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第二章 抱卵 (6)

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2006/05/02 Tue.


 席替えの日以来、長田とは二日に一度くらいのペースで行動を共にしていた。
 野鳥の観察に同行させてもらうことも、僕のムシ捜しにつきあってもらうこともあった。木の幹や根元を丹念にほじくりかえしていく僕の作業は、普段高い梢をあおいでいる長田の目には新鮮に写るらしい。ルーペを貸してやったら自分の手のひらのしわを熱心に観察していた。
 誰かさんに持たせた時には日光を集めて落ち葉を燃やそうとするんで、もめたっけな。
 雑木林の保全やゴミ拾いも一緒にした。学園の敷地の外周にめぐらされた鉄製のフェンスの他に、長田はあちこちに木製の柵を立てたり、踏み分け道の落ち葉を掃いたりして、林の中に来る人間たちの通り道をきちんと表示していた。野鳥たちのねぐらや餌場には、安易に人が近づかないような工夫がされているわけだ。
 僕は最初から案内もされていないところへ踏み込んでムシを追いかけまわしていた。道に迷うのも仕方なかったし、よく林の番人に嫌われなかったものだ。
 そこまで管理していても、人間の世界からまぎれ込むゴミの量は少なくなかった。ペットボトルに菓子の包み紙にまるめられたプリント類。ティッシュペーパーにタバコの吸い殻。チューハイの空き缶や使用済みの避妊具も拾った。
「名門校ったって、生徒のやってることは世間並みだよな」
 冗談めかして言ってみたら、長田はとまどったようにまばたきした。ゴミを捨てた人間の行動なんて気にしていなかったようだ。
 待ち合わせはいつも本館の鉄扉の前で、時刻は向こうがメモで指定してきた。今までのところ、僕は一度も時間に遅れずに落ち合うことができていた。
 二人きりの時間は本当に楽しかったけれど、木々の緑が日増しに濃くなり、雛鳥たちが育つのを見るにつけ、ずっとこのままでは済まないという気持ちもじわじわとふくらんでいた。
 長田は僕を大切に思ってくれている。だからなおさら、二人だけの関係にとじこめておくのはよくないと感じていた。

 今日もシジュウカラの子育てを二人で観察して、日没直後に本館裏で別れた。
 僕はその足で職員室に向かった。連休にはいる前に担任に見ておいて欲しい書類があった。
「自然観察同好会?」
 すでに帰り支度を始めていた理科の教師は、僕が手渡した申請書を見て眉をしかめた。
「わざわざクラブにせんでも、校内の林なら好きに歩きまわってええぞ」
「歩きまわるだけじゃなくて幅広く活動しているってことをみんなにも知って欲しいんです」
 僕は今までの活動実績の欄を指さした。
「会員は二人だけか。長田も承知なのか?」
「同好会から始めて、部として認められたらいろいろメリットがあるって、今説明してるとこです。仲間も増やしたいし」
 教師は、ふん、と鼻をならした。
「理科部にはいって生物班を作ったほうが早いやろ」
「あそこはちょっと……。物理班とか化学班ってけっこう大人数でしょ?」
「予算さえ喰わへんかったら、隅におらせてもらえるわ」
「……理科部の部長と相談してみます」
 今日のところはようす見の前哨戦だ。塩屋さんの思惑とは違うかもしれないが、僕としては長田を保護動物にしておくつもりはなかった。

 管理棟を出て、鞄を取りに校舎棟へ引き返した。運動部の練習はすでに終了しており、校内にはほとんど人気がなくなっていた。
 教室へ入ろうとして、廊下を跳ねているツチイナゴに気がついた。昼間に迷いこんだまま、窓を閉められて出られなくなっていたようだ。かなり衰弱していたので、素手でも簡単につかまえられた。非常口から出て前の草地に逃がしてやろうとしたところで……
 ピアノの独奏曲が聞こえた。
 軽音楽部や合唱部なら、音楽室か講堂のグランドピアノを使っている。ここまで音は届かない。わりと有名なクラシック曲は、隣の棟の教材準備室から聞こえてきた。あそこには古いアップライトピアノが一台置かれていたはずだ。
