ゼミ読書会  by   新野幸次郎ゼミナール

新野先生のコメント2016年
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森健著「小倉昌男 祈りと経営」小学館2016年1月 / 小倉昌男著「経営学」日経BP社1999年10月

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今、英国のEU離脱や米国の大統領選挙など、ポピュリズムが蔓延し世界全体で民主主義の危機が叫ばれている。一方、資本主義はというと、こちらの方も世界的に経済成長が鈍化し、所得や資産の格差が拡大しているなど、とてもではないが、うまくいっているとは言えない状況で、以前も長期停滞論等(*)お話ししたこともあるが、国もあまり有効な手が打てていないし、その限界が露呈しているように思える。

(管理人注:先生はこの他にも全要素生産性の議論や格差・中間層の縮小による総需要低迷などをあげ、金融・財政政策とともに経済学者のみならず英知を結集して成長戦略を考えるべきであると力説される)

 そんな中、全く新しいイノベーションの出現を期待したいところであるが、昨今のITを中心としたイノベーションは「苦労せず、幸運にも」などと言ったら、ちょっと言い過ぎだろうが、そんな人が企業のトップとなる。彼らにはリーダーとして資質も欠け、また何よりも経験も乏しく、そもそも金儲け主義に徹しているとして思えない人もおり、社会に対する使命感も希薄ではないか?本来、事業を興していく過程は苦難の連続であると言え、起業家はそういった大変な困難に遭遇し、とことん悩み考えることによって、イノベーションを実現するのだが、その意味では事業拡大に伴い、技術やビジネスモデルだけでなく、顧客や従業員のことなども考え抜かなければ事業は成り立たず、結果、社内外問わず、人の気持ちがわかり、周りにも配慮できる経営者になるのだろう。だから、社会にお返しをしたいと心底思えるのではないか?

 もう一度繰り返すが、ビジネス上の課題に関する回答は、当然のことながら、方程式の一次解を解くような単純なものではなく、それも、一つや二つの方程式に着目するだけではダメで、多くのことを同時に実現させなくてはならない。勿論、事業を展開する途中で方程式は刻々と変わり、様々な問題や壁にぶち当たることもあるだろうし、そういった中で経営者はどうすればよいか全神経を集中して、徹底的に考え抜いて、その課題を克服するために、自ら行動す、さらに、みんなをひとつの方向に導いていく。そう言ったご苦労を重ね、ひとつずつ壁を乗り越える経験をされた、素晴らしいビジネスリーダーがかつては、今に比べ、大勢いらっしゃったのではないかと思うのである。

 実際、小倉昌男さんの主著「経営学」には、ヤマト運輸の実例をもとに、そのご苦労の様子とそれをどう克服してきたかのノウハウ、解決法や方法論、より具体的には、マーケットの分析、想定されるビジネスモデルの組み立て方、組織とサービス体制の構築法など、極めて理路整然と語られており、小倉さんがいかに合理的て科学的な経営者であったことがわかるだろう。そして、運輸省などの役所と論理を積み上げての粘り強い交渉に力強さすらお感じになったのではないか?勿論、うまくいかない時もあったようだが、それでも、あきらめず頭をフル回転させて事に当たられ、見事にそれらを克服されたことに敬意を抱かれたのではないかと思う。

 そして、今回のテキストである「祈りと経営」であるが、これをお読みになって、小倉さんが家庭内の問題、とりわけお嬢さんの問題でこれだけ悲痛な思いをされながらも、宅配便はもちろん、福祉においても、卓越する業績をあげられたのに、改めて小倉さんの偉大さを感じ、畏怖の念といったものをお持ちになったのではないか?苦労の連続を経て、最後にお嬢さんと心が通じたことに救われたという感想もあったが、まさにその通りだろう。

 一方、小倉さんと異なり、なぜIT企業のような現在のイノベーションを牽引する企業のトップが小ぶりというか、金儲け主義に走るのだろうか?この点について考えてみたい。

 例えば、ガルブレイスの言うような資本主義に内在する根源的な特徴、例えば「依存効果」「拮抗力」、「ストラクチャ」という観点から考えてみるとどうなるか?「依存効果」は必要のないものまで広告の効果により、買わされてしまうという意味で金儲け主義であるし、「拮抗力」は社会を制御するような力は最早なく、「テクノストラクチャ」は官僚化した企業幹部エリートの話だが、経営者として小ぶりとならざるを得ない様子が容易に想像できるだろう。尤も、独占の考え方など、時代の流れの中で変質してしまうこともあり、このアプローチには限界があることも事実である。

 銀行もガルブレイスの時代と正反対で、なかなか融資するところがないらしく、その意味では、起業や企業の発展に寄与する分野にカネが供給されず、投機やM&A、これなどはそれなりの相乗効果があることは否定しないが、いずれにしても別に新しいものを生み出すようなことのない分野にカネが流れていくのが主流になってきている。

 次に企業家の「志」とか「心」の観点からは如何だろう。真っ先に思い起こすのが、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」であり、皆さんからも話がでた、江戸時代まで遡る「商人道」などからのアプローチである。

 このアプローチは資本主義を放置すると金儲け主義とか略奪的な利益追求が経済を全面的に支配し、結果として、社会全体がうまく機能しないが、ここに予定調和的で絶対的な神や仏が行き過ぎた利益追求に歯止めをかけてきたなら、資本主義は正常に作動するといったロジックなのだが、今の時代にはなぜ、そういった規範といったものが働かないのだろうか?宗教的な意味合いだけでなく教育や文化の面も含めて考えてみてほしい。

 また、皆さんからもお話があったように、ITとグローバリゼンションの特質から考えてみるのも面白いかもしれない。即ち、IT産業の初期投資は、伝統的産業との比較において少なくて済み、また、グローバル経済においては、一気に全世界のマーケットへの参入が可能である。これらの要因によって、起業家は極めて短期間のうちに市場を独占でき、大した苦労も心の準備というか、志もないまま、巨万の富を得ることになる。

 少し話を戻そう。「小倉昌男 祈りと経営」には冒頭部分に、小倉さん自身の主著「経営学」に示されている”経営は理論”であり、理詰めで物事を考え抜いたイメージではなく、むしろ”経営は情”を実践されてきたのではないかという小倉さんをよく知る人の話を披露(p16)したり、政府の規制と戦った闘士のイメージからほど遠い気の弱い遠慮がち(p14)な人物像を描き出す。

 さらに、障害者のための福祉事業、具体的にはベーカリーショップで、単なる生活費のみの給付でなく、障害者が働けて、しっかり給料がもらえるという仕組みを作ったのが小倉さんの凄いところであるが、こうった一連の福祉事業に惜しげもなく46億円の個人資産を投入している。

 小倉さんは毎日教会に通い、カトリックに改宗(p87)した。本のタイトルにある「祈り」を毎朝行った。これには驚いたという感想をもあったが、とにかく娘のことと、妻のうつ病に対して祈りを捧げたのだろう。

(管理人注:第3章の「事業の成功と家庭の敗北」には、長女と妻の問題は宅急便の発展と軌を一にして大きくなっていく様が書かれています。)

