全国的通称は“メンコ”かも…メンコは面子、鉛・ブリキ・ボール紙などを円く切って、絵を貼り付けた円形の玩具を指すようです。
パッチンは長方形の厚手ボール紙に絵柄を印刷したカードで、地面に打ち付けると ゛パチン゛ と音がするから、パッチンと言うのだろう…が私の理解です。
遊ぶ時の擬音がそのまま遊び玩具の呼称に定着したのだと思います。大阪辺りの通称は ベッタンだそうですから、これも擬音からでしょうが、打ち付ける地面の違いを パッチンとの擬音の差に感じます。
昭和の初め頃、お正月前後の子達の遊びに欠かせないのがパッチンでした。
お正月に貰う僅かなお年玉も大方は、奴凧や角凧・鉄輪ッカ付きの独楽(大きさは一文から五・六文、直径が数cm〜十数cm)・パッチン・日月ボール(けん玉)・いろはカルタ・双六遊び・支那ヨーヨー・ラムネ(ビー玉)・凧糸やコマ糸等の購入に消えます。
あと幾ら…あと幾ら…残った小遣いを掌に握りしめ、欲しい物の取捨に悩みます。小遣いやプレゼントに恵まれ過ぎた今の子達には味わいにくいやり繰り算段ですが、貧しさとメルヘンの世界とは、想像するほどかけ離れてもいないのです。ワクワクする子達の気持ちは純粋で、幸せ感などは単純なもの…時代がそうでした。
パッチンの絵柄は、歌舞伎・講談ものが主流でしたが、子供世界にも軍国調が忍び寄り、武器ものも参入し始めていました。でも大上段に身構えた歌舞伎役者の絵柄は、子達のパッチン収集心を擽る迫力は十分です。
玩具屋さんでは、パッチンの絵柄十枚を一枚に合せ刷りした形のものを、確か一枚一銭か二銭で売っていました。
因みに新高キャラメル二銭・おまけ付きグリコが三銭・森永キャラメル大五銭小二銭・新高ドロップ二銭・佐久間の缶入りドロップが十銭?という時代です。
十枚刷りのパッチンを一枚、時に三枚も奮発して帰ると、早速紙バサミを使って絵柄の切り離しに取りかかります。一枚・一枚切り離す作業は意外と手間ですが、パッチンを重ね合わせた時の重なりが凸凹する様な切り方では、“遊びの資格に欠ける…”みたいな仲間の舌打ちを覚悟しなければなりません。
パッチンの紙素材は、分厚くて可なり確っかりしたボール紙で出来ています。絵柄を区切る白無地の部分を均等に絵柄に割付け、見た目綺麗に切り分ける腕前も、会得しなければならない技量の一つです。
下手に切って型ずれしたパッチンには、周りの子達の視線は冷ややかです。直ぐに汚れてヨレヨレになってしまう札なのに、変な潔癖感?なのでしょうか…
遊びにも譲れない基本技?みたいなものが要る!遊ぶ仲間なら習得して欲しい遊びに必須の技!そんな感覚が不文律みたいに定着していたようです。
譲れない最低限の基本技?みたいなものは、どんな遊びにも大なり小なり有りました。最低限の技が無いと皆と一緒に遊べない…そんな遊びが多かったのも事実です。
最近の電子ゲームの指操作の技も似ている気もしますが、大方が直に体で覚えこむ技が必要な遊びでしたから、基本技の習得は欠かせず時間も掛かりました。
ドンくさい動作は皆んなを苛立たせ、時に仲間外れにされかねません。子達は一生懸命に遊びの基本技習得に励みました。集団の遊びの輪の中に早く溶け込みたい!想いからです。
基本の技を素早く器用に自分流に消化する能力は、こんな遊び環境の中で培われて行きました。
" あいつ! どなに頑張っても どーせ でけせんぞな! "
と解った時、ガキ大将株は あいつ を仲間外れにすのではなく、ニヤリ渋々…でけん子の例外を認めます。遊びの輪にホッとした温かさが戻り、再び素早く必死の攻防に目の色を変え始めるのでした。
☆ 一枚刷りされた十枚の絵柄を、一枚ずつのパッチンに切り分ける鋏使い
☆ 角凧・奴凧・飛行機凧用の竹籤削りや杉鉄砲作り用の小刀肥後守
☆ 自転車のフォークを杉鉄砲用の押圧芯に加工するヤットコやトンカチ使い
☆ 水鉄砲・紙鉄砲・竹とんぼ・竹馬作りや授業中の鉛筆削りに必須の肥後守
当時の子達は、日々の遊びに必要な小道具類を何時も手許に置き、前記☆の様な作業はどれも、特に意識する事もなく日常遊びの一部に組み込んでいました。
薄汚れた小倉服のズボンのポケットには、何は無くとも肥後守を忘れる事は無かったのです。常に身近に置いて使いこなしていた刃物・肥後守は、手足の一部みたいで、これを危険視する意識などは皆無でした。
肥後守程度の小道具も、今の小学生には危険だからと所持が禁止されているようです。これなど大人の身勝手な “とんでもない規制” の一つというものでしょう。
子達が遊びの場で自然に習得する創意・工夫の芽を摘みとり、日本人独自の繊細な器用さ・手工芸的技術の芽生えを、未然に抹殺する愚挙としか考えられません。
そんな発想しか生まれない社会環境の何故?の方に、先ず目を向けるべきでしょう。短絡的に子達の自由度を縛って良しとし、万一の責任逃れの保身を図る風潮が、教育現場には多過ぎませんか?
