今の幼い子達は、日々をどのような情報に触れ、情景に接しながら、成長しているのでしょう。
見るもの、触れるもの、匂うもの、聞こえるもの…周りに拡がる環境は全て、子達にとって掛替えのない成長の糧、つまり入力情報です。
ヨチヨチ歩きを始めた頃から、否応無く自分でこれら情報を獲り込み始めます。子達を取り巻く情報の量は、時にシャワーの凄しさかも知れません。
その一方でほんの単純な情景に、たまらなく愉しそうに反応したりします。幼児独特の幼い感性にハッとする瞬間です。
幼児の低い目線は、上から見下ろすのではなく間近を拡大して映し、拡大画像の世界と対話しているようです。高い目線の映像ではなく、低くて近い接写の目線が、幼児独自の感性を育て上げるようにも思われます。
大きくなって高い目線の観察に慣れた大人は、幼児期の低い目線の体験などすっかり忘れて、見下ろす目線で気忙しく動き時を過ごします。
老年期の緩やかな時間帯に身を置くようになると、幼児期に経験し忘れ去っていた、低い目線の世界に気付いて驚くのです。
目線に映る周りの環境は、成長期の子達に計り知れない影響を及ぼし続けます。成長期に経験し育まれたこの感性が、成長するその子の知性を方向づけるように思うのです。
幼い子達の目線に拡がる情景や情報は、今や全く変わってしまいました。
すべてが急成長する時代、幼児の目線に映る時々の情景の変遷を、戦前・戦後の時間を追って想像してみて下さい。
戦前から戦後十年位までとそれ以後とでは、人手の加わらないものと加え過ぎたものが、変化の流れをくっきり仕分けている様に思えます。
戦後の十年位までの間は、国内何処に行っても子達の目線の先には、道端 ゛みちばた ゛ の光景が広がっていました。そこは自然が息吹き、何の変哲もない空間でしたが…
川に自然の川辺が無くなり、淡水の生き物は次々と住み処を失いました。道はその両袖をぼんやり包む道端を失い、草花や虫たちの雑居寝の場は奪われました。
いつも見慣れた景色なのに、日々新しい言葉で子達に語りかけて呉れた、自然の空間 " みちばた" は奪われ、大切な子達の目線世界が視界から消え去ろうとしています。
感性を緩やかに育む子達の遊び空間は、再開発とかの波に次々と刈り取られて行くばかりです。
この世に生まれ来た子達…この世をやがて去る老人達…二つの世代に挟まれた大人達は、前後の世代を繋ぐ糸です。大人は、子達と老人達の二つの世代が離れないよう、しっかりと糸を繋ぎ止める立場に居ます。
子供と老人という二つの世代は元々連続した世代の筈です。子供・大人・老人という三っの世代が、恰も独立して存在するかのような主張は、子供は遠からず大人に、大人もやがて老人になるという当り前の繋がりを忘れています。
゛世代が違うんだから ゛を物分りの良さの代弁みたいに主張する風潮は危険です。現代社会の変化の激しさは、「ひと」の日常から静かな落着きを奪いかねません。変化への対応が世代間で違うからと云って、三っの世代の連続性には関係ない事です。
「ひと」は、長年かけて築いた生活の智慧のお蔭で、現在を生きています。この生活の智慧を、親から子へ孫へと途切れなく受け継がなければ、「ひと」の生きる姿を見失ってしまいます。
世代の連続性を失わないように、折角受け継いだ「ひと」の生活の智慧は、三世代〜四世代と繋いでいかねばなりません。
世代間の乖離が世の流れみたいに問われている現代、双手を拡げて三世代を繋ぐ立場にある大人の工夫が、今ほど求められる時はありません。
人は一体何に急かされてそんなに先を急ぐのでしょう? とても消化し切れない程の広汎な知識を、人類は既に手にしたのではありませんか。安易にその知識を開発向けに浪費したりしないで下さい。
先人が開拓した知識を、時間を掛けてゆっくり咀嚼してみては如何でしょう!知識は長い時間かけて熟成させないと、繰返し利用できる、「ひと」の智慧にまでは育たないのではないでしょうか。
「路傍の石」という小説・映画がありました。今や道に路傍は無く、轉がる石を見つけるのさえ至難です。無駄のない生活環境は、時に息苦しく、無味乾燥と紙一重の背中合わせみたいなものです。無駄の効用をもっと真摯に考えようではありませんか…
子達の目線と道端の自然は、囁き呟くように表情や息吹きだけの会話を楽しみます。草も花も虫もその死骸さえ石ころまでも、子達にとっては毎日が初対面です。目線に飛び込む道端は、誰彼となく我先に話しかけて来る友達です。道端に寄り添うように流れる井手の細流が、子達に対話を急かします。
「それで…そして…それから…」
「まってよ! きみはだーれ? あなたはなーに?」
「どしたん? ここで? あつない? のどかわかない?」
「おべべのいろきれいー! だれにきせてもらったー?」
「かわいそう! よごれてしもて! にげんでもえーのよ!」
「たーいへん! しんでしもてる! おはかつくっちゃらなー」
寄り添うように咲く草花、遠慮勝ちに姿を現す虫たち、語りかけ時間を忘れさせ、子達の目線を柔らかく包む、子達だけに許された道端に覗く対話の通り道…
草や花・虫や川魚たちが次々現れては語りかける道端…いつも初対面で始まり、止めども無く続いた対話の世界は、彼ら・彼女ら・子達らに何の相談も無く、何時しか冷たい無機の素材に覆われて行きました。
