第1章 日本民法立法者の意図した錯誤制度


 本論文の目的は、民法第95条の錯誤制度の効果である無効に対する解釈が、立法者の立法当時の意図から如何に変遷したのかを明らかにすることであり、そのためにはまず立法者の意図したところを明らかにする必要がある。そこで本章においては、日本民法の成立に強い影響を与えたドイツを中心に西洋法制史上の錯誤制度の変遷の歴史を眺めてみることで、日本民法立法者の立場をより一層鮮明にしたいと思う。  なお、日本民法の錯誤の規定である95条の起草を手掛けたのは富井政章氏である*1。従って本章においては富井氏の意図した錯誤制度を標準とし、その点については彼の主著である『民法原論』*2を中心に研究を進めてゆきたい。
 
1.西洋法制史上の錯誤制度の変遷

 ここで改めて述べるまでもなく、日本民法はローマ法を起源とする西洋法制史の流れに則って制定されたものである。従って、日本民法の錯誤制度の採った立場を明確に認識するためには、それら西洋法制史上の錯誤制度や、法学者諸氏の錯誤論の変遷を把握しておく必要があろう*3。
  a.ローマ法の錯誤制度
 そもそも錯誤という概念が発生したのは、ローマの古典時代だとされている。しかし当時は、錯誤の問題と契約当事者の意思の合致がない場合が混同され、また表示の錯誤と縁由の錯誤が明確に区別されることがないなど、現在の錯誤制度と同義とはいえないものであり、いよいよ我々の認識にある錯誤の姿が現れたのは、コルプス・ユーリス・キビリスによってであった。この法が錯誤論にもたらした最大の成果は、「錯誤に陥っている者は合意するとは認められない」こと、「錯誤は合意をもたらさない」こと、「錯誤者の意思は無効である」ことといった意思欠缺理論を一般原則化したことである。この意思欠缺構成は、共和政ローマ末期から元首政ローマ初期にかけて、ギリシア哲学の影響の下に原形が形作られ、サビヌス派によって、専ら要式行為について錯誤を意思の欠缺によるものとする理論として形成された。この理論は、その後二千年の時を経てなお、各国の錯誤制度、後述の日本の錯誤制度にまで影響を及ぼすこととなるのである。さらにこの法の成果としては、無効原因となる錯誤の種類制限が挙げられる。これについては特に異論はなく、以後様々な国の錯誤制度に顔を出すことになる。
  b.ドイツ早期普通法学(17〜18世紀)の錯誤論
 以上のローマ法の成果を全面的に継授したのが普通法(jus commune)であり、それをドイツとして継授し直したのがドイツ普通法(gemeines Recht)である。まず、ドイツ早期普通法学の錯誤論においては、無効原因となる錯誤の種類を、契約の種類に関する錯誤、契約の相手方の取り違い、契約の目的物の取り違い、契約の目的物の実質に関する錯誤の4種類のみに限定した。さて、この早期普通法学の錯誤論の成果であるが、早期普通法学者達は、ローマ法源に手を加えることで新たな無効要件を作り出した。即ち、ローマ法において、法定期間の徒過などの際に適用された「法の不知は妨げない」という原則から、重過失ある錯誤者の錯誤無効の主張を認めないとの要件を編み出したのである。論理展開としては、法の不知が抗弁事由として認められないのは、法を知らない者に重過失があるからに他ならず、一般に重過失により錯誤に陥った者は、無効を主張出来ないのだとした。この錯誤者の無重過失要件は、その後それぞれの時代でその採否につき激しい議論の対象となることとなる。
  c.自然法的諸ラント法の錯誤制度
 ローマ法やドイツ早期普通法学の築き上げた錯誤制度に必ずしもとらわれることなく、独自の錯誤制度を構築したのが、バイエルンやプロイセン、オーストリアなどで18世紀中葉から19世紀初頭に掛けて編纂された、自然法的諸ラント法典であった。
 バイエルンにおいて1756年に施行されたマクシミリアヌス民法典は、契約の要素に関する錯誤のみを無効の対象とし、その上相手方の故意、過失でひき起こされた錯誤以外の錯誤は無効原因にならないという極端に取引の安全保護に傾斜した錯誤制度を採用した。この法典における錯誤制度は、ローマ法以来の意思欠缺構成を全く顧慮せず、完全な表示主義の立場における立法を行った点が最大の特徴であり、ややもすると硬直しがちな錯誤制度の歴史の中で、新たな可能性を示すものではあるが、この域にまで及ぶと、もはや錯誤制度自体の存在意義が希薄となり、詐欺制度と混同しかねない。
