第二章 抱卵 (5)
2006/04/21 Fri.
クラスの雰囲気が微妙に変化した。誰も話しかけてこないことに変わりはない。ただ、なんとなく周囲の態度が違っている気がするのだ。居心地が悪くなったわけではないのだが。
一限目は教師の都合で自習だった。次の時間の予習でもしようと、もそもそ教科書を取り出していたら、女子クラス委員の夙川に声をかけられた。
「席替えの意向調査です。希望はありますか?」
「……え?」
「前列後列、窓側廊下側。近くになりたい人と、そうじゃない人とか、です」
みどりの窓口かい。
「別に。どこでも」
「長田さんの隣でもいいですか?」
「え……まあ……」
はっきりした返事をするより先に、夙川は前の席の生徒のところへ行ってしまった。あの子、西代が加島たちに注意した時に立ち上がった拳法部員だ。クラス委員がいつの間に決まったのかも、僕は意識していなかったな。
ひととおりリクエストを聞いてまわった夙川は、黒板の前で相方の住吉としばらく話し合っていたが、やがてチョークを持ってきこきこと図面を書きはじめた。図示された新しい席順を見て、生徒たちが一斉に動き出した。
これが明峰の流儀なんだろうか。めんくらっているのは僕くらいで、内進組はおろか、外部組の連中も何の異議も挟まずに荷物をまとめている。
僕の新しい席は最後列の廊下側から二番目だった。
長田が教室に現れて隣に座った時、違和感がさらに強くなった。他の生徒たちは、僕らの存在は許容しているのに、敢えてかかわりを持たないように注意を払っているようだった
まるで目に見えない柵に囲われて「絶滅危惧種保護区」の看板でも立てられたみたいだ。
長田は僕の気持ちを知ってか知らずか、顔色をうかがうように見つめてきた。ちょっと笑いかえしてやったら、安心したように下を向いた。まるめた背中がとても小さく見えた。
塩屋さんとの会談のせいで、かえって距離があいてしまったような気がする。
理科の教師は生徒の席がかわったことを気にもせず、教卓に置かれた真新しい座席表に目もくれず、生徒の理解度も確かめずに授業を進めた。
生徒の名前を覚える気があるのか。僕らをカボチャか何かとしか見てないんじゃないか。そんなことを気にしているのはクラスで僕ひとりか。
……もうひとりいた。最前列正面の席をあてがわれた御影が後ろを振り返った。端正な顔にありありと不満を浮かべて、僕をにらんだ。
今日は何のサインも手紙も残さず、長田は二限目の終了前に姿を消した。
三限目が始まる前に、僕は真ん中あたりの高塚の机の横にしゃがみこんだ。
「ちょっと聞いてもいいかな」
小声でささやくと、高塚はちょっとうれしそうに目をぱちぱちさせた。態度が変わらないのはこいつくらいだな、と思ったが、そのままことばを続けた。
「このクラスに拳法部員は何人いるんだい?」
「西代くんと、小林くんと、仁川くんと、夙川さんと、僕だけやけど」
ワンテンポおいてつけ加えた。
「自警団に入ってる人なら、クラスの半分くらいはおるよ」
高塚にしては察しがいい。
「御影さんと同じようなこと、聞くんやね」
そういうことか。
「他には、どんなこと聞かれた?」
「自警団の構成メンバーの話。中核は実動隊で、拳法部とほとんど重なってるけど、その他にも広報とか、物資とか、いろんなパートがあるから」
「パトロールしているのは実動隊か」
「外回りはほとんど男子拳法部員。隊長は御幣島さん。内回りは女子や他の運動部の人も参加してる。西代くんや僕はこっちの組」
「思ったより大所帯だな」
僕の興味に応えられたのがうれしかったようだ。今度は高塚からきいてきた。
「烏丸くんは、なんで自警団にはいらへんの?」
「別に。はいらなきゃならない理由なんてないし」
「でも、加わっといたほうがここではおりやすいよ。いろいろ決める時なんか、たいてい自警団の人らが仕切ってるし」
「例えば席替えってわけか」
西代が高塚の隣に座った。僕は黙って自席に戻った。
2006/04/29 Sat.