道端は、曲がりや凸凹の無い近代という名の車の道、直線という幾何学世界の下に隔離され消えました。
「はよー! お起きな! はよ行かな のーなっしまうよ! 」
「うわっ! しもたー いま何時ー? 」
「何時でもえー 七夕のお願い 書けんでもえーの? 」
「いかん いかん いかんがなっ! いかんてー!」
言うなり跳び起きると、半パンを引き揚げTシャツに首を突っ込む。Tシャツの襟刳りは、二倍近くも伸びて波打っているが、いくら気にしてもシャツの替えは無い。
「びん ビン びんじゃー 」
「ぉ母ーちゃん ビン・びん ビン何処ぞな? なーって 」
「ビンぐらい わーが探しときー 今頃どん!なこと言うて 」
「ほれ ほれっ こに・こにっ こに…あろがな! 」
「あっ そこかー お母ちゃん 水はー? 半分で えーなー? 」
「つべこべ言わんと はよっ! お行きーな 消えても知らんよっ! 」
少年が目指す先は、郡中小学校の正門に向って下りる、梢川沿いの坂道下右手の蓮池です。当時この辺りは水捌けの悪い湿地帯・はる田が続き、辺り一面のはる田では、蓮根が栽培されていました。
この辺のはる田の通称は"レンコン畠"です。
学校から灘町方面への通学路沿いに、当時としては珍しい白塀囲いの立派な家が、はる田に囲まれる様に建ちました。学校帰りの生徒は、 ゛蓮根畠の家 ゛ と呼んで、学校周りの地理の指標みたいに親しんだものです。
「蓮根畠の家の方ぞな! 待っとらい! 」
裏口から飛び出し、郡中駅の構内を斜めに横切る近道を駆け抜け、牛田の散髪屋を左手に川沿いを疾走します。少年は息せ切りながらブツクサ呟き、朝露捕りの段取りに懸命です。
゛はる田の水 未だだいぶ残っとったなー ゛
゛田の中は入れんぞー へりからしか 掬えんゎー ゛
゛つゆ まだ残っとろかー 溜まっとってなー! 頼むわー "
どうやら事は、夏の陽射しとの勝負のようで、少年が急き立つのも仕方ない…
七夕祭り…願い事を書き記した紙片を紙撚り(こより)に通し、笹竹に結わいつけて祈る風習は、全国共通でしょうが、何時の頃からの慣わしなんだろう…
七夕や まだ指折って 句をつくる 不死男
天の川を挟む牽牛★織女☆の年に一度の逢瀬です。願い事などして折角の逢瀬の邪魔をしないで、゛そっとして置いて上げたら ゛と同情したい気もする。
元々は女子が裁縫の上達を、たなばた(棚機・織機)に祈る行事のようだから、願い事は、それだけにしておけば良かった…願い事が一つなら、★☆の恋の逢瀬も、緩っくりお楽しみ頂けるのに…
朝寝坊気味の少年が、起き抜けに疾走する目的は、七夕のこの日に願い事を認める硯の水、つまり墨水を採取する爲です。
何時頃からの習慣なのか、この地域の或は我が家独自のものなのかも良く分かりません。でも七夕祭りの朝の墨水採取は、私が物心ついた頃には、我が家の恒例行事みたいに定着していました。
家族皆んなが最低一言は認める、七夕の希い書きの墨水には、例年決まって蓮の葉に溜まる朝露を使う習慣でした。
七夕の朝に愚図々々しようものなら、真夏の陽射しで僅かな朝露など消えてしまいます。寝過ごしてしまった少年には、
゛何とか朝露を集めて帰らんと 家中誰も願い事を書けなくなる ゛
家族から任された朝露採り…に対する責任感は、並みではなかったのでした。
゛ もー無かったわー ゛
では立つ瀬が無いのです。朝露の墨水無しには家に帰れない、これはもう少年の大事でした!
「水茎の跡麗しく…墨痕鮮やか 」
と迄はいかなくても、せめて「笹竹に吊るす星への希い書きの墨水くらい、自然からの授かりものを使ってやろう」
何時の頃か誰かが、こんな発想に駆られて、七夕祭り早朝の朝露採りを想い付いたのでしょう。その露も蓮の葉に溜まる朝露にしようと決め、年々の習慣として伝え続けたに違いありません。
少年が採りに急ぐ朝露は、代々引き継がれて来た、わが家伝承の行事でもあったのです。
ハスの葉に結んだ朝露、露は空中の水蒸気が寄り添った玉、朝露は天の川からこぼれ落ちた星の雫、これを掬い取って集めた墨水、まるで願い事を認めて★☆に祈る爲に用意されたような水ではありませんか。
朝露が手招いています。
゛急がないかんょ! T ちゃん!゛
梢川沿いに学校に下りる坂道から、右手下の蓮根畑を見下ろした少年の顔が緩みます。
「あったー やったー よぉーし 」
蓮根池の蓮っ葉の上には、幾つもの露の玉が朝日に照らされ銀色に輝いています。朝露の呟きが聞こえます。
" はよ採らんと のーなるきん なっ "
蓮葉の上に僅かに宿る朝露を、採取ビンに流し込むのは、実に至難の技でした。
露は自在に形を変え、軽やかに葉面を転がり、片時も尻が落着きません。 ゛蓮っ葉゛ の語源は、露の尻軽さを指してのことか?とさえ思いたくなります。
朝露は蓮葉の上に銀白の輝線を残し、向きも決めず勝手な速さで転がり落ちます。まるで採取ビンの口をあざ笑うかのように、右に左に変幻自在です。
少年は口を閉じ・脇を締め・両の掌で蓮葉を緩っくりと支え上げ・全身で抱えこんだビンの口へと、体ごと朝露を呼び込むのでした。二人掛りならずっと簡単に済みそうな作業です。それを唯の一人でこなしてやろう!は、少年期に特有な頑固もんの意地でしょう。