 プロイセンにおいて、1794年に施行されたプロイセン一般ラント法は、錯誤の種類として4類型を挙げ、それらはドイツ早期普通法学のそれに準じるものであったが、その内契約の種類に関する錯誤、契約の相手方の取り違い、契約の目的物の取り違いの3種は常に無効原因となるが、人または物の性質の錯誤については、その性質が表示において前提とされている場合、あるいは、通常前提とされるものである場合に限り無効原因になるとされる。このような後の日本の錯誤論の動機表示構成を思わせる構成を採ったのは、プロイセン一般ラント法の錯誤制度の成果のひとつであろう。しかしながら、この錯誤制度の最大の成果は、ドイツ早期普通法学における錯誤論の成果であった錯誤者の無重過失要件を排斥し、これに代わる取引の安全の保護の手段として、過失によって錯誤に陥った錯誤者は、相手方の損害に対し損害賠償義務を負うものとした点にある。この錯誤者の無重過失要件を排斥した根拠として起草者のスアレツは、ドイツ早期普通法学者達が錯誤者の無重過失要件の根拠とした「避けられ得た、且つ避けねばならなかった錯誤は、錯誤者を害する。」という命題を正当なものとしつつも、だからといって必ずしも、重過失ある錯誤者の錯誤によって締結された契約自体を有効にする理由はないとする。何故なら、例えその錯誤が避けられ得た、避けねばならなかった、つまり重過失によるものであるとしても合意の欠缺の事実は覆ることはなく、従って契約の無効も覆ることはない。さらに重過失の有無は不法行為責任の問題に過ぎず、法律行為の効力を左右し得ないとの批判を加えた*4。そして契約無効の結果生じる責任は、単に損害賠償の形で「錯誤者を害する」のだとする。錯誤者の重過失の有無は一切関係なく、そこに合意の欠缺がある限り無効に揺るぎなしとするこの考え方は、ローマ法以来の意思欠缺構成、意思教説を貫徹した結果に他ならない。先に挙げたマクシミリアヌス民法典が、ローマ法以来の錯誤制度の流れを全く無視したのに比して、このプロイセン一般ラント法は、ローマ法における成果を忠実に貫徹、発展させ、ドイツ早期普通法学の成果をそれらに反する範囲で大幅に修正したものであった。
 オーストリアにおいて1811年に施行されたオーストリア一般民法典は、先のマクシミリアヌス民法典のあまりに錯誤主張の可能性が限定されていた錯誤制度に大幅な修正を加え、錯誤主張の可能性を拡げたものであった。つまり、マクシミリアヌス民法典が、相手方の故意過失によりひき起こされた契約の要素に関する錯誤に限って無効であるとしていたのに対し、本錯誤制度は、相手方が故意、過失なく錯誤者の錯誤をひき起こしたとき、及び第三者がひき起こした場合でも相手方が錯誤の存在に気付いていたときには、錯誤無効の主張を認める旨の修正を行った。具体的に挙げれば、相手方の誤指示で錯誤が生じた場合、第三者が相手方の加担を得て錯誤をひき起こしたとき、または、第三者が誤った指示を与えたことを相手方が知り得べかりしとき、錯誤に陥ったことの責任が錯誤者のみにある場合でも、相手方が諸般の事情から錯誤の存在を知り得べかりしときに錯誤無効の主張を認めることとした。無効主張が許される錯誤の類型も契約の相手方に関する錯誤、契約の目的物に関する錯誤、契約の目的物の本質的な性質に関する錯誤の3種類とした。このオーストリア一般民法典の成果は、相手方の認識可能性のある錯誤について無効主張を認めたところにある。徹底した表示主義的立場を貫いたマクシミリアヌス民法典の錯誤制度に錯誤者の保護への要請を考慮し、認識可能性という基準を挟むことで両者の調和を図ろうとしたものである。なおこの認識可能性の議論が、その後の表示主義の採る立場の典型となる。
  d.19世紀ドイツ普通法学の錯誤論