教育現場に累積している色んな約束事は、半世紀以上に亘って大人が積み重ねた、戦後社会の負の遺産に思えてなりません。無限の可能性を秘めた子達です。凡ての規制を先ず撤廃して出発する位で丁度良いのではないでしょうか…
良かれ!と思う単純な規制も累積すると、子達には恐竜かマンモスの重圧に感じるかも知れません。ぜひ一度戦前(古過ぎますか?)には無かった規制事項を拾い上げて、眺め直してみて下さい。
教育現場の崩壊などという言葉も、そう軽々に使ってもらっては困るのです。特に教育現場の先生方には…です。
教育の後進国や相次ぐ戦乱で教育機会を奪われ続けた国々で、寸時の平和の時間を学校で学ぶ子達の映像に接する事があります。
映像に映る子達の瞳の輝き、学べる喜びを湛えた真剣な表情を見て下さい!
学ぶ喜びを湛えた子達のあの眼差しは、戦前そして戦後暫くの日本国でも、日常極く当たり前の子達の姿であった事を思い出して下さい!
授業が進められない教室…とは 一体何事です!
教育現場の崩壊という言葉くらい、卑怯で身勝手な大人社会の責任転嫁の論理はありません。
大人社会も最近になって、やっと行政上累積した各種規制の弊害に気付き、規制緩和に向かわざるを得なくなりました。
子供社会の教育現場でも、この半世紀余りに蓄積し続けた規制の弊害を掘り起こし、規制撤廃に向けた大胆な施策へと、早急な見直しに先ず着手して欲しいものです。
多すぎる情報を難しく考えすぎです。地方の現場から大胆に声を上げて取り組んでみては如何でしょう!
小学校低学年頃の記憶なのに、何時までも脳裏から去らない パッチン と トッさん の印象は不思議です。 トッさん と話したことなど一度もありません。年齢的にも差が有り過ぎて気軽に話せる相手でもなく、唯黙って少し離れた所からその所作を眺めていただけの方です。
メンコ遊びの勝負の決め方は良くは知りません。メンコは丸型が主流かも知れませんが、パッチンはあくまで長方形の角札です。
地面の枠内に置いた各自の札を目がけて、交互に自分の札を打ちつけます。自分の札が相手札の下に潜り込むか、相手札がひっくり返るかが勝負で、相手札を頂戴します。メンコも遊びのルールも似たようなものでしょうか…
平坦な地面を選んで蝋石か白墨で、円形か四角形の小さい勝負枠を描きます。
それを囲んで何人かの仲間が、夫々一枚づつのパッチンを、思いを込め息を吹き掛け慎重に置きます。慎重に…を顕す動作の一つに、例えばパッチン札への折り目付けがあります。
矩形札の裏面対角線上に、左右の手の指三本を夫々添えます。人差し指をはさむようにして内側に軽く折り込み、次いで反対の対角線上も同じように折り込みます。札は平べったい札から低い台形の立体札に形を変え、小さい勝負枠の中に恭しく置かれます。その段取りと見つめる眼差しは真剣です。
パッチン勝負のルールは意外に単純です。
順番はじゃんけんで決め、手持ち札が無くなれば仕方なく離脱します。手持ち札が残っていても、
今日は駄目ぢゃ!