小学校に下りる坂道の右手にあった通称れんこん畑(蓮池)では、秋口から年末にかけて、蓮根を掘るお百姓さんの姿をよく見かけました。きつい仕事を黙々とこなす姿は、子供心にも何か辛い感じで映ります。
蓮根掘り作業の実録を、以前にTVが紹介していました。
粘土質の蓮池深く根を下ろした蓮根を、ジェット水流を自在に扱いながら、いとも簡単に掘り出すのです。掘り出すと言うより、強い泥流で周りの粘土を浮き足立たせ、蓮根を次々と裸にして行くのです。
水流による粘土の液状化現象を応用した作業方法かと思いますが、隔世の感がする作業方法には、目を見張るばかりです。
あの当時の作業は、蓮池に溜まった水を先ず抜きます。所定の深さまで粘土を掘り下げて他処に移し、作業用の足場を作ります。蓮根が根を下ろす深さ辺りまで掘りますから、相当な重労働に違いないと想像はできます。
足場が出来ると、いよいよハス掘り作業が始まります。
深さを保ちながら粘土を掻き取るように掘り進み、次々と姿を見せる泥塗れの蓮根を収穫します。この作業は子供心にも苦役に近い仕事に映り、あの時に焼き付いた作業の記憶は、今もって忘れられません。
「 おいさん! 蓮根掘りー しんどかろがなー 」
「 … …… なんちゃー … 」
「 蓮根のたねー 何時ごろー どない植えるんぞなー 」
「 タネ?かー 掘りながらのー 根ーを ちーとづつ置いとくんぞー 」
坂道下の蓮池で蓮根を掘っていた、ご夫婦と思われる二人のゴム套姿は忘れられません。思い出す作業の段取りも、かすかな記憶に頼るもので、あまり自信はないのですが…
学校からの帰り、道路脇の畔にしゃがみ込んで、飽きもせず作業を眺めていました。合間を見ては、仕事中のおいさんに話しかけ、思いがけずにこにこ応じて呉れた日は、何だか嬉しくてたまりませんでした。
「あれはたまらんぞな! つろそーで 見とれんがな!」
あの時の おいさん・おばさん の手に、蓮根掘りの放水管(ジェット水流式)を握らせて上げられたら…
七夕の早朝、蓮葉に宿る星の雫 ゛朝露のお水取り ゛… 是非に伝承し続けたい郷愁の行事です。
一般には長い竹の先に箕(み)をつけた掻き寄せ道具のこと、手作業の土仕事には欠かせない小道具です。
ふる里の通称 ゛じょーれん゛ は、柄のない箕その物の呼び名です。一糎幅位の竹籤(たけひご)で、かなり荒目に編み上げてあり、先の掬い口の幅は大凡尺半(4〜50cm)もあったでしょうか。周りは太目の竹籤で縁取りし、その両側には握り取っ手用の差手口が開いています。
子達にとって゛じょーれん゛は、井出などの小川遊びに必須の小道具です。家の勝手口(当時こんなハイカラな呼び名は無かった)近くの土間には、何処かに゛じょーれん゛が立て掛けてありました。
この鋤簾は笊に水の例え通り、石ころ・泥・水草・藻などが入り混じった泥水を掬って引き揚げても、水だけがサッと抜け落ちる優れものです。井手や小川に巣くう獲物は、鋤簾さえ一つあれば、大方は子達の手の中です。
念のため、鋤簾は ゛じょれん゛ ではなくて ゛じょーれん゛と言います。郡中辯に独特な話し言葉の部分伸ばしに拠るのでしょう。
長雨が降り続くと、水戸から井出へ溢れた田圃の水は、畦道や農道を覆って澱みます。水はあまり激しく流れることもなく、棚田の傾斜を撫で下る感じの緩やかさです。溢れ澱んで一面に拡がった水面は、昔のはる田時代への自然回帰でしょう。
田圃を仮の寝座とし、或は井出の石積みに潜む水の生き物たちが、増水した水空間に一斉に姿を現します。いよいよ子達と
゛じょーれん゛の出番です。
夏も盛りを過ぎる頃、水枯れに備えていた貯め池の残り水も、やっとお役ご免で開放されます。翌年に備えて池の補修点検も必用なのでしょう。貯め池の残り水を全部排水し、池底を白日に晒します。 ゛ 池の樋抜き ゛の行事です。
樋抜きで乾いた八幡さんの池底で、嘗て郡中小学校の運動会が行われた話を、母から聞かされ驚きました。母は当り前みたいに、懐かしそうな顔つきで話します。
「 池の土手に腰掛けて見とおみ そりゃー天下一品 よぉー見えるきん!」
運動会が小学校の校庭で出来る様になる前は、五色浜の広場が会場だったようですから、八幡さんの池底はそれ以前でしょう。学校用地確保に悩む当時の町の苦労が、こんな話の端々に窺えます。
「八幡さん 池の樋(ひー) あした抜くんじゃとー 」
「誰がー? 言うとったー? しょ(正)ーにー? 」
「朝ごろ 抜く言うとったー 」
「朝じゃてー 朝のいつー? えー 分らん? 」
「ええわー 朝ご飯済んだら 一緒に行こゃー 」
樋が抜かれると、池の鯉や鮒・泥鰌などを捲きこんだ水は、一気に池の下手・利水域の井手に流れ出ます。井出の流域は、元々そこに巣食っていた生き物を捲き込み、臨時の魚場に強制衣替えします。
樋抜きからの何日間かは、子達にとっても日頃の゛じょーれん゛の腕の見せ場でした。
国鉄の梢川堤防の東・山側の緩やかな棚田は、松本小学校や八幡さんの森を巻くように谷上山麓に拡がります。
田圃を縫う井出の流れの中でも、国鉄の堤防近くが鮒や泥鰌が一番よく獲れました。堤防の下を町に向かって抜けるトンネルの道沿い辺り一帯は、特別・最高の゛じょーれん゛穴場でした。
