法隆寺-2


           金  堂 

  「金堂」は世界最古の木造建造物として世界的に有名です。
 彩色豊かに彩られた中国の建物に金色に輝くインドの神様が安置されているのを見
て古代人はど肝を抜くと同時に異国への憧れを持ったことでしょう。仏教伝来は高度
な文化の伝来でもありましたから。  

 金堂は回廊内の何処からでも眺められることを考えてほぼ正方形の建物となってお
ります。時代と共に横長、縦長の建造物に変わっていきますが鎌倉時代に伝わった禅
宗様の仏殿は正方形であります。

 金堂の2階部分は木組みだけで居住空間にはなっておりません。なぜ、2階建てに
したのかといいますと五重塔との釣り合いを考えてのことで平屋(単層)建ての建物で
は余りにも金堂が貧弱に見えるからです。天平時代になると塔が回廊外に移されます
ので金堂(本堂)は五重塔との釣り合いを考えなくてもよくなり平屋の金堂(本堂)も出
てまいります。金堂(高さ16.0m)は五重塔(塔高31.5m)の半分の高さであります。 

 下層の正面(桁行)が五間であるのに上層が四間とは異例であります。なぜならば、
下層が五間であれば上層は柱間を縮めて五間を維持します。中門は下層の桁行が四間
ですので上層も四間となっておりますのでご確認ください。

 「柱」は太い円柱で、柱の太さが中央の柱間の一割九分もあり一割二分が通例なのに
比べ相当太くなっております。それは、強度計算などの技術や「貫」などの技法がなか
ったため必要以上に太い材料が使用されたのでしょう。その結果雄姿を留めることが
出来、今に伝えております。例えば、唐招提寺金堂の場合中の間は16尺でありますの
で16×0.12=1.92(尺)となり柱は太いところで2尺弱となっております。
 西欧の石造建築に比べ地震が多い我が国では地震の揺れを吸収出来る木造建築が適
しております。今でも中国や韓国の建築中の建物を見て驚かされるのは、我が国に比
べて鉄骨の細いことです。それだけに、地震が少ない中国の建築様式の 完全な模倣は、
我が国の事情に合わなかったと言えます 。
 「五重塔」は台風で倒壊することはありましたが地震での倒壊は皆無に等しかったで
す。それだけに、諸外国の建築が鉱物性の材料を使用したのに、我が国では木造建築
主義に徹しました。木造文化である我が国で中国の宮殿建築の木造部分の基本だけを
真似て堂塔を建設したのは当然と言えましょう。明治には西欧風の煉瓦作りの建物が
出来ましたが地震で多くの煉瓦造の建物が倒壊しましたので、我が国には不向きとい
うことで廃れてしまいました。

 中門と同じように中央(三間)の幅と脇間の幅の比率は1.5対1となっておりますのは
中国の建築様式の踏襲ですが我が国ではこの逓減比率が小さくなっていきます。しか
し、鎌倉時代に請来しました中国様式の禅宗様寺院は1.5対1の比率になっております。
寺院建築−禅宗様」をご参照ください。

  大きな荷重が掛かる隅屋根を支える隅木が、斜め45度一方向しか出ていないので屋
根の垂れるのを補強するため早くに支柱を設けました。その支柱を利用して「裳階(も
こし)」が考え出されたのでありましょう。それゆえ、付属的な建物である裳階の柱は
丸柱ではなく角柱であります。  
 法要の儀式を金堂の前庭で執り行う「庭儀(後述)」 は雨の多い我が国では不都合で、
簡単な法要は前庭ではなく屋根のあるところでやりたいという願望からその場所の確
保のための裳階だという説とアジャンター石窟の壁画に並ぶ金堂内壁画を雨風から保
護するための裳階と言う説があります。我々は金堂の尊像を裳階内で礼拝いたします。
 二階部分の昇り龍、降り龍の付いた支柱も同じ補強目的で設けられました。 
 中国は雨風の対策を壁の素材を「塼(せん)」などの使用で解決できており、雨風が吹
き付けても支障がありませんので軒の出が小さくしかも軒の両端では大きく反り上が
る屋根となっております。それに比べ我が国では深い屋根、屋根の反りは殆ど無く穏
やかな建物とならざるを得ません。 

 裳階が最初から計画されておりましたらエンタシスの柱にしなかったと思われます。
ただ、理解しづらいことは金堂のエンタシスは建築途中か後に円柱をエンタシスに加
工処理されたということです。

 金堂の扉は 内面の昭和火災の際炎で焼け焦げて炭化した表面を掻き落として、2枚
の扉を1枚の扉に加工処理して西面、北面に嵌め込まれております。木目の綺麗な板
で現在では手に入れることが出来ない柾目の桧板です。西面でご確認ください。

 本尊が薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三如来でこれらは過去の薬師、現世の釈
迦、来世の阿弥陀であり過去、現在、未来の「三世仏(さんぜぶつ)」であります。 

 金堂は大型の厨子ですから後世のように窓は設けられておりません。寺僧といえど
も堂内には立ち入ることは出来ませんでしたが平安時代ともなると吉祥悔過などが堂
内で執り行われようになりました。窓、間斗束がないだけに簡素な建物となっており
ます。   


        金  堂(裳階付) 

  金堂(四天王寺)(錣葺屋根)(裳階なし)

