ふる里を離れ他郷にある者が描く゛あの頃 ゛への想いは様々でしょう。でも大方の脳裏を過ぎるのは、小学校入学の前後を挟む育ち盛りの十年ほどを、漠然と゛あの頃 ゛と想い描かれる方も多いのではないでしょうか…
この時期に自分の周りで起こった事、見聞きし、経験し、また自ら判断もし手がけたような事柄は、その人の人生の考え方の推移に、次第に濃縮されて行くような気がします。
この時期の十年間ほどの記憶が、何時までも意外なほど鮮明に辿れるのは、誰しも実感する所でしょう。脳裏に刻み込まれたこの間の経験の記憶が、その人の考え方に影響しない筈はないと思うのです。
ふる里郡中町のあの頃の息吹きみたいなものを、思いつくまヽ記憶を手繰って書き留め、半世紀以上の空白に被せて感じ取ってみようと思います。
記憶にやヽ不確かな点も多く気にはなりますが、正しい指摘が頂けるチャンスも有ろうかと希って…
造りもん はお造りもん・お造り等とも呼ばれた。夏祭りの賑わいに協賛する町家・商家独自のイベントでしたが、何時頃から?…毎年の恒例で?…とか等は残念ながら曖昧です。
私の小学生時代、昭和一桁から二桁の始め頃ですが、造りもんの展示される夏祭りには、
「お造りもん 見に行こか…」
「どっちから さき見よか?…」
「お参り済ましてー… ゆっくり見よや…」
等の会話はよく耳にしましたから、夏祭り恒例のイベントに組み込まれていた事は確かです。
造りもんを協賛展示する夏祭りは決まっていました。湊町は大師堂祭り(おだいっさん)、灘町は住吉祭り(すみよっさん)です。
この二つに宮島祭り(みやじまさん)を加えた三祭が、二十近くも催される大小夏祭りの中での ビッグ3 でした。
造りもん を展示して、金・銀・銅賞などの町内表彰まで行なわれたのは、(おだいっさん)と(すみよっさん)の時だけだったようです。
宮島さんのときは、造りもん展示は無かったと思います。
夏場のこの時期には、本当に沢山の祭が次々と催されていました。
町中にある社寺は勿論、普段は殆ど意識もしない道祖神?に至るまで、凡そ町の人々に何らかの縁がある八百万の神仏が、一堂に会してこの時期祭り合うといった態です。
夫々の祭には独特な賑わいがあり、祭り特有の店屋・屋台も立ち並びます。
賑わいの規模や出店・屋台の数の大小・多少等も考えて、親達はそれなりの銭勘定の評価をしたのでしょう。子達に手渡す小遣いの多寡が、数多い夏祭のランク付けを自ずと反映していました。
小遣い3銭のランクも時に有りましたが、大方は5銭・10銭・15銭の3段階です。因みに、
太鼓饅(回転焼き)1銭・キューピー焼き2銭・関東炊き(かんとだき、おでん)こんにゃく1銭・ちくわ1銭・じゃが芋・里芋一串1銭・鯨一串1〜2銭・アイスクリン2銭・アイスケーキ1銭・アイスキャンディー2銭・ミルクセーキ1杯3銭・唐黍(とうきび)1本1銭・焼き唐黍2銭・焼き芋1銭〜2銭・バナナ一房5銭〜・西瓜一丸5銭〜・飴湯一杯1銭・掻き氷みぞれ1銭・ミルク金時2銭・ニッケ酒?小びん1銭中びん2銭大びんは3銭・・・
こんな貨幣価値の時代ですから、5銭10銭のお小遣いも、使い方次第で子達をそこそこ満足させる額でした。
私は湊町に住んでいましたが、祭の度毎に母に頼んで用事を作ってもらい、灘町の小夏お婆さんを訪ねます。浴衣姿なども見せながらお小遣いをせしめるのです。
母から貰う5銭10銭15銭の小遣い銭ランクは、お婆さんとこでは 0銭?5銭10銭にランク落ちしますが、貴重な小遣い源でした。祖母の世話をしていた八千代姉さんが、お祖母さんに判らない様にそっと、5銭時に10銭を手渡してくれる事もあります。
小学何年生の時でしたか…すみよっさん(住吉神社の祭)の小遣いが合計35銭にもなって、身体が宙に浮きそうな満足感で白銅貨を握りしめた時がありました。
「なに買おー…全部よう使えん…どーしょおー…」
「お母ちゃんに、土産買うて帰っちゃろ…太鼓饅10ヶ買うても10銭か…」
「ニッケ酒買うて、ミルクセーキ飲んで、覗きも見てみよか?…」
「唐黍の焼いたん、アイスクリンも舐めて、キューピーの太鼓饅に関東炊き…」
「もーよう買わん…残るわー…10銭もっとー…
「使えん…使えん…余るー…どないしょー…困ったー」
夏祭りのお小遣いは全部使うもの、誰に言われた訳でもないこの悩み…子達は誰もみな純真・純粋一途?だったんでしょうか…少年 T とても例外ではありませんでした。…困ったー…!