「バケツ持って来たんか? 小さいなー 一杯おるんぞー 」
「そんなー 鮒なんか 獲ってもー 後でひてるんじゃろが!」
「… 泥鰌! どじょう! 泥鰌獲ろー なっ・なっ! 」
「泥鰌獲って 帰りがけ 石川のけー(鶏)肉屋じゃー
獲った泥鰌ー こ(買)ーて貰らおやー 」
「表の樽に トンガラシ入れて 売っとった・売っとったー 」
「決まっとらい! あそこで小遣い稼ぎじゃー よーし・獲るぞー 」
池の樋抜きの日は、普段の遊びと違う、小遣い稼ぎの期待感もあって、子達を井出へ駆りたてます。鋤簾操作の腕前次第で、臨時の稼ぎが期待できるかも知れません。
遊びに少しだけ真剣味が加わる一日でした。
井手の石組みの隙間は水草や雑草が生い茂り、川魚達には絶好の住み処・子孫増殖の場です。田んぼの畔周り、水戸の辺り、井手の石組みの隙間など、至る所で静かに様子見をしていた生き物には、池の樋抜きの水は、夏場の思わぬ天の恵みです。池の新しい仲間まで加わった井出は、久しぶりに活気を取り戻します。
素足のまま井出に入り込んだ子達は右へ左へと、水草や浮き藻の澱む辺り目掛けて、勢いよく鋤簾を水中に突き刺します。斜に突き刺した鋤簾に向けて、左や右の足を二度三度と揺すり掻き寄せ、素早く一気に鋤簾を引き揚げるのです。荒編みの竹籤の隙間から、掬い上げた泥水が流れ落ちます。
鋤簾に残った水草・小石・雑物混じりの軟泥物を、手早く手で掻き広げて獲物の有無を確かめます。泥に塗れた鮒や泥鰌・川えび・めだか・田螺等々…収穫は何がしか必ずありました。目指す獲物でなければ勢いよく鋤簾を洗って、次々と場所を変え同じ作業を繰り返します。
水嵩が少ない時は、井出が合流する辺りに場所を替えます。小学校南側の国鉄堤防のトンネル付近や、堤防東側沿いの小川筋辺りです。
川幅が1m、深さ足首位の適当な所を択び、周りの小石を掻き集めて石組みの堰を造ります。石組みの大きい隙間は、引き抜いた泥付きの草を叩きつけ、丹念に水漏れを防いでいきます。
鋤簾用の簡易ダムの完成です。ダムサイトの貯水がそこそこのレベルに達する迄は時間潰しです。草の茎を使う蛙釣り、釣った蛙の尻穴への空気注射、等のいけずはし放題でした。それでも、蛙を殺すようなこと迄は決してやらなかった。
堰のやヽ上手まで水嵩が貯まると、堰の中央下流側に鋤簾を確り固定します。何時も二〜三人誘い合って遊ぶのは、これから始まる獲物の追出し作業の為です。
「始めよかー えーなぁー 」
「ま(間)ー 空け過ぎんようになー さー やろかー 」
鋤簾の口幅分だけの石組みを取除くと、少し腰立てした鋤簾めがけて、貯水の水が勢いよく流れ込みます。子達は上流にざぶざぶと入って行き、小川の両側に足を捻じ込んで、
゛じゃぼ じゃぼ じゃぼっ゛
とやたら掻きまわし、隠れ潜む生き物の追出しに掛ります。見えない相手のいびり出し作業を、堰の開口部の鋤簾目掛けて根気よく続けます。
同じ作業を二度三度、お互いに掻き出し場所を補い合って
゛じゃぶ じゃぶ ゛
と根気よく続けます。見えない川魚を追出すというより、これはもう井出の小川の水遊びです。
「じょーれん 揚げるぞー 」
この遊び漁は貯水が少なくなるまで、何回も繰り返します。川魚とのサバイバルゲームを愉しむ一時です。
自分達だけの無心の世界、泥鰌を獲って小遣いに…の邪念?等は、もーとっくに忘れて、゛じょーれん" 漁に熱中します。追い込みに夢中の手足は、子達の目線にある遊び漁の一点に集中です。
ふな・えび・めだか・かわがに・おたまじゃくし・どじょう・かえる・げんごろう・みずすまし・たにし・みみず・まきがい・時になまず・こい等々…
小川の生きとし生ける物?が、水草や川藻・浮き草・小石混じりのヘドロと一緒に上がります。此処は、゛じょーれん゛と周りの自然と子達の目線との合流点なのです。
゛ 春の小川は さらさら流る 岸の菫や 蓮華の花は
匂い優しく 色美しく 咲けよ咲けよと 囁く如く ゛
ありし日あの頃の風物?今は無き さる日・さる時の追想?などと、単なる回顧趣味に留めないで下さい!ほんのついこの間まで、ふる里辺りでごく普通に見られた光景なんですから…
樋を抜かれ流れ出る水に置去りされた八幡池の生き物達は、池の底に僅かに残った水溜りや軟らかいヘドロにじっと身を横たえ、再び訪れる新しい雨水の到来を、黙ってじっと待ち続けます。
ねばねばした底粘土と大小様々の水溜りの間を縫うように、細身の竹や棒を手にした大人達が、素足の泥んこ姿で足下の獲物を探ります。足を取られて引っくり返る姿に、堤防に腰掛けた大勢の観衆が喝采で囃し立てます。
「おったぞー 鮒? いーゃ 鯉ぞー 太いぞー」
「うわーっ 錦じゃがー ほらみー 泥とったー よー見とーおみ!」
「ほら ほら ほら … こりゃー 鯰ぞなー えー」
「髭 ひげ ひげ ・・・ 髭どこぞー? これ! これか?」
池底と周りの土手は、獲り手とその泥んこ姿に笑い転げる観衆で、俄か野外劇場みたいな騒ぎです。演じる人も観る人も、八幡池の樋抜きの日に偶々出遭った町や村の人達が殆んどでしたが…
物余りの現在からは想像も出来ない、背伸びの生活などする余裕もない時代です。大方が日々凡々の仕事に追われる人々でしたが、流れる時間は何か緩やかで、自由・気侭な一面もありました。
