法隆寺-3

 


               経  蔵


 「粽(ちまき)(青矢印)」と言
われるもので大仏様のように
徐々に細くなるものは長い粽
と言われ粽の定義は決まって
いないようです。この粽の様
式は天平時代にエンタシスの
代わりに出現いたしましが平
安時代初め頃に消滅いたしま
した。

  「経蔵」は「楼造」の建物では現存最古で、天平時代唯一の遺構です。
 上層部分は
廻り縁に高欄をめぐらし連子窓などを設けた構造に対し下層部分は装飾
的には手を抜いたようになっておりますがそれが逆にまぶしい白壁と木部の絶妙なコ
ントラストを形成しております。それは当初、経蔵は回廊外にあり回廊内から経蔵を
眺めても下層部分が見えないことから簡素にしたのでしょう。回廊については後述い
たします。
妻側は「二重虹梁蟇股」となっておりこれは天平時代の切妻造に用いられた
通常の構法です。
 法隆寺では一番かわいらしい建物で素敵な眺めだと思いますがやはり大きな建築物
が好まれるのか経蔵前での記念撮影は見かけません。


   連子窓・高欄付きの廻り縁


      角垂木の二軒

 


           鐘 楼


 1998年の台風7号で、室生寺
では樹齢650年の杉の巨木が、
五重塔に倒れ掛かり大きな被害
を受けました。法隆寺ではその
対策として建造物周辺の松の木
が途中から切り落とされたり、
写真の鐘楼前の松の木は根元か
ら抜かれてしまいましたが拝観
者にとっては金堂と五重塔の勇

姿が見通せる最高の場所となりました。前述の五重塔の写真はここからの撮影です。
 法隆寺に松の木が多いのは聖徳太子3歳の時、両親である後の用明天皇、間人皇后
の家族三人で桃の園を散歩中に父君が太子に「桃の花が好きか松の木が好きか」を訊ね
られたら太子は桃は一時の花でしかないが松は年中青々とした万年の樹木であります
から松の方が好きですと答えられたという言い伝えからです。これが境内に四季折々
の花が植えてあれば多くの女性に歓迎されそうですが法隆寺はなんといっても松だか
らこそ古色蒼然となっているのでしょう。

 天平時代の「鐘楼」は講堂と共に焼失し平安時代の再建ですが平安時代唯一の楼造で
あります。  
 平安時代後半になると前述の粽がなくなり柱はただまっすぐなものが好まれるよう
になりますが後述の大講堂はほぼ同じ時期の再建でありながら大講堂の柱には粽があ
りますが鐘楼には粽がなくややこしい問題です。経蔵とでは扉の高さが違います。
2階建ての建物が楼造ですので法隆寺は鐘楼ですがよく見かける4本柱、8本柱の鐘
楼は2階建てではなく鐘楼とは言えないのですが名称だけを踏襲しております。
 講堂が正暦元年(990)に再建されたほぼ同時期に再建されたと考えられます。
  
 鐘楼の「天平時代の梵鐘」が衝かれますのは「夏安居」の期間中の朝9時ですが梵鐘は
少し損傷しているため厳かな音色で近くに行きませんと聞くことが出来ません。夏安
居は5月16日より8月15日まで行われます。 

 


 燈 籠(後は大講堂)

 
 
 元禄四年(1691)、桂昌院が子息の徳川綱吉の武運長久を祈願
してこの燈籠を建立されました。
 かさ、火袋、中台に徳川家の家紋「三つ葉葵」と桂昌院の実家
・本庄家の家紋「九目結紋」が並んでおります。
 この燈籠の辺りを当初、北回廊が走っておりました。

 