「好さん…今度は何ん?造るんぞな…えヽ?…教えてくれても良かろがな…なーって…」
「造りもって考えるんじゃけん…正味ー…わしにも良う判らんがな… あんたとこは?」
「また々々話を逸らして…何時も…それでスカタン食らわされるんよ…」
その年のおだいっさん(お大師祭り)の造りもんは、町内代表による審査があり、優秀作に金賞・銀賞・銅賞の賞状と金一封が授与されるとのお触れ…町家を始め商いを手掛ける商店の面々は、例年以上の張りきり様です。
造りもんの約束事はただ一つ、゛普段にそのお店で扱っている商品を使って、店頭に造形展示する ゛…これがまあ不文律みたいな大雑把な約束事でした。
その点では、各種日用品を扱う雑貨屋や荒物屋さん、例えばお隣のK商店などは、展示に使える品種が多いので有利です。
品種のハンディを創意工夫で乗り越え、奇想天外な展示に仕上げるのも亦、造りもんを手掛ける各店主の楽しみだし、見せ場でしした。
石油・ガソリン店、金物雑貨屋、トタン・鋳掛け屋、八百屋、クリーニング店、日用雑貨屋、荒物屋、造り酒屋、造り醤油屋、からつ屋、炭・豆腐・餡子屋、米・雑穀・豆屋、薬屋、魚屋、牛肉屋、鶏肉屋、菓子屋、饅頭屋、せんべ屋、本屋、新聞屋、呉服屋、洋品雑貨屋、電器店、下駄屋、おくずし(蒲鉾・竹輪)屋、紺屋、綿・蒲団屋、玩具屋、麹・味噌・漬物屋、ハンコ屋、仏壇・仏具屋、靴屋、家具・調度屋、蒟蒻・豆腐屋、乾物屋、花屋、油屋、襖・障子屋、飴・駄菓子屋、等など…
他にもまだまだ商店はあったでしょうから、当時の大凡の店屋とその賑わいをイメージしてみて下さい。
湊町・灘町・栄町の本通り商店が、主に造りもんを展示しますが、展示には向かない商種も有り、軒毎の店屋という訳にはいきません。展示する商店がある程度限られたのは已むを得なかったでしょう。
お大師さんのお祭りでは、造りもんは主に湊町が担当しますが、灘町の商店も一部協賛していたと思います。住吉さんの場合も同じで、湊町商店の一部が協賛展示していました。
私の一番印象に残っている吾が家の造りもんは、確か小学ニ・三年生の頃のものです。その年は珍しく展示の手伝いをさせられた所為で、記憶がかなりはっきり残っています。
からつ屋も雑貨屋に劣らず、展示に使う品目はある程度有利でした。品物の大きさ・形・色合い・質感などのバラエティーが豊富なため、色んな創意が反映できます。
大皿〜小皿・大鉢〜小鉢・壷〜植木鉢・水盤〜剣山〜敷き小石・茶碗〜徳利〜盃・花瓶〜投入れ・素焼きの品々など、色彩もかなり自由に選べました。
飾り付けの際の破損に細心の注意を払いながら、贅沢三昧?の全国産瀬戸物を、萬市風に幅一間のコーナーに次々と展示していきます。
造りもん ゛枯山水 滝 ゛ の完成です。
敷き小石を並べるくらいしか手伝えなかった私ですが、出来上がった造りもんは本当に綺麗な仕上がりでした。、家中の者皆んなが自己満足?に浸る一瞬でもありました。
審査で選ばれた金色にキラキラ輝く ゛金賞 ゛の張り紙は、何とも面映い感じでしたが、嬉しい受賞でした。
薬屋・穀物問屋・造り酒屋・造り醤油屋・雑貨屋・荒物屋・からつ屋・お菓子屋・呉服屋・洋品雑貨屋・乾物屋・下駄屋・八百屋・玩具屋さん等が、夫々に創意を凝らしたこの年の夏祭り造形展 :"造りもん"…
まことに単純で平穏無事なふる里の姿を垣間見る想いですが、こんなイベントを気楽に実現できたのも、通りを挟んで向き合う形の、独特な町家構成と変わらぬ古いお付き合いに拠る所も大きかったでしょう。
ぶらり往来する人々、気にしない時間の流れ、郡中辯の独特な気だるさ、その対極には妙に刺激的な町筋の活気がありました。古臭い気位の反面、新しもん好きの行動派、アンバランスを平気で混在させ消化する、そんな町気質みたいなものの伝統を感じます。
造りもん? わが町・町家筋の、去る日ある時の点景か…と軽く聞き流すには惜しい催しでした。ただ私は、゛造りもん゛が催され町の周りの空気が何とも好きでした。
夏から秋にかけての夕べ、町家の続く湊町界隈の店先では、縁台を囲むちょっとした寄り合い風景が、彼方此方に繰り広げられます。これは灘町でも似たようなものでしたでしょう。
縁台は時に道路に食み出して置かれる事もあります。夜間に車両が通る事など無かった当時ですから、別に気にする事もない訳です。
縁台は時にその所有権さへ曖昧な、町の人々の納涼ポイント、夏の夜に欠かせない必須の風物みたいでした。
私の家には、道路に面する店の両側に、夫々一間幅の跳ね上げ式の商品展示台が取り付けられていました。
閉店時には展示商品を店内に収納し、双方の台を夫々店側に跳ね上げて鉤止めします。次いで軒下に鉤止めしていた二枚重ねの戸板を、台の内側に支え降ろし、間柱に差し鉤をする造作です。
一方の展示台に隣り合った一間幅の間柱間も、商品展示のスペースになっていました。
この間柱間も閉店時には、軒下に鉤止めしてある二枚重ねの戸板を支え降ろして戸締りをします。施錠は間柱への差し鉤です。このスペースは下が土間ですから、戸締り時には戸受けが要ります。
幅一間・高さ一尺半・厚み一寸位の厚板を、案内溝に落とし込み戸受けにします。戸受板の重さと、朝晩の出し入れ作業は一仕事でした。
左右計三組の重ね戸板を、毎朝晩に支え上げ・降ろしする作業は、かなりな労働量です。
表通りに面する大事な開口部の一部を、引き戸用の戸袋にすると開口が減ります。
勿体無い…と開口部の減少を避ける意図での造作だったかも知れません。
楽して儲けようなんて商売人の資格無し…の心構えを、ご先祖様は建屋構造にまで取り入れて戒めたのでしょうか?
