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第三章 育雛 (5)

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2006/05/10 Wed.


 僕はいつもどおりメモの日時に従って、本館の鉄扉の前で長田を待った。
 朝から雲行きがあやしかった。待っている間にとうとうぽつぽつと降り出した。煉瓦壁にはりついて雨を避けながら、ゆうべのことを思い返した。
 結局、父さんには今までに学校であったことを、ひととおり白状させられてしまった。本筋に関係ない些細なこと……塩屋さんが持ち出した調査書や教材室での園田の挑発についてまでは聞き出されなかったけど。
 父さんは叱りもしないかわりに、助けてやろうとも言わなかった。
「聡はその場で思いつく最善を尽くしたんだろう」
 そうコメントされただけ。わざわざあの人を役員に選ぶなんて、明峰PTAも知らぬが仏だ。
 雨はしばらくやみそうになかった。この空模様では鳥は見に行けない。図書室か食堂に席をみつけて、生物班設立について長田にもう一度話しておこうかな、などとぼんやり考えた。
 約束の三時四十分、姿を見せたのは郭玲師範だった。いつもの道衣ではなく、身体にぴったりしたデザインのビジネススーツを着ていた。そばに寄られると、上品な化粧の匂いがした。
 僕のいぶかしげな顔色を見て、師範はかるく頭をさげた。
「翔人さんに依頼されて来ました。今日は、あの方の代理としてお話しをさせていただきます」
「師範は塩屋さんのお父さんの部下なんでしょう?長田くんとはどういう……」
「翔人さんは十年前から塩屋さまのお屋敷に同居されています。私もこの国に滞在中は間借りをさせていただいておりますので、同居人ということになりますね」
 それだけですか、と聞くより先に、郭師範は鉄扉を開けて僕を中へ案内した。
 時計塔の手前、事務室の並んだ一角に彼女のオフィスがあった。三畳ほどの小さな部屋にPCデスクと書架とキャビネットとロッカーがひとつずつ。客を招き入れる前にきれいに片づけたのだろう。書架に並んだファイルや書籍は武道や日本文化、学校教育関係のものばかりだ。それでも彼女がここでクラブ指導のボランティアだけをしているのではないように思われた。デスク上のPCにはごついケーブルが何本もつなげられて、キャビネットの裏に伸びていた。
 師範は僕に肘掛けつきのビジネスチェアを勧め、自分はデスクを挟んで反対側に折り畳みパイプ椅子を広げて腰を降ろした。
「一昨日、あなたからの質問に、翔人さんはきちんとお答えになれなかった。そのことを気にされていました。ご存じの通りの方ですから、なかなか思うようには説明できそうにないとも。それで、かわりに私に説明してきて欲しい。そのように依頼されました」
「質問もさせてもらっていいんですか?」
「翔人さん個人のことについては、私の知る限りお話しするようにと許可をいただいています。隼一郎さんやお父様のことは……」
「聞きません」
 師範がうなずいた。そして、書架の最上段の隅から一冊の本を持ち出して僕の前に置いた。
 表紙を一目見て気がついた。時計塔の最上階で長田のポケットから出てきたのと同じ本だ。こちらは新品同様の保存状態だが、装丁からして出版されたのはずいぶん前のようだった。表紙には野鳥のカラー写真。たぶん、ロビン(ヨーロッパコマドリ)。タイトルは「Birds of U.K.(英国の鳥)」と読めた。
「本社に出張した時に書店で買い求めました。翔人さんの本がずいぶんくたびれていたので、代わりにと思ったのですけれど。鷲太郎さまに叱られて、そのまま私の手元に置いています」
 促されるまま手に取りページをめくると、美しい野鳥の写真が目に飛びこんできた。背景をカットして鳥の全身像だけを配しているので、精密な図鑑画のように見える。それぞれの写真の横には鳥の英語名と、マッチ棒サイズの白黒縞の模様が印刷されていた。
 師範が本と一緒に持ってきた電気カミソリのような道具を縞模様にあてた。ちらりと赤いLEDの光が見えた。機械がしゃべった。
「レイヴン」
 バーコードリーダーだ。手渡された単純な装置を自分でも操作してみた。
「ファルコン」
 指定されたバーコードを読みとって、あらかじめ記憶している鳥の名前を話すだけの機械。本とリーダーはセットで売られていたのだろう。