            大 講 堂

 「大講堂」は法隆寺再建時にはなく食堂が記録されておりますことから当時は食堂と
講堂とが兼用だったのがその後講堂専用に用途変えをしたのではないかと言われてお
ります。その講堂も延長三年(925)の落雷により焼失いたしました。当初、堂内には
仏像は無かったのではないかと思われます。それが、時代を経ると講堂は本堂という
仏堂的な機能を持つようになり薬師三尊像が祀られたのではないでしょうか。ただ、
延長三年(925)の焼失から65年後の正暦元年(990)に再建とは少し遅過ぎるような気が
いたします。
 平安時代になれば和風化が進み板敷きの床になるのに古式に則り土間ですが土間と
いっても瓦の四半敷でありこれは鎌倉以降の改築でありましょう。
 8間堂から元禄の修理の際9間堂へ改変されました。昭和の大修理は当初の姿に復
元することが趣旨でありましたが講堂は重要な仏堂となっておりましたので前身の
8間に戻さず9間のままとなりました。
 金堂と違って講堂ともなると組物も簡素な平三斗であり、金堂は柱間が中央から脇
間に向かって狭くなりますが総べての柱間は等間隔となっております。彫刻などの荘
厳もなく中備は蟇股ではなく間斗束であります。 
 
 堂内の正面左右に論議台がありその台に「講師(こうじ)」と「読師(とくし)」が坐り、
お経の研鑽に励む寺僧が左右に並んだ床机台に坐り講師の解説を聴講し、質疑応答を
いたします。左右の論議台は新造されており、この論議台のことを別名高座ともいい
落語などの演芸で高座に上がるというのはここからきております。

 大講堂は屋根構造に特徴があります。天平時代の屋根は下から見える構造材の化粧
垂木の上に瓦を載せますが平瓦の上に丸瓦を置く本瓦葺では、古代はゆるい屋根勾配
だけに雨水の流れが遅いため雨の吹き上がりによる雨漏りが起きておりました。この
問題点を解消したいことに加え、平安時代には椅子、ベッドの日常生活から我が国独
特の床板張り座式生活に変わりましたので、落ち付いた空間を確保するため天井を低
くする要望が出てきました。さらには、板敷きの床になりますと、建物の外回りに木
製の縁(大講堂は石縁)が設けられます。この縁に雨水が掛からないようにするため大
変深い軒が必要となってきました。これらは和風化の表れでありますが、天井を低く
するということは屋根を低くすることであり、雨水の流れを早くする為には屋根勾配
を急にする、しかも縁のために深い軒にしなければなりません。そうすると室内から
外を眺めたとき、急勾配の軒が目障りになり、また自然光が照明の時代だけに開口部
の高さが小さくなり室内が暗くなる重大な問題が発生いたします。そこで、垂木勾配
を前代のように緩くしたままでの解決策の模索が繰り返されたことでしょう。そして
ついに考案されたのが、日本独特の屋根の上に屋根を設ける「野屋根」という構造でし
た。当然の結果として、屋根勾配が急となり屋根の高さを競うような屋根ばかりが目
立つ建物となり一部では悪評高いですが、逆に豪放に見えることも事実であります。
野屋根構造は雨仕舞いも万全となる上、奥行のある建物も建設可能となり、それまで
の母屋の奥行(梁行)二間という制約が解消できましたので、横長の建物から縦長の建
物の建設が出来るようになりました。
 大講堂は野屋根構造の建物としては現存最古の遺構で貴重な資料と言えます。
 金堂と講堂の機能を兼ね備えた本堂の建立が主流となりましたので国宝指定の講堂
は唐招提寺の講堂との二棟のみであります。

            薬師如来坐像

 当初の「薬師三尊像」は講堂の焼失で運命を共に
いたしましたので平安時代の造像です。  
 寄木造でありますが一木造時代の厳しさが残っ
ております。それは、大きな粒の螺髪、太くて力
強い衣文の皺、高い膝などですがただ、顔貌は次
代の定朝様のような丸顔で穏やかな面相です。
 素木でなく漆箔仕上げであります。
 大講堂はゆっくりと仏さんと向き合える空間で
安らかな祈りのひと時を提供してくれます。皆さ
ん無病息災を祈っておられます。無病息災という
大きな願いの割にはお賽銭はちゃりんと音がする
小銭でこれでは薬師さんにまともには聞き遂げて
貰えないでしょう。
 「お礼参り」とは仏教から出た言葉でお願い事が
成就してからお礼をすることですから賽銭箱に投
入された小銭は手付金ということでしょうか。現
在、お礼参りとは悪い意味に使われております。