店の戸締りの際、この二つの展示台をそのまま残すと格好の縁台になります。
お向かいのN酒造の縁台もがっちりした造りでしたが、夏場の定位置は、決まって店先の道路でした。夏の夕べ以降、店先道路は縁台の占有です。
縁台には何時も誰ともなく、一・ニ面の将棋盤と駒が準備されます。時には薄っぺらな碁盤に碁石石までも…
夕方になると表通りの店先には、申し合わせた様に道路にはみ出す縁台が置かれ、その周りは近所・近隣の謂わば年不問の人たちの社交場に変身します。
フランスはパリ・カフェテラスの田舎版的な機能を果たす縁台でした。例えが聊か格好良すぎますが、気楽な団欒・疎通の場でした。何よりも世間話・噂話・通行人の品定め?等を愉しみ合う雰囲気が貴重でした。
一通りの近隣ニュースや疎通の時間が流れると、そろそろ縁台将棋に熱が入ります。一言居士の人だかりも増え、首を突っ込む子達にとっても、またとない将棋実戦指南の場になります。
当時の小学生の殆んどが、本将棋を曲りなりに打てたのは、毎夏の夕べに繰り返される縁台将棋の功績でしょう。
「負けたっ!モォーイッチョウ!」
頻繁に繰り返される将棋天狗のやり取りからも、どうやら縁台は将棋が一番、囲碁は少し彼方に追われた雰囲気でした。
縁台囲碁?…この四文字熟語…このトーンはどうもしっくり来ない!
当時の子達の遊び将棋について、幾つか触れます。
塾通い、TV・PCゲーム、お稽古事などで一杯々々、時間に追われ勝ちの現代っ子達には、遊び将棋など大して関心は無いかも知れません。
私は子達の脳味噌が柔軟な間に、論理回路や推理回路を無理なく構築するには、将棋は意外と効果的な道具になるのではと思います。本将棋だけではなく遊び将棋も含めて…
歩を盤面の横一線に並べ向き合って、互いに挟み・相手駒を取り合うゲームです。これは分かり易いから、ある程度は遊ばれていることでしょう。
当時は将棋盤と駒さえあれば、直ぐにでも指し始めめていましたが、現在は少し様変りしているかも知れませんね…
略して周りとも言います。これも将棋盤のある家庭の子供なら、何時もやっていた遊びです。挟み将棋と同様否それ以上に、大人も交えた大変日常的な家庭の遊びでした。
皆で遊び合う感覚が、今と少し違っているかも知れません。ゲームの結果よりも、ゲーム中のお互いの言葉の遣り取りに、一喜一憂する過程を楽しんだものです。
振り駒は金駒4枚です。盤の四隅に歩駒を置き(4人でプレイする時)盤の上で駒を振ります。
振り駒の表が出ると1枚1点・振り駒の横立ちは5点・縦立ちは10点・逆立ちは50点・全部表なら5点でもう一度振れます。
全部裏面は10点でもう一度振る…駒同士が重なると盤面の点数だけマイナスで下がる…駒が盤外に落ちると ゛ションベン ゛でパスです。一周した廻り駒は一ランクづつ昇格します。
こんなルールで、歩〜香〜桂〜銀〜角〜飛〜王へと盤面を回りながら昇格し、最後の王は一回りした後、自陣から対角線上を往復するように進み、中央真中に丁度辿りつけば勝ちです。
上位の駒が自駒を追い越すと自駒は死、死駒の横を上位駒が通ると生き返ります。駒が丁度盤隅まで進むと次の隅まで跳び進めます。逆にマイナスで丁度盤隅まで下がると、一つ手前の隅まで跳び落ちる等々…大人も時に夢中になり吾を忘れるほどの楽しい遊びです。
盗みとだけ言う事もあります。これは遊びとしては多分絶滅種に近いかも知れません。2人でも4人以上居てもやれる自由度の大きい遊びでした。
将棋の駒全部を盤面中央に積み上げます。盤側に陣取った面々が゙見守り・耳澄ませる中、積み上げた駒を一枚づつ自分の前辺り迄持ってきます。
駒を持ってくる方法は自由ですが、使える指は人差し指1本だけです。指1本で駒を挟んで持ってきてもOKです。
駒を盤上の適当な場所まで持ってきて立てると、その駒は自分のものになります。駒を立てる場所は積み上げた駒山の傍でも構いません。
実に難儀な約束事が一つ在ります。プレー中に ゛ カチリッ ゛とでも音がしようものなら、プレーは即お終いで次に移ります。駒を人差し指で押さえて、盤上を自陣に摺らして持ってくる時、駒と盤面との間の生じる静かな摩擦音は許されます。
プレイヤーの真剣な集中力と、これに劣らない周りの静寂と緊張感との攻めぎ合いが続きます。
゛コトッ…カチッ…カシッツ …゛
囁くような音 とても、聞き逃してなるものか…音も無く忍び込む盗人の心意気を地で行く、文字通りの盗み将棋でスリルは万点でした。
「音…した!」 「カチッ…ゆうた!」
「ゆうてないゎ!」 「摺った音じゃー!」
お決まりの子達の喧嘩が始まります。喧嘩が起らん方が可笑しい程です。
「音か?…した!した!」 「コツ…ゆうとった!」
「小さい子じゃゆうて…贔屓したらいかんがなー」
「ぼく等の耳のほうが…なー…おいさんのより、えーんぞなー」
これほど緊張感に包まれた遊びも珍しい。こうしてお互いが手にした盗み駒は、次の掴み将棋遊びの資金駒として、ゲームはまだまだ続きます。