 そして娘のことで苦しみ抜いた妻の死とともに、母娘の力になれなかったという贖罪(238)から小倉さんは福祉事業に邁進することになる。あまり苦労せず事業成功の果実を得たベンチャー企業の経営者との違いはそこから生まれたのだろうか?寧ろ、小心者が世の中で闘わなくてはいけないとなって、理屈で武装し(p220)、数々の業績をあげてこられたのである。事業や福祉に対して全力を傾けた使命感と懺悔、あるいは、キリスト教徒としての神への思いなど、皆さんもいろいろな感想を言って頂いたが、筆舌に尽くしがたい話である。

 ある意味では宗教の開祖と呼ばれる人は、殆ど例外なく、人間・社会のもつ矛盾に悩み、苦しみ、ある時は厳しい修行をし、どうすれば人が幸せになるか必死で考えた。だから、多くの人が教祖のまわりに集まり、教団が生まれたのであろうし、その意味で開祖は真にリーダーシップを発揮しえたのではあるまいか。

 例えば、空海の活躍した平安初期は、富士山の爆発や干ばつ、台風などの天変地異が相次いで起こった上、伝染病にも怯えなくてはならなかったのだが、空海はその悲惨な世を見て、衆生をどう救い鎮護国家のため何ができるが、天の動き、神の怒りを感じながら、まさに身を粉にして世のため人のために、様々な分野で力を尽くしたのである。 

 京都の最も有名なお祭りである祇園祭も平安初期の天変地異や伝染病を鎮めることを祈った御霊会(ごりょうえ)が源流となっているし、阪神大震災においては鎮魂、祈りはいろんなところで行わているが、ルミナリエ以外にもクラッシックやジャズまで音楽とゆかりの深い神戸ならではの催し物が多い。祈りと音楽との関係も考えてみると興味深い。

 現在は科学が発展し、天変地異に対しては祈っても仕方がないという風潮もあろうが、この前の大型ハリケーン「マシュー」の場合は、ハイチで800人を超える死者数を出すなど深刻な被害をもたらした。風速は実に毎時195キロというすさまじいもので、高潮にいたっては東北大震災の津波をはるかに上回る34メートル。こうなると科学技術ではどうしようもない。ちょっと離れた、米国の石油貯蔵の3割があるヒューストンをこのハリケーンが直撃したらどうなっていたかと想像すると空恐ろしいものがある。

 地球温暖化がこのようなハリケーンを生んだと言われているが、さすがに米中が急転直下、パリ協定に合意せざるを得ない時代になっているのかもしれない。日本が事前に察知することもできなかったのが残念であるが、、、。

 話を「祈り」に戻す。高野山大学の元学長で、長年、高野山の最高位である座主を務められた松長有慶(まつながゆうけい)さんは、東日本大震災に際してご遺族の悲しみに対する祈りに言及した「祈り かたちとこころ」という本を書かれ、仏教の経典や空海の著作などから、祈りとは何なのか解説されるているが、本書のテーマとも関連してお読みになってみたら如何だろう。

 さて、金儲け主義が蔓延すると国やコミュニティの一体感は失われるが、もしそうなったら、大変になることを痛感したのが、日本で起こった二つの大震災である。

 阪神淡路大震災では、直後に約17万人弱の人々ががれきの下敷きとなり、そのうち8割の人は自力で脱出できたのだが、約3万5千人が生き埋め状態となった。この3万5千人だが、警察や消防、自衛隊が救出できたのは、約7〜8千人にとどまり、残りの約2万7000人の人々は家族や近隣の住民によって救い出された。警察、消防のなども大変頑張っていただいたのだが、この数字は公助の限界を我々に突きつけると同時に、自助とコミュニティの重要性を如実に物語っている。

 さらに申し上げると、東北大震災では2万人が亡くなられたが、自治体は大規模な津波の前に殆ど無力だったと言わざるを得ない。極端な例かもしれないが、岩手県の大槌町役場には60人の町職員がいたのだが、津波により町長を含め33人が死者・行方不明者となり、自治体として殆ど機能しなくなってしまった。勿論、他の自治体などの応援をもらうことになるが、応援を頂いたところで地元のことを理解できていない上、役場の書類や資料も流出しており、その上、、応援部隊には防災・復興のノウハウもないので、お金や支援物資はあっても、町の復興は遅々として進まないということになってしまった。公助は自助を前提に成り立つが、公助が機能しない場合、頼りになるのは近隣等とのコミュニティ、「絆」しかない。

 ところで、企業経営も利益とか儲けだけを想定するとうまくいかないものになっているのかもしれない。少子高齢化が最も進んでいる日本という極めて厳しいマーケットにおいて、その逆境をはねのけ、世界のネスレグループの中で、圧倒的な成績を収めいているネスレ日本のCEO高岡浩三君が、マーケティングの泰斗フィリップ・コトラーとの共著で「マーケティングのすゝめ」(中高公論新社)という本を出された。本書によれば、単純に利益追求ということではないところに成功の秘訣があるのだが、その本の冒頭において、コトラーがマーケティングの発展の歴史を四つに分けている。即ち、「マーケティング1.0」が製品管理で、「マーケティング2.0」が消費者ないしは顧客管理で、ここまでが従来型の手法である。そして、「マーケティング3.0」が価値主導というかブランド管理で、日本の場合、未だ途上にあるが、これからはさらに次のステップというべき「マーケティング4.0」の時代に入っており、よりよい社会、自己実現を課題とする。本書では「ネスカフェ アンバサダー」というビジネスモデル(職場などのグループに専用のコーヒーマシーンを貸出し安価で挽きたてのコーヒーを提供)が、社内の会話を増やし、人間関係をよくしたいという意味において「マーケティング4.0」の欲求に適うとコトラーは言うが、極めてユニークで具体的な視点だと思う。

 神戸大学のキャンパスの草木が茫茫なのは、社会主義ないし共同主義のように、個々人のものでない以上、誰も手入れしないわけで、そういう意味では、今のところ、利己的な資本主義とポピュリズムとの批判を浴びる民主主義に代わる体制がないのだが、その欠陥を補うべきは社会全体の知恵であり、その前提として個々人の知性が必要である。即ち、テレビで報道されたことのみで動くというようなことではなく、個人においてもしっかり自立した考えをもち、単に給料が高いとか安定しているといった親が喜びそうといったような観点ではなく、自分がどんなことで社会に役に立ち、自己実現できるか、しっかり考えてみることが大切である。大学がゴールでもないし、人生において必ずしも大学が必要であるということではないが、何がしかの学ぶ場、仕組みも必要であることは確かであり、小倉さんの「経営学」ではないが、実践からの知恵がさらに重要である。 

