判例5 大判昭和14年8月5日(民集18巻792頁)
Aは、妊娠中である妻Y1を残して他界した。Y1は、父に依頼して胎児への家督相続届を提出した。その後Y1は、自らが戸主になったものと誤信し、Xとの間に本件土地の贈与契約を締結した。そしてAとY1の子供であるBが誕生したが、間もなく死亡したためにその戸主たる地位はY1が相続した。Xは、本件土地に所有権移転登記請求権保全のための仮登記を為していたが、Y1は、Cより1000円を借り受ける際に本件土地に抵当権を設定し、その抵当権が実行され本件土地は強制競売にかけられY2が競落し、所有権移転登記を完了した。Xは、Cへの抵当権設定及びY2への所有権移転登記はXの仮登記よりも後順位であり、Xに対抗出来ないと主張し、Y2に対し所有権移転登記抹消手続請求をし、Y1に対し贈与契約に基づく所有権移転登記手続を請求した。それに対してY1は本件贈与契約は、自分が戸主であり相続財産の処分権があると誤信して為した意思表示であり、本件贈与契約は要素の錯誤により無効であると主張した。一審・二審ともXの訴えは棄却され、Xは上告した。
この件に関し大審院は、錯誤無効を表意者自ら主張出来ないときは、表意者は相手方に対して主張出来ないのみならず、第三者に対しても主張出来ないと判示している(破棄差戻)が、本件事例において、錯誤無効の主張は、表意者から相手方に為されており第三者に対して為されたものではないことは明らかで、どのような意図のもとで判示したものなのか理解に苦しむところである。おそらく第二審判決が表意者による錯誤無効の主張が、自らの重過失により相手方に対して出来ないときは、表意者は有効と同様に扱わねばならないが、第三者に対しては、やはり無効の効果が及んでいると、立法者の見解に忠実な判示をしていることから、それを否定して表意者が重過失により無効の主張が出来ないために表意者が法律行為有効と同様の扱いをせざるを得ないときは、第三者に対してもその効果が及ぶ旨を判示しようとしたものと思われる。また本判例は、上告代理人の上告理由をそのまま容れる形で出されたものだが、その上告理由中原判決、即ち立法者の見解を妥当とするならば、過失ある表意者が第三者に錯誤無効の主張をさせることで、法律行為を無効にすることが出来るという理不尽を生む可能性を正面から指摘していることからも、本判例の意図を以上のように推測することが出来る。
しかし、本件贈与契約の要素にY1の錯誤の内容が含まれるのかという点には疑問が残る。自らが戸主であるとの錯誤は贈与契約の要素の錯誤ではなくて動機の錯誤ではないか。動機の錯誤であれば契約は当然有効となり、本判決と同様の結論を導き得る。即ち、本事例は動機の錯誤レベルで処理出来るものであり、錯誤無効の効果の問題として論じる必要はないものということになる。あるいは、裁判官は動機表示構成*45を意中においたのであろうか。そう考えれば、XもY1もその贈与契約を結ぶに当たっては、Y1に本件土地の処分権があるということが動機になっており、しかもこの動機は本件においては契約締結の意思を左右する重要な要素であり、即ち黙示的に動機の表示が為されたものとして要素の錯誤と同様に扱い得るということになり、本件のような処理も不適切とはいえない。但し判決理由にはその点に関する記述は見当たらず、実際のところは不明である。
本判例について小林一俊氏は、競落人Y2が特定承継人であることから、重過失の表意者が無効主張を禁じられることと同列に解すべき事例とされるが*46、判決要旨・理由を検討してみても、大審院がY2が特定承継人であることを特に配慮したような形跡は見られず、むしろY2の第三者性に着目したものであることは明白でかかる分析は正確とはいえない。
少なくとも本判例は表意者が自らの重過失により、相手方に法律行為の無効を主張出来ないとき、その効果としての有効と同様に取り扱う義務は第三者にも及ぶことを判示した判例であることは明らかであり、錯誤制度の相対的無効への転換を考える上で極めて重要な判例であるといえる。
判例6 最判昭和40年6月4日(民集19巻4号924頁)