盗み将棋で獲得した駒を資金駒にした掴み将棋謂わば駒当て将棋です。
例えば4人の遊びなら4人がお互いに向き合い、1人が差し出す手中の将棋駒の種類と数を、当てっこし合うゲームです。
この遊びでは、盗み将棋でお互いが手した駒の種類と数を、どれだけ記憶しているかが試されます。この辺はトランプ遊びと似たゲーム感覚でしょう。
駒を掴んだ手を差し出す親元は、持ち駒を当てられたら相手と親元も交替します。遊びは…
「オオゴマイッチョウ!…やろやー…」
で始まりますから、これがゲームの俗称です。大声で親元が宣言する当て駒の種別呼称は次の様です。
「大駒一丁」: 銀・金・角・飛・王の中で何れか1枚、
「揃いニ丁」: 歩以外の同じ駒が2枚、
「揃い三丁」:歩以外の同じ駒が3枚、
「片々2丁」: 歩以外の種類の違う駒が2枚、
「片々3丁」:歩以外の種類の違う駒が3枚、
「歩何兵(ふなんびょう)」: 歩を5枚までの枚数当て…など、
親元が手の内の一部を宣言するみたいな形で、互いの当てやいっこが進行します。
当て駒の清算は原則は同じ駒で、同じ駒が無い時は、香2点・桂3点・銀4点・金5点・角7点・飛9点・王10点で勘定し、足らずは借金です。
人数が多い時は将棋の駒2セット分を使って遊ぶ事もありました。
座布団を膝の前に半立てして、手前に駒を並べ興ずる子達は、将棋の駒の銀行ゴッコに夢中です。
オオゴマイッチョウ!遊びには、目まぐるしくアクセスを要求するITプレイの断続思考の気忙しさはなく、駒の貸借・清算に悩む姿に、アナログ的な連続思考の時間が緩っくり流れます。
これは現在でも行われている遊びでしょうか…手許に何時も将棋盤があった時代と今とでは、遊びの頻度に差があるのは仕方ありません。
駒を摺らし・横立て・縦立て・逆さ立て等、相手を困らす様々な工夫を凝らしながら、積み上げた駒が倒れるまで続けます。
不安定物の安定化というバランス感覚を習得しながら、手先の訓練にもなる捨て難い遊びです。
こんな将棋遊びをわいわい愉しみ、町筋の彼方此方で繰り広げられる縁台将棋も覗き見しながら、本将棋のイロハも自然に習得していきました。
現在の小中学校では、文科省の錚錚たる先生方が熟慮を重ねて発案された、゛ゆとりの時間 ゛や゛体験学習の時間 ゛など、セットされた学習のゴールデンタイムが、子達の行く手に目白押しです。
金持ち勉強せず…ですか? 何たるIT時代の便乗余裕! 今に…
学校が引けると穴の開いた運動靴を履いたまま、縁側や蜜柑箱を机代わりに(勉強机など無かったです…)10分か15分で宿題を済ませます。
宿題は毎日出ますが、必死でやれば15分とは掛りませんでした。
宿題が読み方(国語)の漢字書き取りなら、帳面ニ頁の一番上欄に書き写してきた漢字を、下まで書いたらお終いです。
算術(算数)も計算だけでしたから直ぐに済みます。
綴り方(作文)は急いでは書けません。晩まで延ばし、結局忘れてしまいます。
翌朝先生に叱られ、挙句の果て先生の機嫌が悪いと、水を入れたバケツを持たされ廊下に立たされます。
後は夕食まで…子供が家に居ると何かと邪魔だから、一握りのお八つと引換えに外に追いやられます。夕方陽が沈みかける頃、やっと晩飯にありつけます。
夕食が終った子達は、それが夏の夕べなら、町筋に並ぶ縁台周りを用ありげにうろつき、体験自学習の場を探ります。
縁台将棋は本将棋を覚える実地体験学習の場です。
縁台の取り巻きが交わすピン・キリの会話は、時に危ない内容もありますが、子達には自然体で伝わる社会の免疫学習の場でした。
子達が自分で創造する゛ゆとり ゛と ゛実体験 ゛の学習の場は、駆け廻わる山野の自然ばかりではなく、町筋至る所に探せば何時も在りました。
利便性に恵まれない時代ですから、 今様の" ゆとり ゛とか ゛ 体験学習 ゛みたいな場は、意識することもなく、何時も手近に準備する他なかったという事でしょう。
現在の豊さとは較べ様も無い貧しい時代でしたが、小学校の勉強は皆んな真剣でした。
確か二年生か三年生の時、赤子を背負って教室に来ていた級友O君の事は忘れません。授業中に赤子が泣きはじめると先生がそっと言います。
「小使い室に牛乳がある…先生の名言うて…飲ましてやれや…」
町中で一番尊敬されていたのは、小学校の先生方でした。
思い出す先生方・看護婦のMさん・小使室のおいさん、校門近くのT文具屋のおばさん、本当に素晴らしい方々に恵まれていました。
当時と現在とでは、"ゆとりの時間"とかに対する考え方には、大きなギャップがあると思います。゛ゆとりの時間 ゛抔という贅沢な現代用語は、当時なら100%理解は困難でしょう。
子供達の日常の心の揺れの原因を、子達に時間の余裕が無いから抔と、短絡して結論づけないで欲しいのです。
子達を取り巻く時間環境の厳しさを数え上げて、彼等には自由時間が足りない、自由に考える余裕が無い、授業時数を減らしてでも対応すべし…こんな論理に飛躍しないで下さい。
現状を振り返るブレーキを踏まないで、アクセルをを踏み続けて良いのですか?
