第二章 抱卵 (3)
2006/04/18 Tue.
父さんは珍しく、僕が目を覚ますより先に家を出ていた。
僕は御影にゆうべの礼をいうつもりで登校した。けれども相手は休み時間のたびに誰かのそばにいて、なかなか近寄れなかった。
僕が機会をうかがっているのには気づいていたはずだったが。昼休みには高塚とべったり一緒にいて話し込んでいた。
高塚は別人のように元気になっていた。御影に話しかけるたびに目をきらきらさせて、相当舞い上がっているようだ。
あらためて教室を見渡すと、入学以来用心しながら周囲との距離をはかっていた外部組の生徒たちも、それぞれにつるむ相手をみつけて落ち着いてきたのがわかる。
加島と海老江は他のクラスに出かけていた。園田はバスケ部の男子に笑いかけていた。西代は窓辺にもたれてクラス委員の住吉と話をしていた。
長田の席はあいたままだった。
結局、僕だけが話し相手も行き場もなく、ひとりで弁当を食べていた。いつものことといえば、それまでだけど。
誰も誘ってこなかったから、ホームルームの終了と同時に校舎を出ることができた。桜並木を下っていく間、茂みの後ろから視線が追ってくるのを感じてはいたが、立ち止まりも振り返りもせずに校門を出た。
帰り道、ターミナル駅まで足をのばし、市立中央図書館と大型書店とコンベンションセンターの資料室をはしごして情報収集した。明智市商工会議所の会報や観光協会の広報、人事通信などをひっくり返し、逆瀬川の管理職たちの職歴を調べあげた。
社長は父さんと同じ大学を出たあと、先代である父親が急死するまで関東の大会社に勤めていたようだ。工場長は創業時からずっと現場ひとすじで来た。若い頃は先代社長宅に住み込みだったらしい。勤務年数からしても六十歳はとうに越えている。営業部長は他の会社からの移籍組だ。ターミナルビルで暖簾を並べる遠基堂という店から移ってきたのだ。
遠基堂の和菓子はうちでもちょくちょく買っている。会社の規模も創業からの年数も逆瀬川よりずっと上の、有名メーカーだ。
部長の転職と、支店の開業はほとんど同時期だった。出店とからみがあったのかもしれないし、事業を拡大していく時期に、こいつが何か始めたのかもしれない。気になることはどんどん増えてきたけど、父さんの邪魔になるような動きはできない。
一緒に持ち出した会社四季報をぱらぱらとめくっていたら、「塩屋」という姓の人が何人もいることに気がついた。いずれも大手総合商社の関西支店や、その系列会社の重役クラスだ。このなかには塩屋さんの親がいるのかもしれない。
資料を返却して、駅に戻るついでにターミナルビルの名店街を通ってみた。逆瀬川の店はこじんまりとしていたが、そこそこ客はついているようだ。遠基堂は和菓子売場で一番目につきやすい場所に広い店舗を構えていた。
店先で中年過ぎの女性販売員と話し込んでいる若い男を見て、どきっとしてUターンした。店の裏側にまわりこみながら、遠目に確認した。
やっぱり売布だ。針金のように細長い体躯と血色の悪い顔は、中学生の頃とちっとも変わっていない。
二人は早口の小声で何か言いあっていたが、やがて女の人がしぶしぶ財布を取り出した。売布はその手から二、三枚の千円札をひったくるように受け取って、人混みの中に消えた。
2006/04/19 Wed.
朝のダイニングで、弁当作りを終えた母さんが朝刊を手に取った。いつもどおりTV番組欄から読み始め、後ろから一ページめくったところで、あら、と声をあげた。
「ターミナルビルの和菓子屋さんて、あのお店じゃないの?」
僕はマグカップを置いて、母さんの肩越しに新聞をのぞきこんだ。
「逆瀬川じゃない。遠基堂だ」
そう言いながら、記事の内容を食い入るように読み進んだ。母さんは仕方なく僕に朝刊を譲って立ち上がった。
「老舗菓子店の製造日偽装……十年前から会社ぐるみで……」
社会面を四分の一ページほども使って偽装工作のかなり詳細な内容が書かれていた。
これは内部告発でもなければ書けない記事だろう。会社規模が大きいだけに責任のありそうな社員の数も売られた商品の数も逆瀬川とは桁が違う。
父さんがシャツのボタンをとめながらダイニングに現れた。
「理子。もし逆瀬川や、その関係や、誰だかよくわからい相手から電話があったり訪ねてこられたりしても相手しなくていいからね。全部、烏丸篤に直接連絡とるよう伝えてくれ」
「はい」
素直に返事してから母さんは眉をひそめた。いろいろ聞きたいことはあるが、聞かないほうがよいのだと判断したんだろう。僕はそう簡単に黙っていられなかった。
「新聞の記事と関係があるの?父さんは昨日の朝……」
「もう支度をしないと遅刻するぞ。話は帰ってからゆっくり聞くよ」
「でも滋は……」
「昨日会って話をしてきた。休日は会社から連絡のとれないところにいるように頼んである」