 技能的には相当なものだが、どこか投げやりな演奏に惹かれて草地を渡り、一番隅の小部屋をのぞいてみた。こういうことばかりしているから、キアには
「ラスはいつか好奇心で身を滅ぼす」
と言われてしまう。
 ピアノを弾いていたのは園田だった。
 「熊蜂の飛行」「ラ・カンパネラ」と、立て続けに高難度の曲をこなし、最後に両手で思いきりフォルテシモの不協和音を叩き出して終わった。鍵盤から視線をあげて不機嫌そうな表情で僕を見た。
「上手だね」
 正直な感想のつもりだったが、園田は喜ばなかった。
「幼稚園の頃から練習していれば、誰だって上手にはなりますよ」
 左手でなめらかに二オクターブ分の音階を弾いてみせた。
「感動したって言ってもらったことは一度もありません」
「僕、音楽で感動したって経験はあんまりないんだ。名演奏っていわれるCDなんか聴かされても、よくわかんないし」
「正直ですね。無教養だとか鈍感だとか思われるのがいやじゃないんですか?」
「他人の声をいちいち気にするほど暇じゃないし」
 園田は再び鍵盤に指を降ろし、スローテンポの曲を弾き始めた。ターミナルビルの名店街で流れていたメロディー。タイトルは知らないが、巷で流行しているポップスだろう。それを即興でジャズっぽくアレンジしている。やっぱりうまいな、と思ったけど、そういう褒められかたをしてもうれしくはないらしい。ピアニストの横に立っておとなしく耳を傾けた。さっきよりは落ち着いた、おだやかな演奏だった。
「学校には慣れましたか?」
 弾きながら世間話のようにきかれた。
「居心地は悪くないね。僕からあわせたというより、からめとられたって気もするけど」
「今までいた学校とは違いますか?」
「中学校とじゃ、比べようがないよ。中途で転校でもしない限り、他の学校との違いなんてわからないんじゃない?」
「ここって、小学部の定員が一番少なくて、全員もれなく上に進学できるでしょう。私みたいに小一から入学していたら、外の世界のことが何にもわからなくなるんです」
 演奏が変化した。サン・サーンスの「ピアニスト」。音楽家の自虐めいた曲想だ。
「明峰がいやなら、他の高校を受験すればよかったのに」
「なんで?こんなに住みやすい場所は、他にはないと思いますよ。外に出ようとしない限り、好きなことができるし」
 短い曲を弾き終わり、ふーっと息を吐いた。
「私、帰宅拒否症なんですよ。家では好きなことなんて何もさせてもらえないから。家庭教師だ、レッスンだ、お稽古だって。学校の敷地の中にさえいれば、親は監視に来れませんからね」
 園田は眼鏡をはずして椅子を四分の一回転させ、のけぞるように上を向いた。ポニーテールが僕の胸にあたってそのままずり落ちそうになった。とっさに手を伸ばして支えてやろうとしたら、園田が椅子を前に押して立ち、後ろ向きに倒れるように寄りかかってきた。
 かすかに汗ばんだ柔らかな身体がすっぽりと僕の両腕の中におさまってしまった。園田は腰をねじって僕の顔を見上げた。強度近視の人にありがちな、焦点のあまい潤んだ瞳をしていた。
「好きなこと、しちゃうんだ」
 耳元でささやきながら、ぽってりした唇を僕の頬によせてきた。僕は頭の中で円周率を小数点以下50桁まで思い出そうと必死で集中した。
 3.1415926535897932384626433832795まで数えたところでようやく顔をそらすことができた。
「こんなのが、本当にしたいことなのか?」
「なんのこと?」
 園田は、彼女のみぞおちにはりついていた僕の両手をつかんで、片方は胸へ、もう片方は腹から下へ誘導しようとした。僕は自然対数の底を思い出せるところまで思い出そうと死に物狂いで脳みそを絞った。
 2.718281828459045235360287471352662497757247093699959574966967まで数えたところで、なんとか手をふりほどいて身体をひきはがした。
 後ずさったところにたまたま大きな木箱が置かれていたおかげで、床にへたりこまずに、へろへろに力の抜けた身体を支えることができた。
 園田はすばやく眼鏡をかけ直し、居住まいを整えて、何もなかったような顔をした。