 



      上 御 堂


   上御堂(大宝蔵院前通路から)
  

  「上御堂(かみのみどう)」は毎年11月1日より11月3日の3日間だけ開放されます。
 講堂の裏側から高台に上がった所に建設されております。二回強風で倒壊いたしま
した。 

 丸瓦の文様は、徳川家の家紋「三つ葉葵」と桂昌院の実家・本庄家の家紋「九目結紋
です。上御堂では写真の通路以外は立ち入り禁止ですの双眼鏡でないと離れていて見
ることが出来ません。

  
        釈迦如来坐像   

 

 「釈迦三尊像」は上御堂の本尊であ
りますため上御堂開扉の三日間しか
拝むことが出来ませんので多くの方
に馴染みがあるとは言えません。
 本像は桧材ではなく桜材を使用し
ており光背は二重円光で異常に広い
宣字座に結跏趺坐しております。
 腹のくびれが変わっておりますの
と膝が高いです。 
 併置されている四天王の邪鬼が蛇
を握っております珍しいものです。

 


  左の建物は大講堂・正面の建物は鐘楼 

 現在、「回廊」は鐘楼、経蔵の
前を通り講堂まで連なっており
ますが当初は写真の赤矢印のよ
うに北回廊が江戸時代に建立さ
れた燈籠の辺りを抜けて西側回
廊と繋がっておりました。です
から、講堂、経蔵、鐘楼は回廊
外での存在でした。金堂、塔の
聖なる空間と講堂、経蔵、鐘楼
の人が出入りする俗なる空間と
の結界だった回廊が変更された
ことになります。

 方形でありました回廊が経蔵、鐘楼前を通り大講堂と結ばれて現在の凸型の回廊に
なり日常生活には便利になりました。焼失した講堂が正暦元年(990)に再建された同
じ頃に回廊が改変されたのでしょう。  

                         回 廊

 
  「連子窓」からの眺めは一服
 の「額縁の絵」のようで堪らな
 い魅力でありましょう。

 古代の「回廊」では唯一の遺構という貴重な建造物で当然国宝指定です。
 中門から東西への回廊は金堂と五重塔の間口が違いますので金堂のある東側は十一
間、五重塔のある西側は十間となっております。回廊は扉以外は大きな連子窓となっ
ております。写真では見辛いですが虹梁の持つ美しい曲線と扠首の直線との構図も趣
があります。
 仏教が伝来した当時の仏教寺院の「窓」はすべて四角い「連子窓(れんじまど)でした。
「窓」の効用といえば「採光」、「換気」などでありますが、我々が換気といえば扉があり
ますが、連子窓には扉はなく、現在の窓のイメージとは違います。
 連子窓があれば「和様建築」といってよいでしょう。

 
  「連子窓」の縦に入っている菱形の材を、「連子子(れんじこ)といいます。古い時代
は連子子の間隔が広いのが特徴です。しかも、連子窓の腰長押の位置が低くなってお
りますので開口部が大きくなっております。境内の暗い雰囲気を和らげるため連子窓
を大きくして外の明るい開放的な雰囲気を取り入れたのでしょう。とくに、80年程前
までは回廊内は黒土が敷かれていて陰気な雰囲気だったようですが今は、白砂と入れ
替わり青松白砂の明るい雰囲気に変わっております。連子子が痩せたり磨り減ったり
して細くなった部分が見受けられるのは長い歴史の証でしょう。柱にエンタシスのあ
るものがありますが天平時代に飛鳥時代の様式が残っているとは驚きです。


     礎石(花崗岩の自然石) 