 先日アート引越センターの寺田さん、ロック・フィールドの岩田さん、そして、神戸市長の矢田さんとお話しする機会があったが、寺田さんは中学卒、岩田さんは神戸東高校の夜間に入られたが、矢田さんは母子家庭で育ち、大変苦労されて神戸大の夜間から最終関西大学の夜間に進まれたが、皆さんそれぞれに社会に出られて大活躍されたのであるが、三人とも、次々に目の前に立ちはだかってくる課題をいかに突破するべきか悩み、辛抱強く解決に向けて行動し、そして、周りを巻き込みながら、成功に導いた。こういったことは、単に学校で学んでできることではない。

 大学においても、例えば神戸大学経済経営研究所の家森信善さんのように単に象牙の塔にこもることなく、特に金融関係の専門家や実務家、例えば、大手証券会社などの協力を得ながら、地域金融システムと金融システムを調査なさったり、マクロ経済、金融市場、信用制度など、最新のIT技術やグローバル経営とガバナンスまで、現場に深く入り込んだ分析をされ、その成果を個人レベル(投資家)まで掘り下げてフィードバックされる。大学も、答えのない実社会で、いかに問題を抽出し解決すべきか、実践的な教育を重視していく方向性にあるが、家森さんの研究はその好例と言えるだろう。

-平成28年10月22日 神戸都市問題研究所にて  文責:管理人-

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伊東光晴著「ガルブレイス」(新潮新書)2016年3月

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 伊東光晴さんとは、本当に長いお付き合いとなるが、ご病気をされたとお聞きし、大変心配していたのであるが、それも何とか克服され、今も精力的にお仕事をなさっている。

 さて、今回の読書会のテキストである「ガルブレイス」であるが、本書によれば、元々伊東さんは、かの都留重人さんからガルブレイスの経済学をまとめてみるように薦められていた(ⅷ)そうであるが、先に伊東さんの二人の教え子がそれぞれ著作(中村達也著「ガルブレイスを読む」、根井雅弘著「ガルブレイス―制度的真実への挑戦」)を発表、ここにきて、漸くと言ってよいのか、伊東さんもガルブレイスの生い立ちから始まって、主要著作を通じて描かれた独特の経済理論.論点まで、こうして一冊の本にまとめられたのである。

闘病を余儀なくされた後も、伊東さんは大変意欲的で、例えば、米国型主流派経済学やアベノミクスに対し、前著「アベノミクス批判」の中で、その経済政策の有効性に対し果敢に議論を挑んでおられる。本書においても、ジョン・ガルブレイスの1930年代の研究を紹介しながら、リフレ政策に対し厳しく批判されている。即ち「紐で引っ張ることはできるが、押すことはできない」という論理であり、それが意味するところは、「中央銀行が高金利政策をとって企業の財務状況を悪化させ、景気を抑制することは可能だが、低金利によって景気をよくすることはできない」ということなのであるが、当然、その矛先は日銀の黒田総裁の金融緩和策である。

アベノミクスの評価はさておき、今回の読書会ではベルリンの壁が崩壊した後、資本主義以外の選択肢が無い中、先進国を中心とした低成長やリーマンショックに代表される経済の崩壊、さらに最近の英国のEU離脱の原因のひとつとされる格差拡大といった資本主義に内在する問題点、欠陥といったものについて、伊東さんの書かれた「ガルブレイス」の経済学を切口に、その原因、構造の解明から、解決へのヒントまで一度議論してみたらどうかと思い、この本をテキストに選んだ。、

はしがきにもある通り、本書ではガルブレイスの主要著作の4つを中心に彼の提示した資本主義の本質を明らかにし、なぜリーマンショックが起こったのか、その本質を分析するとともに、80年代以降の政治経済学の問題点(改革を逆転させた愚かな政治、過去に学ばない実業界、無能な一群の経済学者、時流に乗るジャーナリストp201)を指摘している。とりわけ、米国流主流派経済学に対する評価は手厳しいものがある。

さて、ガルブレイスはヴェブレンにつらなる制度学派と目されることもあるほど、制度学派の考え方を受け継いでいると言える。ご承知の通り、ヴェブレンはダーウィンの適者生存の思想を取り入れた自由競争の議論や英国流の経済学とは一線を画し、巨大独占企業と富の蓄積、顕示的消費の実態を明らかにして市場原理主義に強く反発したが、ガルブレイスの経済学の底流をなすものは、何よりもヴェブレンから受け継いだ通念に対する姿勢である。即ち、主流派経済学の議論に対し、その前提となっている現実のマーケットの状況ないし特徴が、主流派経済学の想定するモデルと異なることを明らかにし、主流派の構築してきた“通念”に挑戦しようとする姿勢であり、そこにガルブレイスの真骨頂があるだろう。そして、現実から遊離しているアメリカの新古典派経済学の非現実性を批判しようというものである。

 例えば「アメリカの資本主義」では市場を律するのは自由競争であるという通念に対し、寡占化にある市場の特徴でもある”拮抗力”という議論を持ち出し、労組や巨大チェーン店を擁護したし、「ゆたかな社会」においては消費者主権が確立されたという通念に対し、広告によって必要性の低いものを欲しいものにしてしまう”依存効果”という概念を提示した。さらに「新しい産業国家」においては企業の権力構造に対し、”テクノストラクチュア”というエリート集団による経営がなされている実態を明らかにすると同時に、もはや、米国には完全競争の仮定に当てはまるような産業は殆ど存在しないと主張した。そして、「経済学と公共目的」においては現代資本主義体制ではスポットの当たっていない農業、個人企業、サービス業等をとりあげ、”自己搾取”されている状況を分析して見せたのである。

上述の現代資本主義の問題点のひとつである低成長や格差についても、それが1920年代に跋扈した古き病を復活させてしまったことに起因していると主張する。

ガルブレイスや伊東さんの議論においては、市場原理主義的な経済運営の下では格差や貧困の問題は回避できないと言う立場であるが、ちょっと、別の切口を紹介しておきたい。

前回の読書会でハンセンの長期停滞論をめぐって、現在、ローレンス・サマーズ、ゴードン等らが論争を繰り広げているといった話をしたが、本日は、故安部一成さんの考え方を紹介しておきたい。安部さんは神戸大学を出られた後、山口大で教鞭をとられたが、シュタインドルやカレツキーの議論を持ち出し、戦前の寡占化経済下においては、賃金への分配が低下し、これが総需要の低迷させ、それによって経済が長期停滞に陥ったという議論を展開された。こういったカレツキー等の「外生的」成長理論に対し、ご存知のとおり、カルドアなどケインジアンは、信用−貨幣経済化においては貨幣供給量が貨幣需要に応じて決まるという「内生説」を唱え、戦後それなりの評価を得たのであるが、産業国家から金融国家へ移行し、一般国民の賃金上昇が抑えられ、格差が拡大していく現下経済環境の中にあって、このところ、外生的なアプローチが再び注目されているのである。本来、内生、外生の議論を超え、総需要のみならず、総供給の両面から、相互に働く仕組みを考えるべきかも知れないが、、、いずれにしても長期停滞と格差が大きく論じられている昨今、大変興味深い話であると思う。

