タイトル: 蜻蛉の里:しょうらい

 

 戦前から戦後間もない頃に子供時代を過ごした方には、トンボ網片手にふる里の野原で無心にトンボを追う子達の姿に、懐かしい郷愁を抱かれる方も多いのではないでしょうか。

 竹ひごで作った懐かしいトンボ籠を肩に斜め掛けし、麦藁帽を被り トンボ網**を握り締める姿は、確かに郷愁をそそるふる里の絵です。 三木露風の童謡 赤とんぼ を口ずさむ感傷も交えて…


  麦の収穫が始まる頃、子達は放課後一斉に近くの田圃へ脱穀済みの藁束を貰いに走ります。持ちきれない程の藁束を、時に二束も三束も欲張り抱えて自宅に持ち帰るのです。
大方の子達は藁束を引き摺って帰るため、この時期の何日間かの町筋は、子達がばら撒く麦藁で藁屑満艦飾に色変わりします。藁屑舗装の町筋出現ですが、町の人々は子達に一声掛けるくらいで鷹揚なものです。
「なに作るー? 麦藁帽かー えヽのん編めょー」
 家に帰った子達は、麦の穂先部分の一節だけを前歯で次々噛み切って、手早くストローの束を設えます。
ストロー束を設え終えると、近所の子達何人かを誘いあって、地べたに車座に向き合い、手製麦藁帽の編み上げに取り掛かります。
 いま考えると驚きですが、当時の子達の手に掛ると、凹みのある”麦わら帽もどき”が、何とか編み上がるのです。トンボ捕りの日除けには充分な帽子でした…
 女学校のお姉さん達の手に掛ると、ストローを何か?で晒す下拵えの工程も加わります。お姉さん達は帽子や急須敷きから手提げバッグに至るまで、羨ましいくらいの日常小物を次々に編み上げます。麦藁編みNo.1を自称するお姉さんも居ました。サブタイトル:トンボ捕り行こー
** 近年は殆んど見ることもありませんが、昆虫採集用の長い袋ネット状の網ではなく、テニス・ラケットのガットを緩く張った感じの、目幅もかなり大きいものです。網の楕円形の枠は竹製です。
 昆虫採集用の捕り網に較べると、上下・左右に振りまわす時の抵抗が少なく、トンボの動きに対応する機能は抜群です。トンボ捕りを競う子達が、技術を競うには格好の用具でした。


見出し:しょうらい乱舞 しょうらい の説明をしなければなりません。ふる里の極くありふれたトンボの呼名ですが、正しい呼称はよく判かりません。
 ゛こんめ、 むっぎ、 しょうらい、 おんと、 あぶら、 やんま、 つがい(番い) ゛ 等が、普段子達が口にするトンボの呼び名でした。

 大きさは゛しおからトンボ ゛位でしょうか。全身の色調は透明感のある薄黄色がかったオレンジ色です。赤トンボに較べると、全身の輪郭が少し緩んで、その分だけ赤トンボより大きい感じです。

 お盆の頃に群れをなして飛ぶ、仏(ほとけ)トンボ・精霊(しょうろう)トンボというのがいるそうです。この精霊トンボの(しょうろう)を訛って、 しょうらい呼んでいたのかも知れません。

 「なんじゃー しょうらいかー」

など呟きながら、折角捕っても抛り捨てるほどに、子達には全く人気のないトンボでした。幼い子達が闇雲にトンボ網を振り回しても捕れるトンボが しょうらいです。


区切り線:地球・緑


 夏休みが終って間もない頃、放課後の学校で遊び疲れた子達が小走りで家路につきます。
学校前の確かT文具屋のおばさんに一声かけ、蓮池を左手に見下す坂道を駆け上り、梢川沿いの道を駆けぬけます。



イラスト:迷路・タイトル 巣 川沿いの道を町と反対方向に行くと、堤防を跨ぐ国鉄の無人踏切があります。小学校に降りる坂道手前から踏切までの梢川堤防には、当時細い笹竹がぎっしり生い茂り、河床は道からは見えませんでした。

 この踏切までの笹竹堤防には、少年時代の懐かしい思い出があります。皆で゛すー(巣)゛ と呼んでいた少年達の秘密基地です。鳥の巣、兎の巣、泥棒の巣…の巣です。

 道から河床に降りる爲でしょうか、堤防には笹竹に隠れる程に踏み込まれた細い道が二・三ありました。少年達が堤防沿いの道から見え隠れするこの細道を、そのまま見過ごす筈はありません。

