法隆寺-1

  「法隆寺」を一言で述べますと「仏教美術の集大成」と言えます。
 我が国において、飛鳥時代から鎌倉時代にかけて、美術と言えば仏教に関するもの
が多く、埴輪から仏像、古墳から寺院、ことに掘っ建て柱に茅葺きの家屋が一般的だ
った建物の時代に、五重塔の建立などの大変革は仏教の力なくしては不可能だったで
しょう。
 斑鳩の里にある「法隆寺」は、日本仏教の始祖と仰がれる「聖徳太子」をお祀りしてい
る寺院で、聖徳太子の好まれた松林が古い堂塔に映えて、墨絵を眺めているようで、
誰もが卒業旅行のセピア色した写真とだぶり感慨にひたられることでしょう。

  しかも寺院に納められている仏像・仏具の殆どが、飛鳥・白鳳・天平時代の作だけ
に、現存最古と言われております。それが所狭しと並べられており、さらに木造建築
では世界最古の建築群である七堂伽藍のすべてが、国宝に指定されており、古建築の
すべてが学べる東南アジアで唯一の殿堂であります。
 日本の国宝の数多くを、この法隆寺が所蔵しており、文化財の比類なき宝庫のよう
な寺院であります。それゆえ、日本の美術は、法隆寺から始まったと言っても過言で
はありません。
 
 それも現在では、建物・仏像・仏具など彩色の退色やメッキの剥落によりかえって
落ち着いた、奥ゆかしさが感じられ、無彩色の埴輪や素木の文化を好む我々日本人に
は、やすらぎと感動を与えてくれます。

 また、約1300年もの風雪に耐えて聳え立つ五重塔をヒントにして、現代の超高層ビ
ルが柔構造で建築されていることを考えますと、古代人の偉大さには驚かされます。
 大和は日本人の心のふるさとです。そのふるさとの中心的存在が、美と信仰の殿堂
・法隆寺であります。これら仏教芸術の粋というべきものの集合体である法隆寺を、
5回10回と訪れて頂きたいものです。

  我が国の国宝指定の建造物は、近世が大半という中で法隆寺は白鳳、天平時代の建
造物であります。ただ古いということだけでなく所有する国宝建造物は18と驚くべき
件数であります。
 当時、寺院の「七堂伽藍」といえば「塔」「金堂」「講堂」「経蔵」「鐘楼」「僧坊」「食堂」であ
りますが古代の七堂伽藍が健在でしかも総てが国宝というのは法隆寺だけです。世界
に誇れ、歴史の重さを感じさせる法隆寺であります。
 世界最古の木造建造物である金堂は白鳳・天平時代の再建でありますが法隆寺には
建物より古い美術品が多くあるのが他の寺院と違う大きな特徴であります。創建当初
の遺品は極僅かで、670年の火災による再建後に施入された物ばかりといえるくらい
であります。施入品の宝庫であるのは聖徳太子の遺徳を偲んで施入されたのでしょう。
 建築ばかりではなく国宝の彫刻も17件も所有する凄いお寺・法隆寺です。
 「寺院別国宝建造物・彫刻の所有件数表」をご参照ください。
     
 飛鳥時代には国家鎮護の寺院は存在せず、法隆寺も「用明天皇」が自身の病気平癒
を願って後の「推古天皇」と幼少の「聖徳太子」に命じて建立されたのであります。そ
れが今では、法隆寺は聖徳太子のためのお寺で用明天皇のために建立されたことをご
存じない方が多いようです。どうして、再建された法隆寺金堂では父君の病気平癒の
薬師如来を金堂東の間に安置して聖徳太子を守る釈迦如来が中央の間に安置されたの
か?私なりに考えてみましたがあーでもないこうでもないと迷路にはまってしまいこ
れでは読んでいただいた方を迷わすだけだと削除いたしました。皆さんも一度お考え
ください。本当に興味尽きない法隆寺だと改めて痛感いたしました。

 「法隆寺」は「鵤大寺」、「伊河留我寺」、「斑鳩寺(いかるがでら)」などと表記されてお
りました。斑鳩寺の「斑鳩」とは字の通り「まだらばと」で鳩より一回り小さく黒い羽根
に白の斑があるのが名前の由来でありますがこれを「いかるが」とは発音できないです
ね。しかし、斑鳩寺、法隆寺共に聖徳太子に相応しい寺名でしょう。

