第三章 育雛 (8)
2006/05/15 Mon.
今朝の高等部はいつもより静かで、そのわりになんとなく落ち着かない空気が流れていた。三年生が大学見学行事にでかけ、学校には来ないのだと誰かが話していた。
「うるさい先輩がおらんから、二年はせいせいしてるんちゃうか」
長田は四限目になっても教室に現れなかった。こんなことは珍しい。メモを待つばかりでなく、僕のほうからも林に行ってみようと思いついた。
放課後を待って雑木林にもぐりこんだが、長田はどこにも見あたらなかった。いや、なんとなく気配はするのに姿を見せようとしないのだ。あつかましく茂りだした下草をかきわけて、しばらくうろうろしていたら、背後からがさがさと近づいてくる足音がした。
海老江だ。けっこう歩きまわってきたらしく、息をきらしていた。
「うろちょろしやがって。追っかけるもんの身にもなれ」
「お前のせいか……」
「御幣島さんの使いや。武道館に出てこい。おもろいもん、見せたる」
「いやだと言ったら?」
「お前の用心棒を見捨てるねんな」
僕は武道館目指して走りだした。雑木林の通り道はもう心得ている。木々の隙間をぬって最短距離を駆け抜ける。後ろで海老江が大声をあげていたが、待ってやる余裕などなかった。
クヌギの茂みを抜け、アカマツの密集した窪地を抜けたところで、視界がひらけた。武道館はもう目と鼻の先だ。館内にかけこむと、道場には十五名ほどの拳法部員が集まり、中央に立つ二人を取り囲んでいた。
キアと御幣島だ。駆けよろうとした僕の前に加島が立ちはだかった。
「お早いおつきやな。海老江をおっぽり出してきたんか」
その場には三年生はもちろん、西代や小林といったなじみのメンバーもいなかった。記憶にある顔は、御幣島と一緒に外回りをしていた二年生たち。ジェイ岩屋に、マグパイ板宿だ。
当の御幣島はびしっと道衣をきめ、右手に刀を持って薄ら笑いを浮かべていた。幅広のきつい反りのある片刃の刀で、柄に朱房が結んである。洪家拳や詠春拳についてネットで調べた時、似たようなものを使っている動画があった。演舞競技用の刃を鋭くしていない刀。それでも金属製でけっこうな重量がありそうだし、もろに打ちこまれればただでは済まないだろう。
キアも似たような刀を持たされていた。こちらは練習用らしく飾り房はついていない。いつものエプロンは部屋の隅に置いた岡持ちにかぶせてあった。油じみのついたよれよれのTシャツ一枚で、キアは刀を持った手を軽く振り、感触を確かめていた。
「いったい何なんですか、これは……」
前に出ようとした僕の肩を加島がつかんで押し戻した。
「刀を使った競技は対外試合がなかなかできなくてなあ」
御幣島が今気がついたみたいなふりをして僕を見た。
「たまたまこの人が相手してくれるそうなんでな。練習試合を打たせてもらうことになった」
そんなばかな。僕はキアに近づこうとして、加島と岩屋に両肩を押さえこまれた。
「何考えてるんだ。なんで引き受けた?」
「スペシャル定食十人前ご注文いただいたんでなあ」
キアは刀のみねを指でなぞりながら淡々と応えた。
「冗談じゃない。生まれて初めて持つ道具でいきなり試合なんてできるはずが……」
「打ち合わせていいのはお互いの刀だけだ。身体の一部でも相手に触れたら反則。ペナルティは……番犬の飼い主に払ってもらうかな」
キアは御幣島の顔をじろっと見たが、さっきと変わらぬ口調で言った。
「あんたも外飼いに向いた犬なんしょ。こないだ見た感じ、腕も頭も一年の西ナンタラのほうが上手やろに。副部長でおれんのは、使い道を心得た飼い主のおかげやろね」
御幣島の額にひくりと青筋がたった。
「接客態度がなっとらんな、ラーメン屋。たたき直してやる」
言うが早いか、横薙ぎに攻撃を繰り出した。キアは刀を縦にして、かろうじて受けとめた。
ぎん、と固い音がした。礼もへったくれもありゃしない。御幣島はあきらかにキアの身体を狙っている。日本の剣道とはまるっきり動きが違う。刀の重みを利用して打ち下ろし、遠心力で振りまわす。刀が打ち合わされるたびに鋭い金属音がした。三度、四度。御幣島が立て続けに攻撃を仕掛け、キアが受ける一方であっという間に数分が経過していた。