国は財産税物納により、本件土地を取得した。本件土地には木造家屋が建っており、国の本件土地取得当時その所有権は訴外Oにあったが、一年半後建物は、引揚者救護団体である訴外Mに贈与された。五年後Mは同建物を訴外株式会社Sに売却した。一ヶ月後Mは国に対して本件宅地の買い受けを申し込み、五ヶ月後これを買い受けた。MはSに対して土地を賃貸することにし、一年半に渡って賃貸していたが、Sが本件建物に対し設定した抵当権が実行されるに至り、Yが競落した。その一年二ヶ月後MからXらが本件土地を分割して譲り受けた。その後、XY間に本件土地の賃借権の有無につき争いが起き、Xらは賃借権の不存在の確認を求めて本件訴訟を提起し、第二審においては訴えを追加し、土地所有権に基づく建物収去土地明渡請求を為した。
被告Yは本件土地の国からMへの払い下げについて、Mが現に本件土地を使用し払い下げ後も宅地として使用するものと錯誤して契約に及んだものであり、この錯誤がなければ払い下げはなかったであろうことからこの錯誤は要素の錯誤といえるので、Mへの払い下げは無効でありXらは本件土地の所有者たり得ないと主張し、仮に第三者が無効主張する事が許されないならば、Yが国に対して有する債権があることから国を代位して無効を主張する旨を述べた。これに対しXらは国の錯誤は動機の錯誤に過ぎず、もし要素の錯誤であるにしても国は錯誤に陥るにあたり重過失があると主張した。一審ではXが勝訴、Yは控訴したが棄却され上告した。
最高裁は第二審東京高裁の判決を支持し、民法第95条の錯誤無効の制度の趣旨は、表意者の保護であり、表意者に重過失あるときは表意者保護の必要性がないから、表意者は無効主張が出来ないとしているのであり、表意者から主張が出来ない以上表意者でない相手方、第三者が無効主張を許されるべき理由がないので、主張が出来ないと解するのが相当であると判示した(上告棄却)。最高裁は本判例の参照判例として判例5を挙げているが、判例5が判示したのは先にも述べた通り、表意者の重過失により錯誤無効の主張が出来ないときには、表意者は錯誤無効の主張が出来ないことの結果として有効と同様に扱わねばならない義務が生じるだけで、第三者に対してはやはり無効の効果が及んでいると考えるときの理不尽を回避するために、第三者に対してもその実質「有効」の効果が及んでいるのだということを判示したものであるが、この判例6の判示内容は、判例5の立場に立つと自ずと導き出される結論であり、判例5に内包されたものであるが、敢えてその点につき目的論的に再構成し、判例5の最高裁としての再確認と徹底を図った判例であるといえるであろう。
小林一俊氏は先に判例5で述べたように判例5は、重過失ある表意者本人の錯誤無効の主張を禁じることに類するものであるとの理由から、本件のような第三者の無効主張への制限に関する判示の先例とすることは必ずしも適当ではないとされるが、前述の通り判例5の解釈が不正確であり、従ってこの批判も妥当とは言えない。
ちなみに、本判例ではYの債権者代位による錯誤無効の主張について、Yの国への債権が認められないのみならず、国が無効を主張出来ない以上第三者が国に代位して無効主張出来ないことはいうまでもないと判示した。この点については、債権者代位による第三者の錯誤無効の主張を一定の条件の下で容認した判例である判例8で一括して考察したい。
判例7 最判昭和40年9月10日(民集19巻6号1512頁)
YとFはAから本件宅地を半分ずつ賃借していた。その後Fは本件宅地上の建物に保存登記をした。同じ頃Aは本件宅地をMに売却し、YとFは引き続きMから本件宅地を賃借し、しばらくその状態が続いたが、その後本件宅地は数名の第三者に転々と売却され、やがてSが所有権を取得した。Sは取得後間もなく本件宅地を借金の担保としてXに提供し、本件土地に代物弁済予約による所有権移転請求権保全の仮登記を為した。Xはその二ヶ月後には代物弁済により所有権を取得した。ところが本件宅地上にYとF名義の建物がそれぞれ建っているのに気付き、Xは建物収去土地明渡を求めて本件訴訟を提起した。
YらはXの代物弁済予約・抵当権設定はSが抵当権設定・代物弁済予約の対象の土地を偽ってXに説明したことによって為されたものであり、これらの意思表示は法律行為の要素に錯誤があるものであるというべきで、よって本件宅地の所有権はXの元にはなく、Xが本件宅地の所有権者であることを前提とした本件建物収去土地明渡請求は失当であると主張した。一審ではFは保存登記があったために勝訴したが、Yは敗訴。XはFを相手取り控訴し、訴えの内容を追加的に変更したが二審では全て退けられた。一方YはXを相手取り控訴し、Xらの訴えは権利濫用だと述べたが、Yの控訴は棄却された。Yは上告した。