     礎石(凝灰岩の加工石)  
    平安時代は自然石そのまま。   天平時代は凝灰岩を加工した方形。

 

 

  ここは順光で記念撮影の
絶好の場所と言えるでしょ
う。ここで東院とお別れで
東院を出ると左前方に次の
句碑があります。

   
       句 碑

 
        鏡 池

 柿くへばといえば法隆寺と言われるほど知名度抜群の俳句で、この句は俳人「正岡
子規」が詠んだ、法隆寺の茶店で憩ひて 「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」であります。
  当時の茶店の写真を見ますと東院回廊を出てきた所にあり現在、句碑の前にある手
水舎は聖霊院の前にありました。個人が建てた茶店でありましたので大正3年に解体
撤去され、跡に句碑が設置されました。訪れる人も少なかったから人の流れの邪魔に
もならなかったのでしょう。現在あれば大いに繁盛して東院から聖霊院に向かう者と
でごった返しになっていたことでしょう。
 この句を正岡子規が法隆寺で明治28年(1895)の10月26日に詠んだことにちなみ
10月26日が「柿の日」と定められました。
 子規は奈良旅行中、柿の句を東大寺などでも詠んでおり、夏目漱石の『三四郎』の
中で「子規は果物がたいへん好きだった。かついくらでも食える男だった。ある時大
きな樽柿を十六食ったことがある。それでなんともなかった。自分などはとても子規
のまねはできない。と書かれているくらい柿が好物だったようです。奈良に多くあ
りました柿の木も最近はあまり見かけなくなりました。

 


         聖 霊 院        妻室


 


 聖霊院      妻室

 「東室(ひがしむろ)・僧房」は一般には講堂の周りの北寄りに建築されますのに金堂、
五重塔に並行して建築されております。裏山が迫っているので南寄りの平地に建築さ
れたのでしょう。

 僧侶たちは講堂で学んできたお経などを寄宿舎の僧房で自習するわけですが二十畳
程の相部屋に八人位で生活をしておりました。しかも土間でありますから中国風の生
活スタイルのベッド、椅子、机を設置すれば寛ぐスペースはなかったことでしょう。    
 僧房ゆえ簡素な組物で造営されております。細長い建物を区切って使うのが僧房で
すがこれと同じ造りが民家の長屋造で現在はその長屋造も一戸建ちの家に変わりつつ
あります。

  二間で一房を形成する相部屋でその室長を坊主と呼ばれましたがこれは一つの僧房
の主の房主が坊主に変わったという説など坊主の語源に色んな説があったりしてやや
こしいです。ではなぜ、坊主になったのか坊とは方形の土地ということで京での坊で
あります。中国の制度で京だけでなく寺院にも坊があり一坊を管理するのが坊主だっ
たのが我が国では僧房の一室の管理者を坊主と呼ぶようになったとの説もあります。
坊主とは今で言えば管理職と言う地位でしたのが後の時代には意味が拡大して僧侶の
総称となりましたが僧侶の総称どころか悪い意味にも使われるようにもなりました。

 大房(だいぼう)に小子房(しょうしぼう)が付属しての一組となるのが通例で東室が
大房、妻室は小子房に当たります。その小子房がその後の改築で昔の面影が薄くなっ
たので妻室と改名されました。それと本来は大房と小子房はもっと接近していたのが
改築の時に防火上か何らかの事由で離されたようであります。大房では主人が小子房
では若い寺僧、従者が日常生活を営んでおりました。
 小子房の唯一の遺構です。平安時代に私邸である子院が出来るまでは総べての僧侶
は僧房で生活しておりました。ですから、僧房は研修会場・大講堂へ通うため西に出
入り口があったと思われますが現在は聖霊院、三経院共に南面が正面となっておりま
す。
 僧侶の住まいが子院か塔頭(たっちゅう)に移り、僧房での居住者は少なくなりまし
たので僧房は造られなくなるだけでなく僧房が仏堂に改変されたりしましたので東室
は貴重な遺構といえます。
 