格別に意識する事も無くお互いが自然に溶け合い、交流し合う幸せを大事にする…生活の智慧を感じます。最近は人々の自然な姿がすっかり影を潜めてしまいました。
一人でも、家族だけでも生活できている…現代の利便社会に生きる人々の斯うした錯覚が、お互いの自然な溶け合いを難しくしている気がします。平凡な生活で育まれてきた生活の智慧を、皆でもう一度見つめ直してみたいものです。
周到に準備され、万全のプログラムで進行するイベントは、時に壮大で美しいものですが、美しいものが何時も人の心を打つとは限りません。
緻密に構築され過ぎたものに、私は余り魅力は感じません。幾何学的な造形の場合は特にそうです。
二十世紀は、科学的知見を生活の利便向けに応用し続けた世紀でした。人間は気付かないまま、知識至上の開発に走り、利便万能の社会がユートピアかと錯覚してしまいました。
利便の追求は、何時しか利便を積み上げが目標になり、開発は無窮動みたいな迷路に入り込んでしまいました。
゛人々に時間の余裕を…省力を…゛
こそが、開発に携わる者や社会が掲げた真摯な目標でした。
開発が産み出した余裕の時間は、次々と出現する新しい欲求の時間に姿を変へ続けました。
じっくり思考する事はない…咄嗟の反応…つまり Yes or No …が求められる…細切れ時間の集合に変態してしまいました。
休止符 ζ の無い狂詩曲みたいな社会は、いずれ ζ を求めてスランプに陥ります。
生き物には全て睡眠と言う ζ があります。 ζ は明日を生きる為に必用な、生命体の機能回復の時間です。ζ 無しに正常な生命活動が維持できる筈はありません。 ζ の無い社会に正常な社会機能が持続するとは思えません。
古来の伝統・伝承の技・芸・作法・動作・言葉などに係わる間(ま)、日常生活の立ち居振舞いに必用な間(ま)、この ζ の意味と意図を、いま更めて考え直さずにはおれません。
怒涛の勢いで解明され続ける科学的知見・知識に加えて、IT応用機器に代表される商品開発の洪水には、驚くより呆れ果てます。そんなに急いで、人間は一体、最終何が欲しいと云うのでしょう?
今の全てをストップする位の気構えで、現在只今を一世代かニ世代かけて緩っくり見直し、人類の科学技術社会の虚像(恐らく)を皆んなで真剣に考えてみませんか。
見直しに必用な時間なんて、長い人類進化の時間軸に較べたらほんの一瞬です。瞬きにも等しい一瞬の停滞でしょう。
゛何を馬鹿げた…戯言!… ゛
と、一瞬の停滞も惜しい・許されない…と呵呵大笑して一蹴しますか? そんなに人類は切羽詰って居ますか?
瞬きの一瞬が怖くては、長い道程を歩き通すのは無理です。
人類が立ち止まり振り返る事を忘れてしまった時、地球劇場人類篇は間違いなく終焉を迎えます
私は郡中町の湊町で育ちました。十数人の大家族でしたが、私が小学校に入学する頃には、慶応参年(この年、夏目漱石が江戸牛込で生まれた)生まれの祖母は別居していました。祖母の家は四〜五町先の灘町にあり、身の回りを世話する八千代姉さんとの二人暮らしです。確か祖母の里の身内の方が一人か二人、祖母と同じ敷地内に住んでいたようです。
祖母との別居は、父が考えた嫁・姑関係への配慮だったと思います。
祖母は住まいの店で陶器の小売りを商っていました。商品は父が持ち込み、売上は全て祖母達の生活費に充てていました。
生活費を商品で仕送る父の遣り方は、子供心にも
゛なんか凄いなー゛
の感じでした。さり気なく母と祖母を別居させる、祖母と母への最高の思いやりだったろうと、父の心遣いには打たれます。
祖母は湊町に古くからあった萬(よろず)商い ゛ 岡島屋 ゛ の出で、結婚した祖父がその家督・家屋を引き継いだようです。祖母が別居後の商いに、格別の抵抗も無かったのは、生家での商い慣れもあったでしょう。安気な老後を、祖母なりに満喫していたようでした。
祖母の家の敷地は、湊町の私の生家(元は祖母の生家)と似て、否それ以上に長い゛ うなぎの寝床 ゛ 的な土地です。
奥行き数十間(町家によっては、敷地長さが六十間というのもあったそうですが)に及ぶ郡中町開拓当時の珍しい地割りが、そのままに残った長い敷地でした。
長い敷地なので、家の造りは湊町の実家によく似ています。うなぎの寝床:祖母宅の間取り配置図を、記憶を辿りながら下図に描きとめます。
祖母宅(灘町)の町家地割り(表通りに向かって:その1)
祖母宅(灘町)の町家地割り(裏通りに向かって:その2)
祖母宅(灘町)の町家地割り(裏通りを挟んで:その3)
店の間・中の間・座敷の間・背中合わせの茶の間〜廊下〜便所・風呂場・化粧部屋〜廊下〜奥の部屋へと続きます。奥の部屋の先は、裏庭と井戸のある畑で、最奥の倉庫建屋で一応区切られます。
裏庭の隣地との境にも小屋風の建屋があり、昭和の初め頃まで祖母の身内が住まって居たようです。
倉庫建屋の裏木戸を出ると、前栽と小さな生垣に囲まれた小庭があり、その先は父の妹家族の住まいでした。
叔母の家の玄関前・海側に、狭い路地を挟んで潜り戸の付いた木塀があります。その潜り戸は、父方の叔父家族が住む家屋の裏口です。