みどりの日はぬけるような晴天になった。寿荘の六畳間は急に強くなってきた日差しにさらされて、夏並みに気温があがりだした。キアは流しに洗面器を置いて下着を洗っていた。
「コインランドリーは使ってないのか?」
「週にいっぺんや。洗濯機いっぱいまでためてからでないともったいないからな」
すすぎ水を流して、洗濯物を雑巾みたいに固く絞った。
「パンツはためられへんけど」
部屋の真ん中にはテーブル代わりの段ボール箱が置かれ、大豆入りの餅とよもぎ餅が入った袋が載っていた。僕は切り分けられた餅を一切れずつラップに包む作業にいそしんでいた。一週間前にここへ来た時にはまだほんのり暖かくて、そのままでも食べられたのだけど。そろそろ冷凍しとかないとカビが心配だ。
「結局、先週の土曜日まで出勤していたんだね」
「事務所はドガチャガやったからな。退職手続きなんて後回しにされたわ。店先に目つきの悪いのがおったら客がいやがる言ぅて、いきなり事務所に移らされるし。ま、おかげでいろいろおもろいもんが見れたで」
にやりと笑うと、薄い唇の間からとがった犬歯がのぞいた。
「複式簿記と二重帳簿の違いなんて初めて知ったわ」
「そのふたつを同列に論じないでくれ」
遠基堂の全店舗は営業を停止しており、再開のめどはたっていない。逆瀬川の菓子はいつの間にか賞味期限表示が「製造後三十六時間」に変更されていた。そんなことより、僕はキアとまた冗談が言いあえるようになって胸をなでおろしていた。
先週の土曜日にようすを見に来た時には、話なんてできる雰囲気じゃなかった。部屋の隅に片膝たてて座りこみ、手負いの獣のように目を光らせ、黙りこくっているキアの前で、僕は努めて冷静に、この段ボール箱のテーブルをしつらえ、豆餅をせっせと切り分けていたのだ。
退職前後の話を聞けたのも、今日が初めてだった。
キアは洗面器と折り畳みの物干し台を抱えて外廊下へ出ていった。ドアが閉まるとすぐに、僕は三段ボックスに手を伸ばし、クリップでとめたATMの明細書の束を探り当てた。「葺合徹」名義の普通預金口座の残高がこまめにチェックされていた。一週間おきくらいに四千円、五千円と入金があって、月末に寿荘の家賃が引き落とされて残高が元に戻るパターンだ。
今のところ、父親が息子にしてくれていることといえばこれだけか。もちろん、住所地があって親と同居していることになっているのが大切なのだが、それ以上の援助はとても望めそうにない。
このほかにも、あいつが施設にいた二年間、こつこつ貯めた本人名義の預金があるはずだ。さすがに通帳まで捜すわけにはいかないが、高校入学や就職準備に相当使ってしまっていることは確かだろう。明細書をもとどおりにしまいこんだところで、キアが戻ってきた。
「連休の予定なんだけどさ」
思いきってきりだしてみた。キアは黙ってラップした餅を冷凍室に詰め込んでいた。
「三日から七日まで、うちの家族は伯父さんちに泊まりに行くんだ。僕だけは五日に帰ってくるんだけど。六日は学校があるからさ」
「土曜日一日くらい、ぶっちしてもええやろに」
「口実だよ。たまにはひとりで羽を伸ばしたいし。それに……」
「女でも連れ込むんか」
「そうじゃなくって!」
「べっぴんさん、男やったしな。他にええ子はおらんのか」
はぐらかされたのはわかっていたけど、ついついクラスの女子たちの顔を思い浮かべてしまった。御影は論外。夙川はさらに気が強そうだし、園田は……先週はもうバスケ部の男子とは一緒じゃなかった。
「理系特進には女子が少ないんだよ」
「鳥かごみたいに狭いとこで選びよってもしゃあないな」
「世間が広けりゃいいってもんでもないだろ」
キアもそれ以上はつっこんでこなかった。
「買い物に行くけど、ここにおるか?」
「……今日はもう帰るよ。忙しい時に、邪魔したな」
二人揃って部屋を出て、外廊下の階段を降りようとしたところで、ごつい人影が通り道に立っているのに気がついた。ジャージの上下を着た堂島さんは、つり道具みたいに細長い布包みを担いで、僕らを見上げていた。
キアは小さく舌打ちし、堂島さんを無視してその横を通り抜けようとした。刑事さんはのっそりと身体をずらして行く手をふさいだ。
「邪魔や。どいてんか」
「用事があるさかい、ここにおるんや」
「こっちにはないわ」
堂島さんは後に引かなかった。
「お前、おととい新田の日雇いに出とったやろ。あそこはやめとけ」
キアはそっぽを向いたまま応えた。
「もう行かへん。淡路の兄貴が吹かしようからな」
「ヤの字つながりや。飯場で何かあっても助けは来んで」
「淡路にみつかっちゃったのか?」
「あっちは気ぃついてへんと思う」
安堵と不安の混じったため息が出た。
「用件は、もひとつある」
堂島さんは布包みを解いて中身を右手に持った。
木刀だ。黒っぽい木肌が磨きあげられて深みのある光沢を出していた。今までにこんなにきれいな木刀は見たことがない。堂島さんはそれをまっすぐに立てて、柄をキアの目の前につきだした。
