第二章 抱卵 (4)
2006/04/20 Thu.
受け取ったメモの指示どおり、十六時三十分きっかりに本館裏に出向いた。
長田はすでに煉瓦の壁にもたれて待ち受けていた。僕の顔を見てほっとしたようだ。鉄扉を押し開けてさし招いた。
僕は長田のあとに続いて中にはいった。
煉瓦造りの外壁は鉄筋コンクリートで内側を補強されていた。廊下は薄暗かったが、ドア越しに見える両側の部屋は蛍光灯に明るく照らされて、まるっきりビルのオフィスに見える。通り過ぎる時に仕事中の職員を何人か見かけたけど、誰も僕らには注意を払わなかった。
やがて、おそろしく天井の高い円形の広間に出た。どうやら時計塔の基部のようだ。広さは教室の半分くらいか。部屋のど真ん中を直径二メートルほどの鋼鉄の円柱がつらぬき、その周囲にこれも鋼鉄の螺旋階段がからみついていた。まるで巨大なコルク抜きを突き立てたみたいだ。
長田はためらいもなく、軽やかな足取りで階段を登っていく。
後を追いながら段数を数えた。二百を越えたあたりでようやく天井に手が届いた。階段は天井の狭い開口部を抜けて上の階につながっていた。
そこは時計塔の機械室だった。人の背丈ほどもある歯車が精巧に組み合わされ、ゆっくりと脈を打つように動いていた。主軸が連結されているのはバネや振り子ではなく、電動モーターのようだ。階段は機械類の隙間をぬってさらに上へと続いていた。
最後に行き着いたのは正八角形の部屋だった。僕の家のリビングくらいの広さだ。中央の鉄柱はここでも幅を利かせていたが、四方に開いた大きな窓から外の景色が見渡せるので、ほっとした。
この部屋の内装は建築当初の雰囲気をそのまま残しているらしい。クリーム色の壁と焦げ茶色の木の柱が落ち着いた雰囲気をつくっている。階段の出口から真正面の窓の手前には長辺が一.五メートルはありそうながっしりした木製のローテーブルが置かれていた。
長田はごそごそとスラックスのポケットをさぐって、まず表紙のめくれかけた本を一冊、それから折り畳んだ上質紙を取り出した。本はすぐにまたポケットにしまいこまれたが、ソフトカバーの洋書で色あせたカラー写真が表紙に印刷されているのは見えた。
折り目のすり切れかけた大きな紙がローテーブルいっぱいに広げられた。
「わぉ……」
現れたのは手書きの精密な地図だ。
時計塔を中心にした学園内の地形と植生が、細いペンとカラーインクでびっしり書き込まれている。目立った樹木については高さやおおよその樹齢まで記載する念のいれようだ。僕が作ろうと計画していたものより、よっぽどできがいい。ところどころオレンジ色のマークが書かれているのは定点観測地点だろう。各ポイントで観察された鳥の種類もメモしてあった。
「すごいよ。これ全部、きみが書いたのか?」
興奮気味に声をあげた僕に向かってこくこくとうなずきながら、長田は頬を赤くした。
僕は夢中になって地図を指でたどり、シジミチョウを逃がした堀の端、ギフチョウを見失ったフェンス、小学部の校舎、そして十日前に長田と出会った地点をみつけだした。そこにはシイの木が枯れたことを示す記号と、小さな赤い点がぽっちりと上書きしてあった。
顔をあげて長田に話しかけようとしたその時、背中に人の気配を感じてどきっとした。振り向くまでもなく、それが誰なのかはわかっていた。僕が長田に近づこうとするたび、決まって割りこんでくる人。
「別に君らの邪魔をするつもりじゃないんだよ。はじめから僕がいることに、きみが気づかないだけさ」
塩屋さんは僕の気持ちを見透かしたように笑った。出入り口のすぐ横に腰掛けていたのだから、気づかなかった僕のほうが確かにうかつなのだ。
長田は僕の渋面と塩屋さんの笑顔を見比べて迷ったように爪を噛んだ。それから、どちらとも等距離になるような位置に移動して、つま先立ちで柱にもたれた。
「入学説明会以来だね。こうしてじかに話せる機会を待っていたんだよ、烏丸くん。西代や翔人からは、いろいろおもしろい話を聞かせてもらっていたけどね」
ということは、長田は塩屋さんとはちゃんと会話ができるのだ。
僕は塩屋さんに面と向かって腕を組んだ。
「僕を連れ出すために長田くんを使ったわけですか」
「それは違うよ」
塩屋さんの顔から笑みが消えた。
「翔人は僕の大事な従弟だ。こいつが僕以外の人間に興味を持ったのは久しぶりなんでね。仲良くしてもらっても大丈夫な人物かどうか、確かめておきたかった」
「で?お眼鏡にはかなったわけですか」
塩屋さんは、ブレザーの内ポケットから薄茶色の封筒を取り出し、中に入っていた三つ折りの書類を広げて、目の前にかざした。
「これが何かわかるかな?」
書類の頭に西中学校の校長名のスタンプと公印が押してある。
「入学願書と一緒に提出した、僕の調査書ですね」
