第二章 抱卵 (2)
2006/04/17 Mon.
父さんとキアは、最初の約束どおり朝九時に和菓子屋の事務所へ出向いた。
社長室の手前でなんやかやと理由をつけて待たされたようだ。
「今から本番だよ」
と、短い電話連絡をもらったのは午後二時だった。
僕は午前中こそ昨日の宣言どおり部屋でおとなしくしていたが、帰りを待ちきれなくなって家を出た。午後四時半、本社の駐車場に停められたワゴンRの前で二人と合流した。
「今からちょっと寄るところがあるんだが、一緒に乗ってくかね」
「仕事の邪魔でしょ。歩いて帰るよ」
「身体、大丈夫か?」
「そこまで悪くないって」
旧街道沿いのひなびた商店街を抜け、国道よりひとすじ北の細い道を歩きながら、会談の首尾を尋ねた。
「しゃべったんはほとんど営業部長。社長は横でへらへらしとうだけ。工場長は真っ赤っかになって怒ってたな」
「話の中身は?」
「はじめはばっくれよった。たいした証拠もないのに、いらん言いがかりをつけんな、警察に言うなら名誉毀損で訴えたる、やと」
「はったりだ」
「で、親父さんがあとにひかんとわかったら、開き直りよった」
「へえ?」
「黙って『調整』しとうことはあるか知らんが、誰も被害はこうむってへん。もともと賞味期限を当日限りにしたのは販売戦略で、一晩明けて味が変わる商品やない。売れ残りを減らせればコストは下がるし、小売り値も下げられる。店も客も得すんねんから何が悪い、よその店でもやってることや、て」
キアが蹴飛ばした小石が、歩道にはみだしたブリキの看板にあたって跳ね返った。
「……父さんは何て?」
「社員がダメになる、て言うてはった」
らしくない厳しい表現だ。
「いくらちゃんとしたモノを作ってても、仕事を誇れんようになる。ばれんように始終いらん気を使わんならん。そんなんでは人間が擦り切れるて」
「それで、社長の返事は?」
「きれいごとでは食べてけん」
「……決裂だな」
「親父さんからは、これ以上口出さんかわり、ちゃんとしたかたちで俺を退職させろ、そこだけは譲れんて言うてくれはってんけど」
「けど?」
「解雇はせえへん。希望退職したいんなら二週間後が決まりや。今すぐいうわけにはいかん。それがいやなら懲戒免職や、どっちにしても職安にはいろいろ言うことになる、とよ」
「お前がキレて、こっちが不利になるのを待つ気だぞ」
「そう簡単にのせられるかよ」
逆瀬川の戦術なんてたいしたことはない。問題はキアの再就職が不利になるような退職にはしたくない、製菓工場の職人さんたちに累を及ぼしたくないというこちら側の弱みにあるのだ。
田んぼを過ぎて住宅街にはいったところで、内ポケットから「オリノコ・フロウ」の着メロが鳴りだした。
「母さんの携帯、借りてきたんだ」
通話ボタンを押すと、珍しくうわずった母さんの声が聞こえた。
「聡?今どのあたり?父さんとは会えたの?」
「もうすぐ家に着くよ。滋も一緒だ」
「ちょっと待って。まっすぐ帰ってこんと、お買い物に寄ってきてくれへん……」
五秒、遅かった。通話しながら、僕らはすでに通りの角を曲がって自宅の玄関が見えるところまで来てしまっていた。そこで母さんが焦ったわけがわかった。
うちの玄関ドアは、木製の合板に草木柄の彫りがいれてある、分譲住宅によくあるタイプだ。濃い茶色に塗装されたそのドア全面に、毒々しい蛍光黄色のスプレーペンキが塗りたくられていた。ぐねぐねした曲線はまるで呪術の文様のように悪意に満ちて見えたが、いくらひんまがっていてもそれは漢字だった。
「偽善者」
ドアを開けて出てきた母さんと、そこを見つめていたキアの視線があった。大きく息を吸ったキアの目に、ぎらぎらした光が宿った。底の見えない瞳の奥で、青黒い獣のような影が身じろぎした。握りしめた拳の関節が、ごきり、と音をたてた。
僕が息を呑み、母さんが何か言おうとしたその時、僕らの後ろにワゴンRが停まった。
降りてきた父さんは玄関ドアを見て頭をかいた。