 643年に聖徳太子の長男「山背大兄」が従兄弟の「蘇我入鹿」に攻められ斑鳩宮で一族
郎党自決され、聖徳太子の家系は断絶いたしましたが2年後の645年の「大化の改新」
で蘇我宗家が滅んだことが幸いでした。その後も蘇我宗家が安泰であれば670年焼失
後の再建はおぼつかなかったと思われます。ところで、643年に太子の遺族は居なく
なり家系は断絶、そうすると法隆寺が670年焼失するまで誰が維持管理していたのか
更に、当時の法隆寺は官寺でもなくしかも檀家も居ない寺院だっただけに誰が再建し
たのか謎多きお寺です。残された寺僧にしても日常生活を維持するだけで大変だった
と思われる経済情勢の中で寺の再建どころの話ではなかっただろうと思われます。

 『日本書記』には670年に落雷で堂塔総てを焼失と記述されているのに何故か、再
建のことは何も記述されておりません。それと、五重塔落雷で離れた建物まで一つ残
らず類焼するとは考えられないし法隆寺関係文書に火災の記載がないのも不思議です。
 誰が再建したかの問題ですが、大化の改新の立役者「中大兄皇子」と「中臣鎌足」は、
仏法興隆の恩人である蘇我宗家を滅ぼした張本人で仏教界からすれば極悪人でありま
す。そこで、2人が我々は仏教を厚く敬っておりますという意思表示で法隆寺を再建
されたのかも知れません。それとも、聖徳太子を慕っていた有志たちの力添えで再建
がなされたのでしょうか。なぜなら、再建時には技術革新をした唐の建築技法が伝来
しているのにもかかわらず聖徳太子の飛鳥時代の建築技法で再建されているのです。
この飛鳥様式の建築が法隆寺再建・非再建論争が延々と続いた要因です。
 
 洋の東西を問わずモニュメントの建物は左右対称が原則で、焼失いたしました若草
伽藍は左右対称でありましたが法隆寺では左右対称にはなっていないのは再建法隆寺
の寺地では裏山が迫っておりこれ以上の造成は無理だと考え金堂と五重塔を並列させ
たからでしょう。結果、左右非対称の伽藍配置となりましたがこれらは和風化の表れ
でしょう。自然に親しみ、自然と共に生きてきた日本人にとって、自然が左右対称に
なっていないことから左右非対称が好まれる傾向が影響しているのでしょう。

 ただ、若草伽藍が焼失したのであればその跡地に再建すればよいのに北側に迫る山
を削り、また谷を埋めるなど大幅な造成工事までして現伽藍地を選択されたのかは疑
問が残ります。それと、四天王寺式伽藍だった若草伽藍は西に20度傾いておりました
が現伽藍は西に4度の傾きであり、16度の差は何を意味するのか不明です。
 金堂と塔の並列といえば法隆寺再建以前にも「法起寺(ほうきじ)」の伽藍配置があり
ます。

 後述の「百万塔」が十大寺に十万基ずつ施入された中に法隆寺があることから天平時
代には私寺から官寺となっておりました。法隆寺が官寺の様相が強まり太子を供養す
るための仏殿が必要となったので斑鳩宮跡に上宮王院の再建が始まり、その上宮王院
の金堂として夢殿が建立されたのでしょう。

 「豊臣秀頼」が発願して家臣の片桐具元を奉行に任じ実施された慶長五年(1600)〜慶
長十一年(1606)の慶長大修理は堂塔の総べてに及ぶ大掛かりものでした。
 秀頼を大檀越として父「秀吉」の菩提を弔うための修理は、維持だけを考慮したもの
のため飛貫などを多用して建物の原形を損なうものでありましたが、そのお陰で修理
された堂塔が現在まで維持できたことは事実であります。この慶長大修理は広範囲の
地域にわたりしかも総べての堂塔の修理に及ぶもので、これで生き延びた寺院も多か
ったことでしょう。しかしどうして、豊臣家として財宝を蓄えておきたい時期に大き
な財政負担となる慶長大修理を実施したのか不可解です。慶長大修理は徳川家康の策
略によるものかそれとも仏教界を味方に付けるためだったのでしょうか。 

 江戸時代、「桂昌院」による大修理は元禄五年(1692)より宝永四年(1707)の15年間と
いう長期の工事でした。特に、五重塔の修理には力を入れ、後述の新造された路盤に
は徳川家の家紋の葵文を入れております。  