と思えば、何時でも自由に勝負から抜けられます。
試技は一人一回づつ順送りで、攻め方は自分の札を地面に打ち付けて相手の札に挑みます。
出来るだけ相手札の近くに打ち下ろすのがコツです。打ち付けた自札が起こす風圧で、相手札が裏返るか・枠外にとび出すか・自札が相手札の下に潜り込むかすると、相手札は自分の物になります。札を取られた者は直ぐに札を枠内に追加しなければなりません。
攻め方が失敗すると、自札を枠内に残して試技は次者に移り、手持ち札の続く限り 勝った!負けた!の勝負が延々続きます。
裏返し勝負のほかに、“蹴り?蹴出し?弾き?…”の勝負もありました。
枠内にある相手札に自札を敲き付けて、枠から相手札を弾き出す勝負です。敲き付けた自札が囲い枠内に残らない限り、弾き出す試技は連続して何回でも繰り返せます。
相手札の弾き出しに成功している間は試技を継続できますから、札持ち(金持ち)には有利なルールです。
ここぞと思うタイミングで、自札を囲い枠内に残したまゝ相手札の弾き出しに成功すると、それまでに弾き出した相手札と弾き出しに使った自札が全部自分の物になって取り戻せます。
弾き出し試技の途中で、相手札を弾き出せないまゝ自札が枠内に残ると、其れまでに使った枠外の自札と弾き札の権利は、試技の権利と共に次の者に移ります。
弾き札が途中で無くなればギブアップ…すべての権利は次者に移ります。
蹴出し?の勝負は、パッチン札の所有枚数が少ない者には、挑戦しにくい試技でした。
トッさん の記憶を辿ります。
トッさん のことは パッチンを措いては何もありません。私が小学一年に上がる前後の頃ですから、 トッさんが町内のどういう方だったのかも良くは知りません。彼が稀有の天才パッチン勝負師だったと言う記憶だけが、何故か鮮明に残っています。
彼は何時も丹前仕立ての着物を、やや気だるそうに草臥れた帯締めで着込み、上には何時も厚手の羽織を着流していました。年令は高等小学校生くらいに見えましたが、学校に行っている気配もなく何時も無口でした。
動きは少しスローで友達もあまり無いらしく、近所の子達と意識して交わる事も無く、何となく正体不明な人物みたいでした。
そんな彼もパッチン遊びだけは格別で、皆に一目も二目も置かれていました。何時も遊びの輪の傍らに来て、仲間に入りたそうな素振りを、それとなくアピールするのです。遊びに夢中の子達でもありましたが、皆は トッさん のシグナルに気付かぬ素振りで、勝負をし続けるのでした。
遊びの名手というのは、例えばパッチン技術!の トッさん みたいな人を指すのかも知れません
遊びの仲間に入れて欲しそうな彼のシグナルですが、年令が一ランク若い子達であっても、いつも何時も無視する訳にもいきません。
「トッさん! やるかな?」
「入れて…呉れるん? えゝんか?」「えゝけど みな持て帰ったら もーせんぞな!」
「 … … あゝ …」
何時もの事ながら、交わす会話も同じです。 “大方の札を獲られるかも…”の不安を感じながらも、彼の名人振りの演技を見届けたい気持ちが、子達を支配する瞬間でもありました。
トッさん のパッチンを挟む右手が、背中の後の方から大きな弧を描いて振り下ろされます。同時に着流しの羽織が腰から膝に掛けて大きく揺れます。今様には、軸足中心に回転を掛けて投球する、野茂投手のトルネード投法みたいなものですです。
何枚かのパッチンが並んだ地面に、局所のつむじ風が舞います。 トッさん が敲きつけるパッチンは、地面を敲くと言うより柔らかく舞い降りる感じです。ソフトランディングする トッさん のパッチンが舞い降りた側のパッチンは、見事に浮き上がり裏返るのです。時には浮き上がったまま勝負枠の外に遊泳・弾き飛ばされます。
「… … うぅ… えぇ… …」
トッさん の妙技は、自分のパッチン札が獲られる…そんな悔しさを通り越して、子達を呻らせる神技じみた迫力でした。
年令が少し違い過ぎていた所為か、町中の事情には結構詳しい子達でしたが、 トッさん は良く判らないお兄ちゃんのまゝ、伝説の記憶の人になりました。ご近所に住んでいた方では?と思う節もありますが…
この遊びに使う縦長いカードの呼び名が思い出せません(教えて下さる方?…)。でも、追っ駆けて会いタッチしてカードを見せ合う…勝負の瞬間の気合用語だけは、記憶の扉に確っかり仕舞い込んでありました。
「チチカーマーのドン!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「チチカーマーのドン!」
この札はカードと呼ぶほど上等ではなく、先述のパッチンの紙質に似てはいますが、厚みはその何分の一 かです。カードの大きさも丁度名刺二枚を縦並べした程でした。
カードの表に当時の代表的な軍隊の装備がイラスト的に描かれ、余白には多分数字か・記号か・万国旗かが描かれていたと思います。単純な絵柄のカードが色々ありました。
タンク〜毒ガス〜飛行機〜高射砲〜歩兵〜工兵〜騎兵〜大砲〜…
昭和一桁の後半期、子達の遊びにも徐々に軍事色が浸透し始めた頃です。
カードごとに勝ち負けの基準が決められ、例えば飛行機は高射砲に負けその他に勝ちといった具合です。"突撃に… 突っ込めっ!"のご時勢です…互いのカードの勝ち敗けを想像してみて下さい!