最高裁は二審の判断を支持し、民法第95条の趣旨は瑕疵ある意思表示をした当事者を保護するためにあるので、表意者自身がその意思表示に何らの瑕疵も認めず、錯誤を理由として意思表示の無効を主張する意思がないにもかかわらず、第三者において錯誤に基づく意思表示の無効を主張することは原則として許されないと判示した(上告棄却)。
これまでの判例には、前述の判例6の表意者に重過失ある場合には表意者自ら錯誤を主張出来ない以上、第三者・相手方とも錯誤無効を主張出来ないとするものがあるが、この理論ではもし表意者に重過失がない事例であれば、例え表意者が無効とすることを望まない場合でも第三者らは錯誤無効を主張し得るのかという疑問を生じる。本判例はこの点に関して表意者に重過失ない場合には、表意者の意思に反して第三者がその錯誤無効を主張することは許されない旨を判示した。これまでの判例理論の隙間を埋めるとともに錯誤無効の相対的無効性をより一般的に認めた判例であるということが出来よう。
なお本判例は、錯誤制度の趣旨について瑕疵ある意思表示を為したものの保護と明確に述べ、この錯誤の制度が意思の欠缺ではなく、むしろ詐欺強迫といった瑕疵ある意思表示に連なるものであることを示している。このことは最高裁の意思欠缺構成との決別と解することが出来、大変興味深い*47。
判例8 最判昭和45年3月26日(民集24巻3号151頁)
Xは日頃から表装師として同家に出入りしていたA(第一審相被告)に絵画の紹介を依頼した。そこでAは、顔見知りの絵の愛好家であるY宅を訪れ同家所蔵の数点の絵画について紹介を受けたが、本件二点の油絵は何れも作者と称する者の署名があり、Yもこれらを真作と信じており、特に藤島武二の作という油絵は元O県議会議長の所蔵であったということもあり出所も確かで、図柄・筆致とも真筆に間違いないものとして二点を38万円で買い受けた。その後XはAから藤島武二と古賀春江の作で真筆に間違いない作品があると告げられ、前者を38万円、後者を17万円で買い受け、うち45万円を現金で支払った。しかしその後これらを識者に鑑定してもらったところ何れも贋作であることが判明した。
Xは本件油絵が真作でないと知っていたならば、このような高額で買い受けなかったことは勿論で、また本件売買は本件油絵が真作であることが最も主要な要素であったから、これが贋作であるとすれば、いわゆる法律行為の要素に錯誤あるものとして本件売買は当然無効であるとし、またYからAへの本件油絵の売買についてもAは真作と信じて買い受けており、この売買も要素の錯誤により無効であると主張し、さらにAはYに代金返還請求権を有するが、Aは自らこの権利を行使しようとしない上に無資力であり、XがAに対する代金返還請求権を保全するためには、Aに代位してYに対してその代金返還請求権を行使する必要があるとして、Yに対し38万円とその遅延損害金の支払いを求めた。これに対してYは、本件油絵は真作であるとしYA間の絵画売買においては作者が誰であるかということはさほど重要ではなく、従ってそれが贋作であったとしても、売買に要素の錯誤はないとし、さらに仮に要素の錯誤があったとしても、実質的に画商業務に従事していたAが売買に際し本件油絵を漫然と真作と信じたことは重過失といえるので、AはYに対し無効を主張し得ず、よってXの主張は失当であると主張した。一審はXが勝訴し、Yは控訴したが棄却され上告した。
最高裁は二審の判決を全面的に支持し(二審福岡高裁は一審福岡地裁の判決を同様に支持している)、要素の錯誤を認め、Aの重過失を認めないなど原判決の内容を改めて認めた上で次のように判示した。「意思表示の要素の錯誤については、表意者自身において、その意思表示に瑕疵を認めず、錯誤を理由として意思表示の無効を主張する意思がないときは、原則として、第三者が右意思表示の無効を主張することは許されないものであるが(最高裁判所昭和三八年(オ)第一三四九号同四〇年九月一〇日第二小法廷判決、民集一九巻六号一五一二頁参照)、当該第三者において表意者に対する債権を保全するために必要がある場合において、表意者が意思表示の瑕疵を認めているときは、表意者みずからは当該意思表示の無効を主張する意思がなくても、第三者たる債権者は表意者の意思表示の錯誤による無効を主張することが許されるものと解するのが相当である。」(上告棄却)
