第三章 育雛 (7)
2006/05/12 Fri.
八紘経理専門学校のビルは、神部市の西の端、ビジネス街の真ん中に建っていた。僕が訪れたのは、ちょうど昼間部と夜間部の生徒が交代する時間だったようだ。
人混みの中に売布はみつからなかった。校門前にたむろしている茶髪の生徒たちから、それなりに情報は手に入った。売布とは直接話しをしたほうがよさそうだ。僕の話を聞く耳持っててくれると助かるんだけどな。
明智に戻って一旦家に鞄を置き、もう一度日暮れの町にでかけた。
2006/05/13 Sat.
補講のあと、僕は日が高いうちに正門を出た。指定の下校路をひとすじそれたところで、黄色い腕章を制服の袖に通した。目指すのは園田が向かっていた繁華街だ。
飲食店の並ぶ通りはまだ人影もまばらだった。夜にはきらびやかな街も白日のもとではあらが目立つ。道端にはプラ容器のゴミやタバコの吸い殻が散らばり、ひびのはいった壁には前夜の客の置きみやげがしみをつくっていた。
僕は店の勝手口が並ぶ細い裏路地へ入りこんだ。出入りしている従業員さんたちが胡散臭そうにこちらを見ていたが、近づいてくる人はいなかった。
一品料理屋の上がりかまちに座ってエビの殻をむいている女の人に声をかけた。
「ちょっとお尋ねしてもいいですか?」
女の人は僕の制服と腕章を見て、ぶっきらぼうに言った。
「兄さん、見ない顔やね」
「新入生です。今までこの辺の担当じゃなかったんだけど」
これからも担当する予定はないけど。
「何の用?」
「最近、明智署の刑事さんがこの辺に来てたでしょ。どの店に寄ってたかわかりませんか?」
「騒々しいおっさんやったね。通りの端っこのコンビニから聞き込み始めて、三軒目のスナックでマスターと大喧嘩して追い出されて。あとはどの店も相手にせえへんかったよ。この辺のもんでもないのに、でしゃばるよって」
女の人に礼を言ってコンビニに向かった。今日の店員さんは堂島さんと話をした人ではなかった。僕は隣の酒屋にもはいった。
「市外から出入りしている高校生を見かけへんかて聞いてはりましたわ」
酒屋の主人は営業スマイルを浮かべて、僕の手に缶ジュースを押しつけた。
「もちろん、何も言ぅてません」
僕はジュースを店の棚に置いてその隣のスナックに向かった。
重いドアを開けると、カウンターで食器を洗っていた大柄な男の人ににらまれた。
「ガキの来るとこやないで」
「お尋ねしたいことがあるだけです。ちょっと前に明智署の刑事さんが……」
湿った台拭きが飛んできてドアにあたった。
「とっとと、去ね」
言われたとおり、素直に退散した。この界隈の人たちは刑事さんの聞き込みには冷たかったようだ。思惑はそれぞれ異なるみたいだが。
一昨日の堂島さんは、酔っぱらっていてもさすがに固有名詞は口に出さなかった。それでも僕の想像は的中した。捜査に来ていたのはこの近辺なのだ。
明智で目をつけた少年を追っかけて、越境調査をしていたわけだ。でも、刑事さんは籠川署に煙たがられた本当の理由までは気がついていないだろう。
僕は交差点のハンバーガーショップに入って、二階の窓際の席に腰を落ち着けた。コーヒー一杯で一時間以上もねばり、窓越しに往来の観察を続けた。
アルバイトの若い女性がゴミ箱の片づけをしながらじろじろとこちらを見ていた。あきらかに迷惑そうだったが、チーフが知らんぷりをしているので声をかけられないみたいだ。
刑事さんが気づいていなかったもうひとつの事実。この界隈では明峰の制服と黄色の腕章は特別の意味を持つ。バイトさんには申し訳ないけど、しばらく我慢してもらうことにした。