 明治の「廃仏毀釈」では南大門左右の築地塀を取り壊し、田畑の土に利用しようとす
る問題が起き、なんとか回避されましたが、回廊内に牛馬をつないだりやりたい放題
の暴挙が起こったとのことです。当時は名刹寺院でも無住となったりしており法隆寺
でも寺僧は数名だったらしいです。その僅かな人間で建物、仏像が文化財として注目
されておらずしかも寄進する檀家も居ない中でよくぞ守られたものだと感心いたしま
す。古都奈良の大寺は葬儀に関与しませんので檀家が居なく寺の維持には大変な労苦
が連綿と続いたことでしょう。それと、奈良の古代寺院の末寺は限られた数しか存在
いたしません。

 昭和の大修理(1933〜1953)は20年にも及ぶ大工事で、当初の近い姿に復元できまし
た。 

 昭和25年、聖徳宗の総本山となります。昔、約12万坪あった寺域が激減いたしまし
たがそれでも現在、約57000坪(約187000u)を擁しております    

 平成5年12月11日「世界文化遺産」に登録。その日は私が一人で法隆寺ボランティア
ガイドを開始した日でもありました。そのガイド活動も12年半の昨年5月で終わりま
したが無我夢中のボランティアガイドでしただけに私に取りましては思い出尽きない
第二の故郷・法隆寺であります。

 

 ここは参道の始まりではな
く、国道建設で分断されてお
ります。後を振り返ってみて
ください。まだ参道の続きが
ありますから。
 並松(なんまつ)といわれる
松の老木のトンネル道を法隆
寺文化に思いをはせながら歩
いていきますと飛鳥時代へと
タイムスリップいたします。
しかし、残念なことにこの並
松の両側にある歩道を利用さ

れる方が大多数で、松並木の間の砂利道を通られる方は極少数です。
  手前の道路は「国道25号線」です。

 


   昔の南大門前


        現在の南大門前

 数年前までは法隆寺参道(青矢印)はたったの1本でした。この参道で事足りたのは
法隆寺には檀家が居ないので参詣者も限られていたからでしょう。ところが時代が変
わり多くの人が訪れるようになり観光シーズンは大変な人混みでした。それが現在で
は青矢印の昔のメイン参道より拡幅のある新参道が左右に2本ずつの計4本が増設さ
れ、南大門前の混雑は解消されました。それよりも世界の法隆寺に相応しい玄関前と
なり南大門が遠くからでも眺められるようになりましたことは幸せなことです。


            南 大 門 前 

 整備されてからの南大門前での記念撮影が多くなりました。また、バスガイドによ
る修学旅行生たちに後述する「鯛石」の説明が始まりました。それ以前はこれが鯛石で
すの一言で通り過ぎておりました。ただ、ガイドの多くは鯛石を踏むと水難に遭わな
いという説明をしており、そういう説もあるのかと聞いておりました。

 

     

  
         鯛  石

 南大門の前に「鯛石」があり「法隆寺
の七不思議」の一つであります。
 大和盆地が洪水で水浸しになっても
その水は南大門から越えて境内に入る
ことは無かったので記念に鯛の形(?)
をした石を設置したとのことです。
 太古の大和盆地は大湖で、史実に現

れる我が国最古の道は「山の辺の道」というように道は山の裾すなわち湖岸にしかでき
なかったというくらい大きな湖でした。そのため、大和盆地の軟弱な地盤上に造立さ
れた古代の建物の多くは地盤沈下しておりますが法隆寺の建造物は少しも沈下してお
らないことから法隆寺の建設地
に良い場所を選ばれた聖徳太子の遺徳を称えて作られ
た話ではないでしょうか。それとも、法隆寺の近くを流れる大和川は水運が盛んなく
らい水量が豊富なのに堤防が不完全なものだったため洪水が発生すれば南大門まで水
が押し寄せてきたのでしょうか。

 

 


       南 大 門(遠くに見える建物は中門です)

 「南大門」は中門前の階段の辺りにありましたが平安時代に移築されました。古代の
寺院では東大寺を除いて南大門と中門は接近して建てられておりました。良い例が
薬師寺」であります。
 天平時代までは南大門より中門の方が立派に造られました。天平時代からは南大門
の方が中門より豪華に建築されるようになります。法隆寺が天平時代創建なら南大門
は三間一戸ではなく五間三戸で設計されたことでしょう。 
 南大門は惜しいことに永享八年(1436)、学呂(がくりょう)と堂方(どうほう)の内部
抗争で焼失、永享十一年(1439)の再建で法隆寺の建築群では珍しく新しい室町時代の
復古建築です。現在は入母屋造ですが当初は切妻造でした。