 我が国の古代建築で、真屋(まや)と言われるのは、宮廷、神社建築で採用されまし
た「切妻造」のことで「寄棟造」は卑しい建築と言われておりました。一方、中国ではそ
の逆で、寺院での重要な堂宇は寄棟造となっておりました。我が国の寺院でも最初は
重要な堂宇は寄棟造でしたが屋根に変化がある「入母屋造」の方が好まれるようになっ
ていきます。今では、神社の一部には「入母屋造」があります。
 後述の「玉虫厨子」が「錣葺屋根(しころぶきやね)」であるように金堂も錣葺屋根だっ
たとも言われております。入母屋造で造立されておりますが錣葺屋根
を意識したのか
上層屋根の中間から錣葺屋根のように大きく反り上がっております。(錣葺屋根につ
いては玉虫厨子で。)
 稚児棟が設けられておりません。大棟には「鴟尾」でなく「鬼瓦」が乗っておりますが
創建当時は鴟尾だったことでしょう。

 
       二重基壇

 「基壇」とは基礎となる壇で、寺院建築では基壇をし
っかり造ることが大切でした。と言いますのも、我が
国の古代建築様式であった掘立柱方式では、柱が地面
と接するところで酸素と水分によって腐食が進み、20
年くらいで建て替えますが、寺院建築は長期保存を目
標としたからです。とはいえ、造成が大変で、昔、我
が国の多くの平野部が、湖 や海だったため地盤が軟
弱で悪く、このことは、古都奈良も例外ではありませ
んでした。我が大阪も上町台地以外は海だったのか、
ある時、ボーリング調査をやったところ貝殻が多く出
たのを覚えております。 

  法隆寺の基壇の造り方は、建物の底面積より大きめに、硬い地層の地山土(層)まで
掘り、その掘った窪地に他の場所から持ってきた地山土を、版築を繰り返しながら埋
め戻します。さらに地表から高さ1.5bまで地山土を版築で層状に積み固めた後、建
物に必要な底面積分だけを切り取り整地、整形しました。基壇の高さが1.5bもある
のは湿気から建物を守るだけではなくその昔、豪族たちが高床式に住んでいましたよ
うに威厳を保つ目的もあったことでしょう。余談ですが、高床から土間に伏す臣下を
見下したので目線の位置から下が目下その逆が目上と言う言葉が生まれたのでありま
す。
 次に、基壇を壇上積で仕上げます。その際使用された石は「凝灰岩」が多く、加工性
は良いのですが耐久性に問題があり後の時代には「花崗岩」で復元されております。そ
の凝灰岩は装飾し易かったにもかかわらず、材料の石材には興味がなかったのか他の
国のように装飾は施されていません。明日香の地には花崗岩の石造物が多いですが花
崗岩の加工は大変な手間を要しましたので「二上山」から産出する凝灰岩の使用が多く
なっております。
 二重(二成)基壇は法隆寺の金堂、五重塔、夢殿、玉虫厨子だけです。 
 上層、下層ともに凝灰岩で築かれましたが江戸時代に下層は花崗岩でやり直しして
おります。凝灰岩は加工が容易 なだけに砕けやすかったからです。


  卍崩しの高欄・人字形割束・屋根蓋


     人字形蟇股・鴟尾(中国)


卍崩しの高欄・人字形割束(四天王寺)

  「高欄」は上層に取り付けるものですが金堂のは下層の屋根上に載っているという建
物の飾りとなっております。それと、高欄と建屋の間は人が入れないほど狭く後の時
代のように高欄に上がって絶景かな絶景かなとはいきません。それというのも、古代
ではメンテナンス等以外日常生活では上層に上がる習慣はありませんでしたので。
 「人字形割束」(青矢印)」は中国からの渡来で、故郷の中国では人字形割束の人字が
直線から曲線に変わるだけで、後世まで踏襲しました。
 木造では法隆寺の人字形割束が「東南アジア唯一の貴重な遺構」であり
中国では石窟
では残っていますが木造建築では残っておりません。法隆寺の人字形割束が「原始蟇
股」であると私は思っております。
  人字形割束の上部構造物は有名な「卍崩しの高欄(まんじくずしのこうらん)(緑矢
)」であります。
 
 堂内には階段を設けませんでしたが裳階が出来て階段は室内にあるように見えます。
その堂外の階段を上がると屋根で屋根蓋(赤矢印)を押し上げて屋根上に出てそこから
高欄を乗り越えて出入口(連子窓)から2階内部に入り点検などをいたします。階段は
東面にあります。


       雲 斗

        雲 肘 木

 エキゾチックな雲形組物は飛鳥時代の特徴で法隆寺、法起寺、法輪寺の法隆寺関係
でしかお目に掛かれません。
 雲斗、雲肘木の雲形とは、後世の命名でこの文様の意匠は古代の工匠が何をイメー
ジしたのか知るべきもなく皆さんで考えてみてください。当時の人が飛ぶことに憧れ
ていたものの「鳥」では意匠とし難いので「雲」にしたのでしょうか。蛇、龍との説もあ
ります。
雲斗は南大門の花肘木に似ていますが斗と肘木の違いがあります。
 中備がありませんが高欄の中備は人字形割束です。建物では中国は中備として人字
形割束が用いられましたが我が国では用いられませんでした。ただ、「大宝蔵院」では
用いられておりますのでご確認ください。  


扇垂木・一軒(四天王寺)


  平行垂木・一軒(法隆寺) 

