大切なのは.2





  放課後。
 香穂子は2年A組の教室を訪ねたが、そこには月森の姿はなかった。
「・・・月森なら、練習室じゃないか? 早々に出ていったぞ」
「そう、なんだ・・・」
 内田に教えられ、香穂子は少しだけ肩を落としてそこを後にした。
 練習室に行ったのなら、追いかければいい。けれど、それをしていいものか、迷ってしまう。
 昼休みの告白が尾を引いているのだろう。
 メールをしてみようかとも思ったが、もしも練習中ならば邪魔はしたくない。
 とりあえず、予約表を確認して、月森が押さえている部屋の番号を調べよう。
 そう思い、香穂子は職員室へ向かったが、今日の分の予約表に月森の名前はなかった。
「・・・押さえて、ないんだ、蓮くん・・・」
 こんなことは珍しい。月森は毎日のように練習室を押さえているのが普通なのに。
 そうなると、月森の行きそうな場所は。
「屋上か、森の広場、かな・・・」
 香穂子は僅かの間逡巡して、階段を上り始めた。
 なんとなく、屋上のような気がしたからだ。
 上りきって、重い扉を押し開けると、冷たい空気が頬に刺さる。
 けれど、空はよく晴れて、少し寒そうな青空が広がっていた。
 並べられているベンチの方へ近づくと、やはり、声が聞こえる。
「・・・君たちには、関係のないことだ」
「ああ、そうかよ」
「・・・土浦くん?」
 そっと、覗き見ると、土浦と月森、そして加地の姿もあった。
「お前がいつ向こうへ行こうと、確かに俺たちには関係がないかもしれない。だが、結局それで辛い思いをするのはお前じゃなくてあいつだろ。加地の話だと、随分落ち込んでたらしいぞ」
「うん。日野さん、6時間目は殆ど授業を聞いてない感じだったな。先生に当てられても気づいてなくて、その前の時間、保健室で休んでたせいだってことにしておいたけど」
 加地の言葉に、香穂子は赤くなった。
 ぼんやりと考え込んでいる間に、そんなことがあったとは。本当に、全く気づいていなかった。
「・・・それは・・・」
 月森の表情が曇る。
「月森、僕はね、君の音楽は認めてる。だから、それを更に向上させるために留学するという選択もいいことだと思う。だけど、日野さんを悲しませるのは許さないよ。ちゃんと、君の口から打ち明ければ良かったんだ、もっと早くに」
 加地がいつになく真摯な瞳で月森を見つめる。
 月森は、答えられなかった。
 香穂子と離れるということに、思っている以上に動揺している自分。留学と言う道に進む選択を違えることは出来ないのに、香穂子とは離れたくないと切実に願ってしまうのは何故なのか。
 彼女にきちんと話せなかったのは、そんな己の迷いのせいだと、加地や土浦に正直に打ち明けることは月森のプライドが許さない。
 土浦はともかく、加地はまだ、香穂子を想っている。それが解るだけに、弱味は見せたくない。
「月森、お前が何を考えていようと勝手だが、日野にはきちんと話せよ。・・・・・お、日野」
 土浦が香穂子の姿に気づく。つられて、加地と月森も振り向いた。
「日野さん」
「香穂子・・・」
 瞠目した月森に、香穂子は曖昧な笑みを浮かべた。
 土浦は加地の肩をぽん、と叩いて歩き出す。
「じゃあな、月森。・・・日野、次のコンサートでもし、俺たちの力が必要なら、また声をかけてくれ。俺はあいつと練習室にいるから」
「・・・うん。ありがとう、土浦くん」
「日野さん、僕は帰るけど、いつでもメールして? 僕に出来ることは協力するよ、いつでも」
「ありがとう、加地くん。それから・・・ごめんね、迷惑かけちゃったみたいで、6時間目」
 その言葉で、土浦たちは香穂子が自分たちの話を聞いていたのだということを知る。
 加地は苦笑いを浮かべた。
「いいよ、気にしないで。・・・じゃあ、また明日ね」
「うん」
 加地と土浦を見送ってから、香穂子はゆっくりと月森に視線を戻す。
 月森は僅かに戸惑ったような表情で、香穂子に近づいた。
「・・・その・・・」
「・・・蓮くん?」
「・・・俺は、出来ることなら、ウィーンに経つまでの時間を、君と一緒に過ごしたいと思っている。だが、それは本当に、君にとって、いいことなんだろうか? 俺と君が、遠く離れなければならないという事実は、変わらない。変わらない以上、俺たちが一緒に過ごすこと自体、君のためになるんだろうか? 俺には、判らないんだ・・・」
 眉根を寄せて、視線を合わせずに話す月森の表情から、その苦悩が感じられる。
「・・・どうして、そんな風に思うの? 蓮くん・・・一緒に過ごすことが、もしも私のためにならなかったら、別れるってこと?」
 香穂子は悲しかった。
 言葉は自分を思ってのことのように聞こえるが、実のところ、今の月森は香穂子自身の気持ちを思いやってはくれていない。
「・・・いや・・・それは・・・」
「私の気持ちは聞いてくれないの? 私が、蓮くんがウィーンに行くまでの時間、どう過ごしたいと思っているのか」
「香穂子・・・」
 月森は香穂子へと視線を戻す。
 僅かに潤んだ瞳は真っすぐに月森に向けられていた。
 その強さに、月森は微かな恐れを感じた。
 もしも、本当にここで香穂子との別れを宣告されてしまったならば、自分はどうすればいいのだろう。
 そんな想いから、月森は再び視線を逸らしてしまった。
「・・・少し、時間をくれないか。きちんと、考えてみたい。君と、どうあるべきなのかを」
「蓮くん・・・」
「・・・すまない、香穂子。・・・コンサートには、協力する。曲が決まったら、教えてくれ」
「一緒に、考えてくれないの?」
「・・・すまない。今日は、無理そうだ・・・・・それじゃあ」
 視線を合わさないまま、月森は扉を開けて屋上から姿を消した。
「蓮、くん・・・」
 あまりにも月森らしくない言動に、香穂子は戸惑っていた。
 音楽に対する真摯な想い。それは月森そのものだといっても過言ではない。
 けれど、それと同等に自分と離れたくないと思ってくれているらしい。だからこそ、あんな風に逡巡し、戸惑っているのだろう。
 離れたくないのは、香穂子だって同じだ。
 出来ることなら、これからも傍にいて、一緒にヴァイオリンを奏でていきたい。月森のレベルまで追いつき、堂々と並べる存在を目指して。
 でも、このままでは月森自身の研鑽は積まれない。彼がそう判断したからこそ、留学という選択に至ったのだろうから。
 月森は、香穂子にとって大切な男性であり、恋人であるけれど、同時にヴァイオリニストとしては尊敬出来る目標でもある。
 だから、辛くても寂しくても、留学して更に高みを目指す彼を応援したいとも思ったのだ。
 その、月森の苦悩の起因が自分だということが、香穂子には逆に辛い。
 重い溜息と共に、香穂子もまた、屋上を後にした。




