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第一章 営巣 (5)

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2006/04/10 Mon.


 一年三組、理系特進クラスの授業初日、名門私立高校の教師陣は新入生たちに明確なメッセージを送った。
 いきなり因数分解の問題を黒板に書き連ねて解答者を指名した数学教師。時間中、一度も日本語をしゃべらなかった英語教師。返り点のまったくついていない漢詩のプリントを配った国語教師。
 ついて来られない者、ついて来る気のない者の世話までするつもりはない。望んで入学してきたのだから、自分のことは自分でなんとかしろ、ということだ。
「私学は客商売やろ。無愛想がすぎるんとちゃうか」
「外部組」の男子生徒が二人、ぶつぶつと聞こえよがしに不満を言いかわしていたが、教師も他の生徒も相手にしなかった。
 教室はいつの間にか静かになった。
 僕の斜め前の席では御影が黙々とノートをとっていた。時々机の下で携帯を操作している。大胆というか、傲慢というか。後列の窓際では、高塚が小さなため息をついた。
 教室の一番後ろ、出入り口に一番近い席には誰も座っていなかった。
「あそこ、席あいてるのかな?」
 隣の男子生徒に何の気なしに声をかけた。西代という名前で、内部進学組のようだ。西代は黒板を見つめたまま、メタルフレームの眼鏡を中指で押し上げた。
「長田の席や」
「長田?」
 そんな名前の生徒、このクラスにいたか?僕の疑問を察して、西代が応えた。
「四限の理科には出てくると思うよ」
「何、それ?数学や英語は受けないってこと?」
「あいつはそれでええんよ」
 わけがわからなかったが、それ以上のことは教えてもらえなかった。
 ……でもこれって、ひょっとしたら。ひょっとするかも。
 四限目、生物の授業が始まって十分ほどたった頃。問題の席にいつの間にか、ちょこんと座っている生徒がいた。僕のほのかな期待は……半分だけかなえられた。
 小枝のようにきゃしゃな足なので制服のスラックスはだぶだぶだが、確かにあの日見たのと同じ栗色の髪、色白の肌に長い睫毛と大きな目だ。長田こそ僕の「幻の君」だった。それは確かなのだが。
「……男……」
 全身の骨格筋から力が抜けて、椅子からずり落ちそうになった。
 それにしても、教室の彼(!)にはあまり生気が感じられない。昼間のホタルというか、晴天のカタツムリというか、どことなく薄ぼんやりした印象だ。こうしてみると、さほどの美少年とも思えない。緑の木漏れ日に映えたあの輝きは錯覚だったのか?
 授業は例によって教師のペースで進行していたが、僕は斜め後方の席がどうしても気になって、勉強どころではなくなっていた。
 半分開いた窓から暖かい春の風が三階の教室に吹き込んでくる。黒板をこするチョークの音に混じって、さらさらと葉ずれの音が聞こえる。長田は横に並んだ生徒たちの頭越しに、窓の外の一点を凝視しているようだった。
 そろそろこの時間の授業も終わりという頃、何の前ぶれもなしに長田が片手をさしのべた。きらりと光った視線の先、窓の外を僕が見たのと、そこに一羽の小鳥が姿を見せたのと、ほとんど同時だったのではないか。
 あざやかな青い羽根の小鳥はほんの一瞬、枝にとまって小首をかしげ、すぐに飛び去った。長田は満面に笑みを浮かべてその姿を見送り、そのまま僕を振り返った。
 いつから僕の視線に気がついていたんだろう。小鳥を見たのは僕ら二人だけだよ、と目が語っていた。少なくとも僕にはそう感じられた。その瞬間の長田の笑顔はやっぱりまぶしいくらいにきれいで、ちょっとの間見とれていたと思う。
 彼の本意を確かめることはできなかった。昼休みを告げるチャイムが鳴る頃には、教室からいなくなってしまっていたから。
 そう、その時の僕は長田と小鳥のことで頭がいっぱいで、自分も見られていることには気づいていなかった。後でわかったことだが、御影と西代は僕の挙動をじっとうかがっていたのだ。