地垂木・飛檐垂木の二軒

 屋根を支える垂木の構造は、中国、韓国では地垂木と飛檐垂木の「二軒(ふたのき)」
であるのに不思議なことに長い「一軒(ひとのき)」です。我が国では二軒を天平時代に
入ると採用しております。
 金堂は「入母屋造」で、垂木は平行式です。法隆寺より古い「四天王寺」が合理的な手
法である垂木を放射状に配列する中国式の扇垂木を用いておりましたのになぜ、平行
垂木なのか不思議であります。本瓦葺は
茅葺、草葺、藁葺に比べ屋根の重量が数倍重
くなるのに扇垂木にせず欠陥のある平行垂木を採用したのは日本人の律儀さがなせる
業で、平行式の整然としたところが好まれたからでしょう。それだけに平行垂木は和
様といえます。
 それと、垂木の加工手順は、
我が国では木材から角垂木に加工した後に丸垂木を造
り出すので角垂木の方が製作工程が少なく楽です。一方、中国、韓国は多少の曲がり
や太さの違いを気にすることなく自然の丸太をそのまま使いますので我が国とは逆で
丸垂木の製作の方が楽であります。玉虫厨子のような中国式の丸垂木の一軒が飛鳥時
代は主流だったのですが角垂木の使用は国風化の表れでしょう。金堂は深い軒で一本
の地垂木(じだるき)で、垂木が一段であるのを一軒といいます。 
  


   垂木先の透彫の装飾はなし 


 尾垂木の透彫の装飾


        邪鬼(西北)   


      邪鬼(東北)


   邪鬼(南西) 


           邪鬼(東南)

 2階建ての建物で1階の屋根に写真の
ように「置瓦(平瓦)」が積まれているのが
良く見られますが2階屋根の雨垂れ対策
です。「大工と雀は軒でなく」といわれる
ように昔の大工は軒の反りに異常な神経
を使っております。そのため、見事な軒
反りを汚すような樋を付けないのです。
樋が無いと2階屋根の雨垂れが1階の屋
根の平瓦に落ちそれが跳ねて平瓦と丸瓦
の隙間に入り雨漏りの原因となります。
ところが、写真のように置瓦を設置して

おくと2階屋根の雨垂れが1階の屋根の置瓦上に落ると跳ねて飛び散り雨漏りから開
放されます。ですから、置瓦があるところが2階の雨垂れの落ちる位置を表しており
ます。分かりやすく「雨受け瓦」とも呼ばれます。


     裳階の扉



     裳階の板葺屋根

 裳階の扉は当初のものと言われておりこの裳階の扉は一枚板に連子窓の連子子(格
子)を彫り込んであります。金堂のような一枚板の扉だったのを後から連子窓にした
のでしょう。道具のない時代に手間の掛かることをしており感心させられます。
 裳階の屋根は「板葺き」ですが飛鳥時代には宮廷建築の名称は地名を冠して付けるの
でありますが「大化の改新」が起きたといわれる「伝飛鳥板葺宮」だけは屋根材が、宮廷
建築の屋根は茅葺であったのに、高価で手間のかかる板材で珍しいかったため板葺屋
根が宮の名称となりましたのでしょう。板の製法は縦引き鋸がなく当時は大木を厚い
目に割りそれを槍鉋で仕上げるという手間が掛かっておりました。


    登り龍


   下り龍

 彫刻なしの支柱を龍の彫刻付の支柱に元禄の修理で取り替えました。昭和の大修
理の際龍の彫刻は外すかどうかの議論があったことでしょう。龍の彫刻に関しては
元禄以前という説もありますが私は龍といえば徳川家であり元禄の付加と考えてお
ります。


     礼拝石(法隆寺)

    転法輪印石(四天王寺)  

 当時、僧といえども金堂内に入堂することは許されませんでしたので金堂の前に設
置された「礼拝石」に座って本尊を拝むという法要が「堂」の前庭で行われたため「庭儀」
と言いました。法隆寺では庭儀用の礼拝石が五重塔と金堂の前庭にあります。明日香
に存在した寺院はどうであったかは分かりませんが「明日香のお話」での「山田寺」には
金堂の前に設置されていたことが発掘調査で判明しております。「四天王寺」では金堂
の前には礼拝石でなく「転法輪石」が据えられてあります。
 


     礼拝石(山田寺跡)

 山田寺跡の金堂の礼拝石は、完全な
形で発掘されその複製品が設置されて
おります。法隆寺と違うのは山田寺は
金堂に近接していることです。

 

 


        釈迦三尊像(法隆寺)
   「光背」は創像当時の想像図です。

 法隆寺の本尊「釈迦三尊像」は発願から
たった13ヶ月で完成させたという通常で
は考えることの出来ない話ですがそれを
可能にしたのは聖徳太子一族の結束でし
ょう。叔母に当たる「推古女帝」にお願い
し勅願で造像すればよいのにそれもせず
しかも急を要するのであればもう少し小
さい造型の仏像でよかったのにそれすら
しなかったのは太子一族の必死の思いが
あればこそでこの執念が不可能を可能に
したのでしょう。
  また、670年の落雷火災の際にも落雷
にあったのは五重塔であり仏殿に類焼す
るまで時間的余裕がありましたので持ち
出すことが出来たのでしょう。 
 
飛鳥時代は釈迦信仰の時代でした。
  「釈迦三尊」の「三尊」ですが真ん中の
主尊を「中尊」と言い両脇のお供を「脇侍
(わきじ)、脇士、挟侍、一生補処(いっ
しょうふしょ)」と言います。

 普通、釈迦の脇侍といえば普賢菩薩、文殊菩薩ですが釈迦三尊像の脇侍は薬王菩薩、
薬上菩薩と珍しい取り合わせです。脇侍と言っても水戸黄門の助さん、格さんではな
く脇侍は近い将来如来に昇格する可能性がある仏さんです。助さん、格さんはいくら
頑張っても殿様にはなれないでしょう。

