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第二章 抱卵 (7)

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2006/05/03 Wed.


 連休初日、烏丸家は父さんの運転で朝から出かけようとしていた。
 ワゴンRに着替えや土産を積み込んで、いざ出発という段になって電話が鳴った。受話器をとった母さんが当惑顔で父さんを振り向いた。
「今からドア塗装の仕上げをしたいんですって。連休中に雨が降りそうやから、先延べにしないほうがええ言うんやけど」
 父さんはのんびりと返事した。
「兄貴に電話して、夕飯はいらないって伝えてくれるかな」
 僕の気持ちの段取りは狂ってしまった。昨夜は両親とも準備でばたばたしていたし、制服はクリーニング屋の閉店時間にぎりぎり間にあったので深く追求はされなかった。それでも突然空き時間ができたとなると事情が変わってくる。母さんが何を聞いてくるかわかったものじゃない。
 園田と御幣島のことは旅行中に少し距離をおいてじっくり考えようと思っていたのに。もう我慢ができない。僕は妹の自転車にまたがって寿荘を目指した。

 キアは長池さんの部屋で造花作りの内職を手伝っていた。僕の顔を見て、かなりほっとしたようだった。二人で二〇五号室に戻ってから、やれやれと伸びをした。
「仕事もらえんのはええねんけど、辛気くそうてな」
 僕は旅行用の単衣のブルゾンを着たまま、段ボールのテーブルに肘をついて座った。昨夜の出来事をできる限り事実だけ説明した。話しているうちに抑えこんでいた気持ちがざわついて、心拍数が増加した。顔が赤くなってるんじゃないかと気になったが、キアはそんな僕を笑いもからかいもしなかった。そして、ひととおり説明が終わってからもしばらく黙っていた。
「……いきなり難儀なタマにひっかかったな」
「意見が欲しいのは、そっちの話じゃないよ」
 僕は襟元のファスナーの金具をいじくりながら話を続けた。
「拳法部と自警団のこと、最初は塩屋さんのファンクラブくらいに思ってた。高塚や加島たちのことがあって、学校生活がおもしろくない連中に居場所を提供してるんだととらえるようになった。そのあと、塩屋さんと話したり、席替えのことなんかがあって、生徒の大半が自警団に管理されてるんじゃないかと疑いだした」
 キアは無言で僕の手を見ていた。
「昨日のことがあって、連中は生徒の逸脱を抑えるために、外部の力も使ってるんじゃないかと思えてきた」
 口笛を吹いた人影は売布だ。あの体型はまちがえようがない。
「売布は御幣島が来るとわかってた気がするんだ。あいつらがグルだってのはありえるかな?」
「わざわざ面が割れとう元同級生にからんでくるか?」
「僕が割りこんだのは想定外だよ。すごくあわてていたし。ターゲットは園田だった」
「目的は?」
「共通の外敵がいれば、内部の結束は高まる。自警の大義名分も立つ」
「そのわりに外向けの宣伝はしてへんようやな」
「大人ににらまれちゃ、活動しにくくなるだろ」
「内輪をまとめるいうんが一応の目的として、売布や茨木には何の得もない」
「明峰生以外のカツアゲは見逃してもらってるとか」
「たいして意味ないな。お前んとこの生徒やったら、実弾を使うほうが早いて思うんちゃうか」
「金か……かえってゆすりのネタにされそうだけど」
「茨木のアホならそう動くかもな。売布の頭はもうちっとだけましやろ。ポリにわずらわされんと稼げるんなら口を閉じるくらいには」
 遠基堂の店頭でニアミスした時のことを思い返した。あの女性店員が売布の身内だとしたら、今頃は失業中かもしれない。