 次に再び本流に戻り、早期普通法学以後、即ち19世紀ドイツ普通法学の錯誤制度を眺めてみたい。 19世紀ドイツ普通法学の錯誤論で通説的立場を占めたのは、プフタが1838年に彼の著書『パンデクテン』で発表した錯誤論だった。プフタは、意思教説を忠実に継承し、まず、早期普通法学以来の錯誤者の無重過失要件を、グロティウスら体系的自然法学者やプロイセン一般ラント法の起草者スアレツらの為した、意思教説に合致しないとの批判を正当とし、採用しなかった。さらにプロイセン一般ラント法が、錯誤者の無重過失要件の破棄に伴う取引の安全保護のための代案として定めた過失ある錯誤者に対する損害賠償の制度についても、ローマ法源の裏付けを欠くものとして採用しなかった。結果、プフタの錯誤論は徹底した意思教説による論理的完結は為し得たが、取引の安全保護について、何等の方策も施せなかった*5。
 19世紀ドイツ普通法学の錯誤論の中で、異彩を放ったのがサヴィニーの錯誤論だった。サヴィニーは、1840年の『現代ローマ法体系』第三巻の中で、彼の錯誤論を展開した。サヴィニーは、ローマ法以来の意思教説を継承し、意思の欠缺をもたらさない動機の錯誤は無効原因にはならないなどとしながらも、反面、当時の資本主義社会の要請であった取引の安全保護を重視し、意思と表示の不一致が相手方に認識され得る限り、意思と表示の不一致を無効原因と認める態度を示した。この認識可能性については、オーストリア一般民法典の継承と考えられ、当時の資本主義社会において、この制度への評価が高かったことをしのばせる。必ずしもローマ法源下に包摂することに固執するのではなく、ローマ法源にこだわれば、きっと正当化され得ないであろう現実の社会に必須な要素は、例え条理のみによってでも補おうという柔軟かつ画期的な姿勢を示したものであった。しかし、ローマ法源によらずして正当化はあり得ないと考えられていた当時、彼のこの試みは広く理解されることはなかった。
 19世紀ドイツ普通法学の錯誤論で通説的立場を保ち続けたプフタの錯誤論の観念性に対し反旗を翻したのが、イエリングだった。彼は、1861年の論文でプロイセン一般ラント法に採用されて以来、ローマ法源による裏付けがないとの理由から否定的に扱われてきた過失ある錯誤者の損害賠償義務を、ローマ法源下に包摂することに成功した。具体的手法はといえば、ローマ法下で神に奉納された土地や墓所、公共用地などに代表される不融通物、表見相続人による不動産処分の際の不動産に代表される不存在物などの売買に限って適用されていた法定責任としての損害賠償を一般的な過失責任とし、さらに一般的過失責任のままでは、ローマ法下において不法行為責任を構成しないことから契約責任とし、加えて、契約責任は無効な契約によっては問題にならないというローマ法の解釈については無効の解釈を改め、契約の無効は契約の主目的たる履行義務を排除するにとどまり、一切の契約責任を排除するものではないとすることで錯誤における消極的利益の損害賠償をローマ法源下のものとすることに成功した。さらにイエリングは殆どの錯誤者に過失ありとし、損害賠償の対象になるものとした*6。
 このイエリングの錯誤論の不徹底を指摘したのはベールだった。ベールは、1874年の論文でイエリングの錯誤論に概ね高い評価を与えたが、反面、イエリングが、意思欠缺=無効が当然の前提と考えていた点を批判し、具体的な判例研究により、もはや現実の社会ではかかる原則のみでは説明が付かず、矛盾が生じることを立証した。
 最後にドイツ普通法学に登場するのがヴィントシャイトである。彼は、早期普通法学が編み出しながらも、プロイセン一般ラント法などにより、意思教説に反するとの理由から否定された錯誤者の無重過失要件を再度ローマ法源下に包摂することに成功した。彼は、心裡留保が無効原因とならないのは、心裡留保中には虚言の要素があり、自ら危険を作出しておきながら、これを防禦の手段として利用することは何人にも許されないからだとし、表示主義者のいうように意思欠缺が相手方に認識され得ないからではないとした。その根拠として彼は、幾つかのローマ法源から「虚言を用いたものは無効を主張し得ない」という一般原則を導き出し、心裡留保が無効原因とならないのはこの原則の上にあるためだとする。さらに彼は、幾つかのローマ法源から「重過失は悪意と同等に評価される」という原則をも導きだし、結果、錯誤において表意者に重過失がある場合は、心裡留保のような悪意、害意がある場合と同様に無効を主張し得ないという結論を導き出すのに成功したのである。
