第一章 営巣 (3)
2006/04/07 Fri.
入学式はひたすら退屈だった。
学園長、高等部長、PTA会長、延々と祝辞が続く間、僕の思考は講堂から漂い出て空にのぼり、だだっ広いキャンパスを鳥の目線で見おろしていた。
記憶内の二万五千分の一地勢図にネットからダウンロードした航空写真をかぶせて微修正する。明峰学園の敷地は江戸時代までは里山と神社の社の一部と田んぼだった。内海を見おろす風光が明媚だと、明治時代に華族が買い上げて別荘地にしたという。雑木林を切り開いて洋風の迎賓館だのホールだのが建てられた。大正時代に旧制中学校が設立された時には、それらの建物が校舎に流用され、今に至っている。北側の傾斜地をずっと上った奥には、鎮守の杜の一部だった原生林も残っている。ハンドボールコートは、ため池を埋め立てて整地された。
乱開発をまぬがれた多様な植生の混じる聖域。よそでは絶滅してしまったような貴重な種類の生物が生息しているはずだ。まずは校内のめぼしい木々や建物の配置を直接チェックして、自分なりのマッピングをすることから始めよう。
頭の中の計画に夢中になっていたせいで、式の終了に気がつかず、数分間ぼけっと座っていたらしい。いきなり両目をふさがれてぎょっとした。とっさに持ち上げた手が白いすんなりした指をつかんだ。
「聡、また幽体離脱してたでしょ」
舌を出して笑いかけてきたのは御影涼香だった。柔らかな黒髪がさらさらとなめらかな頬の肌をなでて揺れた。
女の子の手を握ってしまったことが気まずくて、わざと邪険にふりほどいた。
「関係ないだろ。席へ戻れよ」
「これからは自由行動の時間ですよーだ。聞いてなかったでしょ」
確かに、講堂内の新入生たちは思い思いに散らばったり、知り合いをみつけてくっついたりしているようだ。
「今すぐお昼にしてもいいけど、食堂が混みそうね。先にクラブ紹介を見てこようかな」
「お好きなように。僕はここの裏手の並木を見に行くつもりだから」
「木を見に行くんじゃなくて、ムシをほじくりに行くんでしょ。成長しないわね」
御影はつま先立ちでつんつんと二歩さがり、腰の後ろで両手を組んだ。通りかかった男子生徒が目をまるくしてその姿を見つめ、頬を染めて足早に立ち去った。
確かに人目をひく、容姿に恵まれた女の子だ。自分でもそのことをわかっていて、上手にふるまうところが見えてしまう。それが僕にはうっとうしい。
「わかってるなら邪魔しないでくれるかい」
御影はつんと顎をそらせて僕をにらんだが、それ以上は何も言わずに離れていってくれた。待ちかまえていたように、数名の女子がつき従った。もう取り巻きを集め始めている。懲りない子だ。
残った僕のところにも、ひとりの男子が寄ってきた。
「すごい美人やね。知り合い?」
「中学が一緒だっただけだよ」
胸ポケットの名札には「高塚」と刻字されていた。高塚も僕の名札を確かめ、迷ったようにつぶやいた。
「……カラスマル?」
「カラスマだよ」
高塚はほっとして聞いてきた。
「きみも外部組?」
中学部からの持ち上がりではないという意味なのだろう。僕は黙ってうなずいた。
「なんか、肩身狭いよな。周りの連中はみんないけいけで固まってるみたいやし」
彼のいう外部組は四十人。全体の四分の一を占めているのだから、その表現は誇張だろ、と思った。やっぱり黙っていることにしたが。
僕の沈黙を勝手に共感だと勘違いして、高塚はぺらぺらとしゃべり続けた。
「女子でも知り合いがいるだけええよな。僕の中学からはひとりだけやし。知らん顔ばっかりやと、どんな風に見られてるかとか、いらんこと考えてまうし。ねえ、そっちも連れがいないんなら、一緒に見学に行かへん?」
御影の時と同じ理由を言って断るつもりだった。なにげなく講堂の出入り口に視線をうつし……そこで息が止まった。あの、林の中で目に焼きついた栗色の髪が通り過ぎたのだ。
ドアに駆けよって外の歩道を見まわした。幻の人は坂道を上っていく人混みにまぎれてすぐに見えなくなった。入学式に出席していないことは何度も確かめていたのに。なんで今頃になって新入生に混じっているんだ?
