昭和十年を挟む前後何年間かの甲子園全国中等学校優勝野球大会は、まさに全国中等学校球児の甲子園黄金期だったのではないでしょうか…
強豪松山商業に代表される愛媛の野球熱は、松山市や近郊郡中町の大人は勿論子達にも強い印象を与えて居たように思います。当時の松商の活躍振りは確かにダントツものでした。
いくら野球が好きといっても、小学低学年の息子に、ここまで付き合わせるか…そんな親父のいさゝか呆れるような記憶が、ギラギラ照りつける真夏日の頃になると鮮明に甦ります。私には汗ばむ陽射しが、亡き親父の肌の温もりに重なって感じる一瞬でもありますが…
" Tよ! 野球見に行くんなら、 早よ起きーよ ええっ! "
昨夜からの約束だから、T少年は眠い目をこすりながらも跳び起きます。
外は未だ薄暗い明け前です。伊予鉄一番列車を待ちきれなくて?歩いて道後の野球場に 松商対松中 の夏の決勝大会を見に行こうというのです。
球場の良い場所取りは、郡中発の一番列車では間に合わんのです。
今になって思うのですが、大会が行われるその場所に少しでも早く行っておきたい…何かに急き立てられてジッとして居れない、純粋無垢?な当時のファン気質を代弁する行為だったかも知れません。
何だか微笑ましい涙が出そうな…そんな親父の姿がダブって見えるのです。
重信川の堤防を過ぎる辺りまでは、大方伊予鉄の線路沿いの道を行きますが、道後球場まではかれこれ十キロを超す道程です。呆れ顔で作ってくれたお母ちゃんの手弁当と水筒は、T少年が二人分を確り背負っていました。
新町から新川の松原を抜け、地蔵町・松前辺りまでの記憶は意外とハッキリしています。親父の右っ側つまり伊予鉄郡中線の線路側を、根張りの太い松原の並木沿いに地蔵町駅へ、次いで松前町役場・松前小学校を抜け、田圃の続く道を重信堤防へ向かってワクワクしながら歩きました。
この松山までの親子二人の早朝ウォーキング?みたいな行動ですが、あの当時は、まさか?と一笑に付されるほどの突飛な行動でもなかったのです。まー、ちーと呆れた行為には入ったかも知れませんが…
この何年か後の松山中学時代、例年夏休みに入ると直ぐ一週間の勤労奉仕がありました。松山市内持田町に在る学校の集合時間は、早朝五時厳守が例年の決まりでした。
歩くも良し・知人・親戚宅に泊まるも良し・自転車を使うも勝手…集合の手段は全く自由でしたが、早朝五時集合の時間厳守は必須!で、厳しい約束事でした。真夏ですから、奉仕活動は午前中で終わります。
郡中線を利用する松中生の大方は、恒例のように早朝四時前起き出発の自転車通校を選ぶしかありませんでした。
"行きは良い・よい…帰りは暑い!"
勤労奉仕先は、奥道後辺りや石手川河川敷での、開墾・蕎麦蒔き等の食糧増産支援です。
超早起き〜10キロ自転車登校〜午前中奉仕活動〜真昼10キロの下校が一週続きます。 一週間の勤労は、若者中学生に課せられた試練の夏休み初めの苦行でした。 これ本当ですよ!