 室町時代の復古建築でありますので頭貫の先には禅宗様の「木鼻」、中備に大仏様の
二斗が和様化された「花肘木」、妻飾は禅宗様の「虹梁大瓶束」が設けられております。
これらは当初の建築にはなかったものです。古代建築の特徴は装飾的なものを好まず
構造美を選んだのでありますが時代と共に装飾を好むようになり日本建築の特性であ
る簡素で装飾のない
和様にもワンポイントのマークとして木鼻、花肘木の装飾が取り
入れられました。時代は構造美より装飾美を選ぶように大きく変わりました。
 屋根の軒反りは中心からの微妙な反りでありますが両端では急に上げ禅宗様に近い
もので見事な曲線であります。両手を広げたような安定感のある優美な姿で皆さんを
迎えております。


          花 肘 木


      木 鼻

 大仏様(鎌倉時代)の「双斗(ふたつど・そうと)」
に装飾が加えられたのが「花肘木(はなひじき)」で、室町時代に目覚しい発達を遂げました。これは秀
逸な花肘木として知られております。

   「木鼻」は禅宗様の若葉のマ
 ークでデザイン的に優れたも
 のとして評価が高いものです。

  禅宗様の虹梁大瓶束式が和様の虹梁蟇股式と違うのは蟇股の代りに大瓶束(緑矢印)
を設けます。

  
         中  国     
       

     鳳凰(平等院)
 

 我が国古来の建築屋根は「萱葺」で装飾がなかったので東南アジアの寺院のように
屋根飾りを設けなかったのでしょう。屋根飾りを強いてあげれば
10円銅貨でお馴染
みの平等院の鳳凰であります。
 建物の概観は直線で構成されており一部に曲線を使用する程度で、屋根の軒反り
は心反りとはいえ殆ど直線に見え、大変骨の折れる僅かな曲線を演出しております。


     鬼瓦(雄鬼)


    鬼瓦(雌鬼)


    鬼瓦(大宝蔵院)

 右の「鬼瓦」は法隆寺若草伽藍から発掘された鬼瓦の模作です。現在「大宝蔵院百済
観音堂」の屋根に据えられております。 
 
仏教建築と共に請来致したしました「鴟尾(しび)」「鯱(しゃち)」などは我が国では何
故か好まれずしかも中国のような屋根飾りにも振り向きもせず我が国は「鬼瓦一辺倒」
であります。その鬼瓦も法隆寺の若草伽藍から出土した鬼瓦のように八葉蓮華の美し
い文様であり呼称も鬼瓦ではありませんでした。それが、獣面文となり牙が出て角が
出て参ります。
 南大門の鬼瓦は、「雌鬼瓦」は「雄鬼瓦」よりも角が短いですが常に友達とおしゃべり
をしたり旦那に愚痴を言ったりしておりますので開口です。一方、雄鬼瓦の方は上役
から攻められ部下からは突き上げられストレスが高じて口を真一文字に結んでおりま
す。昨年のサラリーマン川柳に「妻の口 マナーモードに 切りかえたい」、「タバコよ
り 体に悪い 妻のグチ」というのがありましたがこれらは法隆寺に興味を示されない
奥さんたちの話でしょう。雄雌といえば「鳳凰」がそうであり、鳳凰といえば先程の平
等院であります。そこで、どちらが雄でどちらが雌かを平等院のホームぺージで調べ
ましたら「鳳凰は、鳳という雄と凰という雌のつがいを云いますが、平等院は区別が
ありません」となっておりました。我が国では1羽でも鳳凰と言います。


 額縁の中の絵のような風景ですが早朝で
ないと人が多くて撮影できません。

  

    
          築 地 塀

 古代の塀は「版築」技法で壁面をきれ
いに仕上げました。
 版築とは粘土を棒で突き固める方式
で、版築の回数が塀に境界線として残
っており、近寄って見れば確認できま
す。
 後の時代には土の中に瓦などを入れ
るようになります。 
 築地塀の下部の厚さは1m50cmもあ
ります。木目が表れるように枠板の表
面に工夫がしてあります。
 今では考えられませんが、法隆寺の
築地塀が細かく砕かれて田畑の土に利
用されかかったことがあるそうです。

 

 