おかわりのコーヒーもなくなった頃、ようやく日が暮れて少しずつ人通りが増え始めた。店内の照明が明るくなり、外のようすが見えにくくなった。逆に、僕の姿は窓ガラス越しに通りから丸見えになっただろう。
帰宅を急ぐ人たちと、店を決めかねてうろうろしている人たちが十字路を行き交う。耳の後ろの髪の毛がちりっと逆立った。
見られている。通りの隅から僕を見上げた目はしかし、確かめようと顔を向けた時には消えていた。店を出て、表通りを駅に近いほうから学校へ向けてゆっくり歩き出した。人波に逆行し、ぶつからないように前進した。目当ての顔がちらりと遠くに見えた気がしたが、近づいて確かめようとしたら、避けるように角を曲がっていった。少し距離をおいて後を追った。
かたく閉められたシャッターが並ぶ無人の一角だった。明るい通りから入りこむと、その暗さに目が慣れるのに時間がかかった。
街灯の電球が切れてできた、一段と深い闇に足を踏み入れた時。そいつは背後から忍び寄り、いきなり口を覆うと制服の腕をつかんで背中にねじりあげた。
「こないだはようやってくれたな。借りは返すつもりやったけど、そっちからのこのこ出てくるとは思わんかったで」
闇の奥に、数名の人影が息づいていた。今はまだ遠巻きにようすを見ているが、獲物が逃げようとすればただではすまないだろう。
「せっかくや。ゆっくりつきおうてもらうで。この腕、どこまでひねれるか試してみるか」
「明峰の生徒には実害を加えない契約じゃなかったのかい?」
僕の声が意外な方向から聞こえたからだろう。茨木はぎくりとして首を伸ばし、あたりをうかがった。数メートル離れた街灯の下に売布と並んで立つ僕をみつけて息を呑んだ。
「烏丸……うそやろ、こいつは……」
茨木がつかんだ腕がぐいとひき戻され、フォークダンスでも踊るようにくるりと態勢が入れ替わった。
「ほらな。危ない言うたとおりやろ」
茨木は灯のあたるところへ引きずり出され、腕をつかんでいるのがキアだと知ってあきらかに狼狽した。背後の連中がざわりと動いた.
売布が声をあげた。
「勝手に手ぇだすな。自分ら、いつからこいつの手下になった」
「黙れ、この……」
茨木の罵声は悲鳴になって終わった。キアにつかまれた腕が不自然な方向に曲がっていた。
「おい。荒っぽすぎるぞ」
「甘いで。こいつはお前をもっとひどい目にあわす気やってんぞ」
茨木の失策だ。キアの前で僕を脅したりしたら、どうなるか知っていたはずだ。
腕章をつけていけば安全なはずだと言い張った僕に、キアは最後まで反対した。自分が囮をかってでることでようやく納得してくれたのだ。
売布がまた声をあげた。
「関係ないやつは消えろ。今なら名前は忘れたる。それともこのアホと心中するか?」
かたまった人影の中からは不服そうにぶつぶついう声も聞こえたが、ひとり、二人抜けるとそれも静かになり、二分後には誰も残っていなかった。
キアが茨木の手を離して錆びついたシャッターに突き飛ばした。
「二回もヘマが続いたら、下もついてこんわな」
「うっさいわ。てめえ、いつの間に……」
「見苦しいで、茨木」
売布が苦り切った顔で言った。
「この辺の店に出入りできるのに悪のりして、荒らしをしてたいうんはほんまか」
返事をするかわりに、茨木は売布の足元に向かって唾を吐いた。
「烏丸に聞いた時は、まさかと思ったが。自分がそこまでアホとはな」
「ざけんな!俺がいつまでもお前にへこついてる思ぅたかよ」
「やっぱりね。こっちでハクをつければ、淡路や塚口と寄りを戻せるとでも思ったのかな」
「それがどないした」
「わかってへんな。淡路はとうにお前に愛想つかしとるで。あとさき考えんと跳ねよるから、アホ刑事にしっかり目ぇつけられてもたやろ。明智にはもう、お前の帰るとこはないで」