 「聖霊院」は東室の十八房の内三分の一に当る六房が倒壊したので保安二年(1121)の
再建の際屋根を高くして独立の堂・聖霊院にしました。僧房の南側を堂にする改変は
唐招提寺、元興寺などで行われました。法隆寺では西室をも仏堂化しておりますが唐
招提寺、元興寺とも東室を仏堂化しております。東が上位の精神から来るのでしょう 。
 聖霊院は聖徳太子を供養する殿堂で聖徳太子像がお祀りしてあります。太子がお亡
くなられたのは旧暦の二月二二日でありますのを新暦に合わすために一ヶ月遅らせて
三月二二日に法隆寺のお会式(後述)がこの聖霊院で執り行われます。旧暦を新暦に直
すと毎年月日が変わりますので便宜上一ヶ月遅れとする寺院が殆どです。
 最初の聖霊院は当麻寺で述べました木瓦葺の粗末な改造だったようです。
 建具などが再建当初のまま保存されており貴重な資料です。
 「御朱印」はここで頂きます。

 東室は聖霊院の残りの十二房ですが倒壊を免れて修理、修理で今日まで持ち応えて
きたということで、東室の造立年代は、国宝指定で国は奈良時代、NHKの『国宝への
旅』では室町時代の再建となっております。ホームページでの「◎県別国宝建造物表」
「◎県別国宝建造物分類表」では国指定の通り東室を白鳳・天平時代の欄に掲載してお
ります。それから、前述の「三経院」と「西室」は併せて国宝指定ですが「東室」と「聖霊
院」は別々の国宝指定であります。 

 
         聖徳太子坐像


   大会式(大講堂前)  


   大会式(中門を通って)

 「聖徳太子像」は衣冠束帯の装いに笏(しゃく)を両手で持ち、勝鬘経を解説する姿だ
と言われております。長い間高額紙幣の肖像だった原本の肖像画とは顔立ちが違うよ
うであります。緊張した威厳のあるお顔と寛いだ穏やかなお顔の違いでしょう。
 一度だけお出ましになられ拝見することが出来ましたが通常では拝見は無理です。
お絵式の日でも数多くの立派な供物の影で尊像は見え難いです。
  頭上の飾りはめったにお目にかかれない豪華なものです 。

 毎年、聖霊院で行われる聖徳太子の忌日法要を「小絵式」と呼ばれ、10年毎に大講堂
で行われるのを「大絵式」と呼ばれております。写真は2001年の「大絵式」の模様です。
この大会式の2001年は、聖徳太子の1380年御聖諱の年にあたりこれを記念して大宝蔵
殿で「法隆寺秘宝展」が開催されることとなりました。

 

 
       黒 駒

 聖徳太子はお住まいの斑鳩宮から執務場所の
飛鳥京まで愛馬・黒駒に乗って通われたという
ことですが侍者の調子丸はじめお供の方は徒歩
での移動となると斑鳩と飛鳥では距離があり過
ぎ無理なような気がします。
 一時、黒駒に勝馬投票券が当ることを祈願す
る多くの人を見かけましたがどうもうまくいか
なかったのか間もなく人混みは途絶えました。
 四脚が白い以外は全身黒い馬といわれており

ますが像を見た限りでは見分けが付きません。太子がお生まれになった橘寺にも黒駒
が飾られております。

 聖徳太子の生母である「間人皇女」が宮中を散歩されていて廐の戸に当ると急に産気
ずき出産されたので「廐戸王子」と名付けられたと言われます。廐戸王子は太子の生存
中の名前ですが上宮太子とも呼ばれておられました。
 馬小屋といえばでキリストがお生まれなったところです。東院の舎利殿に祀られた
太子の二歳像には二月十五日に東に向かい合掌して南無ほとけと唱えられると愛らし
い合掌の手の間から一粒の釈迦の左眼舎利が出てきたと言う謂れがあります。この二
月十五日は釈迦の命日です。夢殿の本尊は救世観音像でありますが救世に主をつける
と救世主となりキリストのことであります。どうも、キリスト、釈迦を意識してのこ
とだと考えるのは穿った見方でしょうか。  

