いっそのこと、打ち明けてしまえば楽になれるのだろうか。
 どうしたところで、事実は事実でしかないのだから。
 この決定が覆されることはない。

 だが、それでも。

 俺は、君にどう話していいのか判らない。いや、話すこと自体が、恐いのかもしれない。
 打ち明けた時の君の反応が、恐くて仕方がないんだ・・・・・。






大切なのは





「ちょっと、香穂! どういうことなの!?」
 天羽がいきなり香穂子のところへやってきたのは、理事長の就任パーティーでの演奏会が終わった翌日の昼休みのことだった。
「えっ、菜美? 何のこと?」
「月森くんの話! ・・・聞いて、ないの? もしかして」
「・・・何を?」
 香穂子は怪訝な表情で鬼気迫るような形相の天羽を見つめ返す。
「あ・・・や、その、さっき、月森くんと音楽科の先生が話してるとこ、聞いちゃってさ・・・」
 天羽は1度言葉を切って、言いにくそうに切り出した。
「月森くん、3年生になる前に休学するんだって」
「・・・えっ?」
 香穂子の頭は一瞬真っ白になった。
「3月には、ウィーンに行くって・・・ねえ、どういうことなの? 3月っていったらもうすぐじゃない。月森くん、その話、してくれてないの? ホントに?」
 天羽の言葉に、香穂子は頷くしかない。
「そんなのってさあ・・・そんなのって・・・」
 やりきれない、という思いを滲ませて、天羽は香穂子を見つめた。
 天羽の言葉が香穂子の中でぐるぐると回る。
 信じられない。そんなに早く、月森が旅立ってしまうなんて。
「・・・・・蓮くんに、聞いてくる」
 香穂子はいてもたってもいられず、立ち上がった。
「うん、私も、ちゃんと月森くんと話をするのが1番だと思う。・・・行ってきなよ。頑張れ!」
「・・・うん。ありがとう、菜美」
 笑顔で送り出してくれた天羽に、香穂子も微かな笑みを返し、教室を飛び出す。
 音楽棟の2年A組に向かって、香穂子は駆け出した。
 


「おーい、月森、彼女だぞ」
 教室の入り口から顔を出した香穂子に、内田が気づき、月森に声をかけてくれた。
「え? 日野・・・?」
 軽く息を弾ませている香穂子の姿を認め、月森は瞠目して立ち上がる。
 近くまで行き、月森は香穂子の目前で立ち止まった。
「どうしたんだ。俺の教室に来るなんて珍しいな」
「れ、月森くん・・・3月に・・・3年になる前にウィーンに行くって・・・」
 香穂子の口から飛び出した言葉に、月森は目を見開いた。
「・・・・・どうして」
「菜美に聞いたの。・・・音楽科の先生と、話してたって・・・」
 月森はぎゅっと眉根を寄せた。
「・・・・・場所を、変えないか? ここでは、話しにくい」
「あ、うん」
 2人は森の広場へと移動した。
 午後の授業の開始のチャイムが響くが、それは聞き流す。
 小さな池のほとりまで、2人は無言で歩いていた。
 冬独特の冷たい空気が満ちているが、日差しがある分、寒さも和らいでいる。
「・・・すまない。日本を離れる日はだいぶ前に決まっていたんだ。・・・年明けには、決まっていた」
 香穂子は僅かに息を呑んだ。
 目の前の月森の表情には、苦悩が浮かんでいる。 
「だが、どうしても・・・どうしても、君には、言えなかった。言ったら、君が悲しむだろうと・・・」
 月森はゆっくりと首を振る。
「・・・・・いや、俺が、考えたくなかっただけだな。別れが近づいていることから目を背けてたんだ。・・・そんなことをしても、何ひとつ変わらないのに」
 自嘲気味に告白する月森に、香穂子は自分の両手をぎゅっと握り合わせる。
 確かに、いきなりのことで驚愕した。
 けれど、よくよく冷静に考えれば、月森がウィーンに行くということ自体ははっきりしていた。それが、予想より早かっただけのことだ。
 天羽に「3月には行ってしまう」と聞かされて動転してしまったが、それでも、月森の、音楽に対する情熱、真剣さはよくよく解っていた筈ではないか。
「蓮くん・・・もっと、早くに、言ってくれたらよかったのに・・・」
「・・・すまない」
 目を伏せて、辛そうにしている月森を見れば、香穂子はとても彼に詰問するということは出来ないと感じた。
「・・・凄く、驚いたよ? まさか、3月に行っちゃうなんて、全然思ってなかったから。でも・・・蓮くんは、いずれ行っちゃうって、去年のうちに判ってたんだもの、それが少し、早くなっただけだよね・・・」
 けれど、そう言葉にしたら、じきに月森が旅立ってしまうことを実感してしまい、香穂子は声を詰まらせる。
「香穂子・・・」
「・・・どうして、3月に旅立つことにしたの?」
「学校が始まる前に、向こうの土地に慣れておきたいからだ。こちらで進級して夏に渡欧するというスケジュールよりは・・・2年が終わるのと同時に、向こうへ行った方がいいと思った。・・・君の事を、考えなかったわけじゃないんだ」
 月森はすっと香穂子の手を握った。
「君と離れるのは・・・辛い、とても。けれど、俺にとって留学は・・・音楽は、何かとはかりにかけられるようなものではないんだ。解って欲しい、というのはわがままだろうから、すまない、としか言えない・・・」
 それだけ言うと、月森は手を離す。
 月森の、音楽に対する姿勢を顕著に表す言葉に、香穂子はこくん、と頷いた。
「うん。蓮くんが目指すのはプロのソリストなんだものね。私も・・・蓮くんの音楽をたくさんの人に聞いてほしいと思う。解ってる、つもりだよ」
「香穂子・・・ありがとう・・・」
 月森は真摯な瞳の香穂子の言葉に、少しだけ救われた気がした。
 とは言っても、離れ離れになるという事実は変わらない。
 月森は香穂子を日本に置いて、ウィーンへ行く。
 想いは重なっているのに、簡単には会えない距離へと旅立つ自分が、ひどく悪者に思えて、月森は目を伏せた。
「すまない、本当に。今の俺には、これしか言えない・・・」 
「蓮くん・・・」
「・・・すまない、香穂子」
 まるで自分を責めているかのような月森に、香穂子はもう何も言葉をかけることが出来なくなり、沈黙した。