「つながっているのはお互いのヘッドだけか……仮説の裏付けが欲しい」
「四月の最初にいじめ騒ぎおこしよったボケ二人組。あいつらの入部のいきさつ、もっぺん洗うといたほうがええな」
「金の出所も気になる」
「ボンボンの小遣い銭だけやないやろ」
「事情を聞けるとしたら、高塚くらいか。御影は……どこまで知ってるんだろう。長田は……どうやったら話してくれるのか、見当もつかないや」
「あとは、園田とかいう色気虫やな」
「う……」
 それだけは考えたくなかった。げんなりした僕の顔色を見て、キアが意味ありげに微笑んだ。
「情報が欲しいなら、相手の流儀にあわさんとな。今から練習しとくか?」
「なっ……」
 否も応もなかった。キアは段ボールのテーブルを横向きに蹴り飛ばし、体制を崩した僕の身体を仰向けに転がしてのしかかった。
「う……わっ……」
「進歩せんな。昨日も不意打ちで後手ひいたんやろ」
 ブルゾンの前ファスナーを引き下げて、左手が侵入してきた。
「やっ……やめろおぉ!」
 必死に身をよじって逃げだし、仰向けよつんばいのまま壁際までじたばたと後退した。
 キアはあっさりと身を引いた。その左手に白い封筒をひらひらさせているのを見て、はっと気がついた。旅先でこっそり投函しようと思っていた手紙。あわててブルゾンの内ポケットをさぐったが、そこは当然からっぽだった。
「そっちが目的か!」
「この陽気に部屋ん中でいつまでも上を脱がんからや」
 手紙の宛名書きを読んだキアの目が険しくなった。
「さすが……いっぺんちらっと見せただけやのに、よう番地まで覚えよったな」
 そうして自分の母親の名前と現住所の間で封筒を中身ごとびりびりと破り捨てた。
 僕の頭にかっと血がのぼった。立ち上がって真正面からキアに詰め寄った。
「何するんだよ!」
「いらん心配かけるな言うたはずや!おせっかい!」
「やせがまんもいいかげんにしろよ!こんな時くらい助けてもらったっていいじゃないか!」
「あっちかて楽な暮らしやないんや!チビコ三人もおんねんから!」
「お前だって……親とられて、悔しくないのかよ!」
 僕はものすごい力で部屋の外へ突き飛ばされた。外廊下の手すりに背中がつきあたった。もう少し重心が高ければ、そのまま下へ転がり落ちていただろう。体勢を立て直そうとしたところへ、たたきに残していた僕のスニーカーが飛んできて胸にあたった。
 二〇五号室の玄関ドアがひどい音をたてて閉まった。ノブにとびついて開けようとしたが、もう鍵をかけられてしまっていた。どうしようもなく熱いものがこみあげてきて、僕は鉄製のドアを靴下ばきのかかとで蹴飛ばした。一度、二度蹴るともう止まらなくなった。
 ベコンベコンと薄い鉄板を叩く音が近所中に響きわたった。二十回近くは蹴飛ばしただろうか。とうとうがちゃりとドアが開いてキアが頭をつきだした。
「ええかげんにせえよ!俺がこの家におれんようにする気か!」
 負けないくらい大きな声でののしりかえそうとした時、僕らの間をするりと抜けて、誰かが部屋にあがりこんだ。
「ども」
 僕はぽかんと口を開けたまま六畳間に目を向けた。自分の見たものが一瞬、信じられなかった。虚をつかれたのはキアも同じだったようだ。
 そこには白い大きなエプロンをつけた、ころっころに太った中年過ぎの男性がいた。あの体型でいったいどうやって狭いドアの隙間を通り抜けられたんだろう。頭には一本も髪の毛がなく、栄養状態のとても良さそうな額がてらてら光っていた。
 男性は部屋の隅に転がっていた段ボールのテーブルを中央に戻し、アルミ製の四角い岡持ちから大盛りのラーメンをみっつ、取り出して並べた。鉢から白い湯気がたちのぼり、香ばしい匂いが鼻を刺激した。場をわきまえずに腹の虫が鳴いた。いつの間にか正午をまわっていたようだ。