ついでながら、巷間言われているように中国の格差はより深刻で、ここにきて経済が減速したことから、企業収益が悪化し、中国全土で給与の支払が滞る事態が広がっている。なにしろ、2015年に発生した労働者のデモやストライキは公表されているベースで2500件を超え(昨年2774件、前年比倍増)、生活に困窮する人が増え、社会の混乱に拍車をかけている。

生産の相当部分を担う国営企業では、共産党幹部が経営権を握り、果実を独占する一方、上述のように、従業員の給与は遅配し、格差はさらに拡大しているのだが、これらの国営企業を国はつぶせないから、いつまでもモノの供給は減らない。言い換えれば、需給バランスを調整する価格メカニズムが全く働かず、赤字でも構わず増産するといったおかしなことが起こっており、本来やるべき改革が先送りされ、従って、鉄鋼、造船など低迷から脱すための糸口さえつかめない状況である。毎年のように大幅なベースアップのあった従業員の処遇は、ここ最近では一向に上向かないので、当然、内需はぱっとせず、日本での爆買いが影を潜める一因となっている。

本書においては経済成長とイノベーションの関係について詳細には触れられていないので、この問題について少しお話をしてみたい。

(管理人注:終章には産業国家から金融国家に以降、産業空洞化が起こり、戦後のようなイノベーションは起こらなくなったことが書かれています。尚、所謂、ガルブレイスの晩年ごろに起こったIT革命についても取り上げられていません)

ガルブレイスはハーバード在籍時代にシュンペーターから大きな影響を受けたが、現在はシュンペーターが提起したイノベーションが無いとうまくいかない時代になっている。P.ドラッカーは日本においては今でも大変人気があるが、一方であまり総括して申し上げるのもいけないのかもしれないが、敢えて単純化して話をすると、ドラッカーのマネジメント、経営管理といわれるものは、豊かな社会の時代、高度成長期の右肩上がりの企業経営が前提で生まれたもので、モノが絶対的に乏しく、需要が旺盛な環境下では、トップマネジメントや企業組織を中心に適切な管理がなされれば、企業は安泰であり、それなりに成長も可能だったのである。しかし、90年代以降、グローバル経済下で中国が世界の工場となり、モノの生産が急拡大、世界中でモノがあふれ、供給過剰の時代になると、イノベーション無くして企業は成長をすることが難しくなってきている。

イノベーションとひとえに申し上げているが、マーケティングの泰斗、フィリップ・コトラーによれば、その内容は、商品・サービス、生産方法は勿論、人事、ファイナンス・会計、営業体制、研究開発など企業活動の全分野での大胆な革新が必要である。これらが、マーケティングの議論ということになるが、そこには最早つくれば売れると言う発想はなく、あらゆる分野で創意工夫を行ない、いかに売れる仕組みをつくっていくかが重要となる。逆に言えば、マーケティングが現在の企業経営で重要な意味を持つとすると、価格メカニズムが正常に作動すれば自動的にモノが売れるという前提の資本主義経済は、自ずと再考されなくてはならないだろう。

ところで、マーケティングというと神戸大学の卒業生でネスレジャパンの代表を務めておられる高岡さんが、実にすばらしい実績を上げておられる。コーヒー、とりわけ、インスタントコーヒーは成熟商品の典型と言え、少子高齢化が本格化し、人口減少が起こっている日本においては、将来性は無いといった判断となり、こういったケースでは、手っ取り早く、M"しかないとなるのだが、高岡さんは、他に例の無い発想(コーヒーをおいしく飲める機械の開発の設置等)で販売方法を抜本的に見直し、世界のネスレ販社の中でも圧倒的な収益力を誇るまでに企業業績を飛躍させたのである。

(管理人注:オリジナルコーヒーマシンを無償で貸し出す「ネスカフェ アンバサダーによるオフィス市場の開拓」プロジェクトが、第6回「日本マーケティング大賞」受賞(日本マーケティング協会主催)

 

次に本書でも大きく取り上げられている格差について考えてみよう。

 伊東さんによれば、米国の新古典派経済学はもともと、イギリスからの輸入経済学(第二章)であるが、この新古典派経済学、或いは市場原理主義が米国で力をもった背景として、米国は元々、英国国教会等による迫害に耐えかねたプロテスタントがつくった移民国家であり、誰からも頼らないというか、自助が原則で、個人の努力、自由競争が当然とされる社会であったことを挙げておられる。だから、ルーズベルトのニューディール期とそれに続く第二次大戦後の「大圧縮時代」を除けば、自由競争を阻害するものは、原則として排除される傾向にあり、結果として不平等が是認されたとしている。一方、伊東さんはヨーロッパの不平等はアメリカほどひどくないが、その理由として、ヨーロッパが封建社会から勝ち取った自由には、その前提として平等があったことを特に強調されている(p9)。

 村島君はトマ・ピケティの格差に関するデータを持ち出し、米国が歴史に登場してから戦前までは米国はヨーロッパより寧ろ平等であったといった議論を持ち出していたが、確かにピケティの統計データではそうなっているのかもしれないが、本書の趣旨から申し上げると、ヨーロッパは中世の身分制の名残が色濃く残っており、その意味では、王族・貴族は確かに絶大なる資産があり、数字上では富の格差は大きかったのだろう。しかし、それら特権階級を除くと社会の主体は農村社会であったことから、皆で助け合うということが当然で、比較的平等な社会であったがと考えられる。一方、米国は、自助の国であり、自分で稼いだ富は当然の自分のものであるという考え方であり、その意味では平等という精神が希薄であったと言えるのではないか?

 伊東さんは本書において、米国は先進国で唯一国民皆保険制度を持っていない(7章)と平等と言う概念の乏しい米国を批判されているが、誰が巨額の負担をするのかをめぐっていろいろ紆余曲折があったものの、なんとかオバマケアが成立、2014年より本格的な運用が始まった。しかし、今でもなお、批判が多く、必ずしも多数の支持を得られていないのはのはなぜか?これも基本的には今まで述べてきた不平等を認めている理由と同じであり、アメリカでは伝統的に、自助が原則でその上に補完性原理が働いているのである。即ち「個人でできないことを家族が助け、家族でもできないことを村などのコミュニティが行い、地域でもできないことを国が行うという原則が定着している。建国時代がその典型であるが、コミュニティを運営する費用は、住民の寄付でまかなう。例えば村の中心に教会をつくったり、保安官を雇い入れたりしたのである。封建時代を経験したヨーロッパと日本は税金を徴収されることには、あまり抵抗感がなく、議会の決議はあるものの実態は国や公共団体に使い方を任せるかたちである。米国は伝統的に寄付が一般的に受け入れられ、しかも、寄付した分は税金から控除が受けられるという税制があることもあり、寄付する側がやってもらいたいと思うことに多額の資金を提供する。因みにハーバード大学は卒業生から安定的に多額の寄附金が集まるので、リーマンショック前には4兆円と東大の40倍の運用資産を持っており、ニュージーランドの森林経営にまで関与していたのである。

 ついでに初等教育について申し上げると、米国はバウチャー制度という仕組みがあり、住民が良いと思う学校にバウチャーを渡すが、これなどは、寄付に近い仕組みであり、バウチャーにより、学校の予算規模が決まるため、事実上、教育現場にまで競争原理が持ち込まれる。

 もっとも、寄付金が潤沢にある米国の大学の学費は高く、4〜5百万円は覚悟しなければならないが、一部、免除制度もあるものの、かなりの学生が3000万円の教育ローンを抱えることになる。巨額の教育費を負担できるのは、富裕層であり、これなども格差を助長する一因となる。

 教育に関してさらに続ける。安藤忠雄さんから先日、本を送ってもらったのだが、最近墓苑の設計を引き受けられたそうで、その大胆な発想には恐れ入る。なにしろ、墓苑の中心に大きな穴を掘り、鎌倉の大仏ほどの大きな仏様の頭をそこに置き、苑の周りをラベンダーで囲むというもので、大変、反響を呼んだみたいだ。安藤さんは高校を中退されており、学歴という意味では、全くエリートではないが、東大やハーバード大、コロンビア大、イエール大の教授を歴任された。日本人ではちょっと例が無いのではないか?