  e.ドイツ民法第一草案からドイツ民法成立まで
 そもそもドイツ民法第一草案の錯誤規定は、先述のヴィントシャイトの学説が殆どそのまま用いられたものであるといわれる。細かに見れば、97条1項、98条において、意思の欠缺が無効原因であることを明らかにし、97条2項、99条1項では、表意者に重過失があった場合のみ意思表示は有効になるものとし、97条3項、99条2項では、表意者の過失が軽過失にとどまる場合は、意思表示が無効であることに変わりはないが、表意者は消極的利益の損害賠償義務を積極的利益の額を超えぬ範囲で負うものとし、97条4項、99条では、相手方が意思の欠缺を知り、または知ることが出来た場合には、表意者の重過失・軽過失は問題にならないとしている。
 これら第一草案の規定では、表意者が重過失のときの意思表示の有効を約し、表意者軽過失の際には意思表示の無効となることを許すものの、損害賠償義務を課すなど、取引の安全を脅かすような錯誤の援用はほぼ不可能に近いと考えられ、このため、ヴィントシャイトと同じ意思主義者はもとより、ハルトマンなどの表示主義者にまで、好意的な批評を受けるに至ったのである。しかし議論の場が第二委員会に移ると、この第一草案はツィーテルマンの痛烈な批判を受けることになる。ツィーテルマンは、第一草案が表意者の重過失が法律行為を有効にするとの構成について、重過失の有無は、不法行為責任の問題に過ぎず、法律行為の効力を左右しえないとの批判を加えた*7。この批判により第二委員会は大きく動揺し、遂に第一草案の重過失=有効の構成をあきらめてしまった。ここに表示主義者の巻き返しが始まり、錯誤に陥った者以外の者に、その錯誤を援用することを許す実益がないことを理由として挙げ、錯誤の効果を取消とすることを主張した。中には取消とするだけでは、なお取引の安全保護は万全ではないとして、相手方が表意者の錯誤を知っているとき、または知ることが出来たときに限って取消を認めるべきとする極めて制限的な取消までが主張されたが、錯誤の原理に反するなどの理由から退けられ、取引の安全は損害賠償義務を課すことで足りるされた。
 こうして1895年ドイツ民法第二草案が成立した。第二草案において錯誤の効果は取消とされ、取消主張の時期は錯誤のあったことを覚知した後すぐに為すこととされている(ドイツ民法119条・121条にあたる)。また相手方が取消によって受ける損害については、損害賠償義務が課せられている(ドイツ民法123条にあたる)。そして、第二草案をもとに翌年(1896年)ドイツ民法が公布され、1900年には施行された。
 以上がローマ法以降ドイツ民法成立に至るまでの錯誤制度、錯誤効果論の変遷の概要である。錯誤論二千年の歴史の中で法学者達が編み出した成果は、マクシミリアヌス民法典やそれに続くオーストリア一般民法典の相手方の認識可能性の要件など表示主義的な僅かな成果を除いて、その大半が意思教説、意思欠缺構成の呪縛の下に、即ちローマ法の成果の遵守と、現実社会の法に対する取引の安全の保護への強い要請の妥協を模索する過程で産声をあげたものであった。これら意思教説下の成果は、大きく分けて三つの成果があった。一点目は、無効の効果が認められる錯誤の種類を限定することであった。この点に関しては特に異論は見られず、ローマ法以降幅広く導入されるに至った。二点目はドイツ早期普通法学の成果であるが、錯誤者の無重過失要件である。ただこれ関しては、グロティウスら体系的自然法学者や、その考えを継承したプロイセン一般ラント法の起草者スアレツらの意思教説に反するとの批判が的を得ていたために、以後ヴィントシャイトによってローマ法源下への再包摂の試みが為されるまで、闇に葬り去られていたといっても過言ではない。三点目は、プロイセン一般ラント法の成果である過失ある錯誤者の損害賠償義務である。この制度は、意思教説とは関係なく、現実的な取引の安全の保護への要請から設けられたものであったが、プフタら意思教説を貫こうとする考えの下ではローマ法源の裏付けなき不当なものとして退けられた。以後イエリングによりローマ法源下に包摂されるまで、錯誤効果論の表舞台に立つことはなかった。