良く繰ったカード十枚前後を手にした子達は、二手に分かれて対峙します。対戦は町の広場・路地・校庭・和礁の濱・梢川の土手・八幡さんの森…場所は問いません。
二手に分かれ一ッ時してから対戦です。開始の合図などは無く適当に始まります。
先ず対戦相手を追って勝負の場に連れ込まないといけません。体にタッチされたら対戦開始、 タッチし合う迄の駆け引きが、ゲームのスリリングなところでした。
皆んな汗だくになって追っかけ・逃げ惑います。
“そりゃー! タッチしたぞー!”
二人は神妙に向き合います。十数枚のカードを手で覆い隠しながら、これぞ!と決めたカードを一番上に置き、覆った掌を勢いよく開きカードを見せ合います!
「チチカーマーのドン!」
「チチカーマーのドン!」
“相打ち! もーいっちょう!”
「チチカーマーのドン!」 「… … ドン」
“飛行機!勝ったー! 一人捕ったー!”
出会いの一発勝負に敗れると、捕虜となって敵の本部?に連行され、相方の旗棒を握らされる辱めを受けます。
救いは唯一つ…守備の油断を見澄ました仲間のハイタッチです。仲間のタッチが成功すると、その場で捕虜は全員解放されます。
夫々にカードを手にした睨み合いが続き、ハイタッチで仲間を助けに行くつもりが、逆タッチを受けて勝負に負け囚われの身になる等の攻防が延々続きます。
たった数十枚の薄っぺらな絵カードを取り巻く、汗だくの攻防戦!当時の子達の何でも遊びに変えてしまう、アウトドアーの達人芸の智慧には驚きます。
すべてが整い恵まれ過ぎてしまった現在でも、身近な諸々を遊びに換える発想や創造力は、子達だけに授かった天性だと信じます。天性を思いっきり発散できる場が要ります!
子達が智慧を存分に発揮できる自然の遊び空間を奪ったのは、経済効果に舞い上がった大人社会のエゴの結末です。
ふる里の失われた環境が、戦後半世紀かけた負の遺産なら、あと半世紀かけて失われる以前の環境が取り戻せない筈はありません!
海岸線の穏やかな曲率、水平線に沈む夕映え、和礁の続く浜辺、あまもの生い茂るの遠浅の海……
そう遠くない昔のふる里は、持続可能で自然に優しい山・地・水が、互いが互いを補い合い活力に溢れていました。人と町とは無意識の一体感で結ばれ、町の新しい展開を目指していました。
胸を張って二十一世紀後半に問いかけ誇れる扶桑木の里を夢見ますが、その里を21世紀初頭のふる里の延長線上に描くのは至難の感じです。
寧ろ20世紀央頃の旧ふる里への回帰をイメージした、新しい都市構想の視点で考えてみたいのです。
日本全体が持続可能な開発に失敗し、大方の市町村が取り返しようのないツケの代償を、無理やり払わされている現状です。わがふる里も然りでしょうが、全国が総夢遊病者みたいだったバブル期の開発は、別段恥ずる事でもないでしょう。
地球温暖化対策に取り組む京都議定書の試みは、まさに地球規模の重厚壮大な長期環境回復の実行計画です。
やってしまった事は、今更如何しようもない…原因は?可能な対策は?実現の可能性は?やらない場合地球は?…
議定書は待った無しの環境対策実行の赤紙を、地球に突き付けました。失った地球環境の復元計画では、国家規模の巨大投資さえゼロにする程の覚悟でしょう!
やってしまったふる里の環境破壊?…今更如何し様もない…では、苦難の末、荒地に郡中町を拓いた先人に申し訳が立ちません。
気の遠くなりそうな地球環境の復元さへ、持続可能な長期の改善対策に向かって、世界を巻き込んだ転換が図られようとしています。
長期スパンで考えれば、失われたふる里の環境復旧事業が、決して夢物語の戯言でない事に気付きます。復旧・やり直しの投資を無駄と一笑するのでなく、真摯に見つめ直し、環境回復の新規投資プランを、半世紀のスパンで練り上げる時期に来ているのではないでしょうか。
ふる里を離れた者の、ふる里に生きる人々への、少なからず無責任な期待感かも知れません。でも、悠久の大樹・扶桑木を市木と仰ぐ伊予市に托す、心からの希い・期待でもあるのです。
問い掛けみたいなこの言葉は、出所不明・意味不明です。いろいろ考えますが、まるで呪文?みたいで良く分かりません。記憶する言葉に自信はありますから、無意識に使っていた遊び言葉の一つだったのでしょう。
この呪文?は意外な所で、別の遊びにも使われていました。
お正月の追羽根撞きは、当時は男子も結構路上で楽しんだものです。小・中・高生や大学生・青年を問わず、若者にとって大空の下での、気兼ねの無い男女交際きっかけの場にもなりました。
羽根の頭は無患子(むくろじ)の黒い種子で作られています。使っていると三枚の風切羽根の捩れが縺れ、羽根が巧く回転しなくなります。羽根の頭を掴んで風切羽の捩れの向きを調整しますが、この時指で摘んで調整する羽根の根元に口を近ずけるなり…
“ チチカーマー フーッ チチカー フーッ ”
“ チチカー フーッ チチカーマー フーッ ”
呪文?を唱え吐息を吹きかけ続けると、風切り羽根の不具合は見事に調整されるのでした。この不思議!
