大切なのは.3





  土浦、冬海と3人で話した結果、『中央アジアの草原にて』と『メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲第一楽章』と『ルスランとリュドミラ序曲』の3曲を演奏しようと香穂子は決めた。
 翌朝、登校途中で出会った火原に伝えて承諾をもらい、校門近くで志水を待って伝え、教室で加地に伝えた。
 柚木には、昼休みに伝えて、承諾を得た。
 残るは、月森だけ。
 
 
 昨日は結局、メールもしなかった。
 つき合うようになってから、こんなことは初めてで、不安も湧いてくる。
 本当に、月森とは別れることになってしまうのだろうか?
 月森の考えが判らない。
 香穂子はどうやってコンサートの話を伝えようかと思案しながら、悪い予感が押し寄せてくることに必死で抗っていた。
「・・・日野さん、大丈夫? 顔色が悪いよ」
 加地に声をかけられて、香穂子は笑みを浮かべようとし、失敗した。
「日野さん・・・」
「・・・ごめんね、加地くん。今は、何も聞かないで。みんなで合わせる練習をするまでには、ちゃんと元に戻すから」
 香穂子の辛そうな様子に、加地は眉を顰めたが、追究するのは避けた。
「・・・日野さん、もしも僕で力になれることがあるなら、いつでも言って?」
「・・・ありがとう、加地くん」
 香穂子はゆっくりと立ち上がると、鞄とヴァイオリンケースを持ち上げて教室を出た。
 とにかく、コンサートで演奏しようと選んだ曲には、月森は欠かせない。
 それが明確な事実である以上は彼にきちんと話して、協力を仰ぐ他ないのだ。
 香穂子は重い溜息をついて、練習室の予約表を見るために、職員室へと向かいかけて、渡り廊下でふと足を止めた。
 ヴァイオリンの音色が聞こえる。
(この曲・・・『愛のあいさつ』、よね・・・もしかして、蓮くん?)
 ともすれば放課後の喧騒の中に埋もれてしまいそうな音だが、香穂子の耳にははっきりとそれが聞こえる。
 間違いなく、月森の音だ。
 香穂子は月森がいるであろう、屋上を目指して階段を駆け上った。
 重い扉をそっと押し開くと、音が近く、はっきりと聞こえてくる。
 切ないほどにやさしい音色は、月森の心そのもの、という気がした。
 香穂子はなるべく急いでヴァイオリンを取り出して手早く調弦を済ませ、月森が奏でるメロディーに寄り添うように、音を乗せた。
 メロディーは二重奏となって空へと溶けていく。
 弾いていた月森は瞬間瞠目したが、そのまま最後まで曲を奏で続けた。
 香穂子の音と自分の音が、重なり、美しく響きあっていくことに、月森はこの上ない程の充足感を味わった。
 音だけでなく、互いの想いも、重なっていく。
 最後の音を奏で終え、余韻を含んでゆっくりと目を開けると、月森は香穂子としっかりと目が合った。
 ヴァイオリンと弓を下ろし、月森は香穂子に歩み寄る。
「・・・今の演奏のことだが、いきなり飛び込んできた君の音が、まるで最初から合わせて演奏していたかのように俺のヴァイオリンと響きあった」
 香穂子は穏やかな表情になっている月森を、じっと見つめる。
「・・・心が、通じ合っているからこそ、出来た演奏だ。・・・・・とても、幸せなことだと思う。今・・・他のどんな時よりも、君を身近に感じる」
「蓮くん・・・」
「俺のヴァイオリンと心地よい調和を保ちながら、君は君の調べを歌っていた。俺の演奏だけでもなく、君の演奏だけでもなく・・・ふたりで奏でたからこそ、今の音楽が生まれたんだ」
 月森はヴァイオリンをケースに置き、香穂子の手のそれも彼女のケースに置く。そして、彼女の手をそっと取り、指を絡め合わせる。
「・・・最近、気がついたんだ。俺はヴァイオリンを弾く時に、今では心の底から歌っていると。ヴァイオリンが、自分の声となっていることを感じる・・・きっと、心が、想いを歌にして歌うことを覚えたからだと思う」
 月森はやさしくこつん、と香穂子の額に、自分のそれを当てて、囁いた。
「君が与えてくれた、最高の贈り物だ」
「蓮、くん・・・」
 香穂子はその距離の近さと、言葉に、ほんのりと頬を染めた。
「誰かと一緒にいるというのは・・・誰かと、同じ時を過ごすというのは、こういうことなんだな」
 月森は額を離して、香穂子の瞳を真っすぐに見つめた。
 そして、きゅっと手を握る。
「香穂子、日本を離れる日を黙っていてすまなかった。俺は、目先の淋しさばかりを気にして、君の気持ちを思いやりもせず、大切なものを分け合おうとしなかった。・・・許して、くれるだろうか?」