バブルの時代には、社会も大方の人々もバブルの意識は大方ありませんでした。
子達が置かれている環境の異常さに、面と向き合わないで…ならば ゛ゆとりの時間を… ゛等と短絡する姑息さは気懸かりで仕方ありません。
情報過多のもたらす知識が、平凡な日常の積み上げの智慧と較べられています。
バブルの崩壊は経済界の苦い経験という丈で済みます。
授業時間の短縮をはじめとして、教育界が指向しょうとする方向は、まさに教育放棄のバブルみたいなものです。教育無関心層の人間を増やしたい衆愚教育かとさへ映ります。
経済はやり直せても、人の教育のやり直しはまず不可能です。一世代でも教育ブランク世代が造られたら、取り返しつかない次世代の誕生に繋がる怖れがあります。
昭和一桁時代の元小学生の私には、義務教育の現状は大変に気掛かりで、本当に心配です。
例えになる話かどうか分かりませんが、太平洋戦争中の中学校授業に係わるある事実です。
あの当時英語は、敵性言語として極端に排斥され、野球用語の日本語化などが、正面に論じられ実現した時代です。
「ストライク」⇒「よしっ」、 「ボール」⇒「だめっ」 など…
こんな戦争の最中、私が通っていた旧制松山中学校では、英語授業の時間数削減を遂に実施しませんでした。この決定がどれ程の決意を要するものか、当時の当局の姿勢を知る者にだけに分かる、大変な決断だったのではないでしょうか。
因みに、あの 鬼畜米英…、出てこいニミッツ…マッカーサー…時代の英語の時間割りは次の通りでした。
英語(正)2時間、英語(副)1時間、英作文2時間、英文法1時間の計6時間/週です。一・二年生は、この他に発音練習が1時間あったと思います。
週6〜7時間という英語学習時間は、現在でも決して短い授業時ではないと思います。
私がここで触れたかったのは、学習には時流に流されない勉強の基本姿勢みたいな信念が要るという事です。IT万能化の時流が雪崩れをうって押し寄せようと、情報・映像が巷に溢れ返えろうと、初等教育の基本理念が簡単に揺さぶられて良いとは思いません。
溢れる情報の中では、先生方の教える学習知識の範囲も限られると思われるなら(私はそうは思いませんが)、せめて知識を有効に使う ひとの智慧の大切さを、子供達に叩き込んで欲しいのです。
戦前・戦中・戦後の世代を無我夢中で生きてきた一人として、現在の義務教育の混乱は耐えられるものではありません。人間は ひとと ひとが直に触れ合う過程で、成長し続ける生き物と思います。
お互いに肌の温もりを感じ合う距離でのスキンシップが大切です。この距離で学びとった記憶は、生涯に亙って消え去ることはありません。
智慧は、ひととの触れ合いの中で、心に蓄えられてきた閃き、周りを見据える判断力から産まれ出るもの…ではないかと思います。
知識を得る爲の手段は、今や無限に近いメディアがあります。学校教育の現場も、いずれはIT機器を駆使する教育現場に様変りする事でしょう。
広汎に過ぎると感じてはいますが、知識を学ぶ手段としてのIT機器の利便性は認めましょう。でも、社会に必要なのは、そんな知識を広く浅く?習得した不特定多数の人間なのですか?…
逆説をお許し願えるなら、機器で得た学習知識なら、何時でも機器が正解を準備し提供して呉れる筈です。別にIT知識人に、更めて尋ねる必要などないのです。
私はもう一度、特に小・中学校の先生方にお願いしておきたい。
いずれ先生方が及びもつかない知識に溢れた坊男・坊女?どもが、教室をわが物顔に占拠するようになるかも知れません。その時期は意外と早いかも…と心配です。
こうなった時、何をどの様に教育していきますか?
機器学習丈なら自宅でも十分やれそうです。ならば土・日と言わず、水・木も休みにして、゛ゆとり
゛をもっと作ってやりますか?
「とんでもない!私達はその日を予想して、カリキュラムの対応に心骨をすり減らす毎日です!」
お叱りを受けそうです。
小学6年間或は中学を含む9年間、互いに向き合い・肌を触れ合い・悲喜交々の心の揺れや温もりを子達と共有できるのは、他ならぬ先生方だけです。子達との交流に過ごす時間は、親と過ごす時間との比ではありません。
子達に学んで欲しいのは、そして先生方に教えて頂きたいのは、100%の知識より知識の10%を有効に使う智慧の大切さです。
手ほどきという旧い?言葉があります。手ほどき(手解き)された事は恐らく生涯忘れません。教える先生方は、幼児・生徒・学生時代に手ほどきされた経験は、どれ位ありでしょうか。
智慧を教え学ぶ教育の場の環境が是非に必要です、頑張って創り上げて下さい!