 放課後の体験入部には女子も含めて十五名ほどの「外部組」が集まった。
 「内部進学組」の入部希望者は、道場の上級生に混じってさっさと練習を始めていた。中学部にも同じ部活があって合同練習もしているので、体験の必要はないわけだ。
 塩屋さんは部員たちの間をゆっくり歩きながら、気さくに声をかけ、姿勢を直したり助言をしたりしていた。周囲より頭ひとつ分くらい背が高いし、優雅な身のこなしはそれだけで人目をひく。女子の中には彼を見たくて体験に参加した子もいるみたいだ。よそ見をしながら、くすくすと小声でおしゃべりしている。
 僕たち、ど素人は学校指定のジャージ姿で一列に並んだ。案内役は、わりと小柄な女性師範だった。軽くウェーブのかかった茶髪に小さなルビーのピアス。きびきびとした動作に薄手の道衣がよく似合っている。
「郭玲です。チージャン省チューヂョウ市の本部道場から来ました」
 大陸の人でも髪を染めるのか、と思うのは僕の認識不足だな。地方の拳法家というより都市部のキャリアウーマンみたいだけど。
「本場では名の通った道場なんですか?」
 新入生のひとりが質問した。
「地元では饕餮拳と呼ばれている流派です。日本風に読むとトウテツ・ケン。饕餮って知ってる?」
「ラーメン鉢のうずまき模様ですね」
 僕のことばに数名が吹き出した。郭師範はクールな笑顔で受け流した。
「それは饕餮文ね。漢字が難しすぎて書きにくいから、ここではあまり使いません」
「詠春拳や白鶴拳の系統なんですか?」
 さっきの新入生がまた質問した。ウンチクから入門するタイプだな。
「洪家拳の流れを汲んでいますが、蹴り技は少林拳の型も取り入れています。実用性があれば系統にはこだわりません」
「練習は呼吸法から始めるんですか」
「呼吸は大事です。でも、そればっかりじゃ若い人は飽きちゃうでしょ」
 師範はラジオ体操のように大げさに深呼吸のふりをしてみせた。生徒たちの間からまた、笑い声がもれた。なかなか、気持ちをつかむのがうまい人だ。
「まずはみなさんが今持っている力を最大限ひきだすことから教えます。強くなれると実感したら、基礎訓練も苦にならなくなるでしょう」
 ようやく実技指導が始まった。
「足を肩幅に開いて。少し腰を落として」
 高塚はかなり無理をして膝を深く曲げた。そのまま姿勢を保つことができずに足をすべらせ、尻餅をつきそうになった。ずっこける前に師範がすばやく脇を支えてやった。
「すみません。筋力ないっす」
 情けない顔をした高塚に師範は優しく言った。
「最初はできる範囲でいい。今ある力を生かすこと」
 わずかに膝を曲げた位置でちょいちょいと姿勢を修正してやる。
「ほら、この高さなら安定する」
 次は僕の番だ。高塚が最初に試みたよりは高めに腰の位置を決めてみる。クチナシの葉の上で交尾するナミテントウを観察した時の目線がこれくらいの高さだったかな。
 軽く曲げた膝の下に師範の手が触れた。そっと押される向きに自然に足が動いた。ちょっとのことだったが、姿勢の維持がかなり楽になった。これなら一時間くらい観察を続けていても足がしびれることはなさそうだ。
 師範は一歩さがって首をかしげた。
「お稽古したことある?空手とか合気道」
「いいえ」
「強い人が身近にいる?動きを見せてもらうこと」
「あります。……たぶん」
 師範がうなずいた。
「いい目をしているね」
「見てるだけで上達するんすか?」
 高塚が熱心に質問した。
「イメージ力。教えられた時に意図が見通せるから、上達がはやく、身につきやすい」
 説明しながら、師範は目元で笑った。
「もちろん、自分で動かなければ意味はない」
 僕に入部する気がないことはお見通しのようだ。黙礼して次の生徒に場を譲った。
 全員がそれなりに姿勢を整えたところで、正拳突きの指導が始まった。
 僕はそっと列を離れて、稽古場の外に出た。高塚は真剣に練習している。放っといても問題ないだろう。
 武道館の裏手の傾斜地は松林で、そのすぐ下から雑木林が始まっていた。中にはっきりした踏み分け道が通っていた。道なりに下っていくと、テンポの速い手拍子が聞こえてきた。
 斜面を切り開いてならした円形の広場で、二十人ほどの生徒が稽古をしていた。全員が朽葉色の道衣姿。女子も五、六人混じっている。おそらく上級者ばかりだろう。武道館にいた連中とは動きが違う。手拍子にあわせてとぎれなく優雅に手足が動く。それでいてひとつひとつの所作がしっかり決まっている。
 近寄ってみると、西代がいた。他にも見覚えのある一年生が数名混じっていた。中等部から修練を積んできた連中か。
 手拍子を打っているのは角張った体格の上級生だった。顎部がとがったホームベース型の顔つきに、スズメバチの頭部を連想した。僕の気配を察して、首だけまわしてこちらをにらんだ。肉食に特化した骨格だ。あまりお近づきにはなりたくないタイプだな。
 気合いの入った練習の邪魔にならないように、迂回して下山しようとした。
 踏み分け道をはずれたのがまずかった。雑木林の中で、また自分がどこにいるのかわからなくなってしまった。
 不思議だ。ムシを捜して家の近くの山林をしょっちゅう歩きまわっていても、僕はめったに道に迷ったことはない。この学園の杜に限って、なぜか方向感覚を狂わされてしまうのだ。
 ともかく、坂を下ればどこかで林はとぎれるはずだ。今回は堀にはまらないように、足元を確かめながらそろそろと歩いていった。
 現在地を確かめるまではムシの観察は置いておこう。そう決めていたはずなのに、少し離れたところを黄色地に黒い筋の羽根をしたチョウがひらひらと飛んでいくのを見た途端、我を忘れて後を追いかけていた。この季節のアゲハチョウ科。ひょっとしてギフチョウかも。
 枝をかきわけて進むうちに、いつの間にか周囲の樹木の種類が変化していた。クヌギのかわりに、かなり大きなシイの木が目立ち始めた。
 もう少し近寄ればチョウの種類を確かめられる、というところで今度は無粋なフェンスにつきあたった。チョウはフェンスを超え、その向こうの背の高いクスノキを超えて飛び去ってしまった。学園の敷地はここで終わり、この先は隣の神社の境内らしい。
 有刺鉄線にひっかかったジャージの裾をひっぱり、ほつれかけた糸を見て悪態をついた。その時、林のどこからか声を殺して笑う気配がした。振り返って耳をすませたが、もう何も聞こえなかった。
 かわりに巣に戻る鳥たちの鳴き声がした。この杜にはなんてたくさんの鳥が住んでいるんだろう。でも、その姿は深い木々の間にまぎれてなかなか見ることができない。
 鳥たちの杜に受け入れてもらうためには、それなりの準備が必要らしい。僕はフェンスに沿って坂を下りながら、頭のなかで出会いのための計画を練りはじめた。


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