この野郎、手下の前でキアをいたぶるつもりか。もう一度抗議してやろうと口を開きかけて、状況が変化しているのに気づいた。試合を長びかせているのは御幣島ではないのだ。本気でしとめるつもりの攻撃がことごとく防御され、御幣島の顔に焦りの色が浮かんでいた。
キアはまったく疲れを見せていない。それどころか、刀の使い方が最初よりもずっとさまになってきていた。相手の動きをみながらどんどん学習しているのだ。
周囲の連中もことの成り行きに気がついたようだ。ざわざわと不安げな声がこだますのを聞いて、御幣島がますます表情を険しくした。
これで終わりだとばかり、大上段から刀を振り下ろし、するりとかわされてたたらを踏んだ。その隙をついてキアの猛反撃が始まった。御幣島が防御に構えた刀めがけ、横八の字に刀をふるい、左右から立て続けに打ちこんだ。腰をためた位置から上向きに、最強の一撃が放たれた。朱房のついた刀が手を離れ、虚空を回転して道場の隅にがしゃんと落下した。
あおりで尻餅をついた御幣島を見おろし、キアは自分の刀を額にあてて一礼した。顔には余裕たっぷりの笑みを浮かべていた。
「北京鍋よりは扱いやすかったわ。まいどありがとさんっす」
借り物の刀を板間に置き、岡持ちを取ろうときびすを返した。無防備な背中が御幣島に向けられた。顔を赤くして歯をくいしばっていた御幣島は、やおら刀をつかんでキアに突進した。
キアはぎりぎりのタイミングで横に動いた。刀の切っ先がTシャツの裾に刺さってからまった。ひき抜こうとした御幣島の手首がキアにつかまれ、板間に叩きつけられた。
キアは態勢を崩した御幣島の身体を勢いのままひっくり返して馬乗りになった。Tシャツを引き裂いた刀が御幣島の手からもぎとられ、キアの手で御幣島の顔面に押しあてられていた。
「顧客サービスは終わりや。てめえからルール無視で仕掛けてきてんからな」
さっきまでとは声のトーンがまったく違っていた。背筋がぞくりとするような、低い声。
キアの左手で聞き腕を抑えつけられ、右手の刀で頬をなで上げられて、御幣島の顔が蒼白になった。引き裂かれたTシャツは半身ぼろになって垂れ下がっていた。むき出しになった背中に白く浮いたいくつもの傷痕を見て、他の部員たちは息を呑み、凍ったように動きを止めていた。刃のない刀がさらに強く頬に押しつけられた。御幣島がくぐもった悲鳴をあげた。
「やめろぉお!」
大声で叫んだ僕をちらりと見て、キアはようやく腕をゆるめた。刀と御幣島を投げるように放り出し、エプロンを羽織ってゆっくりと僕のところへ歩いてきた。僕の肩を放した連中が、大あわてで後ずさった。
武道館の入り口から誰かが走りこんできた。西代と郭師範だ。
「今日は練習の計画書が提出されてないわ。責任者は……」
そこまで言いかけて、郭師範は場の雰囲気が異様なのに気がついた。奥で介抱されている御幣島を、目の前にうっそりと立つキアを、エプロンと岡持ちにプリントされた店名を見た。
「あなた、劉先生のお弟子さん?」
「店のバイトっす。あんたが郭玲師範やね」
西代は咎めるように僕を見たが、何もいわなかった。キアが続けた。
「店長から伝言もうてます。『子守は子供から目を離すな。子供のいうなりになるな』やそうです」
師範は表情をかたくしてわずかにうなずいた。
僕とキアはお互い無言のまま、誰にも邪魔されずに武道館の外へ出た。誰も追いかけてはこなかったし、坂をあがって来る者もいなかった。
「たいしたパフォーマンスだったな」
「思っくそビビらしたった。これでもう、お前に手を出そうなんてやつは、おらんやろ」
「ばか!」
思ったよりずっと大きな声を出してしまった。キアはさっと振り向いた。僕が本気で怒っていると知って、拗ねたように顔をそむけた。僕もそれ以上は何も言わず、自分の足を見たまま坂を下った。気まずい沈黙が続いた。
歩道の脇の植え込みで何かが動いた。キアがちらりと目をはしらせた。
「怖がっとうで」
黙って視線を追った。
「お前の顔やて」
長田だった。ケヤキの大木に両腕をまわして、すぐにでも登っていきそうな体勢で僕のようすをうかがっていた。そこまで怯えさせるような顔をしているんだろうか。無理に笑おうとしたら口の端が痙攣しそうになった。
「きみのことは怒ってないよ。こっちへおいでよ」
長田の視線が不安げに僕らの間を行ったり来たりした。
「心配しなくていいよ。一度けんかしたら一生終わりってわけじゃないんだから」