 不安げに揺れる瞳に、香穂子は泣き笑いの表情になる。
「・・・蓮くんだけじゃないよ。私だって、勿論淋しい。離れたくないよ、正直に言うと。・・・でも、蓮くんにはもっともっとヴァイオリンの音に磨きをかけることが必要だし、それは今、ここにいるままじゃ、出来ないことでしょう? だから、行くって決めたんだものね。だからね、蓮くんの音がもっともっとステキになるためなんだから、私も我慢出来ると思うの。蓮くんは私の目標だもの、その蓮くんがずっと先を走ってるって思ったら、きっと私も頑張れるから。だから・・・大丈夫だって、信じるためにも、行くまでの時間はこうして私と過ごしてほしい。もっともっとヴァイオリンを教えてほしい。そして、たくさんの思い出を作ろう? ふたりで、一緒に」
「香穂子・・・」
 月森は手を離してふわりと香穂子を抱きしめた。
「ありがとう、香穂子・・・俺も、もっともっと、君とヴァイオリンを奏でていたい・・・いつも、君のことを想っていられるように。ヴァイオリンが、俺たちを繋いでくれる」
「・・・うん」
「たとえ、互いに遠く離れ、このひとときが思い出に変わる日が来たとしても、君と俺がこうして一緒に過ごしたという、確かな証がここにある。君と共に過ごした日々が俺のヴァイオリンを歌わせてくれた」
「蓮くん・・・」
「ありがとう、香穂子。・・・君が、好きだ。・・・大切なんだ、とても」
「・・・私にとっても、そうだよ、蓮くん。・・・大好きだし、とても、大切。遠くに離れたって、ずっと」
「香穂子・・・」
 腕の中の確かな温もり。何者にも代えがたいヴァイオリンと同様に、大切な存在。
 香穂子がいたから、月森は進むことが出来た。ずっと探していた、理想の音へと続く道を。
 そして、これからも進んでいける。この身が離れ離れになっても、ヴァイオリンを奏で続ける限り、互いの心を感じることが出来ると信じられるから。
「・・・香穂子、次の、コンサートの曲は・・・」
 そっと身体を離すと、月森は遠慮がちに問いかけた。
 香穂子は満面の笑みを浮かべる。
「手伝ってくれる?」
「当たり前だろう? 君と一緒に奏でる大切な機会だ」
 月森も微笑む。
「あのね、昨日、土浦くんと冬海ちゃんと一緒に決めたの。『中央アジアの草原にて』と『メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲第一楽章』と『ルスランとリュドミラ序曲』の3曲にしたいと思って。全部、蓮くんの協力が必要なの」
「・・・そうか。君の助けとなれるよう、頑張らないといけないな」
「私には難しい曲ばかりだけど、コンミスになるためだもの、頑張りたいと思ってる。蓮くん、よろしくお願いします」
 真剣な瞳になる香穂子に、月森も表情を引き締めた。
「ああ。ヴァイオリンに関しては、俺はこれからも妥協はしないつもりだ。覚悟を、しておいてくれ」
「はい」
「・・・では、譜読みをして、ざっとさらってみようか。そして、練習が終わったら、一緒に帰ろう。出来るなら、寄り道もして」
「うん。今日も寒いから、温かいものでも飲みに行こう」
「・・・いいな」
 月森はやさしく微笑む。
 香穂子にだけ見せてくれるその笑みは、特別な存在なのだと主張してくれるもので。
 温かい気持ちで、香穂子は月森に元気な笑顔を返す。
「行こう、蓮くん。私、今日は練習室を予約してあるんだ。ここもいいけど、少し寒いから」
「ああ」
 香穂子と月森はヴァイオリンを一旦片づけて練習室に移動し、そこで練習をした。
 夕暮れになると、学校を出て一緒に歩く。
「やはり、夕方になると寒さが増すな」
「うん、そうだね。でも、だいぶ日が落ちるのが遅くなったから、気持ち的には少しマシかな?」
「気持ち的、とは?」
「ん〜、ほら、暗くなってからの方が寒く感じるでしょ? だから」
「・・・確かに、そうだな」
 月森は穏やかな笑みを香穂子に向ける。
「それに、君と一緒だから日が長いのは嬉しい。その分、長く一緒にいられる」
「蓮くん・・・」
 香穂子はほんのりと頬を染め、嬉しそうに微笑んだ。
「・・・うん、私も。蓮くんと一緒にいられて嬉しいよ」
 暖かい春が来る直前くらいに、旅立つ月森。
 けれど、それまでの時間、少しでも長く一緒の時間を過ごしたい。
 ふたりで共に過ごし、ヴァイオリンを奏で、思い出を積み重ねていきたい。
 大切な想いを胸に、月森と香穂子は馴染みの喫茶店の扉を開けた。
 

 


END









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