道後目指して親父と二人で歩きに歩いた筈ですが、重信鉄橋の手前辺りからの記憶は全くありません。
前方の少し小高くなった所にバックネットが見え、やがて何段かの段差を設けた球場に辿りつきます。
親父はバックネット後方の見物しやすそうな所に陣取ると、人影もまばらな時刻の球場を確認するように見廻し、私を促して共に仮眠に入り試合の開始を待ち受けるのでした。
親父に肩を叩かれて目覚めたとき、周りは何時の間にか大勢の見物客で埋まっていました。
ここまで書いて、ふっとこの試合の対戦スコアーらしい記憶が甦り変な気持ちです。半世紀以上も前の記憶は確認のしようも無く、間違っている可能性も大きいのですが…
松山商業 対 松山中学 : 5 対 3
夏の中等学校優勝野球大会中の町内の熱狂振りは異常な程でした。 小学校入学の前、昭和の初期から十年台にかけての大会期間中、町内は文字通り野球一色に塗り潰された感じでした。
三森!景浦!…呼び捨ての選手名が子達の口から囁かれ、地元出身かどうかも良く判らない選手名も、知ったかぶりに入り混じる始末です。松商の名キャッチャー藤堂?さんなどは、往時の子供ファンには染み付いて拭えない名前の一つですです。
ラジオが未だ町中に普及していない時代ですから、刻々の試合経過は、ラジオの有る商店の軒下辺りにぶら下がるスコアーボード速報板で知ります。
通りがかりの立ち聞き観衆は、ぶら下りスコアーボードを眺め合いながら、臨場感溢れる口調で尤もらしく戦況を語り合うのでした。
夏大会定番のスコアーボードは、何故だか薬屋さんの店先でよく見かけました。
灘町のM薬局店頭のスコアーボードが何故だか特別印象的で、何時も立ち止まり眺めていました。ボードには何時も綺麗に分り易く速報スコアーが書き込まれ、店頭には常時数人時に十数人の人だかりが出来ていたと思います。
俄かスポークスマン同士がひとしきり口角泡を飛ばすスポットでした。
昭和十年の前後数年間は、暑さ・日照りとも格別に厳しい夏が続きました。真昼間の町筋は、照りつける太陽の熱気に、この町初めてのアスファルト舗装からの照り返しが加わり、町中がドローンと油壺に浸ったみたいな日々の連続でした。
真昼間に商店を訪れる客も無く、町中の人通りも疎らです。店先に客の姿の無い商店では、働く人達も涼を求めて縁台将棋に避難し、団扇片手の昼寝・噂話に現を抜かすしかない時間帯が続きます。
甲子園の優勝野球大会が始まると、町中の状況はガラリ一変します。将棋や昼寝、噂話に夢中の御j当人達は、ラジオ実況に一喜一憂する単純な野球ファンに変身です。
地元チームの出場ともなると状況は一層エスカレートします。並でないそのエスカレート振りが、郡中人の町気質の一面を物語るにしても、子達にさえ異常を感じさせる程の熱狂振りでした。
こんな時です…商売一途で根っからの商人みたいな親父の、予想だにしなかった野球ファンの一面に出合ったのでした。
親父は食事の時、家族皆んなが座る大きいちゃぶ台ではなく、少し離れて小さい囲炉裏の前に一人用のお膳を置いて食べる習慣でした。
物心ついた頃から見慣れた状景でしたから別に違和感は無く、親父はあゝして食べるんか!位に思っていました。
お膳前の小さな囲炉裏は通路側に切ってあります。夕食時には決まって、小鳥を模した素焼きの徳利に酒を容れ、囲炉裏灰の中に徳利を差し込んで一人癇酒を愉しんでいました。
子供心に母親が “可哀想…” と、少し親父を恨んでいた時期があります。
親父は毎晩のように癇酒を愉しみますから、家族皆が晩御飯を終わった後も、一人小さな四角膳の前を動きません。そして何時も母親に向かって言うのです。
「お母さん… (母親の名前を呼んでいたかも知れません)
何にもせんで良いから … そこに座っとれや … 」
「片付けもあるし… 夜なべもせな いかんのに… 」
「えーから えーから … 横に居るだけで えーから 」
「何にもせんのに 何で座っとらな いかんのぞなー! 」
一人では晩酌二本以上は飲まない、酒の当てが無ければ梅干ひとつ・味のり一枚、何かあれば文句は言わない…
不意の友達には、海岸沖に設えてあった灘萬の生簀まで舟漕ぎしていって魚を買い求め、帰ると流し場に立って一人で調理する…
どんな事があっても、正月三ヶ日の食事準備だけは決して母親にさせない…そんな親父でしたが、この晩酌時のわがまま?には、母もほとほと困っていたようでした。