 これらの確立された錯誤制度にまつわる成果の流れの中に、日本民法の錯誤制度が生み出されることになるのである。では、日本民法の錯誤制度は如何なるものであったのか、次節ではこれについて眺めていくこととしたい。
 
2.日本民法立法者の見解

 日本民法錯誤制度の効果についての立法者の見解を見る前に、その錯誤制度の効果とされた無効制度自体を立法者がどのように定義づけていたかという点を明らかにせねばならない*8。
 富井氏は無効については、その法律行為の不成立を主張するにつき利益を有するものは、何人といえども主張することが出来、また何人に対しても無効を主張することが出来ることを通則とするとされ、無効の行為を無効とするためには進んで何らの行為も為すことを要しない当然無効であるとされる。また無効につき争いがあるときは、裁判をまたなければならないとはいえ、その目的とするところは、単に無効の事実を認定するところにあり、その事実は訴訟の終結に至るまで何時でもこれを主張することが出来、また裁判官においては、職権をもってこれを審査しなければならないことを原則とするとされる。これらの無効の効果について富井氏は、「絶対的効果」即ち絶対的無効であると明言され、95条但書や94条2項の規定は、この絶対的効果の制限としての変例に過ぎないとされ、95条但書をもって錯誤無効を相対的無効ではないかと考える当時の多数の学者を牽制し、あくまで絶対的無効であるとされる*9。
 次に錯誤についてであるが、富井氏自らこの錯誤の規定が主としてドイツ民法第一草案を元に起草したと明言される*10だけあり、よく似た構成を採っている。即ち、法律行為の要素に関する錯誤は、意思の欠缺を来すものであるので、その効果は意思表示を無効とするとされ、これは意思と表示のどちらを欠くことも出来ないとする主義を採った結果であり、理論上当然のことであるとされる。さらには、錯誤の効果として取消の場合はなく、この点が多数の立法例とは異なるところであると明言されている。95条但書については立法課程において削除すべきだとの議論が強かった部分である。この規定は取引の安全保護に厚い英国法の規定によるものとされ*11、取引の安全保護の必要上より、絶対的無効の原則に一つの制限を置き、表意者に重大な過失があるときは表意者自ら無効を主張することが出来ないものとしたとされる。また、この但書の規定は、往々にして不確実な損害賠償に代えて、損害の原因を除去することで対応しているに他ならず、まさにこの一点においては最近(当時)の立法例(スイス債権法23条・ドイツ民法122条)よりも一層取引の安全を保護することに努めたものであるとされる。つまり表意者に単なる過失があるにとどまる場合は、表意者は無効主張を成し得る代わりに損害賠償義務が課されるが(後程触れるが、立法者達は、錯誤無効により損害を受けた者はその賠償を錯誤者に対し請求し得るものと考えていた。)、過失が重大なものであるときは、もはや表意者に無効を主張する機会を与えないことで、法律行為の有効と同様の履行義務を課し、普通の損害賠償よりも強い取引の安全の保護を図ったものであるとされる。ただこの場合においても表意者以外の者の無効主張を妨げるものではないとされる*12*13。なお表意者に重過失があるときでも、相手方に悪意があるときは、表意者の無効主張を認める趣旨であったとされている*14*15。
 さて、前節においては、ドイツを中心に西洋法制史上の錯誤制度の変遷の概略を眺めてきたが、その流れに乗せて、日本民法の錯誤制度を捉え直せば、本錯誤制度は、ローマ法以来の意思欠缺構成を大原則としており、無効が認められる錯誤の種類を法律行為の要素の錯誤のみに制限し、錯誤者の無重過失要件を採用した。また、錯誤者の損害賠償義務については、錯誤制度として直接には規定を設けなかったが、民法の一般原則から当然に存在するものとした*16。