『この細道も使って、堤防笹竹内に秘密のトンネルの道を作ろう、トンネル内に俺達の隠れ家も持とう!』 

 意気投合すれば、子達は衝動的にスタートします。

アイコン:ねずみ この連絡トンネルも大した計画もなく作り始めたと思います。五〜六人の少年達にはリーダー格も居たでしょうが、下っ端の私には思い出せません。

 肥後之守(折りたたみ式小刀、小学生の日常必携の道具)頼りの手作業で、笹竹の中を少し づつ切り進んでいると、どうやら自分達よりも先に手掛けた者がいた事に気付きます。

「おーい ここに  トンネル ちょっとだけー でけてるがな」
「誰ぞ 先に作りかけたんかや なー 広いぞな これ見ー」

 先人?は途中で挫折したのか、連絡トンネルは未完のままでした。
堤防沿いの道を人が通る度に、手を休めてやり過ごすなど、面倒くさい作業に根負けしたに違いありません。

 私のトンネル作業参加の記憶は、かなり曖昧です。作業は他のガキグループにも手伝わせていたらしく、ガキのジョイントベンチャー工事みたいだったようです。
兎に角何日もかかって完工しました。
笹竹の中に身体を竦め一足刻みで移動できる、堤防沿いの秘密通路と自分達だけの巣の完成です。


アイコン:ねぐら 屈むと数人が向き合える、藁莚一枚分に近い ねぐら まで整いました。誰ともなく完成したねぐらに命名します。

『わしらのじゃー』 

 ねぐら完成の日、私を含む何人かの下っ端には、早速に兵糧調達のノルマが課せられます。

アイコン:ねぐら 家に駆け戻り、大きい状袋に一杯の゛やき米゛と゛新高キャラメル一箱 ゛を手に、大急ぎで巣に戻った記憶は、まるで昨日の事のようです。

 この゛巣゛を拠点に色々な遊びもやった筈ですが、一向に思い出せません。


 笹竹トンネル内の藁莚上で押し競まんじゅうみたいな完工式が、持ち寄り兵糧で繰り広げられました。やき米゛を差し入れに戻り潜ったトンネルは、笹竹の触感も柔らかく少年には夢の路でした。

 梢川堤防沿いに構築した 『巣 』 の残像はこれだけです。
ガキ大将の下、十人前後のガキ集団は、トンネルで結ばれた自分達のねぐら 『巣 』 を構築するために、全力でぶつかり完成に漕ぎ付けました。
 ところが、折角完成した堤防沿いの 『わしらの巣 』 なのに、巣を使って遊んだ記憶が一向に思い出せません。
皆で力を合わせて 『巣 』 を作り上げる過程の方が、きっと子達みんなが集中できる、本当の遊びだったのでしょう。
 

アイコン:いま浦島? 随分以前の事です。久し振りの帰省で八幡さんにお詣りしょうと、梢川の堤防沿いを歩く機会がありました。

 目にする梢川とあの時の堤防…少年時代の生々しい残像は見る影もなく、いま浦島みたいに縮まった川の姿に、呆然と立ち尽くしました。

 少年の記憶に残る梢川は、もっともっと存在感のある川で、ブッシュの生い繁る深い堤を従えていた筈なのに…


  の迷路に少し脱線し過ぎました、本文に戻ります。

アイコン:運動帽
 何時もは駅前で一斉に四方に散る子達ですが、その日に限って普段と違う周りの気配を敏感に感じ始めていました。家路に向かって小走りする子達の頭や顔に、

゛コッ カシャ   ツン シャッ ゛ 

何かが次々とぶち当ってきます。散りかけた子達も一瞬 ゛ … … ゛ 無言でもう一度集ってきます。

  夕方といっても初秋の日暮れ、釣瓶落しといわれる日没には未だ間のある時間帯です。そんな町中の夕暮れ時を、刷毛塗りで暈やかす様に何かが邪魔だてして飛び交っているのです。

 霞みかけた視野が急に開けたり、ぼやけたり、波になって寄せたり引いたり…表通り・裏通り、町家の大屋根・軒先・路地裏までも捲き込んで群舞するのは、紛れもないあの しょうらいの集団です。
日頃いくら見慣れた しょうらいでも、これ位の大群団になると人間の方がたじろぎます。

 道行く人々や子達の身体・頭・顔・腕などに、所構わず次々と当り・掠り流れる しょうらい…群れというより、上下・左右・前後に広がり縮む集団は、まるで容ちの決まらないトンボの巨人みたいです。
トンボの巨人が動く仕草は、意外とリズミカルで素早く不思議な感じもしました。