紺屋家業をしていた大叔父の家の前・海側は、海岸に略平行に走る裏通りです。この裏通りに面した大叔父の家で、表通りから続く長い敷地が一応終わります。
この裏通りの先・海側に借家数軒分の敷地が続きますが、通りを挟んだ表側の敷地に続く敷地だったのではないか?とも考えられます。
残念ながら亡き親父に確認していないので、良くは分かりません。
祖母の店から大叔父の家まで続く土地が、奥行きの大変長い一区画で、祖母宅も郡中町(町家)の全国的に珍しい地割りの特徴を備えていたようです。
表通りから裏通りに続く長い地割りの歴史は、郡中の町家(まちや)生立ちの特異さを物語ります。
大方三世紀半を遡る郡中町の開拓時代、町造りに挑んだ限られた人達の、希望と苦難の日々に想いを馳せます。
ふる里を離れてから数十年、在りし日の活力に溢れた町中の息吹き・佇まい・往き来する人々等への思慕が、いま何故か頻りです…
私が祖母の家を一人で訪ねたのは、確か三つか四つの頃かと思います。
「ひとりで行けるー? ほーぉ 行っといでー 」
湊町の店先から母に見送られて、たった一人灘町に向かった時の記憶は鮮明で、私の貴重な幼児期残像の一齣です。
精々四〜五町ある無しの道程が、予想外に遠く感じられ、ワクワク顔が何時しか泣き顔に…そんな年頃です。
「T ちゃん ひとりで… どしたん?」
「お使い? 灘町… お婆さんとこ? えらいなー 気ーおつけ!」
途中で誰かに声をかけられた気もします。前を向いて必死でした。お婆さんの家に電話は無く、母が前以て報せる事も出来なかった当時です。
やっとの思いでお婆さんちへ辿りついた時、祖母の世話している八千代姉さんが、店先に出ていて迎えてくれました。
「よー来た よー来た 泣かなんだ? 」
「ぉ婆さん ぉ婆さんてー ひとりで 来た・来た! よー来たがなー 」
店番の祖母に声を掛けるやら、お向かいで仕事中の 紺屋のおいさん にまで、嬉しそうに私の顔を両手で挟んで報せるのです。未だ少し緊張の残る私の手を包むように、八千代姉さんがそっと握らせてくれました…
゛新高キャラメル゛
昭和初期…私の幼児時代ですが…祖母の家の前、通りを挟むお向かいは、藍染めの紺屋さんでした。
祖母の家の敷地の一番裏手、海側にあった大叔父の家も紺屋でしたから、この辺りは 伊予絣〜藍染めに関係の深い地域だったのでしょう。
町内の紺屋はこの他に、湊神社の近く・国鉄道路辺り・新町の方など三〜四軒、否もっと在ったかも知れません。この町の規模から考えると、紺屋の数が少し多すぎます。これだけの紺屋を必要とする、特別な地域需要があった事は十分考えられます。
戦前から戦後にかけて、祖母の家の裏庭奥にあった倉庫建屋に、足踏み式の機織り機が二台、向き合って置いてありました。物不足の時代でしたが、織り機は何時も丁寧に手入れしていたようです。
叔母や母がはぎれ(半切れ、端布)を集めてきて、半幅帯や日常小物用の布地などを織っていた姿は、私には温もりのある懐かしい想い出です。
大叔母や叔母が伊予絣の模様織りに、真剣に取り組んでいる時期もありました。小学入学前後の頃です。
横に立って織り機の動きをじっと見ていると、仕事の段取りの合間に私の方を振り向いて、叔母さんは色んな事を教えて呉れました。
縦糸と横糸の関係や模様が織り上がる仕組み、一刺し一刺し緩っくり動かしたり、忙しく往き来させたりするシャトルの役目、織り上がる途中の大事な点検など色々です。良くは飲みこめないまま、シャトルの動きだけは興味深々でした。
シャトルで縦糸の間隙を一刺ししては゛ カタン ゛、また逆向きに一刺しして゛
カタン・カタン…゛これを緩っくりと何回か繰り返します。そして織り上がる生地の模様と糸の並びをじっと見つめ、頷きながら更に同じ動作を、今度は少し安心した様子で何回か繰り返すのです。
ニコニコ顔で話し掛ける何時もの叔母さんと違って、この作業の時は怖いみたいに真剣でした。
叔母さんがホットした顔に戻ると、待ちかねた織り機が、 ゛ カタン・カタン・カタン・カタン・・・・・・ ゛と気持良く早いリズムを刻み始めます。どうやら織り生地の模様の出来具合は良さそうです。リズミカルな音を響かせて、一気に織り進みます。
話し掛けできそうにない空気も緩み、叔母さんはチラリと私に微笑み返します。何だかホッとする空気が流れ、何でも見てやろう・知ってやろう少年も、やっとこさその場を離れ駆け去ります。
紺屋さんの仕事場は、表通りに面して間口一杯に藍壷が並ぶ、一段高い土間でした。町内の環境にうるさい現在なら、さしずめ三日と許されない仕事場の状況です。
奥に入る通路から大凡ニ尺位高くした土床が、藍壷の上縁で作業用足場にもなっています。通りに面した側は裾板で覆い、裾板の上面は、跳ね上げ・降ろし式の表戸の受台になっています。
祖母の店に腰掛けて眺めていると、丸刈り頭・捩じり鉢巻き姿の裸に近いお向かいのおいさんが、何時もひょいっ!と作業場に現れます。
「お婆さん! ちょっと見てくるわー」
「こっちからでも よお見えろがなっ!」
「えーんよ あの横で見るきん 横のが 面白いもん」
「臭かろがな 腐った酢ーみたいな匂い 臭いぞなー」
「シャツが臭そなっとーみ おかーちゃんに怒られても知らんきん!」