「まあ、ずいぶんわかりやすい嫌がらせをしてくれたねえ」
あまり驚いたようすもないのを見て、僕はちょっと冷静になれた。
「父さん……こうなることを予想してたの?」
「営業部長は理詰めで乗り切ろうとしていたが、社長は見るからに余裕なさそうだったし、工場長さんは相当怒ってたからねえ。誰かがフライングすると思ったよ」
「……ぶっ殺したる……」
キアのつぶやきを聞いても父さんの声は平静だった。
「こちらから社会ルールを破るような行動をとってもらっては困るよ。私たちはこの件では被害者だと届け出なければならないんだから」
「警察に言うんかい」
「大人のけんかだからね。それなりの作法や手段があるんだよ。今日のところは、被害届を出す以外には何もしないつもりだ。悪いけど、子供は手を出さないでくれるかな」
「それじゃあ俺は……」
「きみがしなければならないのは、明日から休まず遅れず仕事に行くことだよ。売場で黙って座っていろと言われたら従いなさい。それが闘いだ」
そこまで言って初めて、父さんはちょっとつらそうな顔をした。
「長びかせはしないよ。すまないが我慢してくれ」
キアは右の拳を左手で押さえ、目を閉じて深呼吸をした。
父さんは今度は母さんに声をかけた。
「今から国道の交番まで一緒に乗っていってくれないかな。届けは早いほうがいい」
「現状を確認してもらうまで、片づけたらあかんてことね?見栄えが悪いから、よしずを掛けといてもいいかしら」
「出入りの邪魔にならんかね?」
「それやったら遠足シートにするわ。落書きくらい別にいいけど、漢字がまちがってんのよ。見てると気持ち悪うて」
母さんは「偽」の字の点々がみっつしかないのと、「善」の字の縦棒が上につきぬけてしまっているのを指さした。
「よっぽど国語の成績が悪かったか、気が動転してたんやね。良心の呵責を感じるなら、はじめからやめといたらいいのにねえ」
今日ばかりは、ちょっと浮世離れしているけど、悲観的にならない母親がありがたかった。
「聡、晩のおかずの下ごしらえはしてあるから、ご飯だけ炊いといてくれる?滋くんと二人で……」
「俺は失礼します」
キアは破裂しそうに力をためた身体を無理矢理曲げて一礼すると、誰かが何か言うより先に、ワゴンRの後ろをまわって足早に歩き去った。止めても無駄だと背中に書いてあった。さっき二人で帰って来た角を曲がっていくのを見送ったところで、ものすごい金属音がした。
静かになってから、こわごわ見に行ってみた。粗大ゴミ置き場に知恵の輪を大きくしたみたいなぐねぐねした金属パイプの構成物が転がっていた。近づいてみると、それは前衛芸術のオブジェではなく、家庭用健康器具のなれの果てだった。
両親が出かけていってしまったあと、僕はリビングの床に寝転がって天井を見つめていた。食卓にはもう、五人分の箸と茶碗が用意してあった。
先に帰っていた勇もゲームに興じる気分ではないらしい。ソファの上で猫のようにまるくなってぱらぱらとマンガ雑誌をめくっていた。
玄関のチャイムが鳴った。
「出なくていい」
首を伸ばした勇に言いわたした。
チャイムが再び鳴り、勇はそっとインターホンのモニタ画面をのぞいた。
「涼香ねえちゃんだよ」
僕はうつぶせになってうなった。
「ほっとけよ」
妹はいうことをきかなかった。玄関に出て御影と少し話をしたようだ。ルーズリーフの用紙を挟んだ薄いファイルを持ってもどってきた。
「ノート、届けてくれたよ」
「……ごめんな……勇」
「明日、涼香ちゃんにお礼言ってよ。ドアのことは何にも聞かれなかったよ」
情けない話だ。御影はおろか、勇にまで気を遣わせてしまった。
知らん顔して出勤し続けるのがキアの闘いだというなら、僕も明日からおとなしく登校するしかないのだろう。父さんがどんな対策を用意しているにせよ、僕らに手伝わせる気はないのだろうから。
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