 少し気味悪がった子達も、近くの軒下に身を寄せます。

「なんぞなー どしたんぞゃー しょうらい じゃろがな?ー」
「クッソッ!むちゃくちゃ居るぞー… 気色悪るっ 」

 道往く人々もあっ気にとられて、てんでに通りから身を避けます。

 しょうらい群舞の本番が、何の前触れもなく突如始まった戸惑いは隠せません。
群舞が始まったというより、念仏行の集団みたいな しょうらいの大群団が、一瞬に町を席巻し始めた凄しさです。
 イラスト:回る・走る・回る
 子達の対応と動きは、何時も機敏で素早いものです。


しょうらい が湧いたっ!」
しょうらい が湧いたっ!」
「湧いたぞー 走ろー 走るぞー!」

 ひろば(広場)を左手にやり過ごして表通りへ、十字路の菓子屋の角を右へ、警察・半鐘の櫓下・おだいっさん(お大師)迄を一気に駆けぬけます。
 子達の行く手は しょうらい群団に邪魔だてされ、目はまともに開けられません。

 その頃になると、町家の小さい子供も手に手にトンボ網を持ってトンボ捕りに夢中です。 網をどう振りまわそうと、何羽かのトンボが嫌でも網に収まる異変…

 櫓下で一息ついた子達は、お互いに目線で一瞬頷きあうと、別に理由も無くいま来た道をもう一度逆走し始めるのです。

゛コン・コン … コシャッ・シャッ … ジャッ・カシャ … ツン …゛
 全身を しょうらいの群に包まれて走り続けた子達の動きは次第に緩やかになり、やがてトンボの群れの中を一緒に舞い始めます。
舞う子等の足元は何時しか大地を離れ、群舞する蜻蛉のうねりの中に呑みこまれます…

 
しょうらい
の邪魔だてを懸命に掻き分け、駆け続けていた子達の姿が、蜻蛉のうねりが収まる彼方に包まれて静かに消えていきました。
  アイコン:ボク…トンボの國に遊ぶ子達だけの世界…トンボの國に開かれた子達との会話の路地…そこで味わうトンボの國のスキンシップ…アイコン:あたし     


区切り線:地球と緑

 
吹き出し見出し:蜻蛉の里
 しょうらい大群舞は、少年時代に二度はっきり記憶に残っています。あと何回かあったようにも思いますが記憶は曖昧です。

 群舞する しょうらいの動きは、当時の田圃風景…脱穀機が吐き出す籾殻の拡がりみたいでした。

 勢いよく吐き出す大量の籾殻が、断続的に吹きつける強い風に叩き付けられ・舞い上がり揺らぐ…そんな動きを、群は繰り返し続けるのです。

 トンボが湧くという言葉通りに、狭い町並みが瞬時に群に包まれる事態を想像して下さい。大量発生し集団移動するバッタの凄しさのトンボ版です。
ただ、私がここで触れたいのは、こんなトンボの大発生を可能にした、当時のふる里周辺の環境の素晴らしさです。

写真:自宅付近の夕焼け 河川水に恵まれない地域でしたから、長年に亙って多くの貯め池が造設され、それが谷上山系からの緩やかな段差面を仕切るように点在します。大小とりまぜ二十近い貯め池は、一帯の農地の死活を握る水源池でした。

 町筋近くの土地は、通称 はる田と呼ばれる低湿地帯で、レンコン栽培の蓮池が続きます。旧郡中小学校前に広がる蓮池も、規模はかなり大きいものでした。

 郡中小学校も はる田を埋め立てた造成借地の上に建てられました。地盤が緩いので、二階建ての高学年用校舎の一部は、支柱で補強する始末です。

 正門に近い校庭の片隅にあった(柳?・榎?)の大木は、埋め立て当時、切るにしのびなかった゛はる田゛の中の成木だったのでしょうか…いつも校庭に涼しい日陰を用意して呉れました。

 「はる田…はる田…」と小馬鹿にし、「突っ張り校舎」と揶揄されようと、 しょうらいが群棲・乱舞する町の生物環境は、構えない自然のままの姿を映す佇まいでした。恵まれた近郊の環境は、多くの 貯め池 や はる田 、これらを結ぶ 井手などの貢献が大きかったように思います。


区切り線:かもめ翔ぶ

 加えて、今や見る影さえ失いかけた…町並み沿いに平行して拡がっていた海辺 ゛なぎのある濱 ゛の大きな役割を忘れる訳にはいきません。
新川へと続くあの長大な海岸線…も、長い年月に亙ってこの地域の自然浄化に、大きく貢献してきた事でしょう。



