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第一章 営巣 (2)

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2006/03/29 Wed.


「それで?」
「ビークマークだったんだよ。鳥のくちばしの痕。シジミチョウの後翅の模様は、天敵である鳥類の目をくらます擬態なんだ。後翅を食いちぎられても命には別状ないからね」
「ムシやのうて、べっぴんさんのほう」
「……別に。見かけたのは一回きりだし」
「新入生やなかったんか」
「わかんない。中学部からあがってくる連中は呼び出されてなかったし、生徒かどうかも確かじゃないし」
 それをいうなら人間かどうかも不確かな気がしたのだけど。帰りしなにもう一度雑木林に踏み込んで迷子になりかけたことは話さなかった。
 それでもキアは僕の顔色を見て、口の端をちょっと持ち上げた。
 僕らは国道沿いのショッピングセンターからてくてく歩いて、木造アパート「寿荘」の前まで帰りついたところだった。錆びかけた鉄製の階段を上り、外廊下のつきあたり、二〇五号室が葺合家だ。両手に大きな段ボール箱を抱えた住人の代わりに、郵便受けから中身をつかみとり、ドアの鍵を開けてやった。
 キアの頭が戸口すれすれの高さを通った。中学一年の頃には女子より背が低かったのに。身長の伸びに横幅が追いつかず、ぱっと見は青竹のようにひょろりとしている。こんな時でないと変化を意識しないのは、僕も身長だけは同じように伸びているからだろう。
 後に続いて部屋に入ったところで、スニーカーを脱いだ裸足の指がひょいと伸びてきて、僕の手から器用に郵便物の束をつまみ取った。キアはそのまま軽やかなケンケンでほとんど家具も置いていない六畳間をつっきり、窓際の流し台に段ボール箱を載せてから、おもむろに紙束を手にとった。
 卒業式以来、こいつの浮かれようは尋常ではない。さっきホームセンターでいきなりバック転を決められた時には、他人のふりをしようかと思った。台数限定の特売品を首尾良く手に入れて、うれしかったのはわかるけど。
 僕はキアが厚みのある封筒の束をぱらぱらめくるのを横で眺めていた。ほとんどは「葺合徹様」あてのダイレクトメールだ。一通だけ、「葺合滋さま」とボールペンで宛名書きされた白い封書があった。ひっくり返すと、差出人名は「津守幸子」。その下には逢坂市内の住所が書かれていた。
 キアはDMをくずかごに放り込み、ひと呼吸おいてからびりびりと手紙の封を切った。レポート用紙のような便箋が一枚と写真が一枚。便箋を半分ほど埋めた短い文章を読み、同封された写真を見て、ほっこりと目を細めた。
「初音と菱一が小学生になる」
 見せてくれた写真には、「卒園式」の立看板と花飾りのついた門の前、揃いの紺のスーツでめかしこんだ二人の子供が写っていた。ピンクのカチューシャで髪をまとめた活発そうな女の子と、背もたれ付きの車いすに座った男の子だ。二人の表情に記念写真のかたさはない。安心しきった笑顔で見つめている。カメラを持った人を。
 ……母親。
「なあ、お前の母さん……お前が、父さんと暮らしてるって思ってるんだろ?いいのか、そのままで」
「住民票ではそうなっとうしな。この部屋に男二人寝起きできるかっちゅうねん」
 キアは写真と便箋をもとどおり封筒に入れて、三段ボックスの隙間に放り込んだ。
「事情を説明するんもめんどいし、今さら頼みたいこともない。身動きもとれんやろ。この下にまだ二歳の楔二がおる」
「会いに来るのが難しいのはわかるけど……そうじゃなくて……」
 僕のことばをさえぎるように、唇を薄く伸ばしてにやりと笑った。
「津守のおっさんには、オカン泣かせたらシバキ倒しに行くて言ぅてある」
「そうじゃなくって!」
「いらん心配はかけんでええ。もちっと落ち着いたら、こっちから会いに行くさ。一度は楔をだっこしてやりたいしな」
 返すことばをなくした僕の前で、キアは段ボール箱を開けて二口のガスコンロを取り出し、流しの横のプロパンガスのソケットにつなぎ始めた。
「そろそろ自炊にも本腰いれんと」
「……仕事と学校に慣れるだけでも大変なんじゃないか?」
「職場にはもう、先週から行っとう。仕事の中身はたいしてややこしない。今んとこ材料運びと荷出しくらいやからな。お前が心配なんはこっちやろ」
 くるりと僕のほうに向き直って、気をつけの姿勢からきっかり三十度腰を曲げてみせた。
「ありがとうございましたあ!おはようございまっす!お先、失礼しまっす!すみませんでしたあぁ!」
 帽子を片手で脱ぐふりまでしてみせて、くすくす笑い出す。
「ちゃんと言えるようになったやろ」
「たいした進歩だ」
「金儲けのためや思えば腹も立たん」
 仕事じゃなけりゃ挨拶しないつもりか?それはちょっと違うんじゃないの、とつっこむのはやめておいた。ともかく頭をさげられるようになっただけでも上出来なのだ。
「月末で研修期間は終わりで、四月から正規採用の予定だったね」
「それまではボロ出さんよう気ぃつけるわ」
 さらっと言ってくれるのだが、聞いているほうがどんどん不安になってくる。そんな僕の顔を見て、キアは肩をこづいてきた。
「先に自分の新入学の心配せえよ、ラス」
「成績さえ落とさなきゃ大丈夫さ。すぐにトラブりそうなやつはいなかったし」
「べっぴんさん、みつけたら紹介してな」
「それまでは仕事も学校も続けといてくれよ」
「連休明けくらいまでもったら、烏丸の親父さんに礼に行くわ」
「そこまでかしこまらなくても、気楽に遊びに来いよ」
 キアは照れくさそうに頭をかいた。
「中学のご縁も切れたし。甘えてばっかりもおれんからな」
「同窓生の会社を紹介しただけじゃないか」
「俺がしくじったら迷惑かけるやろ」
「それでわざわざ堂島さんに身元保証人になってもらったのか」
「おっさんなら社長に文句言われても屁でもないからな」
 堂島さんになら迷惑かけてもいいのか?それもちょっと違うんじゃないの、とつっこむのもやめておいた。口で言うほど無責任なやつじゃないし、不安を感じて当然の状況なのだから。
「就職祝いに中古の冷蔵庫でも捜してきてやろうか」
「そっちは、不要品をもらえるあてがある。まだ内緒やけどな。夜逃げの手伝いと引き替えや」
 前言撤回。キアとつきあっている限り、僕の不安のほうが三倍四倍にふくれあがっていきそうだった。


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