古き良き面でもあった日本人の伝承の智慧、 ひととの交流から学ぶ…知識とは一味違う智慧の学習、いま一番に求められている教育の分野だと思います。対応を誤ると日本の教育は、このまヽ潰れてしまいます。
学校現場の先生方に是非に掘り下げて欲しい、智慧の教育への心からの希いです。
溢れる情報知識を前にして、教科の内容特に教育理念が、先生方に強く問われております。もはや現場の先生方にしか期待出来ない、情けない今日の日本なのですから…
私の最も古い記憶の一つです。
数え年4歳前後の本当に小さい頃、昭和一桁の前半です。微かな残像に記憶の焦点を合わせてみましょう。
スタスタとも歩いていなかった自分の姿を探りながら、これは三歳前後の記憶かもしれない等少し不安です。
湊町の私が育った家から表通りを南へ五〜六軒行くと、旧の伊予鉄郡中駅に出る細い路地があります。路地の角は、通りに面して大きく長い振り子の時計を柱に掛けた、O時計屋です。
この路地から更にニ〜三軒も先だったかと思います。表通りに面して鉄の門扉を構え、幅広い間隔の鉄格子で仕切られた広い敷地がありました。
門扉は昼間大きく開かれており、その奥・正面に木造のモダンな建物がありました。建物はまるで外国の絵本を見るようでした。綺麗に彩色された建物だったのでしょう。濃い緑の恐らく屋根の色を、不思議なほど鮮明に思い出します。
当時既に人の出入りや気配は無かったようです。
建物と広い前庭そして異国的な感じの大きい蘇鉄の植え込みが、一枚の絵になって思い出されるのです。幼児心には警察とも・役場とも・学校とも・お医者さんとも違う感じで、敷地の中にトコトコと入り込みました。
門扉の正面やヽ左寄りに、石積みに囲まれた腰掛け位の高さの円形の植え込みがあります。植え込みには、大きくて背丈が高く何本にも幹分かれした蘇鉄が植わっていました。高さは大人の背丈よりもっと高く、下から空に向かって見上げる大きさです。
蘇鉄周りの土は綺麗な緑の草で覆われていました。多分芝だったでしょう。
蘇鉄が暑い南の國の植物だということは、後で母に教わりました。
幹も葉も活き活きと元気そうで陽射しを一杯に浴びていました。前庭に蘇鉄を配した造りが、如何にも異国風で、幼児心に強く印象付けたのでしょう。
明るい陽射しを浴びた建物・前庭の蘇鉄・空の青など、何故こんなに鮮明に思い出すのでしょう…
未だ字が読めない歳ですから、伊豫郡役所の大きな表示板が、門扉と重なって思い出される筈もありません。でもそんなイメージがぼんやりですが描けるのも不思議です。
伊豫郡役所はこの当時既に廃止されていたかと思いますが、史実はどうなのでしょう。
郡役所廃止の時期は分かりませんが、この場所に郡役所の建物が残っていて、町筋に面した広い前庭の一段高い植え込みに、大きな蘇鉄が植えられ、空に向かって聳えていた事は間違いありません。
この郡役所の跡地には後日…私の小学ニ〜三年生の頃かと思いますが…真中が通り抜けになった少しだけモダンな建物が新築されました。
通り抜けトンネルの左右・上下が夫々に戸別の住宅になっていました。当時には珍しい造りの二階建で、恐らくサラリーマンを対象にした賃貸住宅だったのでしょう。
私の級友が一人そこに住んでいましたので、何回か訪ねた記憶があります。彼は足が少しだけ不自由で、二階教室への階段昇降によく手を貸した記憶があります。卒業を共にした記憶がないので、やはり転勤のあるサラリーマンの御家庭で、あの家を賃借していたと思います。
肝心の郡役所の蘇鉄ですが、その後旧郡中小学校の正門を入った直ぐ左手にある、石積みの植え込みに移植されたのです。往時の姿そのまヽ元気一杯に息吹いて…
この頃でしょうか。私の世代なら誰しも記憶する、奉安殿とかの天皇の写真を入れた小社が、正門の正面、運動場の端っこに造られました。小国民の戦意向上を図る為の゛御上の御指示
゛に拠るものでした。
毎朝正門を入る度に、奉安殿へ最敬礼をするよう、生徒は義務付けられていました。
日々正門に駆け込む子達・生徒には、絶好の急停止・スキップの練習場でした。最敬礼をチョン礼に代えて…
そんなことより、身近にあった郡役所跡地の蘇鉄が、無事に小学校に移された事が、私の気持を慰めて呉れました。淡い朱黄色の花が開くのを見る度に、あのまヽ捨てられなくて良かった…何だかホッとするのです。
郡中小学校(正しくは郡中尋常高等小学校)に蘇鉄が移植されてから、卒業式や同窓会での記念写真は、この蘇鉄を左手に配した構図で撮影される事が多くなりました。
私の小学卒業写真、中学や女学校を卒業した生徒の恩師との記念写真等は、何れもモダンな校舎入口を背景に件の蘇鉄を配した構図に撮られています。
伊予市の発足で郡中小学校は松本小学校と合併し移転しました。移転後の小学校跡地を訪ねる機会がありません。この蘇鉄君、現在は如何なっているのでしょう…何処かで元気に息吹いていて呉れると嬉しいのですが…
所謂イベント会場的な場所が無かったので、小学校の校庭が色んな催しの開催場になっていました。
校庭にテント張りの会場が準備され、町内近隣の好事家が手塩にかけた菊花作品が展示・品評されます。
懸崖・大輪の一本立ち・群花・菊人形がらみの作品など、白い天幕に囲まれた菊花は、今でも懐かしく思い描けます。会場に漂っていた独特の強い香りが忘れられません。
人には長い年月が経っても、忘れられない記憶が幾つかあります。何かが脳の何処かを刺激し、瞬時に過去の記憶を呼び覚ますのでしょう。