  


  北倉  中の間   南倉      綱封蔵


  中の間は空所の吹き抜けである


     紅葉からの綱封蔵

 「綱封蔵(こうふうぞう)」は天平時代に流行した「双倉(ならびくら)」の唯一の遺構で
す。古代の倉と言えば「校倉造」か「板倉造」が主流であるのに「土壁造」とは珍しいです。
  漆喰壁だけでは無用心なので盗難避けに壁の内側に厚さ6p、高さ1.6mの板が張
られております。細長い屋根、高床式、縁下は胴張の円柱ですが縁上は角柱でありま
す。建築用材に桧材以外に松、杉材が当てられております。

 全国各地の役所に税として納められた物品を保管する双倉が正倉と言われその正倉
の何棟もの集合体が正倉院といわれました。今は東大寺の一棟のみであり本来なら正
倉でありますが昔の正倉院の名称を踏襲しております。正倉が双倉であれば物の出し
入れは中の間で行うため雨に濡れれば品質に影響する五穀などの出し入れには都合が
良かったと思われます。高床式は湿気をさけるためと鼠害の防止でありましょう。
 古代の倉といえば板倉造か校倉造でありましたのがなぜ綱封蔵は土壁造となったの
でしょうか。そこで、考えられることは防火対策ではなかったかと思われます。

 綱封蔵の綱封とは寺院を取り締まる僧綱所が開封の権限を持っていたゆえの由来で
す。東大寺の正倉院は天皇のみしか開封できませんので勅封といいますが現実は天皇
のお使いの者によって開封されます。その東大寺正倉院が双倉造で、南倉と北倉であ
りましたのが追加工事で中倉が増設されたと推定されておりましたが、三倉とも同時
着工との説がこのほど発表(2006/08)されました。そうなれば、双倉として建造され
た倉は法隆寺の綱封蔵のみとなります。

 


     食 堂           細 殿

 綱封蔵の双倉に並ん
で「双堂(ならびどう)」
の「食堂(じきどう)と細
殿(ほそどの)」がありま
す。双倉、双堂共に唯
一の遺構で法隆寺なら
ではでしょう。
 天平時代の政屋(まん
どころや)を食堂に転用
されたとのことです。
 細殿で何をしたのか
不明ですし厨房は何処

にあったのかも不明です。食堂内に厨房があり食堂と細殿で食事をされたのでしょう
か。質素な食事内容だったと思われますので厨房は狭いスペースで充分だったことで
しょう。妻側は蟇股なしの二重虹梁です。 
 双堂が後の本堂となりますがその良きサンプルが「東大寺三月堂」です。
 食堂に安置されておりました「四天王像」は現在、大宝蔵院に飾られております。四
天王と邪鬼双方に動きが出た最初の像といわれる貴重な像です。ただ、この四天王像
の造像は天平時代と言われておりその当時なら子院もまだなく食堂はフル稼働だった
筈で四天王像など安置するスペースはなかったと考えられます。多分、四天王像は子
院が出来、食堂は少人数の使用となりました折に他の堂から移入されたのでしょう。

 


         大宝蔵院


     大宝蔵院 

   「大宝蔵院」は冷暖房完備という心憎い建物です。私は異常な暑がりで夏のガイド
の際には背中にアイスノンを10個背負って実施しておりましたので大宝蔵院の完成は
灼熱地獄に仏でした。当然、拝観料は値上げなると想像しておりましたら拝観料は据
え置きのままという太っ腹の法隆寺です。


   露 盤

 