 教育とは何かということでは、度々ご紹介しているバートランド・ラッセルは「教育論」という本の中で、知性と感受性、勇気、最後に活力を強調されたが、90歳にして英国の核政策に対する抗議行動を行って懲役刑を受け、その意味では自身の教育論を実践された。懲役と言っても日本の江戸時代の閉門蟄居ということだったのだが、私もそのころ英国に留学しており、その勇気と活力には驚かされた。

 1981年に神戸のポートピア博覧会でのシンポジウムで私は米国の経済学者K・E・ボウルデングと対談させられたが、その際、彼は生産に必要なのはエネルギーと資材とノウ・ハウの3つであるが、エネルギーも資源もない日本が、アメリカに次ぐ第2の経済大国になったのはその素晴らしいノウハウあると我々日本人を大変称賛して頂いた。その原動力は間違いなく、人材で、日本は寺子屋の時代から世界屈指の教育大国であったのである。

 今はどうか?先ほどのハーバード大学は高い授業料や運用資金があるので、全世界から優秀な先生を雇ってくることができ、そのまばゆいかぎりの先生が、大学の魅力の一つとなっている。一方、日本の国立大学は民営化すべきという議論もあったが、国立大学法人として独立したものの、予算は毎年削られる中、全国の国立大学の教授の給料は1000万円くらいで頭打ち、これでは、有名な先生を招聘するのに最低でも4〜5千万円はかかるといわれる世界的権威を神戸大学に集めるという絵は描けない。大学ランキングには外国籍の先生というのがあるが、どこの大学も語学の先生ばかりで、専門の先生は殆どいないといった、おかしな構造ととなっている。一方、私立大学はそんな制約がないので、アメリカの有名大学のような動きは無理にしても、昨今では私学の教授陣は各段に充実してきているのである。

資金の運用もやってみた。例えば、六甲台基金をもっと利回りの高い運用形態にすべく、仕組債に4割程度だったろうか投資したのだが、いきなりマイナス運用となり、関係者にどう説明するのか冷や冷やものだった。幸いその後運用はプラスに転じ、事なきを得たが、プロの運用担当のいるハーバード大のようにはいかない。いろいろ動けない状況に業を煮やした加護野君なんかは六甲台だけでも国から完全に独立すべきなどおっしゃることもあったが、世界の大学との競争というのは、いろいろな構造的な問題を抱えており、簡単に解決できる問題ではなさそうである。

 テクノストラクチュアに関連して一言コメントしたい。ガルブレイスはテクノストラクチュアが有能であり、企業を支えているというなら、企業トップが高額の給与をもらうことは、全く、正当性に欠くといった話を「新しい産業国家」の中で展開しているが(p147)が、現在はさらに事態が悪化している。そもそも、株主主権の確立されている米国では自由競争の国でありながら、まともな競争を避け、フロンティアの国でありながら、大したイノベーションを行わず、ただ、シェアアップを狙って合併・吸収などのマネーゲームに興じる会社が多い。さらに従業員の首を切ったり、給与を押さえて、見かけ上の業績を上げている経営者、その経営者は大半がテクノストラクチュア出身なのだが、一生では到底使いきれないくらいの報酬を独り占めするというのは、日本でも殆ど理解されないし受け入れられないだろう。日本ではまだ、経営トップの報酬がそれほど法外なものにはなっていないため、経済学者の間ではそれほど問題になっておらず、ここでは詳細には触れないが、寧ろ貧困層が15%を超えているという現状をどう克服するべきか、議論が起こっている。

 自然災害と公共事業について。ガルブレイスの議論の中では、自然災害の話はなかったが、阪神淡路や東北の大震災や最近の熊本地震など、日本は単に経済にとどまらず、将来にわたって、地震に備えておかなくてはならない。神戸大学大学院理学研究科の巽好幸教授は1m94cmの大きな体で、全国の食を求めて旅をされ、その成果を「和食はなぜおいしいか」という著作にまとめられ、話題となった。その巽さんによれば地球の中心温度は5000度にもなるそうで、そのことが原因となって地震や火山、地球変動が必ず起こるのだという地球のメカニズムを説明される。とりわけ日本は4つの巨大なプレートがぶつかり合うため、日本は地球全体の2割の地震と8%の火山が集中、さらに、九州南部にある巨大な鬼界カルデラの大噴火によって縄文文化が破滅的な打撃を被ったというお話をされる。ガルブレイスは公共事業の重要性もおっしゃっておられるが、主流派経済はどういった議論を展開するのだろうと考えてみるのも良い。

 さて、最後に本書から何を読み取るか?市場に任せ、あとは自由競争というやり方には問題が多いことは、よく言われることであるが、ガルブレイスの描く経済学を勉強してみて改めて、そういったことが理解できたのではないかと思う。しかし冒頭申し上げた通り、残念ながら、資本主義以外の体制を選ぶという選択肢がないという前提であるなら、市場のどこをどうすれば、イノベーションが活発化し、企業活動に活気ができ、そして消費が拡大、再び経済が成長軌道に乗り、少子高齢化の様々な問題を克服できるのだろうか?或いは格差や貧困といった問題を最小限にとどめ、皆が安心して暮らしていける社会をつくっていけるのか?そこで重要だと私が思うのは、現在のように国主導と言いながら、各省庁がバラバラに問題を分析し、将来に対して何か提言するといったやり方ではなく、まさに国家規模で社会科学系の有識者、いや、領域はさらに広げてよいかもしれないが、全ての英知を集め、長期停滞に陥っている世界経済の中で、日本は何をすべきなのか、あらゆる項目を洗い出し、その関係性などを整理し並べてみて、何が足りないか、何をすべきかとった政策目標を定め、その上で、それらを実現すべき工程表と具体的な提言内容をまとめ、強いリーダーシップの下で必要な政策を講じて行くしかないのではないかと思う次第である。―平成28年7月16日 神戸都市問題研究所にて―