真夏の甲子園、優勝野球大会が始まります。この日から親父の昼飯は、ラジオのある裏奥の部屋に移ります。
自分の四角膳を茶の間から部屋まで一人で運び、自分だけの趣味の世界のお膳立てを、余念なく何時もの段取りで整えて行きます。
スピーカーボックスが上に載った上下二段式の大げさなラジオの前に四角膳を置き、膳の横には前以て準備した四角の白っぽいボール紙を置きます。
次に小さく切り揃えた二〜三十枚の厚手のカードを、白いボール紙の横に置きます。
良く見ると、白い四角紙には、野球場を模したミニ野球場がちゃんと描かれています。小さな厚手のカードは、攻守両校球児のポジションを併記した各選手名別のカードです。
立派なスコアボードと点数カードも、別仕立てで準備出来ています。
試合開始に備えた紙野球観戦の準備は、これで万端整ったという訳です。
微かな高周波雑音が雑じったラジオの実況放送を聞きながら、親父は臨場感溢れる野球実況を、白っぽいボール紙球場に再現し、完全に甲子園アルプススタンドで観戦中の自分に没入しきってしまうのでした。
実況が佳境にきたとき、四角膳の昼食は最早据え膳です。
ボール紙球場に繰り広げられるミニ甲子園球場の全国中等学校優勝野球大会のドラマは、二十一世紀のデジタルTV実況に決して引けを取らない、親父だけのアナログ…と言うより、手動の立体的映像世界に実現されていました。
ラジオから実況が流れる⇒ “ヒット!” ⇒ 鳥瞰図みたいなダンボール球場をカード選手が進塁します。
“ホームラン!”⇒ カード選手が塁を一周する、スコアカードに得点が追加されます。
ツーアウト満塁 “三振!” ⇒ 三者残塁・チェンジ ⇒ 選手カードを手早く攻守入れ替え、次の攻撃に備えます。
親父の四角膳の前は、実況中継が終わるまであいだ、ラジオと紙芝居とテレビとの合作みたいな甲子園野球大会会場の真っ只中でした。
囲碁・将棋の好きな親父が、こよなく愛した夏の甲子園大会を、詰碁・詰将棋の感覚でボール紙製のマイクロ球場に実現した様は、まさに昭和初期の大人版 ゲームボーイ・プレイステーション その物だったでしょう。全国中等学校優勝野球大会の心底のファン、亡き父に エール! を贈って上げたいのです。
夏の中等学校優勝野球大会の思い出は、デジタル・データー全盛の現在に較べると、球児達のプロファイルや出場校の事情など、かなり大雑把なものでした。
町内の人々の関心は少し度を過ぎた感じでしたが、野球好きで娯楽の少ない地域の空気を正直に反映したものでしょう。声援を送る子達もアバウトで、精々“松商ガンバレ”位だったのですが…
小学校時代を通じて夏の甲子園大会では、明石中学対中京商業の延長23回戦は忘れようもありませんが、私には松山商業の奇蹟に近い勝利の記憶の方が強烈に印象付けられています。
あの時は放送の内容がよく呑み込めず、周りの歓喜の喚声に訳も分からず唱和していた子供の1人でしたが…
甲子園の対戦記録を見れば正確な記録も分かるでしょうが、舞台は準決勝か準々決勝だったと思います。対戦相手も残念ながら覚えていません。
一点差勝ちで迎えた最終回、確かノーアウト・フルベースで一打さよなら負けの場面でした。負けを半ば覚悟した町内の大方がラジオを囲み、アナウンサーの一言も聞き漏らすまいと固唾を呑んで聞き入っていた瞬間です。
“バッター 打ちました! レフト・レフト…レフトフライ…レフト前進・前進…捕りました!”
“三塁ランナー・スタート・・・レフト・バックホーム・・・タッチ・タッチアウ…タッチアウ!”
“キャッチャー 三塁送球・・・タッチ・タッチ・・・タッチアウ・タッチアウ…タッチアウト!”
「やったー! ゲッスリじゃー ゲッスリー ゲッスリぞー !」
この時ラジオを囲んでいた町内の人々を包む一瞬の静寂…信じられない奇蹟の瞬間…沈黙を破る歓喜のどよめき…ラジオの声を掻き消す歓声…半世紀有半後の今日でも、あの瞬間の余りにも劇的な勝利のドラマを忘れる事はありません。
真夏の甲子園 記憶のワンショット は、この一瞬に凝縮しています。
郡中蛍なんて蛍の新種が居る訳はありません。子供時代そして戦後の昭和30年代半ば頃まで、ふる里郡中辺りに乱舞していた蛍の光は今如何なったかな?健在でしょうか?