 唐突に、耳障りな嗤い声が響いた。部屋の入り口にもたれた御影が身をふたつに折ってしゃくりあげるように嗤い続けていた。
 園田がきっと御影をにらんだ。蛇に向かって斧を振りあげる雌カマキリに見えた。
「そいつに色目を使っても無駄よ。かーわいい男の子のほうがお好みなんだから」
「おい!」
 いくらなんでも言い過ぎだぞと抗議しようとした時、園田が振り向いた。僕に向けた視線は氷点下の冷たさだ。御影は、さも愉快そうに僕らを見比べていた。
「今まで男ばっかり頼ってきたんでしょ。それじゃあ、うまくいかないわよね」
 園田は唇を噛んで部屋を飛び出した。その背中に御影が追い打ちをかけた。
「私に助けて欲しいなら、いつでもいらっしゃい」
「いいかげんにしろよ」
「あんたには関係ないでしょ」
「ひとの気持ちを逆なでするなって」
「よく言えるわね。そんなことより自分の心配でもしときなさい」
「何の話だよ」
「長田くんをひきずりまわしていたら、今に御大のご機嫌を損ねるわよ」
「塩屋さんとは直接会って話したよ」
「あの人のこと、あんたがどれだけ知ってるって言うの」
 お前こそどれだけ知っているんだと言い返したかったが、御影の情報網はばかにならない。
「『塩屋隼一郎はハヤブサの眼と爪を持つ』ってね。この学園の中で起きることはすべて、高みからお見通し。黙って鳥かごの中にいれば安穏だけど、ひとたび逆らえば……」
 御影はひゅう、と口笛を吹き、片手で急降下する猛禽の動きをジェスチャーしてみせた。
「反抗しそうな連中は、ひとりずつマークされてるわよ。私、園田、そして、あんた。せいぜい爪にかからないように、用心することね」
 くるりと向きをかえて部屋を出ていきながら、最後に言い残した。
「助けて欲しいなら、いつでもいらっしゃい」

 僕は校舎棟に鞄を取りに戻り、とっぷりと日の暮れた桜並木をひとり歩いて下校した。サクラの枝の黒い影が、強くなってきた風にあおられて、ざわざわと不安げに揺れた。
 正門にさしかかったところで、二十メートルほど先をふらふらと歩く人影が目にはいった。園田に追いついてしまったようだ。みつからないように距離をあけて歩きながら、どこかで横道にそれようと思った。
 先に通学路をはずれたのは園田のほうだった。街灯の連なる表通りから、暗い裏路地に入りこむ。このまま細道を抜ければ夜の歓楽街だ。夜更けならば酔っぱらいも通るのだろうが、日が暮れて間もないこの時間帯はかえって閑散としている。
 みつかったら罵倒されるだろうと予想はついたけど、放っておくことはできなかった。なるべくばれないように、さらに距離をあけて後をつけることになった。
 園田の態度は正門を出た時と比べると、開き直ったように落ち着いてきた。行き先の目当てはあるのだろうか。少なくとも、道に迷ったりためらったりしているようには見えなかった。場慣れした足取りが、ゲーセンや飲み屋の立ち並ぶ通りの直前、一番暗く沈んだ曲がり角ではたと止まった。
 数名の男たちが物影から姿を現して、彼女を包囲するように行く手を阻んだのだ。
 僕は園田に向かって駆けだした。走りながらブレザーの前ボタンを全部はずし、ネクタイのノットを押し下げて首元をはだけた。向かい風にあおられて髪が乱れた。
 今しも男たちのひとりが園田を高い塀に押しつけるようにして覆い被さったところで、僕は大声をあげた。
「おい、どこに行っとったんや!散々待たせよって!」
 そうしてわざと、男たちなど眼中にないという態度でずかずかと割りこみ、園田の前腕をつかんで輪の中からひっぱり出そうとした。
「さっさとついて来んかい!」
 園田は僕の関西弁に驚いたようで、目を白黒させて固まった。頼むから、何もきかずについてきてくれ。
「ちょっと待ちいな。兄ちゃん」
 一番近くにいた男が僕の前にまわりこもうとした。野球帽を目深にかぶっているので表情は見えないが、年齢は僕とたいして違わないようだ。
「なんや。俺の女になんか用か」
 できる限り肩を張って、声が裏がえらないように努力した。
 足は肩幅に開く。両手は脇に。目を細めて相手を見下すように凝視した。郭玲師範のことばを思い出し、記憶の中のイメージを身体で表現しようとした。これで場慣れした相手だと見てくれるだろうか。