こちらの交渉窓口は父さんに絞る、ということだ。意図はわかるけど、僕の気分は不完全燃焼だ。まだ黄色いペンキの塗ったくられたままのドアを蹴飛ばして家を出た。
教室は腹が立つくらい平和だった。
今日はキアとは連絡がとれない。昼休みも自分の席から立ち上がる気分にさえなれず、いらいらと指で机を叩いているところへ御影が寄ってきた。つくづくタイミングの悪いやつだ。
「もう、大丈夫なの?」
「大丈夫だから昨日から登校してるじゃないか」
案の定、整えられた眉の間に険しいしわが寄った。
「……心配してたのよ」
相手が悪くないのはわかっていたのに、嫌みを言わずにはおれなかった。
「昨日は先約があったみたいだからね。高塚はお前に口答えなんかしない、いいやつだろ」
こうなったらもう、お互いに止まらない。
「このごろ烏丸くんが冷たいんだって話したら、とっても親切にしてくれたわ」
「ほんとは情報集めに利用してるだけなんじゃないの」
「まるで私がスパイみたいな言い方ね。いいわよ。もう、何も教えてあげない」
「こっちは始めっから何も聞きたがっちゃいないよ」
御影は能面のように無表情になって僕を見おろした。
「クリアホルダー、返してよ」
昨日から鞄にいれっぱなしだったやつを取り出すと、僕の手からむしりとって席へ戻っていってしまった。超絶技巧的スピードで携帯のキーを叩く姿を見て、ノートの礼を言えていないことを思い出した。
しまったと思ったが、今さらそばにいって頭をさげるわけにもいかない。すっかりめげて、スライムのように机にはりついていたところへ、今度は高塚がおずおずと近寄ってきた。
「烏丸くん……御影さんとけんかしたん?」
頼むからもう勘弁してくれ。
声も出せずにへばっているのをまた誤解されたようで、高塚は顔を近づけて小声で話し続けた。息、くさいぞ。
「昨日、御影さんとは拳法部や自警団の話をしてただけやよ。副部長の御幣島さんのこととか。西代くんは一年でも幹部クラスなんやとか。だから、気にせんでいいよ。御影さんは……」
「わかったよ。もういいよ、わかったから。ありがとうな」
予鈴がなり、席に戻ってきた西代が僕を見て眼鏡を押さえた。
「顔色悪いぞ。大丈夫か」
「う……ちょっとだめっぽい。保健室に行ってくる……」
校舎を出てすぐ前の植え込みで、シダレヤナギの幹にもたれて深く息を吸った。消毒くさい保健室のベッドより、若葉の香りが漂う木立のほうがきっとずっと身体にいい。
今日の空は薄い水色で、ぼんやりとした小さな雲がきれぎれに浮かんでいた。目の前に垂れた枝先の細長い柔らかな葉を、ハバチの幼虫が数匹、元気に食んでいた。
そろそろ教室に戻ろうと思って顔をあげ、歩道の向かい側、雑木林のへりに長田がしゃがみこんでいるのに気がついた。膝頭に顎を載せて、じっとこちらをうかがっている。足元にはなぜか、黒い大きなポリ袋。
それからしばらく、僕らはどちらも身動きせず、何も言わずにいた。
五限目の終鈴が鳴ったが、外へ出てくる者はいなかった。そよ風に揺れるヤナギのカーテンの向こう、長田は姿勢を崩さない。足がしびれて動けなくなっているんじゃないかと心配になってきた。
別のメロディーのチャイムの音が風にのってかすかに響いてきた。それが合図だったようで、長田はすっと立ち上がった。ポリ袋を拾いあげ、僕に背を向けてゆっくりと歩き出した。袋の中で、からからと空き缶のぶつかる音がした。
数歩進んで振り返った。僕がじっとしているのを見て、ちょっと寂しそうに目を伏せた。それでも戻ってくるわけでも声をかけてくるわけでもなく、そのままとぼとぼと歩いていく。
迷ったけれど、結局数メートル遅れて後を追った。
間合いを取って黙って歩く二人。長田はもう振り向かなかった。僕がいなくなってしまうのが怖いみたいに。まるでオルフェウスとエウリディーケだ。
前方に明るいクリーム色の校舎が見えてきた。高等部よりずっと新しい、大きな窓のついた鉄筋コンクリートの建物だ。一階のガラス戸が開け放たれて、色とりどりのランドセルを背負った小さな子供たちがミツバチのようにちょこまかと出入りしていた。
小学部まで歩いてきたわけか。
子供たちは校舎前のチューリップの花壇を抜けて、木々がまばらに生えた草地を駆けまわり始めた。その足元に踏みつけられながら、シロツメクサがふてぶてしく群れ咲いていた。もう少し踏まれにくそうなところには、タンポポやレンゲやスミレが陣取りのように咲き誇っていた。摘んでも寝転がっても叱られない花畑に明るい笑い声が広がった。
ひとりの男の子が長田をみつけて、小さな花束を持った手を振りまわした。その横をキチョウが驚いたように飛んでいった。ワインレッドのランドセルを背負った女の子が、誇らしげにカナヘビのブレスレットをみせびらかしてくれた。ハナアブが僕の耳をかすめて飛び去った。
踏まれた草の香りと、花蜜の香りに鼻をくすぐられて、小さなくしゃみが出た。
