第一章 営巣 (7)
2006/04/12 Wed.
朝から篠つく雨模様だった。長田は姿を見せなかった。
日曜日以来、キアとは連絡が取れていない。なんだかんだで帰宅は連日六時を過ぎ、夜は宿題を片づけるだけで寝る時間になってしまう。
今日は製菓工場の定休日だ。キアは部屋にいるんだろうか。
昼休み、教室でひとり弁当を食べながら考えた。食堂前の公衆電話から寿荘のピンク電話にかけてみようか。
すぐに思いなおす。小学生じゃあるまいし。もう心細くなったのかと笑われるのがおちだ。
「そこでほら、こう踏み込むと右半身が前に出るやろ」
教室の反対側では同級生の女子二人を前に、高塚が拳法部の練習を説明していた。身振り手振りをまじえて、一所懸命内容を再現してみせている。僕がつきあわなくなっても本気で入部を決めたらしい。
「でも、練習が厳しそうじゃない?」
そうひとこともらした女子相手に勧誘活動をしているのだ。他の部員にしたら大きなお世話かなと思ったが、西代ら内進組は別に気にかけるようすでもなかった。
女子たちがお義理でも耳を傾けてくれているので、高塚はますますはりきった。声も動作も大きくなって、あっと思った時には振りまわした手が通りかかった男子の胸にあたっていた。
相手が悪かった。初日から文句たらたらだった外部組の二人。加島と海老江だ。
「いってぇぇ」
大げさな悲鳴をあげて加島が身体を折り曲げた。
「え……あ、ごめんなさい。気がつかなくて」
「大丈夫かあぁ。拳法の技を決められちゃたまらんよなあ」
海老江がにやにやしながら高塚にすり寄った。
「武道家が人にケガさしたら素手でも犯罪やなあ」
「そんな……僕まだ始めて二日しか……」
おどおどと後ずさりした高塚を、反対側から挟むように立った加島が突き返した。
「俺って身体弱いねんよなあ。誰かと違って鍛えてへんしぃ」
「情けないやつやな。病院つきおうたろか」
海老江は高塚の腰を抱くように手をまわして、その身体を机に押しつけた。ズボンの前ポケットをさぐり、ハンカチをひっぱり出して床に落とした。加島が靴の先でそのハンカチを踏みにじった。
僕は心の中で舌打ちして、席から立ち上がった。
そのときだ。西代が僕の脇をすり抜けて、一足先に加島たちの前に立っていた。
「やめろよ。因縁つけるのは」
「なんだよ。こっちは被害者やぞ。お前、こんなやつの味方につく気かあ」
「中学校では見て見ぬふりされてたかもしれんけど、ここは明峰や。弱い者いじめは見逃さへん」
いつの間にか、加島たちの背後に二人の生徒が立っていた。男子と女子がひとりずつ。どちらも屋外練習場で見かけた顔だ。西代の指示ひとつでいつでも動くように見える。教室にいた他の生徒たちも、黙ってはいたが、まっすぐに状況を見守っていた。大勢の冷ややかな視線にさらされて、加島の顔色が青ざめた。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。加島が目の前の机を蹴って西代に背を向けた。
「おい」
「トイレや」
吐き捨てるように言って教室を出ていった。海老江も後に従った。
高塚はその場で床にへたりこみそうになったが、男子のひとりに腕を支えられてなんとか椅子に腰掛けた。西代は拾ったハンカチを畳んで差し出した。高塚は横を向いて泣きそうな顔になった。
「いらんことして」
「ほっといて欲しかったか?」
「あいつら怒らせたら、どうせまた仕返しされるやんか」
「そうはさせない」
西代はきっぱりと言い切った。
「心配するな。ここは明峰や」
他の生徒たちは何事もなかったかのようにざわざわと動き出した。
僕も椅子に座りなおしてノートを開いた。西代が隣の席に戻ってきて小声で言った。
「烏丸くん、さっきひとりで止めにはいろうとしていたやろ。勇気あるな」
「不愉快なものを見たくなかっただけだよ」
ノートに視線を落としたままぶっきらぼうに応えた。
「普通なら、かかわりあいたくない思うとこやない?」
「普通じゃないことばかりするんで、いつも浮いてたよ。守ってくれるやつもいなかったし」
西代はおもしろそうに僕の顔を見たが、すぐに前を向いて授業の準備を始めた。
2006/04/13 Thu.
天気予報では夜明けまでにあがると言っていたのに、雨は昼過ぎまでしとしとと降り続けた。
この日、一年生は校外学習だった。僕らは路線バスに揺られて田舎道を運ばれて、薄暗くてカビくさい郷土史資料館をぞろぞろと見学してまわらなければならなかった。
「理系特進なんだから、せめて水族館か自然史博物館にでも連れていってくれよ」
僕が愚痴ると、隣を歩いていた西代が笑った。
「ここの館長が明峰OBで郷土史家なんや。学園の土地の来歴をしっかり勉強せえいうことさ」
「どうせなら明治大正の話より、ここ数年の事件の話が知りたいな」
西代がかすかに眉をひそめた。
「興味本位で言わんとってくれよ。三年前、押し入られたんは僕らのクラスやった」
「……ごめん。気がつかなかった」
「謝るほどのことやないけど」
眼鏡を中指で押し上げるのは彼の癖のようだ。クラブの練習中にもずり落ちたようすはなかったし。
「烏丸くん、やっぱり真面目やな」
「『くん』はつけなくていいよ」
真面目で勇気があるのは西代のほうだと思う。背筋を伸ばして、はっきりしたことばで話す彼を見ていると、どことなく塩屋さんの影響を感じる。クラブの先輩として、事件の時に身を守ってもらった恩人として、尊敬するのは当然だろう。
その西代に守られた高塚は、そわそわ落ち着きなくあたりを見まわしながら歩いていた。隣には拳法部の男子がひとり、護衛のようにはりついていた。加島と海老江は欠席だったから、そこまで気を遣う必要もなさそうだったけど。
長田も行事には参加していなかった。
「ひとつだけ、教えてくれないか。長田は中一の時……」
「同じクラスやった」
西代は平然と答えた。
「誤解の無いように言うとくけど、あいつがああなのは、事件のせいやないよ」
「じゃあ、小学生の時も……」
「今よりひどかったな」
冷静な口調は変わらない。
「教室に入ってこれたのは二年になってから。授業を聞けるようになったんは四年の時やった」
「ちょっとずつでも、学校に慣れてきてるってこと?」
「本質は変わってない」
冷静というより、ちょっと冷たい口調だと感じた。
小学部から明峰にいたなら、今年で十年目のつきあいになる。生え抜きの内進組連中は、長田のことをどう思っているんだろう。
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