見出し:はる田 はる田は春田、つまり春期にだけ耕作する水田の意なのか、張田で何時も水が張っている湿地田を意味するのか…よく判りませんが、年中水のある田圃を指すことだけは確かと思います。

 旧郡中小学校の校舎も、周囲の状況からみると、郡中村の゛はる田゛を借り受けて埋立て校地にしたのでしょう。水捌けが悪くて、雨が降った後の運動場は、いつもべちゃべちゃで乾くと凸凹でした。

 最近は地域の自然や自然回帰について語られる機会が多くなりました。自然尺度の代表値みたいにトンボの住める環境が指摘され、そこに棲息するトンボの種類・数などが、水辺環境とあわせて話題にのぼります。
最後に残された自然の河川゛四万十川゛の流域と水辺・その生態系を探る…などはその代表例でしょう。

 海辺・岸辺・川辺・山辺など、自然環境に占める の役割の大切さ、その が果たす自然回復能力の大きさは、私も声を大にして発信し続けたいテーマです。

 湧く程にトンボが棲息できる環境は、僅か半世紀余り前、゛ため池 ゛や゛緩やかな棚田 ゛そして゛はる田 ゛を背にした町中に、当り前のように存在していた事実も知っておいて欲しいのです。

 イラスト矢印:Return to  
 美しい自然は、山影を映し樹影に彩られた湖岸に…といったメルヘン世界だけの占有物ではありません。
 
 ダサいけど年輪を刻んだふる里(さと)の辺(あたり)には、そこに生きる人(ひと)の生活の容を映した、ひとが生活する素朴な自然が在りました


 ゛貯め池゛の水が少々濁っていようが、゛はる田゛の水がトンボ捕りの少年の足を跳び上がらせるほどに熱かろうが、自然の回復能力はそう柔では無かったのです。
自然回帰を希う発想を、もう一度単純な目で素直に見つめ直してみたいものです。

 失われた自然の要因をやたらと並べ上げて、衆議の一致を待つて行動するには、人間は少しばかり色んな知識を持ち過ぎた嫌いがあるのでは…ふと知識のマイナス遺産を想う時もあります。

いつ見ても  蜻蛉一つ  竹の先          子規

蜻蛉(とんぼう)の  夢や幾度  杭の先       漱石

 句意はよく掴めませんが、ここは一つ漱石に軍配を翳して、智慧の出番に望みを託しましょう。


タイトル:さく道の辺り
 子供心に残る゛はる田゛の強いイメージは、何故か索道横の゛はる田゛に行きつきます。

 ぬるぬる潜る粘土質の泥田・膝小僧より浅い水深・真っ茶い気の溜り水・所々に油膜も広がる・仕切る畔は無い・真夏の水温は熱湯…

 そんな゛はる田゛のイメージにピッタリなのが、伊予鉄郡中駅の傍にあった索道跡地の゛はる田゛でした。今なら差詰垂れ流し鉱毒に汚染された無惨な゛はる田゛として、大問題になること間違いない土地です。

 所がどっこい、その゛はる田゛と周り一帯はトンボを追っかける子達には、絶好の゛とんぼ場゛でした。
はっきりと思い出せます。索道横の゛とんぼ場゛にさえ行けば、気長に構えてさえ居れば、凡てのトンボ種とその生態に巡り会ぅことが出来ました。

イラスト:連れ・番い 蜻蛉の臀舐め(となめ)という故事があるそうです。臀舐めとは、雌雄が尾を咥えあって、輪になって翔ぶことの意のようですが、臀舐めを交えた゛番いトンボ ゛の姿など、格別珍しい光景でもありませんでした。

 「こんめ」に「むっぎ」、尻の青い「おんと」と迷彩色の「あぶら」、「しょうらい」に「あかとんぼ」、「やんま」に「鬼やんま」「銀やんま」、「糸とんぼ」に「黒糸とんぼ」、その他「いろいろの雑多種とんぼ」等が一杯に飛び交っています。

 ゛はる田 ゛の水草に一休みしている゛番い ゛に、抜き足差し足で近寄り、トンボ網を振り下ろす瞬間のスリルなどゾクゾクものでした。

イラスト:連れ・番い ゛番いトンボ ゛が珍しくなかった時代です。子達の捕獲術の一つ゛トンボ釣り ゛は、まさに両性の憐れに便乗した手法で、いま考えると生態系を乱す無惨な手法…