匂いに就いては、犬の選別と記憶能力の凄さが良く言われます。私は匂い選別の潜在能力では、人間もかなりハイレベルにあるのでは?など、ふと思い直すときがあります。
日常生活では接する機会の少ない、でも過去に一度でも経験のある特別な匂いを、もう一度嗅いだ時の事を思い出して下さい。
数年は愚か数十年の時間経過など関係無いかのように、その匂いの記憶が突如甦る事があります。甦る記憶が描くその場の映像は驚くほどに鮮明で、時に鮮烈な感覚で五体を擽りさえします。
十数年余りも前になります。妻と二人で兵庫県の丹波笹山町を所用で訪れた時の事です。
篠山城前の広場とお堀を挟んだ向かい側、白い外壁が印象的な音楽堂の前辺りか、歴史博物館前の駐車場辺りだったでしょうか。偶々其処でかなり大規模な菊花展が開かれていました。
何気なく辺りを散策していた時、突如あの独特な菊花展会場ならではの匂いが漂ってきます。香りの澱みでも在るのなら、きっと其処から沁み出てるような薫りです。
多種・多量の菊花が奏で、次々と流れ出る香りのシンフォニーみたいな、あの独特の強い匂いです。
その瞬間私の脳裏を過ぎったのは、目線にある会場展示の菊花ではなくて、半世紀以上も前の郡中小学校校庭で開かれていた菊花展の会場風景です。一段高い台上に展示された金ラベル受賞の懸崖を含めて…
匂いに誘われて立ち寄った会場で、菊花に目をやりながら、私の目と鼻と脳の記憶回路は、完全に半世紀余り遡り、郡中小学校の校庭へとタイムスリップしていました。
校庭の菊花展は、この時を挟む何年間か継続していたと思います。
小学三〜四年生の頃です。学校の正門から低学年用二階建て校舎の下を通って校庭に出ると、右手に先生方の宿直室と小使い室(用務員室)のある建屋があります。建屋の周りは目隠しの板塀が囲んでいます。
板塀と校庭の大きな木(柳?榎?)の間の校庭では、よく先生方がバレーボールをやっていました。先生方の郡内各校対抗試合も、ここで行われていました。
何故だかこの場所で、カナリアの鳴き較べみたいな競技(子供の知らない賭け事もあったかも?)が、何回か行われていました。
三メートルあまり離して鳥篭が二つ、大人の背丈に置かれます。籠の中にカナリアが夫々一羽づつ入っていて、神妙に?スタートの合図を待っている様子。鳥篭の横は持ち主のおいさんでしょうか、少し屈み加減に籠のカナリヤを見つめています。
何かのスタート合図があったのでしょう。カナリアが綺麗な声でさえずり鳴き始めます。
夫々の鳥篭正面の少し離れた所に、左手に薄い竹べら多数を掴んだ鳥打帽姿のおいさんが立っています。カナリアが鳴き始めると、おいさんは忙しく・リズミカルに手にした竹べらを、目の前の三宝みたいな容れ物に次々と投入れます。
パチ・パチ・パチ…という竹べらの音は、驚くほど整ったテンポで、観衆をそのリズムに引き込みます。
カナリアの鳴き声が止まると、おいさんの竹べらを投げる手が止まり、パチ・パチ・パチ…と勢い良かった音も途絶えます。鳴き始めるとパチ・パチ・パチ…、止まるとシーン…観客も声をひそめます。
後で分かりました。鳴き較べの勝敗は、決まった時間内の鳴き続け量、つまり三宝上の竹べらの数を較べて決まるのです。 今風に言うと、アナログ風のデジタル勝負と言った所でしょう。
時間の流れ…、人々の悠々迫らぬ立ち居…、小学校校庭という異質(とても考えられない!)のイベント会場…、気だるい昼下りの大人(生徒ではない…)の一刻…
金糸雀も ひねもすのたり 伊豫路行
松原に囲まれた新川海水浴場は、町民にとって夏場の唯一とも言えるレジャー施設でした。
町内の自宅からほんの数分も歩けば、幾つもの゛なき ゛に囲まれた恵まれた浜辺があり、泳ぎに事欠く環境でもないのですが…
夏が近づくと、濱辺の松林の中二ヶ所ほどに、床を張り葦簾で囲った小屋掛け(海の家)が立ち並びます。この小屋を借り受けて、年に一度は家族総出の新川海水浴が実現します。この日だけは仕事に明け暮れる父親も一緒で、何かワクワク気分でした。
一駅先の伊豫鉄郡中線新川駅は、有名な新川の松原の中程にあります。
駅舎は無く、道路側に一段高く、枕木組みの仮設ホームが設けられ、簡単な屋根の吹き抜けベンチが一つ置かれていました。夏場シーズンだけの臨時停車駅でした。
夏場だけ、改札横に半坪ばかりの臨時駅員詰所ができます。
両側に松の巨木が連なる松原の道路を横切ると、海水浴場まで真一直線の道です。両側にポツン・ポツンと掻き氷屋やアイスクリン屋が店開きしています。
前方海岸の松林は左右に大きく拡がり、海岸線をゆったり包みます。海岸に向かう道の両側は、大規模な野菜畑で、所々に嘗ての松林跡と思える巨松が何本か残っていました。
外で一家が一日を過す団欒の機会などは、年に一度か二度有る無しの時代です。アウトドアーレジャー的な団欒と言えば、他には旧暦お節句頃の花見(花見節句)位でしょうか。
彩濱館や旧灯台のある旧郡中港の背山は、小高い砂丘帯が続き、一帯はかなりな規模の松樹林帯でした。花の頃になると、林間に点在する桜を求めて、この一帯で花見の宴が繰り広げられます。
宴席の用材一式はリヤカーで運び、時に家紋入りの陣幕まで持ち出して張り巡らし、林間に夫々の宴席を確保します。些少のプライバシーだけは確保の意図もあったのでしょう。
何しろ我が家の座敷を花見の宴に持ち出す態で、知人・友人を交えた飲み食い踊りがが目的みたいな花見です。酔いが進むにつれて陣幕間の人の行き来も忙しくなり、間を取り持つ母親や周りの女手の心遣いは大変でした。