めんくらいながら追いついた高塚が僕の目線を追って声をかけてきた。
「そっちは武道館や。体育系クラブの勧誘をやってるよ」
「行ってみよう」
靴を履き替えるのももどかしく、他の生徒たちの間をぬって坂道を走った。高塚も息をきらしながらついてきた。
武道館は別荘地時代に建てられた堂々たる木造建築物だ。白木の床部分は磨き込まれて黒光りし、今のこの国ではとても手に入らないような太い丸太が梁や柱として贅沢に使われている。お寺か神社なみの荘厳さだが、線香ではなく汗と革製品と湿布薬のにおいがした。
「重要文化財やったと思う。学校案内に写真が載ってた」
高塚が小声で言った。
新入生たちは道場の板の間に座って、各クラブの代表の勧誘スピーチを聞いていた。
野球部、水泳部、テニス部、バスケットボール部……。
栗色の髪の人はどこにも見あたらず、僕はさっきから高塚を置いてこの場を離れる口実をさがしていた。周囲の生徒たちもそろそろ退屈してざわつき始めていた。
ところが、卓球部の代表と入れ替わりに、朽葉色の道衣を着た長身の男が前に立った途端、どよめきと拍手がわいて、急に場の雰囲気がひきしまった。
「塩屋さん……」
「すげえ。やっぱりナマで見ると迫力あるなあ」
高塚が感嘆の声をあげ、
「有名人なの?」
僕の質問に信じられないという顔をした。
「知らへんの?三年前の明峰中等部不法侵入傷害未遂事件で、犯人を取り押さえた英雄。中国拳法の達人で明峰自警団のリーダー。今や高等部の若きカリスマ」
僕が小学生の頃、学校に侵入した部外者が児童を殺傷する事件があった。その後、先生が卒業生に殺される事件もあって、一時期マスコミが騒いでいた。記憶には残っていないけど、この学校でも似たような事件があったということか。
塩屋さんはマイクを持たず、朗々と響く声で話し始めた。
「新入生諸君。努力と忍耐を重ねて、今この場に到達した君たちに、大勢の人たちから祝いと賛辞のことばが送られたことと思う」
高塚がうれしそうな顔をした。
「すでに気づいているだろう。世の中が君たちを見る目が変わったことに。明峰の制服を着ているだけで、尊敬される。丁重に応対される。人が寄ってくる」
僕は首をかしげた。
「そうかなあ。実感ないな」
「だからといって、いつまでもふわふわと感激にひたっているような君たちではないはずだ。すでに頭の中ではこれから始まる授業の内容だの、三年後の大学受験の心配だのがうずまいているだろう。明峰の名に恥じない生徒でいるためには、入学後も相当の努力が必要だと覚悟せよ」
高塚の顔がまた不安そうになった。
「中学生の頃は、春までの辛抱だと親に言われて素直に勉強してきたかもしれないが、高校生になったのだからもうわかるだろう。努力すれば楽になれるなんてのは嘘だ。高所に登れば、さらなる高みを目指さないわけにはいかない。君たちは一生涯続く登山競争のスタートに立ってしまったわけだ」
「ひとの人生、勝手に決めつけてくれちゃってるよ」
わざと冗談めかして言ってみたが、僕の声は高塚には届かなかったようだ。
「努力を続けるには目標が必要だ。当たり前だが、君たちは今まで、本当に納得のいく目標を持って努力してきたか?ただ親を喜ばせるため、自分の将来の安心のため、なんてけちな了見ではなかったか。もしそうなら、君たちに告げよう。真の努力目標、真の理想とは、人のために尽くせる人間になることだ」
へえ、そういう展開になるのか。いったい塩屋さんの演説は、どこでクラブ勧誘につながるんだろう。