「うざいわ、だぼ」
茨木のボキャブラリーは底をついたようだ。ぎらぎらした目を僕ら三人の間で泳がせながらじりじりとシャッターを背中で擦るように移動した。背後に曲がり角の空間があいたところで、脱兎のごとく逃げだした。
僕はほっとため息をついた。人を威嚇するのは気持ちのいいことじゃない。
「あいつ、これからどうするのかな」
「どうもならんわ。どこに行ってもパクられんのがおちやろ」
売布が渋面のまま僕のほうを向いた。
「借りができたな」
「返してもらわなくていいよ」
キアは僕ほど鷹揚ではなかった。
「お前の管理責任や。いうこと聞かせられへんのに人なんか使うな」
僕はキアに貸した制服の袖を押さえて腕章をひき抜き、自分のとまとめて売布に手渡した。
「信用してくれてありがとう。御幣島に伝えてくれ。外回りの仕事を下請けに出す程度なら塩屋さんも目をつぶるかもしれないけど。脅しを仕組んで助けに入るふりをして恩に着せるのはやりすぎだろ。こんなやり方、ばれないうちにやめろって」
売布は背をまるめて僕を見おろした。
「俺の前に雇われてた連中が始めたことや。けど、なんで直接自分の先輩に話さへんかった」
「そんなことしたら、お前らが切られて、中の連中が口を拭って終わっちまう」
「そうなっても、自分の知ったことやないやろ」
話を続けたものかどうか、ちょっと迷った。
「……売布のこと、経理学校の生徒に聞いたよ。去年度はちゃんと学校に来てたって」
売布が視線をそらした。
「学校がなんや。金が払えんかったらそれまでや」
「へえ。この仕事で学費を稼ぐつもりやったんか?ここで投げてもうた金で、お前は学校に戻ったんかよ」
キアの冷たいことばに、返事はなかった。
「知っとうか。金は稼ぎかたしだいで使い道も決まってまうねんで」
売布は僕らから顔をそむけたまま歩きだし、表通りの人混みにまぎれて消えた。
キアは口をへの字に曲げて、その後ろ姿を見送った。無言のまま借り物のブレザーを脱いで僕の手に押しつけ、駅へ向かって歩き出した。僕は駅前のコンビニの駐輪場で追いついた。
「明日、休みだろ。うちで勇の誕生祝いをするんだ。夕飯は家族だけで……だから……」
無表情に見返されて、ちょっと言いよどんだ。
「……勇が来て欲しいって言ってる」
キアはまだ黙っていた。返事をあきらめかけた時分に、ようやく表情を和らげてくれた。
「来週末から定期考査や。準備できるのは日曜しかないしな。ごめん言ぅといてくれるか」
「明日の夜は」
「授業は休みやから、残業や」
自転車で店へ戻るキアと別れて駅へ向かった。土曜日の電車には、まだ仕事の途中らしいくたびれてむっつりした人たちと、遊びや買い物に出てきたらしい楽しげな人たちが混じり合って乗っていた。
2006/05/14 Sun.
早朝、家族が誰も目覚めないうちに勇の誕生祝いが届いていた。サンショウの小枝にくっついたサナギ。たぶん、クロアゲハ。
勇はプレゼントを小さな花瓶に挿して、自分の部屋の窓辺に置いた。
「ちゃんと囲っておかないと、羽化したらどこかへ飛んでっちゃうぞ」
「チョウチョになるとこは見なくてもいいもん。飛んでいくとき囲いにぶつかったらかわいそうだもん」
勇はサナギの独り言が聞こえるみたいに耳を近づけて笑った。
「こうやってねぇ、チョウチョになる夢をみてるサナギちゃんのつもりになるの。空を飛ぶってどんなんだろって、どきどきしてる気持ちを想像するんだよぉ」
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