当時の各家庭では、毛糸編みや針仕事は主婦・子女の日常作業の一つです。古くなり色褪せてきたセーター類を、解いて湯のし・染め直しして再利用するのも、日常極く当たり前の手仕事の中でした。
母や姉達がまとまって毛糸編み仕事をする時が、この遊びに使うふさ(房)作りの好機です。色んな色の毛糸が母や姉達の手許に店開きしています。屑毛糸に処分されそうなのを残らず頂き、同色の毛糸二三十本を十数センチ長さに切り束ね、片側をしっかり括って各色の房を作ります。
遊び仲間のガキ達も、この時だけは束の間の針子さんに変身です。神妙に何色かに色分けした房束作りに励みます。
「さー でけた! 房やろー ねや!」
「ヨーシ・ヨッシャー! 紫は軍旗にしょーや! 陸軍大将は赤かー!」
「赤は軍艦旗にしょー! 海軍大将は青色ぞー!」
「ホナラ… 黄色を陸軍大将にしとこかー! … …」
「今日は陸軍より海軍が強いんぞー 分かったー! …」
房色と勝敗の序列は軍隊モデルの時もあれば、侍モデル・力士モデル・お役人モデルなど何でもありでした。房の色別勝敗順位を決めると、その日の遊びは成り立ちます。
房の順位付けが決まると、子達は二組に分かれ公平に房が分配されます。分配された房を夫々の組の誰が持つかが、作戦の第一段階です。一人が二つの房を持つ事も許されます。ただし、向き合って開帳するのは一つだけです。
子達は、配分された1〜2本の房を、各自ベルトに差し挟みます。房の上を上着かシャツで覆い隠します。遊びの手法は前記の チチカーマーのドン に似てます。
互いにタッチし合った子達同士は、気合の掛け声と共に勢い良く上着かシャツを捲り上げ、ベルトに挟んだ房を一瞬見せ合うのです。
「赤っ!」 「紫っ!」
「赤勝ち なっ! わしの勝ち なっ!
「軍艦旗の方が軍旗より強い! さっき決めた ねゃ!」
負けた方は捕虜になって敵陣へ…敵陣に繋がれた仲間に隙を見て味方がハイタッチ!…タッチ成功!…捕虜は解放…再び自陣へ…
遊びの基本ルールは実に単純でしたが、お互い攻守の駆け引きに粋を凝らし、奇を衒いながらの真剣ゲームが、飽きもせず延々続くのでした。
小間物屋か玩具屋には、大小の独楽が山積みで売られていました。大きさは小さい独楽の一文から、大きい七文独楽位まで揃っていましたが、サイズはそんなに厳密でもなかったようです。
独楽を回す紐は現在とさして変わりませんが、合成繊維など無い時代ですから綿が主体です。最近の独楽紐に較べると、大変扱いやすく持ちもそこそこ強いものでした。
後述の釣り回し独楽用の細い紐から大独楽用の太目の紐まで、店頭には様々な太さの紐の定番品がぶら下がっていました。
独楽紐は子達の酷使に耐えられるよう、細心の配慮がされていたと思います。紐先の解れを防ぐため、子達は子達なりに様々工夫もして居ましたが、独楽に巻きつけ・回し・引っ掛ける紐の性能は、撚りのしなやかさをはじめ秀逸でした。
合繊主体の現在の独楽紐は、遊び方の実態とやや懸け離れた品質の感じで、遊具独楽に申し訳ない気さえします。尤も、独楽自体のバランスやその他の細工も、まともな製品は少ないのですが…
当時の子供達にとって、独楽は、遊び遊ぶ冬の遊具の横綱格です。
近頃は往年の遊具が時に線香花火みたいに喧伝され、注目されたり忘れられたり…を繰り返してきました。独楽やけん玉はその代表みたいです。
最近良く紹介される復古玩具は、何故か昔の玩具の剛に対して柔の感じが否めません。
遊具作り職人が全国に5万と居た往時と、あまり手間暇かけない加工法で、材料も多様化し安全対策至上の命題の下で造られる遊具とでは、同じ土俵で較べる方が間違いかも知れません。
剛が柔になり過ぎると、物事への拘りが薄れ、物の本質を見失いかねません。例えば玩具という言葉ですが、現在の玩具?が目指す出来上がった機能には、相応しい言葉ではない気がします。
玩具は本来玩ぶ道具、つまり弄繰り回す道具から生まれた言葉だからです。