わざとらしくキアの肩に手を置いた。キアは反射的に逃げようとして寸前でこらえた。
しゃっちょこばった僕らのところへ、長田は野猫のように用心しながら近寄ってきた。
「友達とずっと一緒にいたいと思ったら、いやがられるとわかってても譲れないこともあるんだよ。わかるか?」
大きな目でしげしげと見つめてきたが、どこまでわかってもらえたかはわからない。
「仲良きことは美しきかな、か。ご苦労なことやな」
背後で冷ややかな声がした。西代が腕組みをして立っていた。
「本心はうっとい思ぅてるやつらのお守りに明け暮れるよりはましやろ」
キアの挑発にも、さすがに西代は乗らなかった。
「塩屋さんからの伝言や。明日の放課後、時計塔の部屋に来て欲しい」
キアがすっと目を細めた。西代が払うように手を振った。
「心配するな。僕らは御幣島みたいに野蛮やない。葺合くんが心配するなら、塔の下まではついて来てもかまへん」
「わかったよ。僕も、そろそろちゃんと話をしたいと思っていたんだ」
「了解」
武道館へ引き返す西代を見送りながら、キアが吐き捨てるように言った。
「腰巾着が。もうボスにちくりよったんか」
長田が不安そうに僕の袖をつかんだ。
「レイヴン。ファルコンを……」
「大丈夫だよ。けんかしにいくんじゃない。塩屋さんとは、ちゃんと話をするつもりだよ」
長田の背後で、キアは本気かと言うように首を振った。
夕食後の食卓に、父さんは三部の書類を広げた。
会計監査の報告書だ。ひとつめは明峰学園中国拳法部。ふたつめは自警団。みっつめは高等部の管理係。僕はずらずらと並んだ項目名と金額にひととおり目を通した。
「拳法部と自警団って、表向きはまったく別組織なんだ」
明峰学園ではクラブ活動が小・中・高と縦割りに連動しているため、組織上は学校法人総務部直轄になっている。自警団は意外なことに、OB会所属の任意団体だった。
「本来の設立趣旨は学園の卒業者が資金を出し合って校内安全のために整備をすすめることだったようだね。在校生がパトロールやネット管理をするようになったのは最近のことらしい」
父さんはこの週末、学園に出入りしては、いろいろな情報を集めてきていた。
僕は三種類の報告書を少しずらして重ね、見比べて、いくつかの項目を指さした。
「OB会からの現物寄付と、クラブ用の備品購入の項目がだぶってるんじゃないの?」
「確かに、基礎トレ用の器材なんかを別々に同じ数だけ仕入れるのはおかしいね。他にも何ヶ所か、支出項目の重複がありそうだ」
父さんはわかっていて悠然とかまえている。
「二重請求なんてちゃちな手口が、なんでばれないのさ」
「所属が縦割りで違うところだから、監査役もばらばらなんだよ。こうやって並べれば気がつくけど、普段はまったく別々の流れで作られる書類だ」
「それでも、誰もつっこんで調査しなかったってことだろ。備品のシールも重ね貼りしてるわけ?PTAもOBも、グルなんだ」
「PTAとOB会で、積極的に仕事をしているメンバーは重複しているんだな」
「塩屋鷲太郎、とか?」
「塩屋さんは海外出張中だよ」
「留守番は郭師範と隼一郎さんだ」
売布たちに流れた資金はこんなところから捻出されていたんだ。
「これ、どうするつもり?」
「どうもしないよ」
父さんは書類をまとめてテーブルの上でとん、と揃えた。
「私が書類を持ち出したことは秘密でもなんでもない。そこから何を思いついたかまで、わざわざ知らせる必要はない」
ばれたことが確実だとあっちが思えば、即対策を打ってくるだろう。ばれていないのなら知らんぷりを決め込んだほうがいい。手札をあかさなければ相手は迷う、というわけだ。
「これをどう使うかは、僕が決めていいのかな?」
「そういう責任は大人にまかせなさい」
父さんの口ぶりは静かだが有無を言わせない。
「わざわざ事を構えるつもりはないけど、お前たちが危なっかしいと思えば躊躇はしないよ」
「僕だって、できればちゃんとした話し合いですませたいと思ってる」
塩屋さんには、自警団のありようについてもう少し軌道修正をお願いしたい。長田のためにも僕の話を聞いて欲しい。誰かがとばっちりをこうむるような結果にはしたくなかった。
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