 気がついたら、足は練習棟に向かっていて。
「香穂、先輩?」
 休憩がてら、中から出てきた冬海と鉢合わせした。
「笙子ちゃん・・・」
「お1人ですか?・・・あの、月森先輩は、一緒じゃ、ないんですか?」
 少し心配そうに問いかけてくる冬海に、香穂子は苦笑と共に頷いた。
「うん・・・笙子ちゃんは、土浦くんと一緒、だよね?」
「・・・はい。あの・・・・・月森先輩、3月に、行かれるって・・・聞いたんですけど・・・」
「・・・うん。そうらしいの。でも・・・なんか、私よりも、月森くんの方が色々考えちゃってるみたいで・・・」
「そう、なんですか?」
「・・・うん」
 憂いを含んだ笑みを浮かべる香穂子に、冬海はどういう言葉をかけたら良いのか戸惑い、おろおろする。
 そこへ、練習室から土浦が顔を出した。
「・・・冬海、何やって・・・・・日野」
「あ、先輩・・・」
「・・・土浦くん、さっきはごめんね。ありがとう」
「あ、いや・・・それで、ちゃんと話したのか? 月森と」
「・・・うん、まあ・・・」
 言葉を濁した香穂子に、土浦は険しい表情になる。
「あいつ・・・!」
「あ、えっと、その、今は、そっとしておくしかないと思う。・・・なんか、私も驚いたけど・・・月森くんはもっと、どうしていいか判らないみたいだったから」
「・・・はあ? 留学するって決めたのはあいつだろ?」
「うん、そうなんだけど・・・色々、思うところはあるってことなんだと思うんだ。それより、今度のコンサートで演奏する曲、一緒に考えてくれない? 土浦くん、笙子ちゃん」
 香穂子がそう言うと、土浦は僅かに眉根を寄せた。
「ああ・・・いいけど、それでいいのか? 以前(まえ)の時は月森と決めてただろ?」
「・・・うん。ちょっと、そういう余裕もないみたい、今は」
 香穂子の苦い笑いに、土浦と冬海は顔を見合わせ、互いに微かな溜息をついた。 
「・・・じゃあ、考えようぜ。冬海も、それでいいな?」
「・・・はい」
 土浦に促され、冬海と香穂子は練習室の中へと入っていった。 
 







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