昭和十年代の前後、一年に一度きりのお小遣い・お年玉を手にし頬を染めて駆け込む小間物屋さん(玩具屋さん)…その店頭に並ぶ玩具は、今考えると夫々がそれなりの職人技で作られた、剛の玩具!であったと思うのです。
独楽然り、パッチンの表絵・角凧の歌舞伎絵・奴凧の奴絵・双六遊びの東海道五十三次絵・いろは歌留多の表絵・日月ボール(けん玉)の仕上り具合等々凡て然りです。
おじゃみ遊びの平べったいガラス玉は、その色合いや形・サイズなど、取り出して並べて楽しくなるような形と品質でした。
ラムネ遊び(ビー玉遊び)に使うガラス球は、サイズも良く揃いガラス球の仕上がりも丁寧で、特に乳白色の生地ガラスを巻き込んだラムネ玉は、皆が奪い合うほど美しいガラスの玉でした。
昭和初期までは、日本の各地に確かに存在した技の職人…たとえ日常普通に使い捨てる物であっても、作る物にかける職人のプライド…それが知恵の輪みたいな剛の玩具を、長い年月かけて創り育てて来たに違いありません。
小間物屋・玩具屋には、当時の誰もが恐らく気にも留めなかった、職人技の小道具・玩具が山積みだったのです。
当時の独楽遊びで ぶつけ!の右に出る遊びは無かったのでは…
今の小学校で独楽遊びなどする生徒は皆無に近いでしょうが、もし独楽を弄る前世紀的?生徒さんがいても、このぶつけ!は間違いなく禁止対象遊びに挙げられるでしょう。
理由は簡単です。今の生徒さん達が育った無菌室みたいな遊びの環境では、遊ぶ者・見る者とも大怪我に繋がる可能性が高いからです。
“ これはどんな遊び方をしたら危ないか… ”
“ 遊びの輪のどこら辺に居たら危ないか… ”
等々を本能的に判断する小さい時からの経験の積み上げが、今の子達の遊び環境には全くといって良いほど無いからです。
当時の小学生誰もが所持していた折り畳み式小刀 肥後守 も然りです。鉛筆を削り・竹籤を造り・机に悪戯彫りをする等は、生徒には日常の遊びみたいな手仕事でした。
相手に怪我をさせたら大事(おおごと)!、自分が怪我をしても大事!です。
オキシフル・ヨーチン・赤チンの何れか有れば恩の字で…消毒し、あとは真っ黒い指薬かメンソレを塗りつけるのが精々の時代です。自衛・他衛?の意識は、嫌でも子達の身に染み付いていました。
小学四・五年生の頃、遊び時間の校庭で ぶつけ!の独楽が頭に当たり、タンコブが出来た生徒が居ました。当時は先生も適当なものです…
「よー見とらんかー ボーと見とるきん タンコブ作るんじゃ 気ー付けーこの…」
まるで当たった方が悪いみたい…こんな言われ方さえ聞き流されるご時世でした。
ぶつけ!に使う独楽は、二文から三文コマ位のやや小振りの独楽でした。
独楽を回すとき、普通紐は右巻きに巻きつけますが、ぶつけ!は右利きは左巻き、左利きは右巻きに巻きつけます。確っかり左・右巻きした独楽は、右利きなら右後方45度?、左利きなら左後方45度?から、頭上斜め方向に大きく円弧を描くように地面に叩きつけます。
叩きつけるといっても、地面に振り下ろされた独楽は、そのまま左・右回りに小刻みに激しく回転しています。ぶつけ!に参加するほどの子達は皆、当然それだけの技量の持ち主ばかりです。
独楽を投げ下ろして単に回すだけの遊びもありました。同時に投げ下ろして、止まるまでの時間を競います。
ぶつけ!は単純なコマの投げ回し遊びに、格闘技的な要素も加味しようと考え出したものでしょう。振り下ろす自ゴマが目指す目標は、地面を回り続けている先手の相手ゴマです。
ピタリ的中する試技は滅多には有りません。でも的中した時の相手ゴマに与えるダメージは、相当なもので、時にコマ表面が心棒の直撃で傷つき、ひび割れする事もありました。
大事なコマに傷をつけられまいと、コマ表面に厚手のフランネル生地を張り、ひと回り大きな鉄輪ッカで固定する者まで現れます。つまり二文コマの表面に厚手の生地を当て、三文コマの鉄輪ッカで強引に締め付け固定するのです。夫々が様々な工夫を凝らしました。
地面を回る自ゴマが止まると、再度攻撃の権利を得ます。素早く自ゴマを取上げてに紐を巻き、地面を回り続ける相手ゴマ目掛けて頭上から投げ下ろすのです。