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佐伯啓思「さらば、資本主義」新潮社2015年10月

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経済学は本書にもあるとおり、数学的手法によって、市場理論を中心に精緻化され、科学的学問として確立されてきた感があるが、その時期に著者の佐伯さんは東大の経済学部を卒業、大学院に進まれ専ら数理経済学を勉強された様子が本書に書かれている(p159)。その後、数学的な論理の奴隷になって経済学が閉じこもっていると感じた(p164)著者は経済学を離れてしまわれる。そして本書のカバーにあるとおり、社会思想家としての道を歩まれ、経済学中心の読書会に馴染んでおられる皆様からすると、少し違った角度から社会を捉えようとされ、現在起こっている様々な問題に対して自由にコメントされているところに、本書の最大の魅力があろだろう。

 皆さんから、第二章の「朝日新聞のなかの戦後日本」がなぜ、タイトルのさらば資本主義なのか、全く理解できないとのコメントや、具体的に何をすべきか明らかでないといった指摘があったが、本書は元々、月刊誌(新潮45)の連載をまとめたものであり、全体の統一感がないことは当然で、また、指摘は興味深いものであっても、それをどう克服すべきか、或いは資本主義に変わる体制が具体的にどのようなものなのかについては語っていないし、どちらかというと考え方とか視点を提供してくれていると考えたほうが良いだろう。本書はあくまでも、例えば第5章にあるとおり、無理な成長より安定した社会にあってこその幸福であり、具体策を論じる必要が無く、価値選択の問題である(114)というスタンスで書かれた本であることは事前に含んでおくべきであろう。

 本書にあるとおり、物質的豊かさを手に入れたはずの日本に漂う閉塞感は単純な経済学の領域だけではないことは確かであり、この先、どこへ行けばよいのか、我々一人ひとりが自分で考えるほかないのかもしれない(p7)。 

尤も、経済学者の中でも、例えば計量経済学の分野で大きな業績をあげられ、先ごろまで滋賀大学の学長をされていた佐和隆光さんも資本主義や主流派経済学に対してアンチテーゼを発しておられるし、環境問題にも鋭い視点を向けておられる。また、森嶋通夫さんも数理経済学の分野で画期的な成果を挙げられたが、その後、歴史や社会学など幅広い学問領域から経済学や日本経済に対する警鐘を鳴らしていらっしゃったのはご存知の通り。最近のトマ・ピケティの格差の議論もある種、主流派経済学とは一線を画すアプローチであろうか。

著者は保守主義を自認しておられ(p34)が、第一章が脱原発の議論であり、原発推進か廃絶かの二元論の愚を指摘し、現実的な対応を主張(短期的には最低限の原発再稼動、中長期的には減原発p16)されている。第二章が朝日新聞の戦後認識と報道のあり方を論じており、女子高校生の主張(「男子に血を流させるな」p36)を隠れ蓑にして、記者ないし新聞社の思想を世間に押し付けている様子を分析してみせる。朝日新聞は従軍慰安婦の問題を漸くというか遅きに失した感があるが、公式の場で一応謝ったものの、未だに現政権、保守に対する批判の材料を集めているような取材・報道のあり方を著者は批判しているのである。

何度か申し上げているウオーター・リップマンの名著「世論(1922年刊)」においてはステレオタイプでものを捉え報道することを戒め、常に公平性を保っているか自問自答し、反省が必要としている。この本を読んでいない新聞記者は言語道断であるが、読者側もそういった事情を理解しておかなくてはならない。例えば、ニューヨークタイムズ紙は民主党寄りの記事を紹介することが多いといわれているが、クルーグマンに代表される論客がオバマ政権のやろうとしていることを擁護する論文を同紙に精力的に掲載しているが、読み手側も、相応の心構えに加え、知的レベルも高くないといけない。道元もものごとは一面から捉えてはならず、そのために無限の修行が必要であると言っている。

中国の習近平は反対意見を抑えるように戦時中に日本がやってきたような情報の国家統制を行っているが、国家があからさまに情報管理を行っていない現在の日本の民主主義の時代においても変にポピュリズムに走ったり、逆に、情報が少ないがゆえに、当初、従軍慰安婦に対する言及で世界中から橋本元大阪市長が世界的に非難を受けるといったことも起こった。特にテレビ報道は新聞と違って、じっくりものごとを判断することには限界があるというより、できないと言った方が良いかもしれないが、そのテレビがマスコミをリードしている実態も大問題であろう。

朝日の報道に関しては皆さんからもいろいろな意見が出たが、こういった他人の考え方を知ったり、対話の機会を持つということも重要であり、原子力の危険というか悪い部分は当然として、対話を通じて、原子力のメリット、良い部分にも理解したうえで議論を深めていくことが大切であり、これが思想の豊かさにも通じるのである。

道元の議論は煎じ詰めれば、無限の修行をし、全てを理解したものでないと発言できないといったことにもなりかねず、例えば、現代においても徹底的に研究した専門家で無いと発言権がないといったように、度を越すとこれも却っておかしなことにもなりかねない。本書にも特定の論点にしか感心が無い専門家の弊害とニヒリズム(虚無主義)について書かれている(p92)が、そういった限界を認識しつつも、常に勉強し対話をし続けるといったスタンスであれば良く、自分自身の体は自分で守るしかないように、様々な分野の問題を判断できるよう常日頃から出来る限り頭を鍛えておかなくてはならないのである。

(管理人注:本書にもニヒリズムの世界にあって、歴史的な経験と文化を確認しつつ、日常の常識(コモンセンス)に立ち返って将来の社会像や良き生というものを構想するしかないと結論付けています(p94))

第9章には今日の技術革新、とりわけ、IT革命や金融革命が取り上げられているが、著者がかつての技術革新と異なり、欲望の増殖がみられず、大きな経済成長をもたらさないとの指摘がなされている(p197)。

経済学においてもこの問題は最近大きな話題となっている。長期停滞論がそれで、元々1930年代に人口と技術の低迷(趨勢的停滞)を根拠にアルヴィン・ハンセンが言い出したことであるが、戦後の高度成長が実現したことで、お蔵入りとなっていた議論であった。 

ところが、元米国財務長官でハーバード大学教授のローレンス・サマーズが労働人口の減少や少子高齢化にともない世界的に総需要が収縮しており、長期的に経済は低迷せざるを得ないといった趣旨の発言(2013年IMF総会)をしたことで一気に注目を浴びることになった。サマーズは主に需要面に着目したが、供給面、特に技術革新の低迷から長期停滞を唱えるのがノースウエスタン大学のロバート・ゴードン教授で、産業革命以降の技術革新に比べ、現下のIT革命は成長エンジンとしては小ぶりで、大規模な生産設備や雇用をもたらさないため、経済への波及効果は小さいといった議論を展開する。

サマーズ以前にも長期停滞論と似た議論もされている。例えば、長期停滞は成金主義がもたらした格差拡大によって消費性向の低い高所得層の所得のみ増え、消費需要の中核を担ってきた中間層を失させてしまった。言い換えれば過剰貯蓄と消費低迷の原因をつくったのは貪欲な経営者と市場原理主義にあるといった話であるが、これなどは読書会でもとりあげたロバート・ライシュの「暴走する資本主義」やトマ・ピケティの「21世紀の資本」に詳しい。