 予め捕まえたおんと(雄)か あぶら(雌)の胴に糸を巻き、その糸を細い竹の先に結びつけて緩っくりと回します。見かけた雌か雄が、この囮とんぼを追って抱きついた途端、待ち構えたトンボ網の餌食になるという算段です。
゛鮎の伴釣り ゛ ならぬ ゛とんぼの伴釣り ゛は、群棲する゛蜻蛉の里 ゛ならではの遊びの世界だったのです。

写真:やごも棲む水辺 あの一見汚らしい゛はる田゛がトンボの遊舞場になり、繁殖池にさえなっていたのは不思議、と言うか驚きです。文字通り゛水清くして魚住まず ゛を地で行く自然の妙を、突きつけられた感じです。

 鉱毒垂れ流し?みたいだった索道横はる田の、見事な自然回帰能力

 自然回帰を希う生態系の代表タイトルとして、゛ トンボ飛び交う ゛メルヘン世界も良いでしょう。でも人は、生きて生活しなければなりません。

 吾がふる里もついの昔は、 トンボが飛び交い人が生活し続けてた、素朴な自然との共棲の場でもありました。この事実だけは忘れないで欲しいのです。

 生活する世界は、自然と住み分け共棲するための術を、決して怠りませんでした。

 自然を余りやヽこしく解説しょうとしないで下さい。あれこれ弄りまわすのは、自然浄化のサイクルを狂わすだけです。自然が落着き先を見失いかねません。


 見出し:さく道残照
 
 昭和十年頃迄は、普通の町内話し言葉だった さく道ですが、今やこの言葉を知る人も少なくなってきました。
 当時の山奥・広田村にあった広田鉱山から、銅鉱石を運び出す為の施設です。広田村から佐礼谷〜大平〜稲荷〜郡中駅を結ぶ、長大な鉱石運搬バケット用のリフトと考えればよいでしょう。

 郡中駅構内の隣接地に集積した銅鉱石は、何処の精錬所に向けて発送していたのでしょう…? 思いつく出荷先は住友の四阪島精錬所あたりですが、別子銅山との関係等もあるだろうし、詳しくは資料調査に待つしかありません。

 私が小学生の頃には、既に さく道の施設は廃棄されていました。

 施設は廃棄されたのですが、その残骸は未だ幾つか残っていた様に記憶します。
運搬ケーブルの支柱の一部とか、バケットに積み込まれた鉱石を受けるホッパー等です。錆びたり傾いたりしていましたが、現役時代の さく道の姿は何とかイメージできました。

 尤も、あの頃の子達が口にした さく道 は、鉱石集積場で再選別して廃棄・積上げられた、残土の山の意味だったのです。施設の廃棄後に取り残こされた廃残土は、かなりな量が未処理のまま山積みされていました。

 "さく道山"?の山容は、まるでミニアチュアの谷上山みたいで、それが子達が親しむ理由の一つになっていたのかも知れません。


吹き出し・見出し:三角ベース 山幅は二十メートル以上もあったでしょう。奥行き・高さも共に数メートル以上は充分あり、一気に駆け上ると少々息切れする勾配の、崩れかかった小型残土の山です。"さく道"には山頂といえるピークも立派にありました。

 この通称"さく道"が、当時の子達にどんな遊び場を提供していたか…記憶を辿るだけでワクワクします。

 "さく道"から線路沿いに、変電所に通じる道までの空き地は、当時流行りの三角ベース用の遊び場でした。軟式のテニスボールを使う三角ベースは、子達を夢中にするミニ野球で、数人でも十分に愉しめるゲームです。

 時には三角ベース野球もやっていました。セカンドを除いた軟式野球です。用具は持ち寄りでしたが、グラブかミットの何れか1ヶ、ボールが1ヶにバットの一本もあれば十分遊べました。

 子供時代に呼び慣れていた゛はる田゛は、"さく道"こと小型残土の山と、三角ベース用の空地に囲まれて広がる゛はる田 ゛を、半ば特定したような呼称だった気がします。

 夕方の訪れを感じる頃、赤茶けた゛はる田 ゛も 残土の山゛さく道 ゛も暮れかかる薄靄に包まれ、子達に家路を促します。

 赤トンボの唄を口ずさみたくなる、子達の感傷さえ誘いかねない さく道の残照 でした。

昭和一桁頃の子達は、学校が引けると原場(はらっぱ)・広場(ひろっぱ)に集り、日の暮れるまで何時間も、土の感触の中でひたすら遊びました。 忘れがたい土と水の温もりの中で… 

 イラスト:索道の残照蜻蛉の里…さく道の残照イラスト:索道の残照 

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