もろにコマ心棒の直撃を食らうと、大切なお宝が疵物になります。疵ついたコマは、時に使い物にならなくなる事もあります。買い替えが簡単には出来ない当時の子達の傷心振りをご想像下さい。
「クソーッ 糞ッタレー … つぎ中てちゃるきんなー! 見とれよー 」
子達にとってコマは、大事に大切に手入れし続けた、大切なペット玩具なのでした。
ぶつけ!は乱暴といえば乱暴なコマ遊びですが、ソーメン! は子達の糸繰り技を競い合う、大変高度な技能遊びでした。 二文か三文コマの鉄輪ッカの外側に、少しづつ直径の大きい鉄輪ッカを探してきて、二重三重に次々嵌め殺していきます。
三輪重ね・四輪重ね時に五輪重ねの鉄輪ッカで重みをつけた二文ゴマや三文ゴマは、ソーメン!に挑戦する子達専用の手作りコマです。
鉄ゴマに近い重さと、木ゴマ独特の扱い易さを兼ね備えたソーメンコマは、店先では入手できない子達だけのオリジナルです。
独楽が空中で宙に浮かぶ状態で操る遊びを、何気なく ソーメン・ソーメン と呼んでいましたが、その理由などは考えた事もありません。
ソーメンは箸で掬い上げて食べます。ソーメンを細手のこま紐になぞらえ、箸を両の手に置き換え、ソーメンつまり細い紐に回転するコマの心棒を引っ掛け、様々なコマ回しを演じる姿からの呼称でしょう。
両手を大きく開いて紐を勢い良く引っ張ると、独楽は回転を続けながら瞬時空中に浮かびます。独楽を跳ね上げた次の瞬間、左手親指・人差し指は、紐を持った右手の指に沿わします。
次いで左手親指・人差し指を紐に沿って素早くずらしながら、空中に浮かぶコマの心棒下に沿わせます。沿わせた紐をバランス良く引き回すと、独楽に回転が加わり次の試技にスムースに移行する準備が整います。
紐が伸びきる手前で、再び両手で紐を勢い良く引っ張ってコマを跳ね上げます。回転の勢いを増したコマは、安定した姿勢のまま一瞬空中に静止した状態で浮かびます。体を幾分捻りながら、紐・指・目線を瞬時に整え、次の試技を繰り返し続けるのです。
文章ではこんな感じでしか描けず、状況描写は難しいのですが、演技は瞬時の判断で繰り返され、休む間もなく進行し続きます。
“ アーメン ソーメン かけソーメ
かけたソーメン うまくない … ”
意味の良くは判らない子供時代の遊び用語にも ソーメン が頻りに登場した時代です、何ですかねー…
一人で楽しむ独楽遊び ソーメン! には、二つの遊び方がありました。夫々を現代風に勝手に呼んでおきます。大きさ三文から四文位の独楽に鉄輪ッカを二重か三重に重ねあわせて重みを付け、やや太目の独楽紐を使って独楽を空中自在に操る遊びです。
思い出すだに高度で見事な遊び技でしたが、優れ技の持ち主は限られた子達だけの特技でもなく、大方の子達がこの技をこなしていた事の方が大きな驚きです。
斜め前方にコマを勢い良く放り投げて少し引き戻し、回転しながら空中に浮かんだ独楽の心棒に右手(左手)の紐を当てがい、左手(右手)でガイドしながら右手(左手)の紐を勢い良く引き延ばします。弱まりかけたコマの回転がこの動作の繰り返しで勢いづき、空中に浮かぶコマの姿勢も安定します。
コマの心棒に紐を次々当てがい・延ばし・跳ね上げ・当てがい…の動作を、自分も回りながら繰り返し続けます。緩っくりとダイナミックに躯体を回しながら、コマと紐・左右の手足を一体に操る動きは、無心の子達の器用な姿そのものでした。
独楽の周りで一点に全神経を集中し、緩っくりとリズムを刻み、手早くコマ紐を操り廻し続ける ソーメン! は、当時は日常見られる子供の遊びでした。物に恵まれなかったあの時代の当たり前の遊びも、現代に引き戻すと、あの子達は皆んな遊びの職人群!です。
大きさ三文か四文コマ、時にもっと大きい独楽も使います。鉄輪ッカを重ねて重くする手法は同じですが、紐は少し細めのものを使っていました。
独楽を放り投げ独楽紐を次々繰り出しながら、空中に浮かぶ独楽を掬い・加速し・跳ね上げ〜また掬い…を繰り返し続けるダイナミックなソーメンとは、天と地ほどの差が有ります。でもこれこそ正真正銘のコマ・ソーメンです。