また、大瀧雅之さんの著作「平成不況の本質」には、雇用や賃金の破壊が起こり、それによって消費が落ち込み、需要が縮小、さらにそれによって雇用・賃金のさらなる低下を招いたといった負のスパイラル構造を丁寧に分析し、これが日本の長期停滞をもたらしたといった主張をされる。

企業経営者の多額の報酬の問題以外にも、企業は積極的な設備投資を控え、M&Aといった投資の乗数効果に疑問符がつくようなものにお金を投じ、それ以外では省力化投資や海外工場への移転ばかり行い、国内での雇用を殆ど増やさない投資ばかり行ってしまったことも地方経済の疲弊を助長してしまった。

冒頭部分でちょっと触れたが、本書には「さらば資本主義」といいながら、現行の資本主義の体制のどこが悪いのかということには触れられていても、それに対してどう対応すべきかという具体性に欠けるといった皆さんの意見も多かったが、どうすべきか、本書をきっかけに議論してみることがより、重要である。

※ 管理人注:本書にはその他、以下のような論点が含まれています

・官製の地方創生では地方は浮上しないこと(第三章)

・ 福沢諭吉の「文明論の概略」をとりあげ、独立(精神の働き)が目的、文明は手段の中でグローバル化を考えるべきであること(第六章)

・ 資本主義はさして成長を生み出さない(トマピケティの「21世紀の資本」のユニークな読み方)こと(第七章)

・ 資本主義のフロンティアが我慢ができない即席の欲望充足にもたらされる危険性(第十章)

最後に、大停滞期にあった1930年代にケインズは何年もの時間を費やし、独自の国民所得理論を掘り下げ思索に没頭した。即ち、消費を伸ばすには所得を引き上げ、雇用を創出し、そして、将来の不安を取り除かなくてはならないと考えたし、企業家によるアニマルスピリットの重要性を説き、投資を推進したが、同時にケインズの罠と言われる状況にはまり込んでいる当時にあっては、政府による大胆な財政金融政策をとるべきことを提唱したのである。勿論、現在においては先進国の産業構造は製造業に比べ投資の乗数効果が著しく低いサービス業が主となっており、特に米国では実に8割がサービス業という状況であるわけで、さらに当時と比べ格段にグローバルな視点が必要で、とても旧来型のケインズ経済学で手に負えるものではない。だからこそ、経済学者や政治家だけではなく、法律や歴史、社会学あるいは科学技術のなど、あらゆる分野の専門家から実務レベルまでが英知を結集すべき時が来ているのではないかと思う。-平成28年4月23日 神戸都市問題研究所にて-

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津上俊哉著「巨龍の苦闘」角川新書2015年5月

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 折しも、マーケットは年明け早々から中国発の混乱が続いているが、今回読書会のテキストとして本書を選んだ理由として、まずは、著者の津上さんとは神戸経済同友会で直接お話を頂いたこともあるのであるということもあるが、なんと言っても中国問題に関してはいろいろな人がいろいろな角度からセンセーショナルな主張がなされており、石平さんのような中国経済破綻を予想するものや、今後は今まで成功してきた諸条件の変化から成長は大きく鈍化せざるを得ないといった話を強調するもの、さらに、そうは言っても中国共産党が諸問題を封じ込める力を持っているという意味での楽観論、さらに一歩進んで世界経済の覇権を握るという論理を全面に押し出したの中国脅威論まで、実にいろんな人がいろんなことを言われているので、逆に何が本質的に問題であり、中国の行動原理や長期戦略など、一度冷静に検討してみないといけないと思い、その意味では、小さな事象にとらわれず、極力客観的に議論を進めようとしている本書を皆さんとご一緒に読んでみようと思った次第である。

 もっとも津上さん自身、一番最初に書かれた本が「中国台頭」で、まさに、社会主義市場経済という他国に例が無い体制の下、快進撃を続ける中国経済を詳細に描いた大著(340ページ)で、既に絶版となっているのだが、津上さんに無理をお願いし、この「中国台頭」を贈って頂いたのだが、そこにはケ小平の改革以降、大躍進を遂げ、世界の工場として、、まさに台頭する姿をその要因や戦略とともに読み取ることができる。そして、本テキストの少し前に書かれたのが「中国台頭の終焉」であり、内容的には本書より、かなり悲観的な視線で書かれている。そういった意味では、津上さん自身、中国問題を論じるにあたり、文字通り、本書な苦悩をされながら、執筆を続けられているんではないかと思う。

しかしながら、ともすれば、中国は情報が統制されており、かなり強引なことも行う、よくわからない国であるといった印象を持ってしまうが、津上さんによれば、中国の指導部は保守層と改革派の間を「振り子」のように、政策が動くことを理解するべきだとする。

毛沢東が左で、ケ小平が右で、天安門事件で左に巻き戻し、92年のケ小平の「南巡講話」で、改革開放が進むといった具合であり、このあたりが一章に書かれているが、さらにそのその動きを理解できる3つの「運動法則」があるというのが面白い。

(管理人注:3つの運動法則①ピンチが来ないと右に切ることができない②政策を右に切る場合は左への補償が必要③ピンチが去ると左に戻す復元力が働く)

これと関連して、伊藤忠商事トップから中国大使になられた丹羽宇一郎さんにも、神戸経済同友会だったと思うが、ご講演をお願いしたことがあり、丹羽さんはさらに現実的な視点から、中国は現在いろいろな問題を抱えていることは事実であるものの、「中国は米国に次ぐ、世界第二の経済大国であり、奇しくも、オバマ大統領自身が認めているように、米国一国で世界を支えたり、リードすることができなくなっている中、中国に万一のことが起こり、中国経済が低迷するようなことになれば、日本をはじめ、世界が低迷することも、十分ありえるわけで、単に、中国経済を批判的に眺めているだけであってはならない」といったお話をされたのも印象的だ。

私がよくとりあげるボールディングの「交換」「統合」「脅迫」の3つの側面で考えてみると、米国単独で資本主義国家の統合といったことが、もはや現実的でなくなったことを踏まえると、中国は世界経済の中で、今後とも重きをなすことはほぼ、間違いのないことであり、いかに中国を世界経済の秩序に組み込んで統合の仕組みをつくっていくかが、極めて重要である。ちょうど家庭であればどんなに経済的に豊か(=交換がうまくいく)であっても、家族としての「統合」がうまくいっていないと、幸せな家庭を築くことは難しいのと同様、中国との関係を「統合」にまで持っていくことが理想であろう。

ついでに私が良くお話しするマーシャルの第四の生産要素に沿って考えてみると、一般に新興国の発展の場合、労働、土地はあり、資本をどうにか国が用意するとして、これら生産の三要素が揃ったら、産業が発展するかというと、そういうことにはならない。第四の生産要素、産業組織だとかモノを生み出すノウハウがそれに当たるのだが、これが新興国の発展のネックとなる場合が多い。しかしながら、ケ小平の改革・開放以降、社会主義市場経済というユニークな仕組みの中で中国の発展は凄まじいものがある。年率、経済が7.3%成長すると、経済規模は10年で倍ということになるが、1978年に資本主義の仕組みを導入して以来、約30年かけて、経済規模は8倍となった計算になる。