「長田くんは、英国でこの本を買ってもらったんですね。鳥が好きだったから……」
 師範は首を横に振った。
「翔人さんは渡英なさったことはありません。英国の本物の野鳥をご覧になったこともありません。本は鷲太郎さまからの、三歳のお誕生祝いでした。野鳥の観察がご趣味になったのは小学校にあがられてからです」
 胸の鼓動が不安げに早まった。これは僕なんかが聞いていい話なのだろうか。
 師範は僕の動揺を見透かしたようだ。
「翔人さんがあなたに伝えたい、とおっしゃったのです。いえ、はっきり口に出されたわけではありませんが、お気持ちは確かです」
 本と装置を僕から受け取って、姿勢をただした。
「翔人さんは鷲太郎さまの妹さんのただひとりのお子さんです。なかなかに気むずかしい赤ちゃんで、歳の近いお友達ができませんでした。幼稚園も怖がって、めったにお家から出られませんでした。それでいて、お母さんに甘えることもへたで、あやされてもなかなか泣きやまない。周囲のかたもずいぶん心配された。そのようにうかがっております。玩具の好みも難しくて、唯一気に入って何度も手に取られたのがこの本だったそうです」
 師範は本の最終ページを開いて、そこに挟まれた一枚の写真を見せてくれた。瀟洒な邸宅の玄関、身なりのいい若夫婦と三歳くらいの男の子。これが長田なのか。肩におかれた母親の手がいやでたまらないみたいに身をこわばらせ、視線はカメラをそれて虚空を漂っていた。
「長田さまご夫妻のことをあまり悪く思わないでくださいね。お仕事柄、夫婦揃ってのお出かけがどうしても多くて。でも翔人さんはお守りの人にもなかなかなつかなくて。結局この本を持たせてひとりで遊ばせておくのが一番問題が少なかったようなのです。そうして翔人さんが四歳の冬に震災があって……」
 僕の心臓が跳びあがって、きゅっと縮んだ。
「お屋敷はびくともしませんでしたけど、鷲太郎さまが安否を確かめに見えた時、翔人さんはお手伝いさんと二人きりでした。ご両親は揃って渡航中だったそうです。当時の私は鷲太郎さまのお屋敷に住まわせていただく留学生の身分でしたが……」
 師範が目を伏せた。
「初めてお会いした頃の翔人さんがお話しになれたのは、野鳥の英語名だけでした」
 僕は指の爪を手のひらに食い込ませて握りしめた。落ち着け。今は感情的になっちゃいけない。
 本心ではすぐにでも部屋を飛び出して、杜のどこかにいる長田を捜しだし、頭を地面にすりつけて謝りたかった。でも、その前に郭師範から聞いておかなければならない話がある。
「翔人さんはそれからずっと塩屋のお屋敷で暮らしておられます。外出嫌いのあの方を明峰の杜に連れ出したのは隼一郎さんです。毎日少しずつ、根気強くお相手なさっていました。本の写真や機械の声ではなくて、本物の鳥を知って欲しいんだと言って」
「質問してもいい、とおっしゃっていましたね」
 震えるな、僕の声。
「三年前の中等部への侵入事件。報道が早くに途絶えたのは犯人の若い男というのが十四歳未満だったからではないのですか。そこに学園と保護者の圧力が加わったのだとしたら……」
「翔人さん個人のこと以外はお答えできません」
「あの事件は不特定多数の生徒が標的ではなかったのですか。塩屋さんの介入がタイミング良すぎると思っていたんだけど、もし狙われたのが長田だったのなら……」
 師範はいきなり立ち上がった。
「お話はおしまいです。長時間おひきとめして申し訳ありませんでした」

 追い立てられるように本館の外に出て、そのまま歩道をふらふらと上っていった。
 一度こらえた涙はもう流れ落ちなかった。頬を湿らせたのは霧のような雨粒だ。雨は少しずつ弱くなりながらもやみはせず、じんわりと制服を濡らしていた。気がつけば武道館の前まで来ていた。館内から出てきた拳法部員が二人、バッグを頭に載せて足早に僕の横を通り過ぎた。
「大荒れやな、今日の部長」
「途中ではいってきた、あいつのせいやで。とばっちりや」
 僕は武道館の中へはいった。道場の空気はびんびんに張りつめていた。十名ほどの最強メンバーが揃って、練習試合の最中のようだ。