 即ち立法者の意図した日本の錯誤制度は、ローマ法以来の意思教説の流れに乗り、その流れの中で歴史的に展開されてきた、取引の安全への主要な三つの成果全てを積極的に、あるいは間接的に反映しようとしたものであるといえるであろう。
 
3.小括

 本章では、西洋法制史上の錯誤制度の変遷の概要を眺めると同時に、日本民法立法者の見解を見てきたわけだが、立法者自ら日本民法錯誤制度はドイツ民法第一草案をモデルにしたというだけあって、確かによく似た規定を設けていた。しかし、いくらか大きな相違も見られる。ここでは、その相違点について若干の考察を行いたい。
 第一に、ドイツ民法第一草案が表意者に重過失があった場合には、意思表示を有効にしている点である。日本民法においては、この場合表意者が無効主張出来ないことにより、当事者間における有効と同様の効果が保障されるに過ぎず、相手方が無効にしたいと考えるときのみならず、第三者までが無効を主張し得るものとしている。これは、意思の欠缺の事実の存在は、表意者の重過失によっても覆らず、意思の欠缺が存する以上、有効とすることは出来ないとする意思欠缺構成に厳格な態度を採ったためであり、また第三者に至るまでの広い無効主張を容認している点については、無効な行為は何等の効果も生ぜず、何事もなかったのと同じことにしかならないから、何事もなかったことを主張するのは、誰でも誰に対しても何時でも為し得、また、無効とするのに特別の行為を要しない当然無効だとする無効制度の理論構成を錯誤においても貫徹しようとしたためと考えられ、結果ドイツ民法第一草案に比して、著しく取引の安全を犠牲にした構成を採ってしまったものだと思われる。
 第二に、この第一草案に限らず他の立法例でも、錯誤制度のためにいくつかの規定を置いてあるのが通常だが、日本民法には95条の一規定のみしか置かれていない。しかも、この規定すらも明確なものではなく、立法者がどのような意図のもとでこの条文を作ったのかは条文のみでは理解することは出来ない。例えば、立法者は、過失がある表意者の錯誤無効の主張により、損害を被った相手方は損害賠償を請求出来るものとし、また相手方に悪意があるときは、表意者に重過失があっても無効主張を可能にするなどの点につき、立法者達の間で合意が為されていたが、これらの点について条文上に明記されることはなかった*17。富井氏は損害賠償について錯誤法以外の一般原則により当然為されるべきものとされているが、日本の錯誤制度においては、他の民法条文、原則等を考慮しつつ解釈すれば当然こうなる筈だという、言い換えれば、子細を知りたければ、行間を読めといわんばかりの傲慢かつ怠惰な立法が為されたものといわざるを得ない。歴史にもしもはないといわれるが、敢えていうならば、もし日本民法錯誤制度において厳格かつ緻密な立法が為されていたとすれば、絶対的無効から取消に転換する必要が生じたとしても、学者達は民法を改正するという正当な方法により、正々堂々とした議論が出来た筈である。しかし、日本民法錯誤制度は以心伝心的要素、即ち解釈により推して量ることで立法者の考えた錯誤制度に到達させようとするような曖昧さを残してしまったがために、やがて解釈がひとり歩きし、もはや立法者の考えた錯誤制度は顧みられなくなり、錯誤効果論は大きく動揺するところとなったものといえる。そして解釈の変更の積み重ねにより、そもそも立法者の意図するところとは全く異なる錯誤制度を築いてしまったのである。本来ならば、新たな立法を為すことにより本質的な解決を図るべきところ、それを先送りして、解釈や判例の変更という方法により続けねばならなかったことの元凶は、この立法者の立法態度にあるといわねばならないだろう。
 このようにして、かたくななまでに意思欠缺構成、絶対的無効構成の貫徹にこだわった錯誤制度の構成と怠惰な立法態度により、我が錯誤制度は取消への接近への道をたどらざるを得なくなったといえるのである。
 さて、以下の第二章、第三章では学説・判例の変遷を追うこととしたい。

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(C)1997 外山智士
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