  本像の奥行が扁平で背面の細工が省略されておりますのは摩崖仏の技法によるから
です。仏像は礼拝の対象であって鑑賞の対象ではありませんから正面からしか礼拝し
なかったので正面鑑賞性でよかったのではないでしょうか。右繞礼拝なら丸彫りの仏
像にしなければなりませんが。造像当時は堂外の前庭での礼拝で尊像は全然見えなか
ったのではないかと考えます。もし見えたとしても正面だけでそれゆえ、正面から眺
めて立体感が感じられるように裳懸がフレアスカートのように広がっておりますのと
脇侍も鰭状天衣といって裳裾が魚の鰭状の如く外側に大きく広がっております。これ
らは飛鳥時代の特徴であります。

  釈迦三尊像は一光三尊形式で本来は三尊が一つの光背に納まるものであり当時の光
背は想像図通りの絢爛、華麗なものであったと思われます


  釈迦如来坐像(賓陽中洞・中国)  

  本尊の様式の根源は釈迦如来像(賓陽中洞・
中国)だと言われておりました。
 インドの気候風土では耐えられない厚着で、
上半身に僧祗支を着けその胸元から結び目が見
え、下半身に裙を着けたうえに法衣を着ける中
国風の服装は賓陽中洞像と同じです。がしか
し、髪の毛はウェーブ状の髪型に対し本尊は螺
髪であります。これは賓陽中洞像は石像ゆえ螺
髪に出来なかったのでしょう。本尊の方が面長
です。眼は下瞼が直線で我が国では白鳳時代の
眼の形でありますのに対し本尊は人間本来の眼
に近い杏仁形(きょうにんけい)の眼であります。
杏仁とはあんずの種の硬い皮を除いた中身のこ
とです。中身が白い色ですのでその材料から作

られた杏仁豆腐は白い色としているのです。杏仁の現物は丸に近いもので如来の眼の
形から言えばアーモンド形と言う方が適切だったのに杏仁豆腐が中華料理のデザート
ゆえの命名でしょうか。仁とは本来杏の種の白い中身のことです。

 口は漫画チックに放物線を描くのに本尊は唇の両端が吊り上がったアルカイックス
マイルであります。左手の人差し指だけを伸ばしているのに対し本尊は人差し指と中
指を伸ばしております。本尊は裳懸座とで二等辺三角形を形成しているのに対し賓陽
中洞像は二等辺三角形となっておりません。二重宣字座は背が低いのに対し本尊のは
背の高い二重宣字座で図の下にさらに一重があります。本尊は衣の皺まで左右対称で
図案化されているのに対し賓陽中洞像は自然で写実的であります。以上のことから私
はこの賓陽中洞像を下敷きにしたのではないと思っております。  
 
賓陽中洞の釈迦如来の脇侍は「迦葉(向って右)」と「阿難(向って左)」です。

 脇侍ですが光背の銘文は「挟侍」としか書かれおりません。脇侍の名称は鎌倉時代の
薬王、薬上が初見であります。薬王、薬上の脇侍は興福寺の中金堂(現在は仮金堂)に
も安置されております。脇侍は両手の指に丸い物を挟んでおり、それを聖徳太子の病
気平癒を願って造像されたという経緯から薬と見たて薬王、薬上と命名したのではな
いかと言う説があります。ところが、丸い物を舎利と見なされた方も居られます。脇
侍はU字形の扁平な造りであります。脇侍の両菩薩は丸い物を持っております手が同
じ形でありますことから左右対称にはなりえません。脇侍は詳細に拝見できませんが
大宝蔵院の「菩薩立像」と良く似ておりますのでどうぞ。
 
  聖徳太子が関与する数少ない尊像で、光背裏に刻まれた貴重な願文(銘文)の内容で
すが、もし病気が平癒できなければ速やかに浄土に往生されますようにとのことです
が病気平癒どころか完成時にはもう既にお亡くなりになっておられました。それなら
ば浄土への往生だけでよいはずです。また、急がなければならない病気平癒の像であ
れば短期間で制作できる小型像でなければならないのになぜ太子の等身大の像を発願
されたのか分かりません。
 いずれにしても当初の完全な姿を今日まで伝える最古の仏像として著名です。 

 仏師の「止利仏師(鞍作止利)」は鞍作を職業にしておりました。なぜ馬の鞍作りの職
人が来日して、仏像を制作する仏師が来日しなかったのか、また止利仏師が仏像の研
究をしたとは思えず粉本でもあったのでしょうか。止利仏師は飛鳥時代の仏像制作に
大変貢献いたしましたが百済系渡来人の出世頭だった蘇我氏が
重用し庇護が厚かった
ので大化の改新で蘇我宗家が亡ぶと同時に止利仏師も蘇我氏と同じように歴史の舞台
から消えていきました。

 


     薬師如来坐像

 法隆寺の建立当初は用明天皇の病気平癒祈願の
寺院でありますゆえ薬師如来像が中央の間の本尊
だったことでしょう。
 推古15年(607)に造像されたと言うことですが
当時にはまだ薬師信仰が存在しなかったと思われ
ますが出来栄えが中央の間の本尊釈迦如来像より
優れておりますので疑問が起こります。造像に対
し后の間人皇后を差し置いて後の推古天皇とまだ
うら若い聖徳太子に命じられたとは不可解です。
後のことを考えて朝廷の繋がりを強調する為との
説がありますが推古皇女を立てなくても用明天皇
のための法隆寺ということで充分だと考えます。
 肉髻が可愛らしい剃髪となっておりますが螺髪
が脱落して剃髪になったのか真偽の程は分かりま
せん。
  裳懸座の広がりも釈迦像より小さくしかも二等
辺三角形とはなりえません。
 宝珠形光背は原則として菩薩が付けるものであ
ります。