小学一年生前後の頃、蛍狩りを兼ねた姉達の夜の散歩には、よくお相伴させって貰いました。
母や姉達それに姉の女学校友達など、何時も七〜八人連れでのぶらり散歩でした。身軽な着物姿で、夫々が少し小さめの丸団扇を手にしていました。女学校友達が中心でしたから、賑やかな会話が途切れる事はありません。時には私も会話の仲間に入れてくれます。
「Tちゃん! 蛍・ほたる! ホラッ! 団扇貸したげるきん! お捕りっ!」
「下は 井出じゃきん 落ちたらいけんよ! 落ちたて知らんよ!」
「ほら! 見とーみ・捕れたっ! そっと上に当てたら 団扇に留まるきん!」
「Tちゃん! そない がさがさ動かしても 捕れまいがな! 貸しとーみ!」
「ほら・ホラッ! 留まったー! はよ!蛍籠持っといで! はよっ・はよ!」
「籠忘れたー」「忘れたー? 何んしに付いてきたん? ホラッ! ポケットにでも入れとーき!」
梢川堤防沿いに郡中小学校を右手に見ながら国鉄の踏切を渡り、旧松本小学校に向かう緩やかな坂道を下ると、右手に緩い棚田が広がっていました。棚田とカッコよく言うより、年中水切れの悪い はるた でしたが…
国鉄が通り梢川越えの堤防が出来てからは、大雨の度に上手からの流れが糞詰まりするらしく、あたり一帯の棚田が大池に姿を変えてしまいます。排水溝の設計ミス?に因る処理容量の不足が原因だったのでしょうが…
その所為もあってか、この辺りの井出一帯は子供達の絶好の淡水漁場でした。泥鰌・鮒・川えび・田螺・貝類…田んぼを連ねる井出の周りは、蛍の幼虫等の生育には打って付けのお宿条件が整っていたのでしょう。今喧騒しい水辺環境の視点からは100点万点の水辺でした。
井出の水面に映り点滅する青白い光、草陰に屯して点滅のリズムを唱い続ける蛍の群れ…団扇を差し入れるのが躊躇われる蛍光の膨らみ…
蛍籠に移したい青白い光の膨らみにあまり執着しなくなった私は、膨らみの光の先を追い求めて先を急ぐのでした。
昭和30年代も後半になると、都会地の周辺で蛍の群生・乱舞を眺めるのは、大方出来なくなって仕舞いました。つい何年か前まで当たり前に見られたていた自然が、一つまた一つ消えて行く寂しい時代です。
蛍の群舞する様を直に眺めた経験のある世代にしか、蛍場の回復に取り組む意欲を期待するのは無理かも知れません。
その頃小学入学を控えた私の娘とその弟を連れて、久しぶりに帰郷(懐かしい言葉です…最近は滅多に聞きません)しました。丁度蛍が盛んに飛び交い始めた頃です。
“蛍を見たい! 蛍を見たい!”
せがまれるので、傍の甥っ子に問いかけると、
“何ぼでも 飛んどらい! 見たいん? ついといでな!”
子供らを促し小走りに郡中港駅の方に向かいました。
当時の郡中港駅周辺は、駅舎以外に何にもない荒れ原っぱでした。榮養寺さんの裏手の道と暗渠みたいな小川を挟んで、一並びの家が立ち並んでいる位で、線路までの空き地は草茫々でした。昭和の36〜7年の頃です。
驚きました…目の前の空き地・草むら一杯にに、無数の蛍が群舞しているのです。一体水場は何処なんだろう?目を凝らしながら詰まらん詮索も頭を過ぎりますが、青白い光の波とリズムは実に見事なものでした。
私の長兄が子供の頃、大雨の後で足滑らせて溺れかけた小川が、栄養寺さん裏手の小川とも聞きました。そう言えば、妹もこの小川に足をとられて大事だったとか…
…とすれば屹度、はるたに繋がるあの半分暗渠みたいな小川周辺で、蛍が生きながらえ子孫を育み続けて来たに違いない!
群舞という程の記憶に残る郡中ボタルは、この二ヶ所の印象が特に強いのです。
近郊の蛍群舞の穴場は、森の川上流辺り一帯には残っているようです。私が郡中ボタルを眺めていたこの時期にも、森川上流一帯では桁違いの群舞・輝きが見られた事でしょう。
残念ながら当時の私には、そんな青白い光の波が揺らぐ森川辺りの群舞を見る機会はありませんでした。
今も当時の姿は残っていますでしょうか?