておいて、世話を放棄する人間の傲慢さだよ」
大宮は途方にくれて箸をとめた。こんな話になるとは思っていなかったんだろう。僕はあわててつけ加えた。
「べつに小鳥を飼うのが悪いことだとは言ってないよ。僕だって金魚を飼ってるし」
「外の世界に逃がしてあげたほうが小鳥はしあわせなん?」
「飼育された生きものを放したりしたら生態系が混乱してしまう。野生化したセキセイインコは野鳥の生活をおびやかすだろ。野生種だってつかまえたのと別の場所に放せば交雑による遺伝子レベルの問題も起きるし……」
違う。大宮が聞きたいのはこんな説明じゃない。わかっちゃいるけど、僕には女の子の感性にあわせた話題なんて思いつけやしない。
会話はそこでとぎれ、僕らは残りの弁当を黙ってかきこんだ。
お通夜のような食事会を終えて大宮を教室まで見送り、あらためて旧校舎横にたどり着いた時には昼休みは五分ほどしか残っていなかった。
日増しにきつくなってきた初夏の日差しを浴びて、名前を知らない草たちがぼうぼうと生い茂っていた。風に揺れる葉の間からバッタが跳びだした。鼻先をかすめてモンシロチョウが飛んでいった。
ムシたちが静かになるまで、息を殺して草むらに身をひそめた。
ようやくフェンスのあたりで動く気配を感じ取った。そっと近づこうとして、ふいに顔を出した葺合と額をぶつけそうになった。
葺合は反射的に回避して身構えたが、こっちが誰だかわかるとちょっとだけ緊張をゆるめた。
「また、お前か」
それだけ言って通り過ぎようとするのを、とっさに腕をつかんでひきとめた。
「ちょっと待っ……」
とたんに空と地面がくるりと入れ替わった。
僕は草の上に投げ飛ばされて背中をしたたかに打ち、肺の中の空気を底まで吐き出していた。
「いきなり手ぇだすな。あほ」
葺合の口振りは冷たかったが、少しはかわいそうに思ったらしい。片手をつかんで身体を引き上げてくれた。
僕は胸をそらせて息を吸い、背中に手をまわしてさすってみた。痣が残ることはなさそうだ。
葺合はポケットに両手をつっこんでそっぽを向いていた。
立ち去るそぶりがないのに励まされて、恐る恐るきりだした。
「ちょっとだけ話してもいい?」
返事はなかったが遮られもしなかった。
「こないだ、ちょっかいをかけてきた二年生たちは雑魚だよ。気をつけないと、もっと面倒な連中にまきこまれちゃうよ」
葺合は興味なさそうに足下の小石を蹴った。
「アホどもが言うとった。エサカとかメフとか」
頭の上から別の声が降ってきた。
「その話やねんけどな」
見上げると、二年生の売布(めふ)と目があった。いつからここにいたんだろう。
ナナフシのようにひょろ長い身体のてっぺんにのった血色の悪い顔が、僕らを見下ろしていた。
「心配せいでも、江坂(えさか)さんはお前にじかにかまう気ぃないで。そっちから頭さげてくんなら、話は別やけどな」
葺合が売布を見据えるには仰角七十度ほども首を曲げなければならなかったが、身長差や年齢差で態度を変えるやつではなかった。
「パシリに用はない」
売布は世間知らずの無礼にはつきあわない、というように片眉をあげた。
「淡路らの挨拶は越権行為や。埋もれかけの石ころをわざわざほじくりかえしてつまずいとんねんから、世話ないわな。まあ、自分があのアホどもよりは骨がありそうなんはわかったけどな」
僕は二人の顔を見比べたが、何も言えなかった。同じ中学校の生徒なのに、まるで異世界の話に聞こえた。
「上は、見所のあるやつなら今までのことちゃらにして面倒みたってもええ言うてはる。ありがたい話やろ」
葺合は不敵な笑みを浮かべた。うすく引き延ばした唇からとがった犬歯がのぞいた。
「ガキのやくざごっこに付きおうとうヒマはない」
「自分の立場、わかっとんか」
売布はひび割れのような目をさらに細めた。
「住民票も就学届もなしに、いきなり中学校に乗り込んできて生徒になれる思うとんか。校長は今でも自分の転入を認めてへんで」
「お前らには関係ない」