 本像が完成した607年当時は、干支の表示のみで年号は使われておりませんから
「丁卯(ひのとう)」の年といっても607年ではなく一回りした(下った)667年かもしれま
せん。しかし、667年ならもう既に年号が用いられておりましたのでますます分から
なくなります。
 光背裏に刻まれた貴重な願文(銘文)の内容で、607年といえば聖徳太子は生存中な
のに「聖王」と呼ぶのはおかしいです。それと、釈迦如来像より丸みが加わっている穏
やかな感じになっておりますし釈迦像より写実に於いて一歩進んでおり鋳造技術の向
上も見られるので中の間の釈迦像をモデルにした模古作という説もあります。
 創建の旧本尊の代わりに改めて本像が造像された時にはもう既に中の間には釈迦像
がありましたので東側に安置せざるを得なくなり東方浄瑠璃世界の教主の薬師如来と
されたのでしょうか。本像は止利様式で制作されておりますから止利仏師が歴史上か
ら消える643年頃までには完成していたと思われますがそれならば法隆寺再建以前の
話となりなぜ、焼失以前に再像されたのか疑問であります。それと、用明天皇のため
の尊像にしては余りにも小型過ぎるような気がします。 
 脇侍とし安置されていた日光・月光菩薩像は大宝蔵院に展示されていることもあり
ますので注意してご覧ください。

 古代の寺院建立の発願は病気平癒が多く、国家鎮護の寺院建立は飛鳥時代にはあり
ませんでした。薬師如来を本尊として建立された寺院は個人の病気平癒を祈願したも
のが多く、例えば、「薬師寺の本尊薬師如来像」も後の持統天皇の病気平癒であります
し「新薬師寺の薬師如来像」も聖武天皇の眼病平癒を祈願して安置されたものでありま
す。
 願いもむなしく薬師如来の開眼供養することなく用明天皇は崩御されました。それ
ではなぜ、祈願を聞き入れて貰えなかった薬師如来を祀るのかと疑問が出て参ります。
薬師如来に現世と来世を祈願してお祀りされたのでしょうか。いずれにしても謎を秘
めた法隆寺です。 

 

  
    増長天像

  「四天王像」は我が国現存最古の遺構です。中世に橘寺より
移安されました。
  素材は飛鳥時代流行の「樟」であります。樟は仏教伝来以前
から神道で神木扱いされておりましたので神が宿る木から仏
教の仏像を彫るということは神仏習合の先駆けでしょう。
 くす(樟)はくすり(薬)からきていて何かの治療薬であった
のでしょう。樟といえば樟脳ですがそれはずっと後の発明で
す。
 止利様式の正面鑑賞性から脱皮して非止利様式の側面から
も鑑賞出来る二面性となり天衣が本尊の脇侍のように左右に
広がらず前方(青矢印)に跳ね上げております。
 「四天王寺」の本尊は四天王だったように古代は主役または
準主役でありました。その証に頭上には冑でなく大型の宝冠
が戴っており、また、邪鬼も手足には腕釧、臂釧、足釧の装
飾品で飾られており、後世のように虐待される邪鬼とはすご
い違いです。時代を経ると四天王寺の本尊も四天王から救世
観音と変わり、四天王は通例のガードマンに格下げとなって 

いきました。
 しかし、四天王はガードマンとなると動きのある姿となり多くの人から愛着をもた
れるようになりました。
 四天王像は短躯でずんぐりしておりますが甲は貴人の礼服のようで皮革製の甲で身
をかためているようにも見えずしかも荒々しい憤怒相ではありません。履いておりま
す沓は立派過ぎて動き回れるようなものではありません。ある方は本尊が静なら四天
王は動でなければならないのに四天王まで静で金堂内は静で占める空間だと言われて
おります。四天王像は四者で様相に違いがあるのが通例ですがほぼ同じスタイルの古
典的な像容で、四天王像は総べて直立不動で動きはありません。広目天以外の三天は
共に左手に(三叉)戟を持つという姿です。増長天の右手には宝剣を捧げております。
 正面鑑賞性から脱皮して側面からの鑑賞も意識しているのは東西南北に配置される
からでしょう。ただ、四天王は須弥壇の東西南北の守護神でありますが南の守護神た
る増長天が本尊の前に仁王立ちすれば本尊の姿を遮り不都合であるので時計回りに
45度ずらして配置されております。これは大相撲の4本柱も同じですが現在は柱が撤
去されその名残が青房、赤房・・であり、これも時計回りに45度ずれております。た
だし、須弥山の四天王はきちんと東西南北の門に配置されております。

 「四天王像」はインドで誕生した当時は憤
怒ではなく温和な顔付きのうえ華麗な装飾
を着けた貴人のようです。しかも甲冑を着
けないだけでなく「バールフト」の像にいた
っては武器すら手にせず合掌手の如くで守
護神らしくありません。
 バールフットの像には銘があり多聞天
(毘沙門天)となっております。邪鬼は蹲踞
の姿勢で法隆寺の邪鬼の源流といえるでし
ょう。
 法隆寺の邪鬼はご主人様の四天王がすら
りとしたプロポーションで直立して不動の
姿勢でいますので後世の邪鬼のように踏み
つけられて苦しみから逃れようと悶えてい
るのに比べ忠実な家来の如くおとなしく蹲
っております。蹲踞した邪鬼は大き過ぎる


   四天王像
  バールフト


     四天王像
   サーンチー

ぐらいの量感がありまるで台座のようにも見えます。

 どうして、こんなに行儀がよくおとなしいのかなぜ喜んで乗って貰っていると言う
方が適切な邪鬼像が考えられたのでしょうか。邪鬼の顔は後代の人間の幼児らしい顔
と違って犬、猿、牛のようなユーモラス顔でこの意表をついだアイディアは法隆寺だ
けでしかお目にかかれません。邪鬼は普通指が三本か潰れているのに当邪鬼だけは人
間と同じように指が五本揃っております。
 何かを握るような手付きで当初は三叉戟と何か仏具でも持たすつもりだったのが四
天王と邪鬼の制作工房が違ったためか大きくなり過ぎております。岩座は傑作と評さ
れるものですがちょっと見えずらいです。