 御幣島が正中に放った鋭い突きを、塩屋さんはさらりとかわし、そのまま流れるような動きで相手の肘を逆手にとらえてねじった。ほとんど力を入れない動きに見えたが、御幣島は踏ん張ろうとした足を払われて体制を崩した。そのまま派手な音をたてて板間に転がり、顔をしかめた。確かに練習にしては気合いがはいりすぎている。身体を起こした塩屋さんが僕がいるのとは反対側の隅をにらんだ。視線をたどって理由がわかった。
 キアだ。仕事着のエプロン姿。岡持ちを足元に置いたまま、腕を組んで練習をじっと観察している。今にも喰いつきそうな獣じみた目で見つめられていたら、塩屋さんでなくても殺気だつだろう。
 御幣島がさがり、西代が立った。一礼して、いきなり塩屋さんのふところに飛びこもうとした。がつんと防御されても引こうとはしない。攻める手足と受けとめる手足がぶつかって、二人の汗が飛び散った。最後に塩屋さんの手刀が西代の顔面すれすれで止まり、勝負がついた。そこで試合が一巡したようだ。部員たちは小休憩にはいった。
 キアが腕をほどいて岡持ちを持ち上げた。新しいガスコンロを手に入れた時と同じくらい機嫌がよさそうだった。そばへ行こうとした僕を目で制し、板間を迂回してこちら側へ歩いてきた。すれ違いざまに御幣島が小声で毒づいたが、キアは振り返りもしなかった。
「郭師範ならさっきまで本館にいたよ」
「今日はもうええわ。長居はできへん」
「話がある」
「悪いけど、明日にしてくれ。遅刻ぎりぎりや」
 建物の外へ出てみると、雨はようやくやんでいた。坂道を走りだそうとしたキアが立ち止まった。僕らの目の前に長田が突っ立っていた。僕のあとを追ってきたのだろうか。思いつめた表情を見て、とっさに声をかけられなくなった。立ちすくんだ僕をおいて、キアが一歩前へ出た。
「長田翔人か」
 初対面にしては、珍しく気さくな口ぶりだった。
「聡が世話になっとうな。こいつ変コやからつきあうの大変やろ。すまんけど堪忍したってな」
「えっ……」
 長田が大きな目をさらに大きく見開き、ひと息おいてくくっと笑った。緊張した面もちがゆるんで肌の色に赤みがさした。そのタイミングをはかったみたいに、雲間にうっすらと日が射した。
「ほな、またな」
 腕を振りながら軽やかに走っていくキアを見送る間も、長田はコゲラの巣をみつけた時のように目をきらきらさせていた。
「ハリアー(チュウヒ)」
 ほっとしたけど、ちょっと複雑な気持ちだった。
 ……仲良くなってくれるとは思っていたさ。二人が似たような根っこを持っていることにも気がついていた。でも、こんなにすんなり接近されたんじゃ、僕の立場がないじゃないか。
 それでも長田の幸せそうな顔を見ているともうどうでもよくなった。
 長田が武道館のほうを振り向いた。塩屋さんが裸足のままゆっくりと歩いてくるところだった。さきほどの稽古の余韻が目に見えるようだ。触れればびりっと感電しそうな気迫だった。
「ファルコン」
 止める間もなく長田が駆けだして、たくましい腕にとびついた。塩屋さんは少々めんくらった顔で、長田をぶらさげて持ち上げた。きゃしゃな両足が軽々と地面から離れた。たった二歳違いとは思えない体格差だ。
「友達になってやってくれとは言ったが」
 塩屋さんの声にはまだ険が残っていた。
「勝手に知り合いを増やせとは言ってないぞ」
 僕は自然と微笑んだ。
「友達は長田が自分で選びますよ。三歳四歳のままじゃないんだから」
 塩屋さんの片眉があがった。誰に聞いた、とは問われなかった。
「……長田のため、だったんですね」
 お前には関係ない、と言わんばかりだったが、塩屋さんは長田を降ろしてその両肩に手をおき、静かに言った。
「もう高一だ。まだまだ頼りないがな」
「ゆっくり成長するのは悪いことじゃないと思います」
「僕は来年、英国の大学に進学する。落ち着いたら翔人を呼び寄せるつもりだ。本物の鳥たちの杜に、住まわせてやる」
「長田が望むなら、そうしてあげてください」
 塩屋さんはこの十年間、本当の意味で長田の保護者だったのだ。
 自分のことを話題にされていても気にならないのだろうか。長田は仔犬のように塩屋さんの肩に頭をすりつけて歩いていった。去りぎわに僕を振り向いて、ちろりと舌を出して笑った。
 出会ってからの一ヶ月あまりの間にも、彼は変化した。塩屋さんは気づいているのだろうか。
『ファルコンを助けてあげて』
 あのことばの真意はまだ僕にはわからなかった。


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