「善意の申し出や。俺らが監督するよって、先コにいらん面倒はかけん。せやから、おらしたってくれて口きいたるわな」
売布は、江坂が教師たちに影響力を持っていると言いたいのだ。胸がむかむかしたが、葺合はひるまなかった。
「お前ら子分を増やして大人をびびらそ思とうだけやろ。けったくそ悪い」
売布の視線はねっとりと肌にはりつくように気味が悪い。握りしめた僕の両手の内側がじっとりと汗ばんでいた。
「葺合。珍しい名字や。何度転校したかて、やらかしたことは名前と一緒に広がってまうやろ。去年、神部の湾岸でほたえた小学生が葺合ゆうたな。中坊十人ほどまとめて病院送りにしたとか……」
僕は思わず割って入った。
「そんな根も葉もないデマ情報を先生が鵜呑みにするわけないだろ」
「耳にふたはできへん。聞く気がのうても聞こえてまう話もある。見たいと思うてへんでも、いっぺん見てしもたもんは頭から消されへん。あとで騒いでも、どうもならん。なあ、烏丸」
唐突に名前を呼ばれて、身体がびくっと反応してしまった。
葺合は横を向いて唾を吐いた。
「学校全部を敵にまわしてもええんやな」
昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。
葺合はもう話はすんだとばかりにきびすを返し、新校舎へ向けてさっさと歩き出した。
僕はあわててその後を追った。
売布は動かなかった。その姿が見えなくなったあたりで、葺合が振り向いた。
きつい目にちりちりと焦げるような苛立ちが燃えていた。
「どこまでついてくる気や。うっとい」
同じ教室に向かっているだけだったのに。
そんないいわけも言えずに僕は身をすくめ、足取りを速めた葺合から距離をおいてとぼとぼと歩いた。
五限目の終了後、御影につかまった。
「あんた、大宮さんに何を話したのよ」
「あっちに聞けばいいだろ」
「口では『楽しかった』って言ってたけど、気を遣ってるのみえみえだったもん」
僕は机に肘をついて髪に指をつっこんだ。
知ったかぶりの一方的な話で大宮の優しい気持ちを傷つけたことは自覚していた。葺合に罵倒されたのは天罰だ。
御影は大げさにため息をついた。息子のテストが期待はずれの点数で返ってきた母親みたいだった。
「あのねえ、あんないい子に気に入ってもらってるのに、何が不満なのよ。せっかくのチャンスなんだから、難しいこと考えないで楽しめばいいじゃない」
大宮にはもうしわけないが、御影に謝る理由はない。
「お前みたいにお気楽にはやってけないよ」
「あんたこそ、なんでわざわざ面倒くさいとこにばっかり首をつっこむのよ。自分に関係ないことでいちいち悩んでたら、きりがないよ」
御影の言いたいことはわかった。よけいに返事をしたくなくなってむっつりしていたら、さらに追い打ちをかけてきた。
「同級生ったって、たまたま同じ校区に住んでるだけじゃないの。卒業すればちりぢりになって二度とかかわることもない。三年間片眼をつぶって無視してりゃいいのよ」
尊大な物言いにかちんときて、つい声を荒げてしまった。
「そこまで言うなら最初っから私学に入ってりゃ良かったんだよ。お前、小六の時からそのために塾通いしてたんじゃないのか」
御影は、つんと無表情になった。端正な顔がますます人形じみて見えた。
プリーツスカートを翻して立ち去っていく背中を見ながら唇を噛んだ。小学生の頃はあんなこと言うやつじゃなかった。四月の入学以来、僕らは自分でも止めようもなく変化している。三年間こんなふうに暮らしていたら、卒業するころにはいったいどんな有様になりはてていることか。
放課後も青池に寄り道した。
僕がお供えした卵とミカンはカラスか何かに喰い散らかされ、クロスはくしゃくしゃのしみだらけになっていた。あたりに散らばった食べかすを拾い集めて汚れたクロスに包み、ハンカチで台をきれいに拭いてからひきあげた。
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