   

 
   吉祥天像      毘沙門天像    

 平安時代から「吉祥悔過」が盛ん
に行われるようになり吉祥悔過の
仏として「吉祥天」と「毘沙門天」の
ご夫婦像が本尊の左右に増設され
ました。これは、経典による仏の
左に吉祥天女像、仏の右に多聞天
像を祀るとありますのを受け、釈
迦如来像の左右に安置されたので
しょう。
 現存最古のご夫婦像として著名
です。ただ、「吉祥悔過」の本尊は
吉祥天だけであると考えがちです
が毘沙門天も同じように祀られま
す。
 平安時代になると金堂において
吉祥悔過という行事が行われたこ
とは金堂内が開放されて僧が立ち
入ることが出来たと言うことであ

ります。  
  「毘沙門天像」は気品ある像容で漆箔、切金を多用しております。創像当初は邪鬼か
岩座に乗っていたことでしょう。四天王の多聞天が単独で祀られますと毘沙門天と呼
ばれます。
 平安時代から多聞天は左手で宝塔を捧げるようになりますが『陀羅尼集経』による
場合は宝塔を右手で捧げます。しかし、本像は『金光明最勝王経』の経典により造ら
れたものですから左手で宝塔を捧げなければならないのになぜ右手の宝塔となったの
かは分かりません。多聞天ではなく毘沙門天だからかまたは同じ金堂安置の飛鳥時代
の「四天王像」に合わせて古式に則り制作されたのでしょうか?
 楠木正成は信貴山の毘沙門天にお祈りして授かったので幼名を多聞丸と言います。
上杉謙信は毘沙門天の信仰が厚く軍旗には毘の一字を染め抜いております。
 「吉祥天像」は遣唐使廃止の伴う国風化の流れで藤原貴族の趣向を取り入れ、典雅に
して優美な像となっております。当時の貴族を魅了した理想の女性像だったことでし
ょう。現在も
彩色が残る均整の取れた美人像で見る人の心を魅了しております。左手
には「宝珠(青矢印)」が捧げられております。

 


  鐘楼前からですと均整のある
 五重塔を眺めることが出来ます。


       五 重 塔(南正面)

 「五重塔」は現存最古の塔で、塔高は31.5mです。
 塔内の「塔本四面具」が和銅四年(711)に完成したとの記録があり、当然五重塔はそ
れ以前に建立されていたことになります。
 間口(桁行)ですが初層の丁度半分が五層目(後述)というすこぶる安定感に富んだ見
栄えの良い塔となっております。中国の塔は展望台のようなものであり各階に仏像を
安置して上層階まで登るようになっておりますゆえ上層階のスペースも広くなければ
用途に叶いませんので塔は寸胴に近い形状となります。が、我が国では塔内は僧とい
えども立ち入ることは出来ませんので居住スペースを確保する必要がないため見栄え
の良い壮大な五重塔を作ることに専念いたしました。中国の塔は軒の出がありません
が我が国の塔は軒の出が大きいのが特徴でありどっしりとした安定感を醸し出してお
ります。
  塔高の約3分の2が塔身、約3分の1が相輪と見栄えの良い比率になっております
(後述)。 
 正面は撮影位置より下がれませんので仰ぎ見ることになり整った美しい姿とはいき
ませんが鐘楼前から見るのが最高な眺めとなります。ただ少し逆光になる恨みがあり
ます。

 心柱は地下約3mの掘立柱で心礎という礎石に載っております。当初は二本繋ぎで
ありましたのが三本、四本と修理によって繋ぎが増えました。
 最近(2001/02)、心柱の伐採年代が594年と発表され再建、非再建論争が再燃いたし
ました。本当に法隆寺は謎多きお寺です。
 心柱は相輪だけを支える部材であって塔の構造とは何ら関連がありません。心柱は
古代からの柱の信仰に関連あり象徴的なものですので、塔とは心柱を守る建物であっ
て五重塔でも三重塔でも構いませんが見栄えが良い建物でないと有難がられることが
なく礼拝の対象として相応しくありません。古代の我が国では舎利崇拝より塔崇拝の
方が好まれたのではないでしょうか。それというのも当時は土葬であって現在のよう
に遺骨を礼拝の対象には考えもしなかったと思われますが。 


    第三ストゥーパ(インド) 

  
       相 輪

 インドの「ストゥーパ」が我が国では「塔」となったと言われておりますが正式には
「相輪」というべきでしょう。その相輪(
ストゥーパ)だけを支える部材が心柱というこ
とになります。
 
相輪は下から箱型の基盤(基壇)、半円形の伏鉢(ふくはち)、四角形の平頭(びょう
ず・へいとう)、傘蓋(さんがい)、竜舎、宝珠となっております。インドの平頭であ
りますが我が国では薬師寺塔以外反花となっております。
 インドのストゥーパ(塔)の傘蓋は円錐形の傘状を象っており傘蓋といえるものであ
りますが我が国を見ると車輪形そのもので、ここから相輪、九輪という言葉が誕生し
たのでしょう。ですから我が国では傘蓋というには問題があり、傘蓋の部分を九輪と
呼べばわかりやすいのですが、当麻寺塔のように八輪という例外もあります。
 舎利の安置場所は通例「伏鉢内」でありますが平頭内におさめられる場合もあったよ
うであります。古代の我が国では舎利は塔の地下に安置されており法隆寺塔も同じで
あります。

