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第一章 営巣 (6)

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2006/04/11 Tue.


 火曜日の時間割に理科の授業はない。最後列廊下側の席は朝から空いたままだ。
 昼休み、僕は大急ぎで弁当をかきこむと、小さな穴をあけた紙袋を持って外に出た。歩道のサクラはほとんど花びらを散らして葉桜になりかけていた。その中で、若葉が喰い散らかされている木を捜してまわった。

 放課後は高塚が中国拳法部の練習に誘ってきたが、今回は断った。
 紙袋を持って、昨日迷った杜にもう一度入りこむ。方位磁石と二万五千分の一地勢図と、父さんのGPSからコピーした地図を見比べながら、今日こそ迷わないぞ、と決心をかためていた。
 わずかな木漏れ日に惹かれるように伸び始めた下草を踏みしめ、現在位置を確かめながら歩いていて、杜に迷う理由が少しずつ見えてきた。ここの地形はただの斜面ではなく、中心部が微妙にくぼんでいるのだ。そのせいで地上にいると海が見えない。目印になるはずの時計塔は正八角柱の煉瓦造りで、四方に文字盤がついているものだから、気をつけないと方角を錯覚してしまう。その上、掘が流れているせいで南北にまっすぐつっきることができず、隣の神社との境界線も複雑に入り組んでいる。
 今回は用心を重ねた甲斐あって、なんとか順調に目的地にたどりついた。
 昨日、チョウを追って通り過ぎた小さな日だまり。シイの老木が冬の間に倒れたらしく、薄暗い木立の中で、そこだけぽっかりと明るくなっている。
 腐りかけた倒木の上の朽ち葉を払い落として、紙袋の中身ををぶちまけた。越冬卵から孵化して集団で天幕巣を作っていたオビカレハの幼虫……要するにケムシのテンコ盛りだ。
 いきなり明るいところに放り出されてウニウニ這い回っているチビ共を置いて、僕は木陰に腰を落ち着けた。緑色の大気を呼吸しながら、樹木になったつもりで気配を消す……。
 しばらくして、一羽の小鳥が舞い降り、ケムシをくわえて飛び去った。産卵前の栄養補給が必要な季節なんじゃないかと勝手に思っていたが、鳥たちはなかなか用心深くて、ぽつり、ぽつりとしか降りてこない。そのぶん、一羽ずつの羽根の色の違い、シルエットの違いをじっくり観察することができた。茶褐色の背中で腹の白っぽいのとか、灰色で目の周りだけ白いのとか……。
 ルーペのかわりに双眼鏡を用意するべきだったな、なんて考えていると、一メートルくらい離れたところで誰かが身じろぎした。いつの間にか、僕と同じように息をひそめてかがみこんでいる。
 今回は僕も心の準備をしていたので、あわてふためかずに相手に向き合うことができた。彼のほうも機会をうかがっていたのだろう。大きな目で真正面からまじまじと見つめられて、ちょっぴりくすぐったい気分になった。
 鳥がいなくなったのを見計らって立ち上がり、声をかけた。
「長田翔人くん……だね?出席簿で名前を見てきたんだ。えっと、はじめまして。かな?いや、もうあちこちで会ってると思うんだけど」
 長田はさらに目を大きく見開いて、僕の顔を見つめた。返事をしてもらえなかったのでちょっと焦ったが、どうやら向こうも緊張しているらしい。
「オオルリ」
 唐突に言われて、最初はどこの国のことばかと思った。
「え?……ええと……」
「アオバト」
 ようやく、鳥の名前を言ってるんだと気がついた。
「オオルリって……青い色の鳥?ああ、教室の窓に飛んできたやつ?」
 長田がうれしそうにうなずいた。
「じゃあ、アオバトっていうのは三月に見かけたやつかな?あの時、やっぱり僕に気がついてたんだね」
 僕が踏み込んだせいであの鳥は飛んでいってしまったんじゃないか。頭をかいていると、長田はまた僕の目をのぞきこんで子スズメのように首をかしげた。ブレザーを脱いできたので、名札はつけていなかったんだ。
「僕は烏丸っていうんだ。カラスの、マルって書く」
 長田の唇が声をださずに「カ・ラ・ス」と動いた。
「レイヴン」
 すらっと英単語が飛び出した。Rの発音もなめらかだった。
「レイヴン?……ワタリガラス?」
 ことばの意味は知っていたけど、西日本で見られる種類じゃない。僕がぽかんとしていると、長田はじれったそうに足を踏み替えたが、それ以上は何も言ってくれなかった。
 耳が聞こえにくいようでもないし。日本語が苦手なのかな?帰国子女?
「エイゴデハナスホウガイイ?」
 そう英語で聞いてみたけど、返事をしてくれなかった。途方にくれた僕の頭の上を数羽の小鳥が飛び越えていった。
「エナガ」
 今度は日本語だ。待てよ。さっきから、実際に観察した鳥はみんな和名で呼んでるな。じゃあ、英語名は鳥のことじゃないのか。
「ひょっとして、『レイヴン』って僕のこと?」
 長田はぱっと明るい顔になった。
 今まで、名字のせいでカア公だのバカラスだの、ろくでもないあだ名はいっぱいつけられてきたけど、今度は英語ですか。思いは複雑だったが、にこにこと機嫌よさそうに笑いかけられると、いやな顔をするわけにもいかなかった。
「まあ、いいか。響きはかっこいいし。本当に鳥が好きなんだね」
 もう一歩そばに寄ってゆっくり話をしようとした時、長田がさっと背後を振り向いた。遠くから呼びかける声がしたのはその直後だ。
「翔人!」
 聞き覚えのある、大きくはっきりした声。……塩屋さん。
「ファルコン」
 長田が応えた。
 一度だけ名残惜しそうに僕を見たものの、その後は一目散に声のしたほうへ駆けだしていった。あっという間もなく取り残されて、僕はまた林の中でひとりきりになってしまった。
 日は陰り、ケムシも鳥もいなくなっていた。風も凪いで、しんとした杜の空気が足を冷やした。歩道に出るためには、長田の後を追うのが一番確実だったけれど、なんとなく癪にさわって、わざと正反対の方向へ歩き出した。
 隼一郎はファルコン(ハヤブサ)かい。差をつけてくれるよな。学園の英雄と鳥マニアの新入生。どんな関係だか知らないけど、二人はきっと中学部からの……ひょっとしたら小学部からの知り合いなんだ。
 木々の枝を乱暴にかきわけながら歩いていく僕の周りで、鳥たちは声をひそめてしまっていた。


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