「父の海外出張中、常務理事の代理をおおせつかってね。おかげでこんなものも見ることができた。成績評価だけなら、うちより偏差値の高い、超有名進学校でも通用しそうだが」
塩屋さんは調査書の総評欄に書かれた文章を声に出して読み上げ始めた。
「『基本的には真面目で努力家。ただし、社会性・協調性に欠け、年長者に対して礼儀を欠く態度を取ることがある。思考に柔軟性がなく、自説に固執し、なかなか反省しない。場の状況を読んでもあわせようと思わない』きみはずいぶん教師に嫌われていたようだな」
僕は肩をすくめた。中学三年の担任から直接説教された時に聞いた台詞は、この程度のものじゃなかった。そんなことより会談の真意がつかめないことのほうが気になった。従弟の新しい友達を品定めするために呼んだ、というのは何かの口実なんじゃないか。
「そんなにおもしろい内容なら、本館前の掲示板に貼りだしていただいてもかまいませんが」
「誤解しないでくれよ。僕は憤慨しているんだ」
塩屋さんは平手でぱしっと書類を叩いた。
「教え子の将来を左右する書類に書く文面か?公印を押した校長も何を考えていたのか。ここには、きみが抗議するにたりる理由がある。うちから注意をいれようかと思ったくらいだよ」
「お気遣いありがとうございます。でも、その辺のごたごたについては卒業までにかたをつけてきましたから」
明峰学園に僕の合格が決まった時点で中学校の嫌がらせは頓挫したのだ。
「意見書の内容にもかかわらず、入学させてもらえたのはありがたいです」
「試験官はこんなもの読んじゃいないよ。試験の成績さえ良ければね。入学してきたのがどんなやつかは一週間も通ってくればわかるし、不都合が生じれば、ただすのは僕たちの仕事だ」
いくら理事代行だからって、塩屋さんの言動は一生徒の領分を超えているんじゃないか。
「生徒の指導監督は教師の仕事じゃありませんか」
「きみは教師が生徒の性格行動を矯正できると本気で信じているのかい?」
僕はまじまじと塩屋さんの顔を見た。いたって平静で、落ち着き払った表情だった。
これは何かの罠なんだろうか。返答しだいでは今からでも僕をこの学園から追い出す。そんな権限をこの人は持っているのだろうか。
「あなたは、今後長田くんに近寄るな、邪魔をするなと言いたいんですか」
長田が青ざめて、僕の袖口にぎゅっとすがりついた。誕生プレゼントをいじわるな姉に取りあげられた幼児みたいな表情。
胸がちくりと痛んだ。彼は何も悪いことはしていない。僕のほうから無遠慮に接近しておいて、今さら近寄らないもないもんだ。
塩屋さんは本気で困惑したようすで、豊かな髪に五本の指をつっこんでかきまわした。
「どうしてそこまで被害者っぽく考えるかなあ。烏丸くん、中学校のことは終わらせたって言うけど、やっぱりまだひっかかっているんじゃないのか?それとも他にトラブルでも抱えてるのか?いや、失礼な言い方だ。こんなもの持ち出した僕も悪かったよ」
そう言って、僕の調査書をくしゃくしゃと握りつぶした。
「翔人の友達になってやってくれよ。僕にできることがあれば力を貸すから。言いたかったのは本当にそれだけなんだ。」
英雄と呼ばれる人が目の前で頭をさげて頼みごとをしてきた。今の塩屋さんは、気弱な従弟の心配をしている優しい兄貴分にしか見えなかった。僕はだんだん自分の態度が恥ずかしくなってきていた。
「生意気な口をきいてすみませんでした。でも、気を遣っていただくことは別にないんです」
僕ら三人は部屋の中央のエレベーターで地上に戻った。登る時に階段を使ったことに他意はなく、長田のいつもの習慣だったようだ。帰りはどうしても僕の袖を離してくれそうになかったので、危なっかしくて階段を降りることはできなかった。
一階から本館の廊下を通って正面玄関に出た。ここへは車道が通じていて、送迎バスや来客の自動車が入ってこられる。ロータリーの反対側から、平べったいフォルムをした緑色の乗用車がすべるように徐行してきて、僕らの前で停まった。確か、ミニとかいう輸入車。実物を見たのは初めてだ。
塩屋さんは長田をなだめすかして僕から引き離し、ミニの後部座席に押し込んで自分もその横に乗り込んだ。運転していたスーツ姿の女性は郭玲師範だった。塩屋さんが身を乗り出して彼女となにやら話しているのが車窓越しに見えた。
長田は学園の杜の木の上に住んでいるわけではなさそうだ。ちらとでもそんなことを思いついた自分に笑ってしまったが、自動車で送迎してもらうなんて別の意味で異世界人だな。
なめらかに走りだしたミニに手を振って、きびすを返した。
見上げると、時計塔のシルエットが夕日を背に黒々と浮き上がっていた。前から何かに似ていると思っていたけど、今になってわかった。
あれは君主の物見の塔だ。塔の頂上の部屋は、時代物の映画で見た天守閣の最上階にそっくりだったのだ。
第二章 抱卵 (1) に戻る