   

  塔の柱間(柱と柱の間)は三間が通例です
が五重目だけは二間
という構造上の不利を
犯しており、そのため、五重目だけ三回の
修理を施しております。といいますのは、
五重目が二間であれば柱(赤矢印)から梁を
通そうと思っても心柱に当り通せない重大
な欠陥があるからです。そこで考えられる
ことは、三間にすると組物がごちゃごちゃ
と詰まり見栄えが悪くなるのを避けたから
でしょう。
 間口(桁行)は初重から五重目に上ってい
くにしたがって、1間で1支(垂木と垂木
の間隔寸法・写真参照)ずつ狭くなります。
3間ですから1層で計3支ずつ狭くなって
おります。ただし、五重目2間ですが3支
分狭くなっております。塔は通例3間四方
で脇の間より中の間の方が広いです。
 法隆寺の場合初層が7支、10支、7支で
足すと24支でこれは桁行が24支ということ
です。これが1層上がる度に3間ですから
3支ずつ狭くなります。5層目は3支、6
支、3支の12支となるところを半分に分け
て6支、6支の12支となっております。で
すから、初層(24支)の半分が五層目(12支)
で前述の
間口(桁行)が初層の丁度半分が五
層目ということです。

 桂昌院による元禄の修理で五重目の屋根を2.6尺(約80p)の嵩上げし屋根勾配を強
め露盤などを造り替えております。雨漏りで苦労したと思われるのに江戸時代の施工
とは遅いですが心柱の突く上げによる雨漏りがあったりして小さな補修に追われてい
て嵩上げどころではなかったのかも知れません。
 
 日本刀を同じ工法で造られた長期に耐えられる「釘」が使われておりますが本数はそ
んなに多くないです。余談ですが日本家屋の寿命は30とか40年とか言われているのは
釘の寿命から割り出したものとも言われております。ですから、古代の建築は最小限
の釘しか使わず木組を積み木のように組んでいきましたので長期に耐えるわけです。
それゆえ、古代の不動産は簡単にばらせますので移築が簡単でありますから不動産で
はなく動産と言うべきでしょう。
 「法起寺」は三重塔を東側に配置しているのは東上位の結果でしょう。法隆寺では五
重塔を西側に配置しているのは浄土思想の表れでしょう。 
 金堂と同じように塔の前庭にある礼拝石に座って舎利を拝みました。 

   
  相輪     水 煙       支 柱          

 

 

 

  四重目と五重目の間に
 蹲踞する生き物を彫刻し
 た支柱が入れてあります。


   邪鬼(西北) 


   邪鬼(東北)


  邪鬼(南西)

    邪鬼(東南) 


    尾垂木


     垂 木


      礼拝石

 先述の露盤には徳川家の葵文だけでしたが垂木の先端には徳川家の葵文と桂昌院の
実家の家紋の透彫が交互に貼り付けてありましたが現在は、忍冬唐草文の透彫に代え
られております。平瓦の文様は忍冬唐草文です。


       裳階屋根(五重塔)


       裳階屋根(金堂)  

 裳階の板葺屋根は大和葺という葺き方ですが五重塔の方が板の両端を細工して上下
の板を噛み合わせるという丁寧な仕事をしております。大和葺に対し「長板葺」という
ものがあります。  

  
  階段を上がれば見えます。

 「塔本四面具」は法隆寺では珍しく和銅四年
(711)に完成との記録があります。この年代から
金堂、五重塔、中門など再建年代を憶測すること
になる貴重な記録です。
 塔本四面具が総べて「塑像」で焼きも せずに完
成から1300年も長い間、盆地特有の湿気が多い地
で、生きながらえてこられたのは制作態度が必
要以上に丁寧で念入りな作業だったからでしょう。
ただ、南面は雨風の吹き込みで多くの像が入れ替
わっております。
 塔本四面具は天平時代の傑作の一つで、80体の
塑像が国宝指定というものです。 

 塑像の材料は近くの場所で採取されるのでただ同然でありますが、大変重く脆いと
いう致命的な欠陥があります。それだけに塑像の制作にはそれなりの技法が要求され
るだけに白鳳・天平時代で一応終わりを告げます。洗練された写実を重んじた天平時
代だからこそ塑像が多く制作され、それゆえ、傑作が多いと言えます。鎌倉時代、中
国から禅宗とともに塑像が入ってきますが出来栄えだけは南都復興とはいきませんで
した。
 塑像の制作はまず最初に仕上げ材の心木を使い「木組み」を作りますが、指のような
細かい部分の細工には心として銅線、銅板などを用います。その「木組み」に藁縄など
を巻き「粘土」が付きやすいように加工いたします。つぎに、「下土(粗土)」を塗ります。
下土は粗い土に藁を細かく刻んだ「藁苆(わらすさ)」を混ぜたものです。乾燥した下土
の上に「中土」を塗ります。中土とは粘土に籾殻を混ぜたものです。中土が乾燥した後
中土に「仕上げ土」を盛り上げ、細部の彫刻をいたします。仕上げ土とは細かい土に
「紙苆(かみすさ)」と「雲母」を混ぜたものです。「紙苆」は土の乾燥をゆっくりさせて土
の亀裂を防ぐためのものです。雲母は高温多湿の奈良で、湿気が像に浸入して破損す
るのを防止するためと雲母を混ぜると粘土の締りが良くなり彩色が楽になるといわれ
ております。
 像全体が乾燥後白土(化粧の白粉と同じ役目)で下化粧をいたします。さらに極彩色
の彩色と金箔の切金(きりかね)文様で華麗な変貌を遂げます。 