「振ってみい。心得がないとは言わさん」
キアは堂島さんがわけのわからないことをしている、という顔をして、白髪まじりの頭のてっぺんからスニーカーのつま先まで、じろじろとながめまわした。それから左手を伸ばして木刀の先をつまみ、にんまりと笑った。
次の瞬間、右足が閃光のように蹴り上げられた。
堂島さんは手元から十センチメートルくらいのところに出現した、すっぱりとした切り口を見てあんぐりと口をあけた。キアは自分の手に残った刀の上半分をぽいと投げ捨てた。
「ほな、また明日な」
普段どおりに駆けだしたひとりを見送って、残された二人は顔を見合わせた。
「いったいどういうつもりですか、唐突に」
「俺の道場に誘いたかっただけや」
堂島さんは木刀の先端を拾いあげて鼻にしわを寄せた。
「蓋をされた火山が爆発せん間に、はけ口がいる思ぅてな」
「剣道はよくないですよ。それより就職口をみつけてやってください」
「きみの親父さんが世話してくれるんやろ」
「玄関ドアの件以来、うちには全然来てくれないんです」
大きな身体が不満そうに揺れた。
「保証人を頼まなんだら、どないもならんやろが。アホが」
僕はまたため息をついた。
「そんなに焦らないで、もうちょっとの間、そっとしといてやってくれませんか」
「暇と体力をもてあましとったら、ろくなことにならんわ」
「信用ないんですね」
堂島さんが、真剣な顔で僕に向き直った。
「なあ、聡くん。どないしたら、あのガキに言うこときかせられる?」
「そんなこと、僕にもできませんよ。あいつがその気になるまで待つことしか」
「待ってる間にまずいほうに転がったら、どないすんねん」
「一緒に転げるしかないでしょ」
「怖いことをさらっと言わんとってくれ」
刑事さんは木刀の柄で短い髪をばりばりとかきむしった。
「なんでそないに入れ込める。いったい、あいつのどこがええねん」
「え……」
不意打ちのような問いかけに、ちょっと口ごもった。
「なんでとか、どこがとか……言われても……」
僕が返事に困っているのを見て、堂島さんの表情がゆるんだ。
「愚問やったな。すまん」
折れた木刀を布に包み直して、珍しく思案顔になった。
「滋のことはまだ信用できんが、あいつを信用するっちゅう聡くんの気持ちは信用するよ」
「まわりくどいですね」
「まあ、ええがな。俺ももうちょっと考えてみるわ」
あいつが堂島さんをちゃかすのは、嫌いだからじゃないですよ。そう言ってあげようかと思ったけど、やっぱりやめた。堂島さんには退職の本当の顛末を話してはいない。
階段の下からバイクを押して出ていく堂島さんと入れ違いに、初老の女性がママチャリを乗り入れてきた。自転車を降りてロックしようとしたところで、前かごに載せた重そうなレジ袋が傾き、前輪が回転して倒れそうになった。僕はハンドルに手をそえて、女性が荷物を持ち上げるまで押さえておいてあげた。
「ありがとうねえ、お兄ちゃん。助かったわ」
両手に大きなバッグとレジ袋をさげて、えっちらおっちらと一階西隅の戸口まで歩いていった女性は、家の鍵を取り出そうとしてよたついた。見かねてレジ袋を持ってあげた。女性はドアを開けてバッグを降ろし、やれやれと腰を伸ばした。
「ほんまに助かったわ。ちょっとあがってお茶していき」
「いいえ、別にそこまで……」
「お兄ちゃん、二階の葺合さんとこのお友達やね」
そのことばにひっかかって、結局あがりこんでインスタントコーヒーとベビーカステラをよばれることになった。
女性は長池さんといって、寿荘では今や一番の古株なんだという。間取りはキアのところと同じはずなのに、長池さんの部屋には壁がみえないほどびっちりとタンスが並べられ、その上に博多人形の大きなガラスケースや複製画の額縁まで置かれているので、ものすごく狭く感じた。
「あそこのお家ねえ、いつの間にかご主人がいのうなってもたでしょ。残った息子さんは夜遅うまで帰ってこうへんし、最近は昼間っからぶらぶらしとうし。申し訳ないけど、ご近所づきあいさせてもうてええもんか、ちょっと遠慮してたんよねえ」
「お父さん、出稼ぎ中なんですよ。滋は定時制高校に行ってるから帰りは遅いし、仕事は最近クビになっちゃって……」
「このご時世やもんねえ。苦労してはるんね。けど、一階の俊子さんとこに出入りしよったんはどうかと思うたわ」
「義理堅くてお人好しなんで、ちょっと親切にしてもらうと断りきれないみたいですね」
話しながら歯が浮いたが、ぎりぎり嘘はついてないと自分に言い聞かせた。長池さんが僕の釈明を全面的に信用したとは思えないけど、不良ではないらしいと判断してくれたようだ。
「男の子のひとり暮らしは大変やねえ。今度からはちょっと気ぃつけといてあげるわ」
僕は神妙に頭をさげた。
「よろしくお願いします」
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