長田がくすっと笑った。つられて僕も笑ってしまった。肩の力が抜けて、身体がすっと軽くなった。薄雲越しの日差しは柔らかくて、ほんのりと暖かかった。
長田はひとりひとりの子供の顔をちゃんと見分けているようで、手を振られたり呼びかけられたりするたびにうなずきかえしていた。
やがて子供たちの群れは、だんごになったりばらけたりしながらゆっくりと歩道を下っていった。なかには勇敢に雑木林に踏み込み、何かに驚いて走って帰ってくる子もいた。
長田はにぎやかな集団の最後尾のさらに後ろについて、群れを守る羊飼いのように歩き出した。僕はその横に並んで歩くことにした。
「この時間は毎日、小学生の相手をしてるのかい?」
長田はすんなりした指を唇にあてて、もう一方の手を雑木林を守るように伸ばしてみせた。
「子供たちが林の中で迷わないように……それとも、杜の生き物を脅かさないように見張ってるのか」
さっき受け取ったタンポポの花束から、一本ひき抜いてブレザーの胸ポケットに挿してくれた。林の浅いところで遊びまわる分には問題ない、ということなんだろう。
小学生たちは本館の正面側、スクールバスの乗り入れるロータリー目指してどんどん先を行ってしまった。
僕らはゆっくり歩くうちに道をそれ、いつか待ち合わせに使った本館の裏まで来ていた。
煉瓦造りの壁、錆の浮いた鉄扉の前に立ち止まり、空につきささる時計塔を見上げて、長田は何かを迷っているように、袋を持っていないほうの手を鼻に押しあてた。
やがて気持ちをかためたらしく、僕の手に一枚の紙片を押しつけると、重い扉を引き開けてするりと建物の中へ消えた。
扉は僕の目の前でがちゃりと閉じられた。渡された紙片にはひと連なりの数字だけが走り書きされていた。
「0604201630」
その夜、母さんと勇が寝室にあがったのを見計らって、僕は一階の隅の部屋を訪れた。
そこはリビングの隣の三畳ほどの窓のない空間で、もともとは納戸として設計されたのだと思う。うちでは父さんのパソコン机と蔵書の置き場になっている。
中をのぞくと、父さんはノートパソコンを片づけた机に広告紙を広げて、鉛筆を削っていた。右手には肥後の守。僕が生まれる前から使っている小刀だ。後ろ手でそっとドアを閉めて背中に声をかけた。
「朝の話の続きなんだけど」
「ああ」
「新聞社に情報提供したのは」
「私ではないよ。たぶん、社内の人だろう」
「昨日の朝はどこに寄っていたの?」
「遠基堂の製造部だよ。月曜日に見学を申し込んでおいた」
「そこの会社の人に何か言ってきたの?」
「菓子を作っているところを見せてもらって、職人さんたちと話をしてきただけだ。義母が前からあそこの薯蕷まんじゅうをひいきにしていたとか、その義母が震災で亡くなってから、墓参りのたびにお供えさせてもらっているとか。それからひとりひとりと握手させてもらった」
神部市に住んでいた祖母の思い出話は、僕もよく聞いていた。
「遠基堂も不正をしているって確証はあったの?」
「いいや。でも、ここ数年味が落ちているのは気になっていたからね。しっかり伝統を守ってくださいよ、とお願いしてきたんだ。何も出てこなければそのほうがよかったのだけどねえ」
父さんは肥後の守をおいてため息をついた。
「現実には、膿がもれ出す寸前まで来ていたということだよ。私がつつかなくても、遠からずはちきれていただろうな」
「逆瀬川はそうは思っていないだろ」
「今日、社長が工場長を連れて落書きの謝罪に来た。実行犯に責任をとらせて免職にするから、告訴はしないでくれ、とね。誰の首もとばないのがこちらの希望だと説明するのに、ちょっと時間がかかったよ。滋くんだけは会社の都合で解雇するということにして、規定どおり向こう一ヶ月分の給料は出してもらうことになった。ドアの弁償金を払うというから、彼の退職手当に上乗せしてくれと頼んでおいた」
「それで父さんが黙ってることにしても、営業部長からたどって捜査は入るんじゃないの?」
「遠基堂のほうが一段落してからだろう。その間になんとかとりつくろうつもりだろうね。社長は部長もやめさせたがっているようだが、さて、かわりに誰が仕事をするんだろう」
父さんの背中はいつもよりずっと疲れているように見えた。
「滋くんは、明日が最後の出勤になると思う。聡から連絡をとってみてくれ」
「あいつには、どこまで話してあるの?」
「私からは何も。会社の説明を聞けば察してくれると思う」
あわてて電話したり押しかけたりするより、気持ちを整理する時間を持たせてやりたい。
「週末まで待って、いつもと同じように遊びに行ってみる」
「頼むよ」
父さんはきれいに削りあげた鉛筆と、折り畳んだ肥後の守を僕の手に乗せた。
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