「かまん・かまんて! もおこのシャツどろどろじゃけん かまんのよ!」
奥に入る通路横の土床ですが、通路側は煉瓦積みで補強してあります。おいさんが藍染め仕事をするのは、一段高くした、この表の間一面の土盛りの床上です。
通路を通って奥へ行く時、脇で仕事中のおいさんの褌姿が、妙に記憶に残っています。子供の目線は、藍壷の縁と藍染液の茶褐色の泡、搾り棒と動き回るおいさんの足腰辺りです。褌から上のおいさんは、良く見えなかったということでしょう。
夏場のおいさんは、大方真っ裸に近い姿で汗をたらし、身体は何時もテカテカ光っています。短い息継ぎで時々天井に目をやり、唾の滲んだ口元からは、染め糸を絞る気合の呼吸が流れます。
゛シー シーー・ヒュー シッ・シー シーー・ヒュー ゛
小学低学年坊主の頼りない記憶ですが、もう少し継ぎます。紺屋の店の間は、入口から裏へ抜ける通路を除き、全体が藍壷を埋め込んだ作業場です。
藍壷は全部で十四・五あったでしょうか。壷は四つ並べて横に三つ、その横に四つそして三つと、隙間を無駄なく埋めるように工夫した配置です。
三つの壷が寄り合う三角型の空隙部には、丸い穴が開いています。その穴から淡い煙が、何時も立ち昇っていました。藍壷の間に設けた穴は、壷の染め液の温度を保つ、小型のお竈(クド)さんの仕掛けのようでした。
おいさんは作業に取り掛かる前に決まって、大鋸屑を十能(じゅうのう:炭火を運ぶ道具、木の取っ手が付いている)で穴に補充していたようです。
(製材所の大鋸屑:おがくず、当時の郡中港周辺には製材所が集中し、動力製材の騒音は、町の活況を誇示する響きでもありました。製材所から出るおがくずや木っ端は、町内の特に風呂屋の大切な燃料でした。)
作業に釣られて身を乗り出し、藍壷が埋った床に手を置くと、
゛ …ぁあぁ…熱っ!゛
思わず声を出すほど、土床の温度は高くなっていました。
「あ熱っー おいさん 熱いがなー ここー」
「そりゃー 熱いわい 壷の藍を温めよるきんの」
「熱(あ)つないと 上手いこと 糸染めちゃらんいうて 言よるきんの」
「こないな熱いとこ おいさんの足 茹だろがなー?」
「足かー そりゃー 慣れとらい なんちゃ無いぞー 熱っつー…」
熱い土の床で仕事をするおいさんは、黒の足袋を履いていたか、草履履きだったか…
おいさんは段取り良く藍染め作業をこなし、子供の面倒な問い掛けに適度に応じても呉れます。染の作業は続き、年季を掛けた普段着姿の技職人が、染め壷の間をひょいひょい歩き廻ります。
特別な意識や気取りもなく、仕事を淡々とこなす伝承の職人技、戦前迄の日本人社会には普通に見られた状景です。
現代の日本では、あの頃普通に見掛けた技の職人は、技も人も大方が消えました。そして技を伝承する数少ない人々は、芸術的な究極の職人として評価・尊敬される様になりました。
現代社会で技の人間国宝と称賛される程の人々は、戦前の日本社会には、様々な地域に普通に居たような気がします。そんな技の職人の一人が、例えお向かいの藍染めのおいさんであっても、格別不思議では無いのです。
何気なくおいさんの仕事振りを眺め、話し掛け、褌姿に ゛ちょっと汚いなー゛ など感じながらも、一挙手一投足の無駄の無い動きに惹かれました。おいさんと少年を繋ぐものは何も無いのに、繰り返す藍染めの作業を、少年は飽きもせず何時迄も追い眺め続けるのです。
日本の伝承の技、智慧を積み重ねた上での普段着の技は、自然との住み分けといった暗黙の自然環境ルールなどと一緒に、人々の日常の目線から消え去ろうとしています。
ふと立止まる…考える…休止符 ζ …智慧の道草…などの入り込む余地も無い程、現代社会のテンポは慌し過ぎます。
獲得した知識の表カード(住み分けの智慧・環境など)を、裏カード(飽くなき知識欲・開発)と読み違えてから、人類の不幸が始まった気がします。
知識欲・開発欲の行き着く彼岸に、大量破壊兵器の恐怖に似た不安を感じるのは、私の思い過ごしでしょうか・・・
おいさんは藍壷の木蓋を幾つか開けると、使いこんで黒光りする三節位の太い竹棹を右手に、束ねた未晒しの綿糸を左手にして藍壷の脇に立ちます。
サッと右手の竹棹を左手の糸束に差し込み、通した竹棹の糸束を上から右手で押さえます。左手で糸束の一方の端を掴むと、両手を合わせるように " パン・パン パン ゛と数回糸束を解します。解し終ると左手を離し、緩っくりと竹棹の糸束を藍壷に漬け下ろしていきます。
竹棹が藍壷の上端まで来ると、静かに棹を藍壷の両縁に掛け、棹の一端を足先で軽く踏み押さえます。おいさんは何時の間にか右手に、U字形に曲げて一方に取っ手を付けた、太い針金の金具を握っています。
少し前屈みになると、U字金具の先を竹棹に沿わせて糸束に通し、静かに糸束を引き揚げます。
糸束を上まで引き揚げると、再びそっと藍壷に戻し、U字金具を抜いて沈めます。糸束が沈むと、U字金具を棹に沿わせて糸束に差し込み、同じように引き揚げます。この引き揚げ・漬け戻しの作業を、何回も繰返し続けるのでした。
何時も気になる事もありました。藍染めをする藍の染液なのに、どの壷の染液も茶色っぽく表面にも白茶っぽい泡が浮いているのです。
それにしても、仕事場は矢張り相当に臭い!