          上 土 門 

 「上土門(あげつちもん)」とは屋根の
平面な板上に土で屋根の形を造り、そ
の土屋根に花などを植えた風流な門で
平安時代には多く見られたらしいです 。
 当然、「築地塀」も同じような形で土
屋根には花が咲き乱れていたことでし
ょう。
 上土門は移設されて「寺務門」として
使われておりますが、上部の土は取り
除かれて桧皮葺となっております。現
在、上土門とはなっておりませんが唯
一の遺構です。
 ただ、江戸時代の再建時から桧皮葺
だったとの説もあります。

 

 中央に中門、右には金堂、左には五重塔がありそれらが松の古木に溶け込んだ素晴
らしい眺めです。皆さん、最高の構図をバックに幸せそうな顔をして記念撮影をされ
てお ります。右手の老松の奥にかすかに覗く金堂、正面の中門、五重塔と1300年余
り前の建築で三棟とも国宝指定と言う大変贅沢な眺望で、日々の疲れが癒されます。
正面の階段を登りきった所に平安時代まで南大門がありましたが今となっては現状の
伽藍配置の方が最高で、国宝の三棟をバックにした記念撮影が出来るのは法隆寺だけ
です。
 最近、斑鳩町で合併問題が起きましたが圧倒的大差で否決されました。歴史に刻ん
だ深い地名を無くすことは忍びなかったのでしょう。古色蒼然の風情が色濃く残るこ
のような風景を斑鳩の風景と言えるでしょう。  
 手前に見えます南大門からの石畳の石は昭和60年に中国から輸入して設置されたも
のです。

 

  
             中  門

 「中門(ちゅうもん)」は
普通、間口(桁行)の柱が
建屋の中間にこないよう
に柱間を奇数にするのに
4間と言う偶数で、また、
奥行(梁行)は2間の偶数
が通例でありますのに3
間の奇数になっておりま
す異例の門です。それだ
けでなく、「怨霊封じの
門」、「聖徳太子が子孫を
好まないための門」、「金
剛界・胎蔵界の門」とか
逸話に事欠かない門とし
て有名です。私は金堂と

塔が対等の位置付けとなり、そこで金堂への出入口、塔への出入り口として設けられ
たと考えます。
 中門は細部彫刻を一切施さず構造自体で美を表している格調高い建物となっており
白眉の門と言えるでしょう。軒反りが小さく両端で少し上がった優美な屋根は最高に
見栄えがするものです。威風堂々たる門前で記念撮影をされる方が多いのも当然であ
りましょう。
 4間の柱間は高麗尺(飛鳥尺)で7尺、10尺、10尺、7尺です。これは、ほぼ脇間×
1.5が中の間となり中国の建築様式ですが我が国では中の間から脇間にかけては徐々
に逓減するのが好まれるようになります。しかし、鎌倉時代になりますと中国との国
交が回復し請来しました禅宗様建築様式は脇間×1.5は中の間というようになってお
ります。 




     隅 木


   平行垂木・一軒


  扇垂木・一軒

 中の間に比べ脇間が極端に狭くなっているのは荷重の掛かる隅をたった隅木一本で
支持するのに無理があるからでしょう。屋根を支えるのは垂木であり飛鳥時代は扇垂
木であるのに我が国では写真のように隅部分では効果がない平行垂木に変わるのであ
ります。大きな荷重の掛かる隅屋根の補強対策と中の間から脇の間へ柱間の逓減率を
小さくするため、緑枠から一方、それから90度向こうにさらに一方の隅木、すなわち、
90度の間に三方の隅木が出る技法が周知であるのになぜ法隆寺再建では採用されなか
ったのか不思議です。ということは、唐の新建築様式ではなく聖徳太子を偲んで古い
飛鳥建築様式で再建されたということになります。我が国では天平時代を始め平安時
代の建築は殆どが平行垂木で造立されております。  
 ただ、中国では扇垂木を使用しているのに中の間に比べ脇間を極端に狭くするのは
建物の間口を広く見せようとする視覚上の問題でしょうか。  

雲斗雲肘木、卍崩しの高欄、人字形割束については金堂のところで説明いたします。


     皿  斗(法隆寺)

 法隆寺では「皿斗(赤矢印)」付きは大斗だけで
すが四天王寺では大斗と小斗まで付いておりま
す。
 皿斗は法隆寺系の寺院に限られますが鎌倉時
代に入ると大仏様・禅宗様の建築に出てまいり
ます。ただ、この皿斗と大仏様・禅宗様の皿斗
とは同じものではないとの説もあります。
 皿斗とは柱と大斗の間に挟む四角形の厚板で