大来佐武郎さんの(所得倍増計画推進、外務大臣)お話によれば、ケ小平が改革・開放に移行する前に、中国の官僚が何度も何度も大来さんのところに訪ねてきて、経済発展の経験やノウハウに関して教えを乞いに来られたようである。

また、多くの若者が欧米に留学し、ハーバード大学でも、手元の資料では中国からの留学生が5,500人もおり、日本人がわずかに12名というのだから、これもどうかと思うが、それでも、山崎君が、中国人には、しっかり議論の出来る学生が多いといった話もあったが人材も揃って来ているのだろし、経済の原動力であるアニマルスピリットという意味では、中国人は日本人以上にチャレンジ精神が旺盛である。

いずれにしても、貧かった中国が世界第二の経済大国になり、世界の工場として国際貿易での存在感を示すと共に、様々な分野で国際的地位も上がってきたことは間違いのである。また、本書には企業やインフラなど投資優先(金融収奪論など)で後回しにされ、格差是正は極めて困難であるといった話もあったが、それでも国民の生活を大きく向上させたのは間違いない。

一方、今、縷々申し上げた中国の発展の陰で、人民の国でありながら、他に手があったことは別にして、先富論なんかが、正当化されたこともあり、中国には大きく4つの階層(工人・農民、幹部、企業家、知識分子階層)が成立したと言われる。さらに、議論の中にあったスラムの貧困層ともいえる蟻族、鼠族などがその下にあり、また、一人っ子政策の落とし子で国籍すら持っていない黒孩子の多くが教育も受けられない状況では、彼らも極貧の状況にあるだろうから、格差解消はかなり厳しい(p150など)。

また、世界の工場と言われながら、独自技術を駆使して、製品を世界に問うことができるものはまだまだ少ないし、中国に続く東南アジア、南アジアなどからの追い上げも急である。すでに大変深刻な環境問題や今後襲ってくる高齢化社会への対応も急務で、これらの課題を解消し、全体のパイを増やすためにも中国は引き続き高い経済成長を志向せざるを得ないことになる。勿論、習近平は第三章に書かれている「新常態」とか「リコノミクス」を掲げ、借金・投資中心の経済成長から市場に依拠した経済運営に舵を切ると宣言して、高度成長路線はとらないとしているが、それでも成長率を7%を割り込む程度とするというのだから、成長路線を放棄したわけでない。

このあたりをもう少し具体的に考えてみよう。以前、皆さんに申し上げたことがあるソローの全要素生産性の議論を本書も第五章で取り上げている。即ち、Y=全要素生産性×(K,L)のうち、従来、中国を支えてきた資本(K:中国のGDPの半分を生んだ)にこれ以上頼ることはできないし、労働においても中国は2015年から人口オーナス期に突入することや、人件費の急激な上昇により低賃金経済モデルの転換を余儀なくされており、いわゆる中進国の罠に陥るリスクが高まっているのである。先進国型経済に脱皮するには残る全要素生産性をいかに高めて行くかという事になるが、これには政治の安定性・透明性、開かれた市場、ジェンダーの問題、オープンな労働市場、教育など、地道な対策が必要である。

第四章に三中全会の経済改革(管理人注:規制緩和、国有企業改革、金利・外為規制の緩和)にある程度の対策は掲げているものの、著者も認めているように、共産党の利権と絡む国有企業の改革は実験ばかりで具体性に欠けると指摘している通りである。

さらに、第六章の国家ガバンナンス(依法治国)にも関連するが、中国は賄賂が横行する独裁国家であり、政治への信頼を高めるにも限界があろうし、国有企業の改革は共産党幹部の利権とも絡んでおり、一筋縄にはいかないだろう。

そもそも、共産党幹部から地方役人にはびこる汚職もひどいもので、綱紀粛正を叫ぶ足元から、ニューヨークタイムズ(2012年10月26日付)に温家宝の蓄財が27億ドルにもなることをすっぱ抜かれたのだが、日本の政治家とは全くスケールが違うことには皆さんも驚かれただろう(管理人注:2015年4月29日には習近平国家主席の姉が2.4億ドルの蓄財をしていることが、同じニューヨークタイムズに報道されました)。。

また、中国人は一族の絆の強さはすごいものがあるが、国への忠誠心というか信頼というのか、どうも怪しい。特に高級官僚が私的な利害で動いているようで、例えば子弟を海外に留学させ、できれば、子どもに外国籍をとってもらって、何か本国に問題が生じた場合は子どものところに身を寄せようという話やカリフォルニア州のハードランドの住宅地が中国人に買い占められている状況など、かなり重症だと言わねばならない。かなり重症だと言わねばならない。私が学生だった頃、お国の為に命を差し出すことについては何の疑問も無かったし、禅寺の教えで生きるも死ぬも区別がないといったような考え方を普通に受け入れていたのだが、えらい違いだ。

15日の朝日新聞には米コロンビア大学の客員教授の張博樹さんの記事が出ているが、それによると中国は国民国家と言える状況ではなく『党国』、つまり共産党が権力を独占した国家体制であり、例えば、党が国家を指導することは憲法に規定され、軍も、国軍ではなくて共産党の軍のままであるという事実を強調される。従って『党国』体制を維持するための利益が「国」より優先されるのだが、習近平体制はその意味では革命世代の二世による『党国の中興』(本テキストではノーアウト満塁でマウンドに立ったリリーフエースp3)に過ぎないと切り捨てる。

では、資本主義体制に移行したことで自ずと矛盾をはらむ現体制が今後解体されるのか?という疑問に対しては張さんは、大恐慌のような深刻な経済危機、政権指導層の内紛、外交政策の失敗など、にっちもさっちも行かなくなるギリギリまで、このような現体制が続いて、突然の経済の崩壊やら、党の分裂などが起こる可能性を示唆しておられ、本書の振り子の原理とはかなり趣きが異なる。

皆さんはそもそも中国の経済成長率など、中国の統計は信用できないといった声もあり、村島君なんかは、そういったレポートを用意していたが、中国にとっては第二章に取り上げられている信用バブルと不良債権もそのひとつであり、今年はとりわけ、銀行と地方債務が大きな問題となってくるだろう。山崎君が、中国の空き室だらけの高層マンション群の話をしてくれたが、幸い、中央政府の債務が大したことがないことが唯一の救いであるが、この問題も注視しなくてはならない問題である。

いずれにしても、今回の読書会ではあまり議論になっていない外交問題も含めて、世界最大の人口を抱え、GDP世界第二の巨龍・中国の動向は、隣国の我が国おいて特に目が離せない状況になっているが、本書はその意味では、格好の教科書であり、極めて整理された情報を提供してくれていると思う次第である。                                               -平成28年1月16日(土)神戸都市問題研究所にて-