この判決要旨の前半部分は、最高裁昭和40年9月10日判決即ち判例7の判示内容であり、本判決は、錯誤無効の主張者を原則として表意者に限るとして主張者の面において錯誤無効は絶対的無効たり得ないことを明確に判示した判例7に対して、債権者代位の場合で重過失のない表意者が錯誤をしたことを認めていながら、無効を主張しないときに限って第三者による主張を認めたものであるといえる。主張を表意者のみに限ることにより生じる如何なる時も第三者は主張出来ないという不都合を、個別に例外として認める形で解決していこうとする姿勢が表れたものであり、以降の判例の傾向を示すものといえよう。
ところで本件は債権者代位において一定の場合において錯誤無効主張者の制限の例外を認めたものであるが、判例6においては上告人の国に対する債権者代位の主張を認めなかったが、その理由として判決は、上告人が国に対して債権を有しているとは認定していないし、また、国に重過失があり無効が主張出来ない以上、第三者が国に代位して無効を主張し得ないことはいうまでもないとしている。即ちこの段階において、既に判例は、表意者に重過失がなければ、第三者が表意者に代位する形で無効主張し得る場合があることを暗に認めている。本判例は、この判例6において判示した内容について、判例7の表意者の意思に反する第三者の錯誤無効の主張を許さないとする最高裁判例の立場に矛盾しないように原則に対する例外として改めて判示したものということが出来る。
谷田貝三郎氏*48や西沢修氏*49は、過去の下級審判例を挙げ、錯誤無効の主張はそもそも債権者代位が可能な権利であり、第三者独自の立場で主張するものではなく、表意者の立場を代位して主張するものであり*50、よって表意者の意思に反して第三者が無効主張出来ないことを判じた判例7の立場から見た例外には本判例は該当しないとされる*51。しかし判例7では、民法95条の趣旨は瑕疵ある意思表示をした当事者の保護であり、その表意者自身が錯誤を認めず、また主張する意思がない以上、第三者による主張は許されないと判示している。即ち重要なのは瑕疵ある意思表示をした張本人である表意者の意思であり、またその内容如何による表意者の保護である。つまり、代位という制度で擬制された「表意者」は、判例7のいう表意者たり得ないことは自明である。この理論において、表意者の債権者は表意者と利益を共にする限り保護を受けるに過ぎず、利益相反の関係になると、もはや95条によっては何らの保護を受けることも出来ないことは明らかで、もし表意者の意思に反して錯誤無効の主張を代位行使することが出来るとすれば、判例7のいう95条の趣旨に矛盾することは明白である。よって判例7が出された段階で最高裁は代位主張の可能性を一度否定し、表意者が意思表示に錯誤があったと認めていることという条件を付して、本判例において判例7の原則に対する例外としてかかる判示をしたものであるということが出来る。従って本判例を判例7の例外としないとするこれらの学説は失当である。
最後に、判例7に続いて本判決においても錯誤について「意思表示の瑕疵」などの表現がみられ、錯誤が瑕疵ある意思表示として詐欺や強迫と連なるものであり、心裡留保・虚偽表示などの意思欠缺を根拠にするものではないと最高裁が考えていることは、もはや明らかである。
2.小括
まとめとして、もう一度簡単に判例の流れを把握しておくと共に、補充的な検討を加えておきたい。
判例1については既にその項で明言したとおり、錯誤無効の効果に関する判例たり得ないものであった。
判例2は、立法者が容認していた筈の裁判官による錯誤無効の主張を退けたものであり、これ以降、訴訟当事者の主張のない錯誤について裁判官が職権にて調査して、一方的に無効を告げることは出来なくなった。
判例3で大審院は、表意者に明らかな重過失があるのに、それにかかわりなく第三者の主張を容認している。そもそも、表意者に重過失があり、表意者自ら無効主張出来ないときでも、相手方、第三者による無効主張は妨げないという構成は立法者の予定したところである。即ち第三者の主張では表意者の重過失は判示する必要がないことになり、この考え方は時の通説と同じものである。本判例は、残念ながら錯誤制度の相対的無効化に積極的な姿勢を示したものではなかったが、このような、絶対的無効構成を象徴的に表した判例は珍しく、実務の面で確かにこのような構成が採られていたことを物語る興味深い判例であった。