大斗が柱に食い込むのを防ぐ効果的な技法であり、中国では続きますが我が国では間
もなく姿を消します。皿斗を
使わないようになると我が国では大斗には桧より硬い欅
を使用して解決させております。

 
   エンタシスの柱

 拝観入口から中門に向かうとエンタシスの柱が目に
飛び込んできます。
  エンタシスの柱ですが、ギリシャのエンタシスとは
少し違います。エンタシスとは柱の下部から上部に向
けて少しずつ細くなるか、または同寸円で上がってい
き、途中から少しずつ細くなるかであります。一方、
法隆寺のエンタシスは、柱の上部が一番細く、下部か
ら三分の一くらい上がったところ(赤矢印)が一番太く
なっております。ですから、徳利柱、胴張と言えそう
です。その割合は柱で一番細くする上部を1とすると
一番太い部分との比は、
金堂が1.30、中門が1.25とな
っております。
 エンタシスは我が国では法隆寺系寺院建築で終わり
告げ、後の時代はエンタシスらしきものだけですが韓

国では続きます。
 柱は桧材を縦に四分割した四分の一から製造します。そのため、割裂材でしかも真
っ直ぐな木でないと駄目という厳しい条件があります。その条件を満たした二度と得
られないような巨大な良木をわざわざ手間を掛けてエンタシスに加工した理由はなん
だったのか疑問が残ります。同心円の柱であれば目の錯覚で柱の中ほどが細く見える
のを補正するためとの説がありますがそれならばエンタシスに加工せずに太いまま使
用すればよいのにと思いますがいずれにしてもこのような贅沢な柱があるのは法隆寺
だけです。 
 柱を見れば分かるように割った木ですから表面にきれいな柾目が出ております。
 針葉樹の桧、杉などは建築の材料としては最適でこれら良材がふんだんに得られる
我が国では素木そのものが装飾材であります。しかし、良材の得られない地域では柱
などの建築部材に彫刻や彩色をして不味い箇所を補います。
 
  貫といえば古代の頭貫だけでは構造上問題があるので慶長の大修理で飛貫(青矢印)
を増設し補強工事を行いました。飛貫を入れましたので古代に強調されたすっきりし
た縦の線が害されましたがそのお陰で現在まで持ち応えたといえます。 
 我が国では中門のように単純な構造美から楼門のように複雑な構造美が好まれるよ
うになっていきます。 


 礎石(中国・紫禁城)


     礎石(韓国)


    礎石(山田寺跡)

 中国には天の象徴が丸、地の象徴は角と言う「天円地方」の思想がありました。そこ
で、謂れに従って天に通ずる柱は丸とし、地に密着した礎石は角とする「円柱方礎」が
起こりました。我が国では、柱は丸が圧倒的ですが礎石は角にとらわれず適当な自然
石が用いられたりもしました。
 モニュメントは洋の東西を問わず、一般的に丸柱ですが地域の事情によって材質が
違います。
 礎石に蓮座を刻んだものが請来しましたが好まなかったのか余り見かけません。山
田寺跡には複元された蓮座付き礎石があります。鎌倉時代の禅宗様寺院で見ることが
出来ます。


       鯛石(南大門)


          礎 石

 礎石は自然石そのものですが、どこか「鯛石」に似ていますね。法隆寺を訪ねられ
ましたら是非探して見てください。


    吽 形 像


   阿 形 像  

 「仁王像」は現存最古でしかも天平時代唯一の遺構です。ただ、後世の補修に於いて
塑土で塗り重ねていった結果肥満体となったらしく残念ながら国宝ではなく重要文化
財に留まっております。しかし、塑像でありながら1300年もの長き間、雨風による損
傷が免れることの出来ない正面の南向きのまま安置されていたことは驚きそのもので
す。今日まで多少姿態が当初より変わっているかにせよ維持できたことは凄いことで、
悠久の昔から現在まで、自然との闘いでの補修は並大抵のことではなかったと考えら
れます。しかしそれが逆に功を奏したのか、阿形像は現在の体型の方が量感で圧倒さ
れる迫力があり猛々しい武将像に相応しい威容となっております。また、吽形像の殆
どが木彫に変わっておりますがその改変で阿形像よりも当初の姿を留めております。