「……出前は頼んでへんで」
 キアが気の抜けた声で言ったが、男性はにこにこと返事した。
「烏丸さんと葺合さんやね。はじめまして。劉潔ともうします。籠川の駅前で『桂花園』いう店やってます」
 劉さんはさげた頭をつるりとなでて、当然の権利のようにぺたりと座りこんだ。
「これは売りモンやのうて、手みやげのかわり、お近づきのしるしですわ。どうぞ、ご一緒に」
 そうして誰の許しも得ずに持参の塗り箸を取ってつるつるとラーメンを食べ始めた。僕らはどう反応していいかわからず、ドアをはさんで立ちつくしていた。劉さんが鉢から顔をあげて手招きした。
「はよ食べんと、麺が伸びてまいますよ」
 キアが当惑した顔で僕を見た。僕はぽりぽりと頭をかいて、間の抜けた声で言った。
「食べ物を粗末にしちゃいけないよな……」
 そうして劉さんの斜め横に正座して、受け取った箸を両手で挟んで頭をさげた。
「いただきます」
 ふた呼吸おいて、キアも劉さんの向かいにどすんとあぐらをかき、むっつりしたまま箸をラーメン鉢につっこんだ。
 おいしい。腹が減っていたからだけじゃない。スープは広東風の白湯仕立てで、なめらかでこしのある麺によくあっていた。トッピングはじっくり煮しめた骨付きの豚バラ肉。モヤシにネギ、タアサイ、ニンジンと、野菜もたっぷり載っていた。
 はじめの遠慮はどこへやら、僕は夢中になって麺を口に運んでいた。ちらりと見上げると、キアもラーメン鉢を持ち上げて旺盛な食欲を発揮していた。しばらくは三人とも無言で食事に専念した。
 最初に食べ終わった劉さんが、ふう、と息をついて額の汗をぬぐった。
「人間、腹が減るといらいらしますやろ。これでようよう人心地つけて、話ができますわな」
 僕は口の中のバラ肉を飲み込んだ。
「僕ら二人に用があってみえたんですか?どなたのご紹介で?」
「堂島順慶さんですわ」
 麺をすくうキアの手が止まった。
「刑事さんとは学生時代からの剣道つながりでね。今でも時々、アタシの道場に出稽古に来てもうてます。こないだ頼まれて、アタシの大事な木刀を貸してやったんです。それがいつまで待っても帰ってこんから、どないしよんて聞きに行ったら、折られてもた言うんですわ」
 急に食欲が減退して、僕は箸を置いた。
「そんなあほなことがあるか、あれは並みの刀やない、枇杷材製の相当丈夫な代物や。それを素足で折ったやつがおるいわれて、いったいどこのどいつや顔見て来たるわいうて教えてもうて」
「あの……お高いものだったんですか?」
 恐る恐るうかがいをたててみた。
「枇杷は最近手にはいりにくいんですわ。買うたときは二万円ほどやったけど、今同じもん手に入れよ思うたら十万かかるわな」
「……弁償せえいうわけですか」
 キアも鉢を置いて、残り少ない麺の浮いたスープを見つめながら言った。
「いや、その前にね。ほんまにあなたがそれをしたんか……やれたんか確かめとうなったんですわ。どないです、もう一本折ってみせてくれませんか?こいつは普及品の赤樫やけど……」
 劉さんは岡持ちの裏にくくりつけられていた竹刀袋から木刀をひき抜いた。
「ええとこ見せてくれはったら、お金の話はなかったことにしましょ。ただし、アタシが持っていごきますよって、ちょっと難しいかもしれませんよ」
 せっかく食べたごちそうが、胃から戻ってきそうに感じた。
「無茶ですよ。劉さん、有段者でしょ?滋に丸腰で相手しろっていうんですか!」
「得物を持つんは、臆病モンや」
 キアは劉さんの木刀をにらんでぶすっと言った。
「お相手してもらえるんですな。ほなら、先に食べてしもてくださいよ。お残しはもったいないです」
 キアは鉢を持ち上げてやけくそのように残りのラーメンをかきこんだ。スープを残らず飲み干し、手首で口元をぬぐって立ち上がった。