判例4は、相手方が詐欺的行為で表意者を錯誤に陥れておきながら、その錯誤に乗じて、その法律行為の無効を主張することを許さないことを判じた事例であった。この判例が、95条の立法趣旨を96条詐欺・強迫同様表意者の保護にあると述べている点は興味深い。このように目的論的に判決理由を述べたものはこの判例が初めてである。内容としては、表意者の錯誤について重過失ある相手方が無効を主張し得るとすれば、そもそも本来の95条の保護の対象である筈の表意者すらが、重過失があるときには無効主張が出来ないことを考えれば、著しく95条の趣旨に反するというものである。即ちこの判例では、重過失ある相手方の錯誤主張が制限されたのである。しかし、95条の立法趣旨をかように目的論的に解するならば、それだけの理由で、相手方、第三者の主張が封じられるとしても良さそうだが、にもかかわらず、本判例が、悪意重過失の相手方の主張制限にとどまったのは、本判例が立法者以来の絶対的無効構成に立つものであることを物語っている*52。
判例5は、重過失により表意者自ら無効主張出来ないとき、その効果として表意者に有効と同様の結果がもたらされる場合、その効果は第三者に対しても及ぶことを判じたもののようである。立法者が無効は全て絶対的無効であるとの姿勢を錯誤においても貫徹したことによる取引の安全への弊害が、この事例において具体化したわけで、ここに、第三者にも等しく有効の効果が及ぶことを明らかにしたことで、表意者重過失のときの法律行為の取り扱いについて民法起草当時、立法者達が絶対的無効の立場を貫こうとして敢えて立場を異にしたドイツ民法第一草案と、ここに立場を同じくすることになる。この判例では、表意者に重過失があり表意者自ら無効主張出来ないときの第三者による主張を制限したものであり、結果としては学説2ーイ説と同じである。
判例6については、先にその項目で述べたとおり、判例5の立場を目的論的に再構成し、最高裁として再確認したものであるといえる。学説2ーイ説と全く同じものである。
判例7は、表意者自身が意思表示の錯誤を理由に無効を主張する意思がない場合は、第三者による無効主張を認めない旨を判示したものである。構成としては、95条の規定の趣旨は瑕疵ある意思表示を為した者の保護であり、その本人がその瑕疵を認めない以上表意者保護の必要はないからとするもののようである。この判例は2ーロ説を容認したものであるが、以上の構成からすれば、判例は2ーロ説の根拠としては我妻説を採ったものと見ることが出来るだろう。この判例において、主張者の制限という側面に関しては限りなく取消に近い相対的無効であることが確定した。また本判例では、95条の立法趣旨は瑕疵ある意思表示を為した表意者の保護としている。95条を96条と同視しようとする傾向は既に判例4に見られるが、95条を瑕疵ある意思表示だと断言した判例は、本判例が初めてである。
判例8は、表意者が意思表示の瑕疵を認めているときのみ、第三者による債権者代位を認めたものである。判例7により制限し過ぎたことによる反動であるとも解することが出来るが、かねてから錯誤は債権者代位による主張が出来るとの下級審判決もあり、また判例6においてもその旨をにおわす記述があることは既に紹介した。即ち判例8に示された判例7の原則に対する例外は、いわば織り込み済みの例外であり、最高裁もこのような例外の出現は十分予見していたものと思われる。ただ例外とはいえ、表意者が意思表示の瑕疵を認めたときに制限され、表意者が瑕疵を認めない以上、瑕疵ある意思表示の表意者の保護を目的とする95条は機能する余地はないと考える判例7の基本理念は継承しているといえる。最後に判例8の項目でも指摘したとおり、本判例も95条を瑕疵ある意思表示としている。今後最高裁が錯誤について意思欠缺構成を採ることは、もはやないであろう。
こうして大審院・最高裁は、学説に追随する形で学説2ーロ説までを容認してきたが、今後学説3を容認する可能性については、微妙なものといわなければならない。何故なら学説2の立場と学説3の立場では、結果に差異はなく、敢えて判例に変更を加えてまで採用する動機を与えるには乏しいかも知れず、反面、論理が合理的で明解であること、学説の有力な支持があることからすれば、学説3に移行する可能性も否定出来ないからである。
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(C)1997 外山智士
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