 後ろに控えた連中には、はったりが効いたようだ。こんな面倒そうな相手はやめて、もっと手頃なカモを捜そう、というそぶりが見えた。しかし、野球帽の男はしつこかった。
「兄ちゃんは知らんやろがな、このお姉ちゃんにちいっとばかし、頼みたいことがあんねん。すぐに済むよって、待っとってんか」
「なんやと。俺の顔つぶす気ぃかよ」
 口に出したくもないことばを言い放ちながら、じりじりと身体を移動した。園田を背中でかばうように見せながら、塀から引き離した。
 僕らの真後ろには明るい通りへつながる道がひらけたはずだ。ボロを出さないうちに走って逃げてくれ、と心の中で園田に頼んだ。
 テレパシーは通じなかったようだ。園田は僕の背中にぴったりはりついて動こうとしない。
 業をにやした野球帽が一歩前に踏み出した。荒事は避けられないか、と覚悟しかけた時、登校路の方角からばたばたと数名の人影が走ってきた。
「こらぁ!そこで何しとる!」
 明峰の制服と腕章を目にとめて、僕は思いきり安堵した。
 ところが、園田は逆にひくり、と喉を鳴らし、きびすをかえすと今頃になって逃げだした。後を追おうとした野球帽に、僕は体当たりをかました。
 力の加減なんてわからない。もろともにひっくり返って地面に叩きつけられた。あおりで野球帽が転がった。泡を喰って身を起こそうとしたやつの顔を間近に見て、僕は思わず声をあげた。
「茨木!」
 茨木もその時初めて僕だと気づいたようだ。
「烏丸?なんで……」
 びくっと身を震わせて飛び起きると、うろたえたようにあたりを見まわした。僕の相棒がそばにいると思ったらしい。
 明峰自警団が目前に迫っていた。先頭はあの、拳法部のスズメバチ副部長だ。思考がフリーズしたらしい茨木の周りで、配下の男たちも混乱していた。
 その時、鋭い口笛が響いた。振り向くと、闇に沈んだ細道の向こう、防犯灯を背にして立つナナフシのような人影が見えた。茨木は、はじかれたように人影に向かって走りだした。男たちが一斉に後を追った。
 僕は立ち上がって園田の走っていった方向へ向かおうとしたが、駆けつけた御幣島に肩を押さえられた。
「待て。どこへ行く」
「女の子を保護してあげないと」
「気にするな。あいつらはもう、手を出して来ない」
「わかるもんですか。たちの悪い札付きですよ」
「こんなところで乳繰りあっていたお前らが悪いんだろうが」
 御幣島は泥に汚れてよれよれになった僕のネクタイをつかんで強引にひきよせた。
「下校時刻を大幅に遅れ、登下校路をはずれて寄り道し、ゲームセンターにでも入ろうとしていたな。これだけでも停学ものだ」
 同じ時間帯、同じ場所にあんたたちもいたんだろう、ということばは飲み込んだ。
「先生には謝ります。処罰も受けます。逃げはしないから、先に警察に行かせてください」
「なんのために?」
「茨木のことを話しておかないと。あいつがここまで行動範囲を広げているとしたらろくなことに……」
「わかってないな。これ以上、明峰の名に泥を塗る気か」
 御幣島がばかにしたようなうす笑いを浮かべた。
「警察や教師に知らせることはない。我々が未然に被害を防いだのだからな」
「事件をもみ消して欲しいなんて思っていません」
「逃げた女生徒も同じ意見かな?」
 僕は奥歯を噛みしめた。さっきの園田はチンピラよりも自警団を恐れているように見えた。
 御幣島はおとなしくなった僕のネクタイから手を放し、ボタンのちぎれたシャツの襟元を蔑むように眺めた。
「薄汚いカラスだな。塩屋さんや西代にはうまいこと取り入ったようだが、俺はそう簡単にはだまされんぞ」
 僕は放り出した時に角のへこんだ鞄を拾いあげ、自警団のメンバーに向かって頭をさげた。
「……助けていただいて、ありがとうございました」
 それ以上よけいなことを言わないように、早足で駅へ向かった。
「……バザード(ノスリ)……」
 長田の不安げな表情と声が脳裏によみがえった。


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