旧暦お節句前後のお花見の日は、子達にも夫々花見弁当を用意してくれます。年に一度の野外祭り?だからとて奮発するのでしょう。些かならず豪勢な弁当を準備してくれました。
昇げ降ろしできる引蓋付きの桐外箱、中に収まった五段重ねの漆塗り重箱、これがその日専用の弁当箱です。年に一度その日だけ使う贅沢な什器だったようで、子供夫々に用意して呉れていました。花見節句の日以外に、この重箱を使わせて貰った記憶はありません。
高めの底箱には、お手拭き・くろもじ・調味料など、喫食に必要な小物類が収まっています。上箱四段にはお花見弁当つまり幕の内弁当が、吾が家風の仕分けで並びます。年々で品数や種類は多少違いますが、重箱の各段に収まる料理の割り振りは凡そ決まっていました。
上段には巻き寿司・ちらし・お握り・赤飯などその時々の主食、ニ段目・三段目に副食のおかず、おかずは調理の次第で分別します。四段目は一番嬉しい当時風デザートです。練羊羹・水羊羹・泡羊羹・生菓子・餡ころ餅・果物類・時にサツマイモの揚げもん・茹でレンコンまで…お八つが潤沢でなかった当時は、甘いものが主体です。
外箱には真鍮製の手提げ金具が付いています。小さい時は少し重いのですが、それでも手提げ金具をしっかり握り締め、せっせと自分でリヤカーに積み込みます。家族の花見に同行するの最小限の幼児のノルマです。
少し生意気になった高学年時には、ガキ仲間何人かを誘い合って家族を離れ、独自の花見に洒落込むこともありました。
少なからず草臥れた当時のお花見重箱(松花堂?)弁当箱ですが、半世紀余りを何とか生き長らえ現在も健在です。
新川の海小屋(海の家)で1日過す事が決まると、胸ワクワクの期待で、当日は朝早くから落ち付きません。子供はその程度ですが、この日の母親は姉を交えて大忙しです。
何はさて置き、一升瓶三本の゛飴湯 ゛作りが欠かせません。当時の海水浴には、何故か゛飴湯 ゛が必須飲み物みたいで定番でした。弁当は粕漬けの瓜の漬けもんと卵焼き程度、海老そぼろを塗した握り飯でも準備できれば、上々のグー!でした。
吾が家の夏一度の行事 ゛海の日 ゛に脱線しました。少し弁解めきますが、当時の海水浴行必携品の定番 ゛飴湯 ゛を、位置付けして置きたかったからです。
生姜味を効かせた麦芽飴の飴湯ドリンクは、ドリンクが氾濫する現在でも、トップにランク付けたい飲料と信じて疑いません。
泳ぎ終えた後の冷えた体に一杯の ゛飴湯 ゛、これを越す飲料があればご教示さい!
さて肝心の遠泳大会です。
新川海水浴場沖から郡中沖までの遠泳競技は…競技という程の形式でもなかったですが…昭和十年前後の数年間は間違いなく継続実施していました。
遠泳コースには多数の小舟が配置されます。これには濱の漁師さん達の熱心な協力があった事でしょう。プールのコースロープを思わせるほどの小舟が協賛して参加するのです。
長距離泳ぎに自信のある小学上級生から青年団員まで、それに学校の先生方や町内有志を含むメンバーが参加します。小舟にはスポンサー指定飲料として、当然この地域の定番 ゛飴湯 ゛が用意されます。
競泳参加者は伴走する小舟に縋ると反則ですが、冷えた身体を温める温かい゛飴湯 ゛を舟縁から補給するのは自由でした。
゛飴湯 ゛の配湯は、容器からゴム管を通す゛チュウ・チュウ給飴湯 ゛方式です。伴走する小舟の船縁近くで立ち泳ぎしながらの゛チュウチュウ給飴湯 ゛…遠泳大会の心身和む瞬間!…長閑さここに極まる状景が展開されました。
大会では何回か、一年生の担任を任されていたY女先生が、例年上位入賞していました。
「Y先生 よぉ肥えていなさるけん…身体が浮き易いんぞな!長ごぉ泳いでても楽なんよ!」
は、少なからず残酷でしょうよ…
「担任がY先生だと、ホットするんよ…」
町中で評判の信頼される先生の筆頭は、Y先生ではなかったでしょうか。
私も一年生の時担任して頂きましたが、優しく柔らかいY先生の姿と、何とも安心感のある表情が忘れられません。
一年生に入学しての初授業での席順決めは、Y先生の記憶に残る大ヒットでした。"忘れません"
「皆さん 一年生入学 本当におめでとう!」
「これから お教室で勉強する時の お席を決めますよ!」
「・・・・・ ・・・・・ ・・・・・・・ ・・・・・・・ ・・・・・・・・・・ 」
「皆さんが何も言わないので 先生が決めることにしましょうね! 」
当時の机は、二人で一つの机を使っていました。横長の二人机です。
「一つの机に二人座りますよ! 男の子と女の子の組ですよ!」
「・・・・・ どー決めようかなー ・・・・・」
「・・・・・ ・・・・・・・・・・ ・・・・・ 」
「それでは 決めますよっ! 」
「机に一緒に座りたいと思う人… さー 考えてね!」
「一緒に座りたいと思う人は 手を繋いで教壇の方に出なさい!」
「・・・・・ ・・・・・・・・・・ ・・・・・ 」
「ぐずぐずしていると… 好きなお相手さん居なくなってしまいますよ!」
「・・・・・・・・・・ ・・・・・・・ ・・・・・ ・・・ ・・ …… …… 」
最初の一組はA.K.君がH.M.ちゃんの手を取って、暫くして次の一組、そして一組…やがて…ざわざわ…ざわめき雪崩れ…、私は、H.U.ちゃんの手をとって…
ペアーの組み合わせは、意外なほど短時間に無事に完了しました。
男女同数のクラス編成だから出来たのでしょうが、それにしても
゛ Y先生 やりましたねっ! ゛