     二重虹梁蟇股


   蓮華文の鬼瓦

 五重塔の西面の「分舎利仏土」に安置
されている舎利塔を模倣したものです。

 若草伽藍から出土した鬼瓦の模作です。
当時は鬼瓦の呼称はありませんでした。 


       日 本

        韓  国

 我が国の古代の建物の色は、青(緑)(連子窓)、朱(木部)、黄(木口)の三色ですが中
国・韓国では極彩色で文様装飾されておりました。我が国では良質の桧、杉が得られ
ましたので彩色はせず、素木のままでの建築を望み、文様彩色はせず単色塗装とした
のでしょう。柱などに彫刻を入れることなどは考えもしなかったようであります。洗
練された簡素な美しさを求めたからでしょう。さらに、日本人の潜在意識には素木も
良いですが皮付きの黒木も好む傾向があります。
 当時、建築には桧の心材である赤身部分を使っていただけに、今、我々が見るよう
な白い辺材部分をも使用した白い木部の建築ではなく赤みかがった木部の建築だった
筈です。
  素木の掘立柱、屋根は草葺の簡素な竪穴式住居に住んでいた人々にとって、中国風
で装飾彩色の寺院建築を驚嘆を持って眺めたに違いありません。
 
 しかし最近では、法隆寺のように堂塔伽藍が松林に溶け込んで古色蒼然としたもの
が愛されるかと思えば四季の花に彩られた古びた伽藍さえも日本人は好みます。また、
枯山水と堂宇の組合せが愛されたり、更には石庭だけを眺めるために訪れる方も多い
ようです。このような複雑な心境は日本人以外には理解されないでしょう。
 建物の装飾彩色が剥落して色褪せしているのに愛着が感じられるのは、創建当初の
建物の姿があまり品があるとは思えないからでしょうか?どうも現在の色褪せた建物、
仏像を眺めて逆に古代へタイムスリップされる方が多いようです。

 

 アジャンター第一窟にある壁画「蓮華手菩薩像」で
不鮮明ですが右手で蓮華を摘んでおります。
 金堂の西大壁の「第6号壁阿弥陀浄土図」に描かれ
た脇侍の観音菩薩の源流ではないかと言われる壁画
です。第6号壁阿弥陀浄土図の観音菩薩は再度、切
手の肖像画に採用されてお馴染みの観音さんです。
 第6号壁阿弥陀浄土図の写真と復元図が「大宝蔵
院」に入られますと壁面に掲げられておりますので
ご覧ください。復元図は大きな絵画「落慶」の中央部
分にあります。

 

      
     九面観音像    

  「九面観音立像」は養老三年(719)に唐から請来さ
れたものです。中国には木彫像が皆無に等しいこと
から中国にとっても貴重な遺品です。しかし、中国
にあれば仏教弾圧とか文化大革命で壊されていたか
も知れませんので安住の地に法隆寺を選んだのでし
ょう。通常は十一面観音で、九面観音の唯一の遺品
です。ある時期までは十一面観音と呼ばれていたら
しいです。
 白檀の一木造です。昨年始めてインドに行きまし
たがヒンズー教の仏像は多いですが仏教の仏像は限
られておりましたし、素材は菩提樹が殆どで木肌の
艶が美しい希少な白檀は少なく高価でした。
 白檀で強い香りがあり色の良いところは真ん中の
根っこに限られますので白檀の良質部分で彫刻する
のは九面観音の大きさくらいの小像しか駄目らしい
です。

 白檀は釘もたたないような硬木ですから精緻な文様の彫刻ができ、九面観音の耳璫
(イヤリング)は一木で揺れるように彫刻されております。数珠も同じ一木で刻まれて
おりその技能は神技(いや仏技)でしか考えられないといわれ、唐にはそれだけ研ぎ澄
まされた技能を持った仏師が居たということになります。瓔珞(ようらく)などの装飾
も一木に細工されておりますが根気の要る作業だったことでしょう。
 美しい木肌のうえ芳しい香木ですので彩色や漆箔はせずにただ、髪の毛、眉、目玉、
唇に彩色する程度に限られております。しかし、腹部に朱色の痕跡があります。
 