 金剛力士像は金剛杵を持っていなければならないのに本像は両像共素手の像である
ことから仁王像と称した方が適当といえるでしょう。
 仁王像は左手を握って怒りにふるえる拳を作り、右手は通例、金剛杵を執るか五指
を大きく開いておりますがどちらかといえば金剛杵を持つ方が多く造られております。
 両像の特徴は左手が拳を作り右手は五指が思い切り開くというポーズでこれは仏敵
を威嚇しながらの戦闘態勢で、非の打ちどころもないバランスが取れたデザインは仏
師の創意工夫でありましょう。
 腰を思い切り横に引いた姿勢を表現しております。東大寺南大門の吽形像も凄いと
思いましたがそれにも負けないくらい大きく腰を引いており躍動感に溢れております。
法隆寺で是非確認して見てください。制作が711年の天平初期と言えば直立不動で動
勢が乏しい様相が好まれた時代の筈なのに流行に逆らってまでこれだけ思い切った斬
新なスタイルを考え出した若々しいパイオニア魂を持った仏師が居たことは驚きであ
りますが、そのような鬼才が誕生した背景には、仏師が自由な創意にまかせて制作に
打ち込めた、仏師にとっては最高に恵まれた良き天平時代だったからでしょう。

  「阿形像」のかっと見開く眼の視線ははるか彼方とはいきませんが少し離れた場所に
あり吽形像は後世の改変かもしれませんが足元近くに視線があるように見えます。両
像で遠近の見張りを分担しているのでしょう。
 「吽形像」の右手の掌を外側に向ければ後世の一般的な仁王像のスタイルとなります
が掌を外に向けるよりは下に向けた方が相手に恐怖感を抱かせることになり演出効果
満点ではないでしょうか。肉身は朱色(肌色)だったのが黒色になっておりますのは後
世の補彩です。 

 多くの寺院では二王像の前にネットが張ってありますがこれは鳩の糞害に憤慨した
のと、ちぎった紙を口で噛み紙団子にしたものを身体でもっと丈夫にしたい部位とか
患部に当たる部位をめがけて投げつけその目標の部位に当たりくっつければご利益が
期待できるという俗信のためこの紙爆弾の被害が像に悪い結果をもたらすからです。
最近ではチューインガムの方が性質が悪いらしいです。法隆寺像にはネットを設けて
おりませんので二王像の表面は防護材料で処理されております。正面向きでネットを
張られていない巨像をバックにする記念撮影には絶好の場所と言えるでしょう。

 「塑像」の技法については後述いたしますが大型の塑像を制作する場合「木舞(こま
い)」の技法で竹、薄板などで像の大まかな形を造りその上に粘土を塗っていきます。
この方法であれば像内が空洞となり重量が軽くなるだけでなく早く土が乾く利点があ
ります。

 


       日本最初の世界文化遺産
         法 隆 寺
             平山郁夫 書


         露盤(相輪)     

 中門の左横に世界遺産登録の記念碑があります。この場所で五重塔を見上げてくだ
さい。写真のように五重塔の「相輪」がよく見えます。回廊内からでは逆光となり見ず
らくなります。
 桂昌院の元禄の修理で家紋入りの露盤に取り替えられております。通常徳川家の家
紋「三つ葉葵(緑矢印)」と桂昌院の実家・本庄家の家紋「九目結紋」が並んでおりますの
に露盤には三つ葉葵だけしかありません。江戸時代といえば塔は完全なアクセサリー
となっておりましたが法隆寺造営当時は塔は金堂と並んで最高の礼拝対象でもありま
したから恐れ多いと言うことで桂昌院は九目結紋の表現を遠慮されたのでしょう。

 九輪にある「鎌(赤矢印)」は高層建築物の大敵である「雷」を魔物と考えて雷よけとし
て設けられたのではないかと言われておりますが事実かどうかは定かでありません。


    拝観入口

 拝観料はたったの1000円です。私は1万円でも価値
があると思っております。しかし、ある時数人の方が
来られ拝観料1000円も取るのかといって帰っていかれ
ました。多分、法隆寺を凄いお寺ではなく普通のお寺
と言う認識しか持っておられなかったのでしょう。
 余談ですがガイド当初は西院、宝蔵殿、夢殿と三ヶ
所でチケットを見せていたのですがもし、夢殿まで行
ってチケットを紛失していると拝観入口のチケット売
り場まで戻らなければなりませんでしたが現在は夢殿
で200円払えば入れていただけます。

 ガイドの際紛失され
て夢殿から参拝券を買
いに戻られないように
予備に持っていた券です。当時の参拝券は現
在の大宝蔵院ではなく
大宝蔵殿となっており
ます。

 

 