糸束の藍壷への上げ下ろしが済むと、引き揚げた糸束の上端に、同じような別の竹棹を差し込みます。そのまま両手で弛まない様に棹を支えて何回も回し、糸束に染み込んだ染液を絞り落とします。
糸束の絞り加減は熟練の勘でしょうが、私には何回か搾り回した後の、゛ キュ ゛ という短く軋む金属音に近い音が、搾り終わりの合図に聞こえました。
クルクルと絞り棹を逆向きに回し、糸束の捩じりを元に戻すと、先刻のU字金具を再び足元の糸束にあてがい、糸束を手許に引き揚げ絞る糸束の位置をずらします。
足元の棹辺りの糸束が、一度の絞りでは絞り切れない為でしょう。再び糸束に棹を通し同じ絞り操作を繰り返します。染液が温い所為でしょう…糸束からは盛んに湯気が立ち昇ります。
絞り終えた糸束を両手で鷲掴みすると、おいさんは拍手を打つ調子で、外から内向きに ゛パン・バサッ〜パン・バサッ〜バサッ・バサッ・バサッ ゛ と糸束を解すように叩きます。空気に触れることで藍の染まりが進行する?のでしょうか。この作業を終えると、糸束を天井から下りている木の吊り鉤にひょいと引っ掛けてます。
元の藍壷の所に戻ると新しい糸束を取り、同じリズムで同じ作業を惻ったように繰り返し、染めの作業を続けます。
幾束かの染めが終わると、先程引っ掛けた一回染めの糸束の所に行き、一息継きます。
゛よいしょっと― ゛
一息入れているのか、調べもんしているのか、一向に落着かないおいさんは、藍壷周りを往き来しながら、決まって何やらブツブツ独り言を云ってるみたいでした。
どうやら二回目の染めが、続いて始まるのでしょうか…
一度染めた糸束を吊り鉤から降ろし、別の藍壷に漬け下ろします。後の作業は先程の一回染めの時と同じです(勝手にそう思った見ていただけの事ですが…)。
藍壷周りの足場を次々と変えながらも、作業は途切れなく淡々と続きます。傍で飽きもせず口を開けて(?)眺め続ける少年の姿など、最早おいさんの視野にはありません。噴出す汗を顔で振り払い・払いしながら、染め糸に向います。
「おいさん 有難う! また見にくるゎー 」
帰りがけの挨拶は、何時もおいさんの汗の背中を素通りです。藍壷の臭みをふっと感じながら、噴出す汗を振り払い染に集中するおいさんの背中に、ちょこんと頭を下げます。
この時少年は、子供とは別世界の、何か大きいおいさんの背中を感じていました。
或る仕事の全体を一人が通しでやる…初めから完成までを手掛ける過程は、この上なく大切な工程のような気がします。
効率化の流れは、この様な過程を非効率とみて、次々と分業化を加速し続けて来ました。
人間の体を細切れの部分に分け、人間が部分の集合みたいに成ってしまった最近の医療分野の分業化指向には、時に首を傾げたくなる事もあります。
人体の諸器官は、そんなに勝手気侭に単独行動しているとも思えないのですが…素人は勝手な事を言います…
非効率というだけの理由で、工程途中の寄り道、つまり思考の道草を無駄なものみたいに排除するのは、効率化に名を借りたアイディアの芽摘み、発想狩り発想の踏み絵みたいなものです。
寄り道や道草の無い旅路が、どれ程無味乾燥なものか…考えてみて下さい。
無駄と思えるような時間帯に、斬新なアイディアが芽生える…良く言われる発想の原点です。単なる効率化指向は、新しい創意を生む寄り道の思考や、道草で思いつく斬新な発想の貴重な土壌を潰しかねません。
柔らかい「ひと」の思考回路には、Yes or No の積み上げみたいなデジタル世界は、そぐわない気がします。
祖母の住いの敷地内、海岸寄りの道路に面する一画は、大叔父家族の住いでした。大叔父も藍染めの紺屋家業で、規模や藍壷の配置など店の仕様は、表通りの紺屋さん方と似たようなものでした。
祖父の弟という近い身内なのに、物心ついた頃に祖父が他界した事もあって、あまり親しくお家に出入りした記憶はありません。大叔父は、古くからの町内の伝承や、伝統の近隣行事に格別明るく、町内行事をあれこれ手掛けるまめな親父も、大叔父には一目置く差配の元締め的な存在でした。
藍染め作業の事なら、大叔父に聞けばもっと詳しく教えて呉れたに違いありません。子供時代の藍染めは、何故かお向かいの " 紺屋のおいさん " 方が、見聞きの場になっていました。
子供時代に何回となく眺めていた紺屋の藍染めは、伊予絣の地場生産に必用な織り糸を、町内の紺屋が分担加工していた証しかと思われます。絣生地を織り上げる機織り機も、町内の家庭にはかなり有りましたから、主婦や子女が副業的に分担して織っていたのでしょう。
絣地に模様を付ける爲に、藍染前の糸束の所定場所を、指示通りに結び留め上げるは、実に根気の要る作業です。
そんな手作業をする人は、普段ごく身近で見かけました。
糸括り作業〜括り糸束〜紺屋〜糸束染め・模様染め〜町内の家庭〜伊予絣の模様織り…紺屋さんを囲む、色んな手作業支援の分担集団が、町内に定着して居たのは確かです。
伊予絣の下支え集団…この家内工業群が、町内に適度に分散して、長期に亙り実在したと思えるのですが…多くの紺屋さんとの関係を含めて…果して実態は如何だったのでしょうか?