 叡智に富んだ端正な顔立ち、清純な澄んだ眼、腰を微妙に振った37.5pの小像です。
 化仏が七面、頂上面が一面、本面が一面で九面ということですが頂上面は通常、如
来であるので数えませんが天龍山石窟(中国)、渡岸寺(どうがんじ)の十一面観音像の
頂上面は菩薩でありますゆえ数に入れても良いのでしょう。
 超国宝級の九面観音像を拝見されただけでも法隆寺に来られた甲斐があったという
ものです。

 

    
      夢違観音 像

 「夢違観音立像」は東院絵殿の本尊です。教科書で
は「ゆめたがえ」ですが寺伝では「ゆめちがい」です。
日本人に一番好まれる仏像だけにあちらこちらとよ
くお出かけになられる超人気ぶりです。
 当時の菩薩は男性でありましたのに撫で肩で指は
繊細でまるで女性らしいイメージです。
 空想上動物「獏」は悪い夢を食べるだけですがこの
観音にお祈りすれば悪い夢を善い夢に変えていただ
けるという大変親切な観音さんで名前の由来もここ
からきております。
 鍍金の跡が耳朶辺りに残っております。鍍金する
ために像の表面を丹念に磨き上げ蝋人形の如く滑ら
かに仕上げなければなりません。それが今、鍍金が
脱落して美しい胴肌が現れているのが日本人に受け
るようです。
  三面宝冠で、とくに瓔珞(緑矢印)が胸と腰にある
のは白鳳時代の特徴です。天衣の下を瓔珞が通る部

分(赤矢印)は天衣を盛り上げるという丁寧な細工を施しております。
 86.9pの小像であるのと白鳳仏のやさしい童顔の表情、スタイルも童児風から言え
ることは国家鎮護の尊像ではなくて個人的に礼拝にされたものでしょう。
 丸顔、眉と眼の間が広く、眼も杏仁形ではなく仏の優しい眼、鼻口共に女性のよう
で可愛い形であります。六頭身の穢れを知らない清純な乙女のようであります。小さ
過ぎる宝瓶を持つしなやかな手など日本人ならでの表現でしょう。鼻は角ばっており
進歩しておりますがまだ写実に至る過渡期の様式です。  
  飛鳥時代、渡来人が制作したのは中国様式の仏像ですが白鳳時代ともなると我が国
の仏師が日本人が好むような仏像を作り上げたのでしょう。それと、インドの気候風
土をも理解してインド様式である上半身が裸の像になったのでしょう。
 この観音を眺めておりますと心が落ち着き穏やかな気分になります。
 ただ、天衣が欠損しているのは残念なことです。
 台座は江戸時代の後補です。

 

 
    救世観音像

   
   夢違観音像  

 「飛鳥時代の救世観音像」と「白鳳時代の夢違観音像」の造像様式の違いを列挙いたし
ますと

・宝冠が一つの「山型宝冠」から宝冠が三つある「三面宝冠」となり、中央の宝冠には観
音菩薩の象徴である「阿弥陀の化仏(赤矢印)」が必ず表されるようになります。
・天衣が魚の鰭状に広がる装飾(紫矢印)から衣本来の表現で自然な流れになります。
夢違観音像の天衣は右腕の所で破損しておりますが垂直的に下降していたことでしょ
う。
・中国様式の厚着の衣からインド様式の上半身が裸か身体が透けて見える薄着の像に
変わります。
・夢違観音像は髪際と眉の間が狭いです。
・華麗な「瓔珞」が胸と腰にあります。胸にあるのは胸飾りで皆さんは首飾りと言われ
ますね。インドの菩薩は首飾り、胸飾りの両方がある ことが多いです。
・天衣が腰下で「X字型衣文(青矢印)」から「二段型衣文(青矢印)」に変わります。
・足首は隠していたのが露になります。
・台座は蓮弁(緑矢印)が出来、華麗な台座となります。

 


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