「表へ出よか」

 僕と劉さんは寿荘の裏にある駐車場へ連れ出された。駐車場といっても舗装はされていない。むき出しの土の上にひかれた白線が消えかけて、隅には雑草がぼうぼうと茂っている。日中はほとんどの自動車が出払っているので、スペースは十分にあいていた。
 劉さんは五月晴れの空をあおいで、昼下がりの太陽が真横から射すように足場を決めた。準備運動もストレッチも抜きで、木刀をすらりと下段に構えてにっこりと笑った。身長はキアより十センチメートルは低そうで、刀の位置も地面すれすれだ。真上から飛び乗れば僕の体重だけでも折れそうに見えたが、ことはそう単純ではないのだろう。
 キアは劉さんから十歩ほど離れて立った。相手の手元を見つめ、出方をうかがった。
 初夏の太陽にじりじりと照らされて、じっとしていても背中に汗がにじんできた。雑草の茂みが、がさりと揺れて、野良犬が顔を出した。
 劉さんがちらりと目を動かした瞬間、キアがダッシュした。相手の左に走りこむと見せて真逆に跳ね、鋭い蹴りを放った。僕の目には蹴りにはじかれた木刀が宙を舞ったように見えたが、劉さんは先に刀をひいていたらしい。すばやく小さな弧を描いて、キアの肩口に刀が振り下ろされた。キアが転がってかわしたすぐあと、地面にぶつかった木刀がみしりと音をたてて折れた。
 この前のようにあざやかな切り口ではない。劉さんが柄を持ち上げると、皮一枚折れ残った部分で先端がだらりと垂れ下がった。ささくれだった断端から小さな木片がこぼれ落ちた。
「まあまあ、いうとこですな」
 劉さんは木刀を薪のようにふたつ折にして微笑んだ。
 雑草の上で立ち上がったキアは、頬を赤くしてずかずかと戻ってきた。
「おっさん、手ぇ抜いたやろ!」
「今の蹴りはかわしきれませんでしたわ」
「その後や。本気で打ち下ろしとったら、俺に当たっとったはずや」
「刀をいごかすとは言いましたけど、あなたをぶちのめすとは言ぅてません」
 劉さんが初めて真剣な顔になった。
「防具もつけてへん相手に本気で打ちこめるわけないですやろ。心配せいでも、弁償の話はもうええことにしますから」
「そんなんですむか!今のは俺の勝ちやないわ!やりなおしや!もっぺん勝負しろ!」
「余興は終わりです。ほんまの勝負やったら、もっとちゃんとしてもらわんと」
 また、人の良さそうな笑顔が戻った。
「剣道の試合なら、いつでも道場でお受けしますわ」
 キアは口を大きく開けて、何も言わずに閉じて、ぎりっと歯がみした。
 胸が苦しくなって、僕は呼吸を止めていたのに気がついた。深々と息をついた時、駐車場の隅に最徐行でワゴンRが入りこんできた。後部座席のドアを開けて、勇がちょん、と飛び降りた。
「お兄ちゃん。出発の時間だよぉ」
 そう言いながら僕ではなくキアのほうへ走りよって、ここぞとばかりに手をつかんでひっぱった。
「滋くぅん、また遊びに来てよぉ」
 キアの肩から力が抜けた。劉さんが僕を振り向いた。
「あとは葺合さんとアタシとで相談しときますよって。どうぞ行ってくださいよ」
 僕は少しだけ躊躇した。
 劉さんの意図はおぼろげに見えてきた。僕がその場にいてはかえって話をまとめにくい、ということなんだろう。黙って勇の腕をひっぱり、キアに目だけで挨拶してワゴンRに向かった。
 助手席の母さんは興味津々という顔で僕らを見ていたが、運転席の父さんはいつもどおり、のんびりとハンドルを握っていた。いったいこの人は、どこまで事情を把握しているんだろう。
 走りだした車の中で、どうかキアがいつまでも意地をはっていませんようにと祈った。


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