独楽の鉄輪ッカに両手を添え、心棒を手前にして勢い良く回して空中に放ります。次の瞬間、両手を添えた細手の紐で独楽の心棒辺りを掬い取るように受け止めます。僅かに回転する独楽を受け止め回し続けるのも、そこそこの技術は必要です。
手回しする代わりに、普通のコマ回しと同じにコマ紐を巻き、紐の一端を手で支えて独楽を落とし、紐から離れる瞬間に僅かに引き上げた回転コマの心棒辺りを、電光石火?掬い上げる手法もありました。
共に遊び職人の技がなければ出来ない動きです。 回転するコマをコマ紐で掬って、後はソーメンを一本一本箸で摘んで口に運ぶのと似た動作を繰り返します。
独楽の回転が弱いときは、両手の紐をバランスよく掻き揚げ掻き下ろしして、独楽に回転の運動量を与えてやります。独楽の回転が十分になると、両手で紐を引っ張り体の正面で独楽を空中に放り浮かせます。
次の瞬間、両手の間にずらす様に挟んだ紐で独楽の心棒を受け止め、紐をずらしながら独楽の回転を補ってやるのです。
地面近くまでずり降りて回転力を貰った独楽は、再び両手の紐で跳ね上げられ、同じ操作の繰り返しに入ります。
短くした紐で受け止め、紐を徐々に伸ばしながら回転を強めて跳ね上げ、また短かめにずらした紐で受け止め … … の繰り返しは、文字通りソーメンを口に運び吸い込み、また運び吸い込むソーメン啜りの動作そのものです。
スタティック・ソーメンを習得してダイナミック・ソーメンへ…遊びの職人を目指す子達は自前の研修に励み、皆んなそれなりの業師へと成長していくのでした。
正月も近づいた冬場の遊び時間、まるで独楽回しの独演場みたいだった小学校の校庭風景…懐旧の思いはつい昨日のようです。
ダイナミック・ソーメン技の1ランク上…背中回しの連続技は、当時でも流石にこなせる者は少なく、大方が脱帽の敬意を払う離れ技でした。
日本人の手先の・感覚の微妙な器用さは、子供時代に習得した素朴だけれども、無意識に繰り返し研修した、手足を使い分ける遊び技の中で培われたに違いありません。
人類が足で歩き手を使う事を覚えた時、他の動物に先んじた進化の道筋が開けました。以来、数十万年 否 数百万年、そして恐らく二十世紀の半ば頃までは、人は無意識のうちにもその道筋を辿り続けて来たように思います。
そして今や人は、手足の感覚・役割をまるで他人事のように、ただその利便性だけを優先させて、ITー社会 という 正体不明・意図不明・そして一番怖い 行き先不明の迷路 で、代替させようとしているのではないでしょうか?
アインシュタインは、教育について次のような言葉を残しています。
「 教育とは、学校で学んだ事を、すべて忘れた後に残っているものである 」
現代は、社会が望む以上の事を実現しかねない、科学技術社会の途をひた走っています。
それを実現する能力を備えた ITー技術 推進のトップランナー達は、加速し続ける先端技術開発の行き着く先を、人が生活するこの社会の何処に如何ように位置づけようとして居るのでしょう…
オリンピック・ファイナルを飾るマラソン競技で、想像を絶する俊足ランナーが出現し、唯一人5キロラップ12分という信じられない速さで走り始めたとします。
TV観戦中の世界の観衆の目は呆気にとられてTVに釘付けになり、報道陣は右往左往する喧騒に陥るかもしれません。ランが十分〜二十分〜三十分と時を刻み続けるとき、観衆や報道陣の関心は何時までもその超人ランナー1人に注がれるでしょうか…ゴールまで彼または彼女のみを追い続けるでしょうか… 答えは間違いなく No! です。
人が望む以上のことが、望む以上のテンポで現実化したとき、大方はこれに追随するより、身近で判断可能な対象を求め、共有出来る流れにより関心を持つのではないでしょうか。
TV観戦中の世界の目は、間違いなく2位以下集団の競り合いに注目し、限りない声援を送り続けることでしょう。
“ ITー社会 が全地球を席巻し尽くした後の人社会の幸せの絵図…
描けるのなら 是非に描き教えて欲しい! ”
工事中!