「競争を勝ち抜くためには情け無用、利己心に徹すべきだという意見もあるだろうが、残念ながら現代社会で私利私欲だけを追求すれば、集団不適応とそしられるだけだ。かといって、世間並みを気にして衆愚に埋もれるのも我々にはふさわしくない。明峰生諸君よ。堂々と上に立ち弱きものに手をさしのべたまえ。秀でたものには他者に尽くす名誉が与えられる。道を知りたいか?私が先導しよう」
塩屋さんはさわやかな笑顔で締めくくった。
「中国拳法部で待っている」
高塚がほっと気をゆるめた。不安な表情は消えていた。
「なるほどなあ。考え方や」
僕は眉根にしわを寄せた。
「目的と手段が逆転してない?誰かの役にたちたいから努力するってのならわかるけど。勉強するのに理由をこじつけてるみたいじゃないか」
「別にええやない。建前あるほうががんばれそうやし」
「その建前さがしと中国拳法部がどうつながるのさ?」
「ほんまに何も調べんと入学したんやね」
高塚はちょっと得意げに鼻をこすった。
「例の事件の後、高一になった塩屋隼一郎が、拳法部の有志を集めて自警団を結成してんよ。生徒が自主運営する校内パトロール組織」
「ガーディアン・エンジェルズみたいなもの?」
いかつい体育会系部員に素行を見張られたんじゃかなわないと思ったが、高塚の話では、あくまで部外者の侵入防止が目的なのだという。そんな事件が再々おこるはずもないだろうに。ご苦労なことだ。
ひねくれた考え方に我ながらちょっと嫌気がさした。うしろめたかったせいだろう。
「来週の放課後、体験入部してみよ。一緒に。なっ」
高塚の調子のいい提案についついのせられてしまっていた。
その夜、ダイニングテーブルには珍しく家族全員が揃った。こんなに早い時間に父さんの顔を見るのは久しぶりだ。
妹の勇は小学五年生になった。いつもと変わらず、きゃぴきゃぴとおしゃべりに余念がない。適当に合いの手をいれる母さんの横で、父さんは淡々と銚子を傾けている。
僕は菜の花の辛子和えに箸をつっこみながら、ぼそっとつぶやいてみた。
「入学式はどうだったとか、今日から高校生だねとか、誰もちっともきかないんだな」
「ふむ。きいて欲しかったかな」
父さんが猪口をおいて僕に向き直った。
「入学式はどうだったかね」
「別に。退屈だっただけだよ。期待もしてなかったけど」
「聞いて欲しそうやったわりには無愛想な返事ね」
母さんがつっこみをいれた。
「見た目は林の間に校舎が建ってるって感じ。どこに行っても本館の時計塔は見えるけど」
「それはよかったわね。聡、緑が見えへんと窒息するでしょ」
「まあ、外箱より大切なのは中身の人間だからな。来週からぼちぼち、いろいろあるだろう」
「ぼちぼち、いろいろね。よくわかるよ」
合格発表の報告をした時もこんな感じだった。
「納得してるんだね」
と、一度念押しされただけ。あっさりしたもんだ。
塩屋さんの話は大げさすぎると思ったけど、他の家ではどんな感じなんだろう。高塚の親はお祝いとかしたのかな。
食器を片づけてテーブルを拭いていると、母さんが菓子折を出してきた。
「デザート、食べる?」
ラベルも包装もない紙箱の中に、不揃いな利休まんじゅうが十個くらい入っていた。
「滋くんの試作品。仕事の合間にちょっとずつ練習させてもうてるんやて」
「今日、来てたのかい?なんで教えてくれなかったの!」
つい大きな声を出してしまった僕を見て、母さんがあきれ顔になった。
「聡の帰れる時間やなかったし。いつ報告したかて一緒やない」
そう言って、一番大きそうなのを一個、小皿に載せて父さんに手渡した。