                           涅 槃 像 土

 北面の「涅槃像土」は「法隆寺の泣き仏」ということで有名です。後列のおとなしい群
像は天平時代の初めに造られ安置、後列の激しい表情とオーバアクションの群像はバ
ロック調の天平時代終わりに造られ追加安置されたのではないかと言われております 。
前列での、手を後ろについて身体を反らし顔を仰向けて大口を開けて号泣する像、胸
を打ち叩き大きく泣き叫び悲しみを表す像など悲嘆にくれる群像が法隆寺の泣き仏と
言われる所以です。前列の比丘形の像は、釈迦より先に旅立った舎利仏、目犍連と遠
くまで布教活動に出ていて釈迦の涅槃に間に合わなかった荷葉を除いた十大弟子の七
人を表しているとも言われます。釈迦の弟子の中には荷葉が二人いたので区別するた
め十大弟子の荷葉の方には大の尊称を付けて大荷葉と呼ばれてます。この群像に関し
ては諸説があります。
 後列にある八部衆は天平時代で廃れてしまい、八部衆の一部は二十八部衆に含まれ
て造像されます。八部衆といえば法隆寺と興福寺でありますがどちらも釈迦と一緒に
安置されており後の時代には造像されなくなりますので貴重な像といえます。阿修羅
像(青矢印)は最古の像でこの阿修羅像を手本にして興福寺の阿修羅像が造られたので
はないでしょうか。
 像の配列はパノラマ的というより空いているスペースにどんどん詰め込んだという
感じがいたします。
 「敦煌莫高窟」では阿難などの一部が悲しみの挙句座り込みますが残りの者は立って
いるのが通例で、当涅槃図はスペースの関係で全員が坐らざるを得なかったのでしょ
う。
 中国では塑壁で法隆寺では須弥山と呼んでおります。 
 涅槃が山岳において行われたのは不思議であります。釈迦如来はクシナガラで四方
に沙羅樹が二本ずつ計八本生えていた間で涅槃入られたと言うことですが法隆寺には
沙羅双樹が見当たらないのと頭北面西ではなく通常の釈迦如来の入滅場面とは違うと
ころがあります。そこでこの場面を聖徳太子が亡くなられて、民衆が嘆き悲しむ姿を
表しているとの説もあります。 皆さんはどう考えられますか。
 沙羅樹が一方に二本ずつでありますので沙羅双樹となります。釈迦は生誕の際は無
憂樹、成道の際には菩提樹、涅槃の際には沙羅樹でこれらの樹木は仏教の三大聖木と
も言われます。これらの三大聖木は日本で言う神木ではなくインドは日差しが強く暑
い国ですから傘蓋の代わりではなかったのでしょうか。三大聖木は高木で我が国での
沙羅樹はツバキ科のナツツバキでインドの沙羅樹とは違う別木です。
 『平家物語』の有名な冒頭は「沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす」と沙羅
双樹が登場いたします。
 我々でしたら死亡と言うところを釈迦如来は肉体は滅びても精神は永遠の不滅なの
で「入滅」とか「涅槃」という言い方を致します。このことは釈迦如来は生存されました
のでこのような場面が起こりますが他の如来は空想上の仏さんですのでこのような場
面は出て参りません。

 釈迦の右手で手枕されておりますのが普通でありますが本図は差し出した右手の指
を開き名医「耆婆大臣(ぎばだいじん)(赤矢印)」に脈をとらせているように見えます。
耆婆大臣のインド名はジーバカといい、オウム真理教でサリンを生産したのはジーバ
カ棟と言うことで一躍有名になりましたがジーバカは生存された方ですので自分の名
前をとんでもないことに使われあの世で怒っておられることでしょう。医師を表した
ものでは最古の像です。  


            釈迦如来像


   寝 釈 迦 像

  釈迦如来の涅槃は頭を北向き、お顔を西向き、横臥する姿勢で右手の手枕をします
が右手の手枕でない涅槃像もあります。この涅槃像の作法を取り入れられたのが死人
の北枕です。ただ、以前は横臥していた死人が仰臥しているのは、現在のようにお別
れのセレモニーを行うようになったからでしょうか。頭北面西の姿勢にすれば自然と
右脇が下になります。右脇を下にして休むことは身体の左にある心臓に負担を掛けな
い理想の寝姿で釈迦が休んでいらっしゃる「寝釈迦像」がそうであります。  
 
 「臥像」とは横になっている像のことで涅槃像と寝釈迦像があります。涅槃像、寝釈
迦像共に釈迦像です。
上座部(じょうざぶ)仏教(小乗仏教)の国では信仰の対象が釈迦
如来だけに涅槃像、寝釈迦像が多いですが我が国は大乗仏教ですので少ない存在です。
タイなどに旅行されて驚くのは我が国ではお目にかかれない寝釈迦像が彼方此方にあ
ることです。我が国でも「眠る大師」はあります。


         維摩詰像土

 東面は「維摩詰像土(ゆいま
きつぞうど)」で、維摩居士の
病気見舞いに釈迦の代理とし
て文殊菩薩が遣わされ、病身
の維摩と文殊が法論を展開し
ている場面が表現されており
ます。釈迦と直接関係のない
内容ですが聖徳太子が維摩居
士が創作された「維摩経」を重
んじられたので取り上げられ
たのでしょう。
 頭は文殊菩薩は高い髻であ
るが維摩居士は頭巾を被って
おります。

 

 西面は「分舎利仏土」の場面で中央にある舎利塔の模作が大宝蔵院の百済観音堂の屋
根に設置されておりますのでご覧ください。

 南面は「弥勒仏像土」です。

 

続き-2