 5限の授業が終わってから、月森と香穂子はそれぞれの教室に戻った。
「・・・月森、とりあえず、お前は保健室で寝てるってことにしといたから」
 内田がこそっと耳打ちしてくれて、月森は僅かに瞠目した。
「あ、ああ・・・すまない」
「真面目なお前が授業をサボるなんて、あり得ないからな。・・・彼女と、話はついたのか」
「・・・ついたというか・・・」
「彼女に言ってなかったのか? 留学すること」
「いや・・・行く時期を、伝えられていなかっただけなんだ・・・」
「・・・そうか」
 内田はそれ以上は何も言わず、ぽん、と軽く月森の肩を叩いて自分の席へと戻っていった。
 程なく、英語の教師が来て、6限の授業が始まる。
 教科書とノートを広げながら、月森はぼんやりと香穂子のことを考えていた。
 想像していたよりも、香穂子は落ち着いていた。むしろ、混乱しているのは自分の方かもしれない。
 今までずっと、3月には行くのだと言えないで来たのは、彼女を思ってではなく、やはり、自分自身がそれだけ彼女と離れたくないと、願っているからなのかもしれない。
(香穂子・・・俺は・・・)
 月森はぼんやりと、普通科棟へと視線を送った。



 一方の香穂子も、ぼんやりと窓の外を見つめている。
 国語教師が教科書を読んでいるが、それは耳には入ってきていない。
 年明けには、既に3月に旅立つと決まっていたという。ならば、もっと早く教えてくれていたら。もっともっと、一緒の時間を有意義に使えたのではないだろうか。
(それは・・・判らない、か・・・コンミスになるっていう課題は、変わらないんだし・・・)
 月森の旅立ちは応援したい、でも、離れるのは寂しい。
 相反する2つの感情が同時に存在している。
(それに、最初に『留学する』って聞かされた時に、いつかは離れなきゃいけないって、覚悟してた筈じゃない。蓮くんのためには、留学して更に音に磨きをかけてもらうのが1番だって。なのに、こんなに動揺してどうするの、私!)
 3月まではまだ少しある。それまでにはきっと、笑顔で送り出せるようになりたい。
 何より、今はコンミスとして認められるよう、努力していくことこそが香穂子に課せられた最重要課題なのだ。
(次のコンサートで演奏する曲、決めないと。・・・蓮くん、協力して、くれるかな・・・)
 月森に頼ってばかりではいけないことは判っているが、彼が協力してくれなかったらコンサートの成功は難しいだろうとも思うから。
 放課後、もう一度月森を訪ねよう。
 そう決心して、香穂子は授業時間を2/3以上過ぎてからようやく、黒板へと目を移した。
 書かれている内容はさっぱり意味が判らなくて、後で加地に教えてもらうしかなかったが。





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