第一章 営巣 (4)
2006/04/09 Sun.
「もちょっと、前」
「こう?」
二人で抱えた小さな冷蔵庫をそろりとベニヤ板の上に降ろした。一応二ドアで単身女性向きらしくパールホワイトに塗装されている。殺風景な六畳間に置かれるとどうにも場違いだったけど、キアはあまり気にしていないようだ。
外装はまだまだ新しそうに見えて、扉を開くと棚や引き出しのあちこちに汚れが目立った。茶色いねっとりとした塊。薄く広がった橙色のべとべと。
「チョコレートにマーマレードか。もとの持ち主は甘党だったんだな」
「道理で虫歯が多かった」
「……なんで知ってるのさ」
ジト目でにらんだ僕のつっこみを涼しい顔で聞き流して、新しい持ち主は庫内の掃除を始めた。僕は肩をすくめ、ひとりで階下の一〇二号室に戻った。
がらんとした部屋の中に残っているものが何もないのを確かめ、大家さんに預かっていた鍵でドアを閉めた。振り向いたところで、すぐ後ろに立っていた人とぶつかりそうになった。
僕よりわずかに背の低い無精髭の男性だ。こちらをじろじろと見ながら、顔に似合わない高い声で言った。
「俊子はどこへ行った?」
冷蔵庫を置いていってくれた女の人のことだろう。初めて名前を知った。
「昨日引っ越していかれましたよ」
「そんなことはわかっとる。部屋がからっぽなのは見た。どこへ行ったか聞いとるんや」
「知りませんよ。いらなくなった家電をもらう約束をしてただけですから」
「うそやろ。お前、俊子とどういう関係やったんや」
一歩詰め寄られて胸ぐらをつかまれるかと思った時、
「ちょっと、そこどいてんか」
男の人の背後から野太い声がかかった。
「堂島さん!どうして……」
「空き部屋がでけた言うから見に来ただけや。通してんか」
堂島警部補は明智署の刑事さんだ。身分を明かさなくても、剣道四段、柔道二段の堂々たる体躯と鋭い目つきは十分威圧的だ。
男の人は見る間に戦意を喪失し、両目を潤ませながらとぼとぼと歩み去った。
「俊子ぉぉ……」
情けない声を聞いて胸が悪くなったが、いったいどんな気持ちなんだろう、と不思議でもあった。僕は人前で泣くほど誰かを好きになったことなんてなかったし。
堂島さんにとっては別段珍しい光景でもなかったようだ。
「部屋ん中が見たい言うたら、滋に鍵預けとるて大家がな」
「鍵はありますけど……本当にここへ引っ越してこられるつもりなんですか?」
「ほんまは二階のほうがええねんけど」
いろいろあって、堂島さんは目下、三DKのマンションで一人暮らしをしている。広すぎる家を引き払いたい気持ちはわかるが、寿荘はまずいんじゃないか。
騒ぎを聞きつけたキアが二階の外廊下から手すり越しに首を出した。堂島さんをみつけて、案の定いやそうな顔をした。
「何しに来た、おっさん」
「お前には関係ないわ。まだクビはつながっとんかい、くそガキ」
「俺が路頭に迷うの待ち望んどうやろ、くそデカ。そうはいくかい」
僕はもう一度一〇二号室の鍵を開けて堂島さんを押し込んだ。
「表で大声出さないでくださいよ。恥ずかしい」
「あいつがへらず口たたくから、ついつい、な」
堂島さんは白いものの混じった頭をかき、それから真顔になって声を落とした。
「あのアホの高校はどないや。江坂は何かしてきよったか」
僕もつられて小声になる。
「大丈夫そうですよ。あっちは校内で権勢を誇示したいだけです。こっちが邪魔しない限りは動かない」
西中OBのうち、キアを恨んでいそうな連中の進学先はおさえてある。江坂の計算高い性格も、進路選びの時から折り込み済みだ。
「あとさき考えずにつっかかって来そうなのは、淡路や茨木ですね」
「市立北の二年やな。もうほとんど登校してへん。塚口らとつるんで大人のぬかるみに片足つっこんどる」
「よくご存じですね。少年課にお知り合いでも?」
「きみはそんなことまで気にせんでええ」
「あと気になるのは八紘経理の売布です。立ち回りはうまいけど、根に持つタイプだから」
「あいつな、不思議と名前が出えへんのや。グループを仕切っているのは確かなんやが、尻尾をつかめん。バックがおるんかもしらんが、それもわからん」
「滋に手出しさえしなけりゃ、いい。よそで何していようと、僕には関係ない」
堂島さんはちょっと反論したそうに見えたが、口には出さなかった。
刑事さんは自慢の大型バイクにまたがり、爆音をたてながら帰っていった。BMWのRとかGSとか言ってたっけ。千CC超クラスの輸入車だ。
二〇五号室に戻ると、キアが冷蔵庫の掃除に区切りをつけて台所に立っていた。
「くそデカ、帰ったか」
「そこまで言うなよ。身元保証人として、心配してくれてるんだから」
堂島さんに借りがあることを思い出して、キアはちょっと悔しそうに口をひんまげた。コンロにフライパンをかけて、なにやらフライ返しでかきまわし始める。
僕は黄ばんだ畳に腰を降ろした。
「茅島高は、どう?」
「のんびりしたもんやで、定時制は。授業が始まるのは来週後半や。そっちは?」
「なんか、西中とはいろいろ違ってて、とまどっちゃうんだよね」
「はん?」
「授業中に廊下にたむろってる連中がいないとか、トイレに吸い殻が落ちてないとか、校門前の風紀指導がないとか、ジャージにサンダルばきの先生がいないとか」
「お前には楽なとこやん」
「ん……かえって拍子抜けってか、同級生もぱっと見はみんな可もなく不可もなしって感じで……特徴がつかみにくいってか」
「見た目をとりつくろうのはうまいか。化けの皮を剥ぐんはこれからやな」
「また、そういうひねた言い方をする」
「ラスは人がええから」
「そんなんじゃないよ……」
僕がお人好しに見えるのは、お前といる時だけだよ、と心の中でつぶやいてみる。お前が朗らかに見えるのも、僕の前でだけなんじゃないか?
塩屋さんと中国拳法部の話をするのはためらわれた。寿荘の日常とは、別世界の出来事みたいだったから。
「どや」
目の前につきだされた皿には、なんだか黄色いぼそぼそした物体がへばりついていた。
「何、これ?」
「オムレツ」
「……焼き過ぎじゃない?」
「初めて作ってんから、そううまいこといくかい」
キアはまたむくれて、物体をスプーンでかき寄せて頬ばった。ぱさぱさして食べにくそうだったが、文句ひとつ言わず、どうにか噛みしめてコップの水でくい、と飲みくだした。
「卵は家で料理するんが一番安つくんや」
「意地っ張りなんだから」
僕はくすりと笑って、下を向いた。畳の縁をいじりながら小さな声で言った。
「明日から本格的に授業が始まるんだ」
「ああ」
「まっすぐ帰っても五時はまわると思う。平日には、もう会えないな」
「こっちの工場は水曜定休やから、週末の日中も無理やな」
返事はせずに、指にあたったイグサのささくれをむしった。週に一回でも会えるだけましなんだと自分に言い聞かせた。
第一章 営巣 (1) に戻る