     西 室


  西室        三 経 院

 「三経院(さんぎょういん)・西室(にしむろ)」は西回廊から離れたところに建ってお
りますが当初は西回廊に近接した場所に建っていたことでしょう。
 三経院の出入口は現在、南側ですが西室当時の出入口は研修会場・大講堂へ通うた
め東側だったのでしょう。
 法華経、勝鬘経、維摩経の三経の解説を行ったので三経院と呼ばれております。
 奥行(桁行)は十九間で東室より一間長いです。三経院には南側の七間を使い残りの
十二間を西室としております。西室は焼失後の再建であります。 

 


      休憩所(三経院の斜め前)

 


  丸瓦の文様には、徳川家の家紋
「三つ葉葵」がなく桂昌院の実家・
本庄家の家紋「九目結紋」だけです。
 場所は前述の西室の赤矢印の所に
ありますのでご覧ください。

 


      西円堂


      大和盆地


  金堂 五重塔

 三経院の左側を少し歩き石段を登ると八角の「西円堂」に到着です。この辺りは法隆
寺では一番の高台にあり眼下に広がる大和盆地が遠望できる唯一の場所といえます。
ここまで来られる方は少なく法隆寺では珍しく静かな場所です。五重塔、金堂の眺め
も申し分なしです。  

 

 


        西 円 堂



 円堂  向拝
  取り合い部分

 「西円堂(さいえんどう)」は天平時代に光明皇后の母君である橘夫人の発願で行基が
建立されましたが強風で倒壊、鎌倉時代に再建されました。
 創建当初は向拝はなく夢殿のような八角円堂でありましたが後に付加されたもので
す。向拝があれば鎌倉以降の建築と言えます。創建当時の思想を重んじて円堂と向拝
は一つの建物とはせず西円堂の屋根下に別の建物の向背を潜り込ませた構造となって
おります。向拝の上にかすかに見えるのは五重塔の相輪です。
 宝珠露盤は簡素なものです。 
 西円堂は法隆寺では庶民信仰の盛んな所だったようですが現在、ここまで訪れる人
は疎らであります。   

    
         薬師如来像
   
     耳の病気が治る錐です。

 「薬師如来像」をお祀りする西円堂は
鎌倉時代の再建ですが本尊の薬師如来
像は天平時代の脱活乾漆像です。

 頭光背と身光背の二重円相光背で千
仏と七仏薬師が施されております。台
座は八角円堂に相応しく八脚付きの八
角の裳懸座です。
 肉髻も大きく、顔付きも厳しく見え
るのと薬師如来でもあるので次代の弘
仁・貞観時代に主流だった薬師如来の
前触れでしょうか。次代には薬壷を左
手で捧げるのが一般的となりますこと
から、ひょっとすると、与願印の手の
掌に薬壷を流行にあわせて載せられた
かもしれません。天平時代の本尊では
薬壷はなかったと思われます 。
 耳の病気を治す医師・薬師如来とい

うことで写真の錐を耳に当てお祈りいたしますと耳の病が治るそうです。錐を買い求
める方だけでなく錐を奉納する方もおられます。
  総合治療の薬師さんですがさらに、耳鼻科の専門医まで昇格されました。
 少し高台にありますから「峯の薬師」とも呼ばれております。27段の階段上で峯では
可笑しいが丘の薬師では語呂が悪いので峯の薬師とされたのでしょう。それと、
峯の薬師といえば、全国彼方此方にありますので。聖徳太子は耳の付くお名前が多く、
多数の人間が一度に喋る内容が聞き分けられたという伝説に基づいて、西円堂の錐で
耳を突くとよく聞こえるようになるとの言い伝えが出来たのではないでしょうか。
 当時の実力者橘夫人の発願ゆえ制作費の掛かる脱活乾漆造の丈六像が造像されたの
でしょう。 

 


          時 の 鐘

  「時の鐘」は明治22年造立で西円堂の東側にあ
ります。この鐘の音が有名な正岡子規の「柿くへ
ば 鐘が鳴るなり 法隆寺」のものです。子規の
鐘の音は鐘楼の鐘の音ではありません。 
 時の鐘は字の如く時を知らす鐘で、最初は8時
の鐘で法隆寺の一日が始まります。それ以後2時
間おきに時間の数だけ衝かれます。これは昔の一
刻(いっとき・一時)の2時間を意味するのでしょ
う。8時は鐘が8回、次の10時では鐘が10回衝か
れ、12時、2時、4時の計5回衝けば終わりです。
昔は1時間は半時(はんとき)、30分は四半時(し
はんとき)と言いました。

 


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