「お父さんの同窓に和菓子屋さんがいるなんて知らんかったわ」
「学生の頃には、まんじゅう屋の跡取りになんて絶対ならないと言ってたやつだがね」
先代が細々と営んでいた小さな店は、今の社長の代になってターミナルビルに支店を出すほどに急成長したという。キアが勤めているのは本店に併設の製菓工場だ。
「そうそう、滋くんから伝言。明日は同じアパートの人の手伝いかなんかで忙しいから、あさって日曜の夕方に来て欲しいって」
そういうことこそ早く教えてくれ、と言いたかったが、まんじゅうを無邪気にぱくつく母さんを見ていると気が失せた。黙って小さめのをつまんで口に放り込んだところで勇が茶々をいれた。
「お兄ちゃん、膨れたぁ。おまんじゅみたい」
足を踏んづけてやろうとしたらぴょんと逃げられた。
「きゃい!」
とかなんとか、わざとらしい声をあげて。
母さんは、またやってるの飽きもせずいいかげんにしなさいよの顔になって片眉をあげた。
「やっぱり聡のほうが危なっかしいわよ」
「やっぱり引き受けろということかね」
父さんがのんびりと応える。
「何の話だよ」
「高校のPTAの人から電話をもらってね。役員にならんかというんだ」
こし餡が喉につかえた。一番避けて欲しかった展開だ。
「ピンポイント指名されたの?なんで?」
「御影さんの推薦らしい」
うげ。御影のおばさんたら。自分がなりたくないもんだから。
「やめてくれよ。勇の小学校だけで十分だろ」
「そっちに行ってるのは私やけど、聡のとこはお父さんのほうがいいかしらって」
「そこまで心配しなくてもよかろう、と思ったんだが」
「滋くんのほうがずっとしっかりしてるって、言うたとおりでしょ」
「もう、いいってば。とにかく断ってよ」
この歳になってまで親に学校に来られてたまるかって。
「お兄ちゃん、タコになったぁ。湯気でてるしぃ」
ここで勇に反撃したら母さんの思うつぼだ。にらみつけるだけにしてやったら、図に乗ってへらへらと舌をだした。これだから妹なんて欲しくなかったんだ。もうゲーム攻略法の検索なんか手伝ってやらないからな。
検索で思い出した。
「父さん。ネット回線、借りるよ」
リビングのモデムからずるずるとケーブルを伸ばして、二階の部屋までひっぱりあげた。
「パソコンを持って降りたほうが早いんやないの?」
母さんがひと声つっこんできたが、返事をしないでいるとほっとく気になってくれたようだ。
僕のノートパソコンは父さんのお古だ。バッテリーがへたって持ち運べなくなったからと、譲ってもらった時には旧機種でもめちゃくちゃうれしかった。ただし、ネット接続はいまだにADSLで父さんと共有だ。
大手の検索サイトから「明峰学園 侵入事件」と入力して検索をかけた。めぼしいヒットはなかった。新聞社のサイトから過去記事も調べてみたが、それらしい記載は何も残っていなかった。被害者が出たのならともかく、不法侵入だけで終わったのでは、たいしたニュースバリューもなかったようだ。あとは図書館にでも行って地方紙のバックナンバーをあたるくらいしか調査の方法はないだろう。
僕の前頭葉は別にそこまで詮索する必要もないと告げていたが、大脳返縁系のあたりがなんとなくひっかかっていた。これから三年間、つきあうことになった学校の過去を自分だけ知らないのも気持ち悪いということか。
まあ、同じクラスの連中のほうがいろいろ知っているみたいだから、それとなく聞いてまわってから図書館に行っても遅くはないだろう。
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