仏像ー藤原時代

  「藤原時代」の時代区分を、「遣唐使廃止」の894(寛平六)年から「平家滅亡」の1185
(養和四)年までといたします。歴史の教科書では 「いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府」
の1192年ですが。

  前代の弘仁・貞観時代の「素木像」から、再び仏像の肌の色が、儀軌に忠実な金色に輝
く「金色像」になります。それと、大きな特徴は名匠「定朝」の作風である「定朝様」が流行
したことです。定朝様とは全体に穏やかさが漂う表現で、顔は丸顔で温和な表情、肉付
けのない扁平な胸、彫りの浅い衣文線などが特徴で、それは、量感に乏しく立体感が希
薄な像になっております。本来削り込むのが彫刻の生命であるのにまるで絵に描いたよ
うです。

 前代、仏像制作の主流だった「薬師如来像」に取って代わって、「阿弥陀如来像」が多く
造られました。それは、末法思想の影響で、絶望感におちいり社会不安が起こったため
です。そこで、現世で救われることは難しいと諦め、阿弥陀信仰で来世の極楽往生を願い、浄土教の救世主である阿弥陀如来にお祈りいたしました。とくに、有力な貴族は、
わざわざお参りに行く手間を省くだけでなく、引退すなわち出家という習慣に捉われる
ことが無いように自分専用の阿弥陀堂を自邸内か邸宅の隣などに建設いたしました。そ
の代表例が「藤原頼通」の宇治の「平等院鳳凰堂」です。
 多くの積善を得るための信仰の度合いは、数が問題と言う時代で、多いほど良いと言
う数を競う信仰が盛んになり、貴族たちは多くの造寺・造仏に励みました。「浄瑠璃寺
の「九体仏」は顕著な例で、貴重な遺構です。しかしなぜ、頼通は鳳凰堂に九体仏を安置
しなかったのか不思議な気がします。この浄瑠璃寺の「寺名」は「薬師如来」の聖地「浄瑠
璃浄土」からきた命名でしょう。ところが、浄土信仰の流れに合わせて、本堂を、阿弥
陀如来は西方極楽に居られるので東向きに移し、そして、その本堂内に九体の阿弥陀如
来像が安置されたのでしょう。現在、薬師如来像は三重塔に安置されており、毎月8日(薬師如来の縁日)にお詣りできます。同じ理由で平等院鳳凰堂も東向きに建てられてお
ります。

 今まで「天神」さんは「雷」だったのが、臣下出身の菅原道真が天神さんに成り代わりま
した。その天神さんも現在では、「天の神様」と言うより「学問の神様」として受験生に人
気を集めております。霹靂木は神が降臨した霊木という思想もなくなり、多数の木材か
ら制作する「寄木造」の技法が確立しました。寄木造は分業による大量生産が可能となり
数の信仰の要望を満たすことが出来ました。さらに、巨像を造る場合寄木造は一木造の
ように巨木を必要としないメリットがあります。寄木造が定朝によって完成されました
ので、仏像の量産体制が確立され、数の信仰に拍車が掛かることになりました。

 寄木造、「割矧(わりはぎ)造」の技法を可能としたのは木目が整っていて縦に真っ直ぐ
に割れる針葉樹の「桧」が我が国特産だったことが大きな要因で、これらの技法は我が国
独特のものと言えます。

 藤原時代の約300年間、仏像の国風化と言うべき「定朝様」の様式が続き、なにやら
彫刻の停滞を招いております。それだけ、仏教美術に通じた貴族の好みに合わせざるを
得なかったことと仏像の量産には多くの人の分業システムを採らざるを得ないため、様
式を形式化する必要があったからでしょう。しかし、定朝様が「仏の本様」と呼ばれ貴族
に喜ばれたとはいえ、この様式が300年も長きに渡って続くとは少し異常です。そん
な状況の中でも、藤原末に造られた奈良の「長丘寺(ちょうがくじ)」の「阿弥陀三尊像」に
現れた「玉眼」の採用などは変化の兆しとも言えましょう。

  数多く造り出された 「寺院、仏像」は、その後「応仁の乱」などの内乱で焼失いたしました。定朝の作品が平等院の「阿弥陀如来像」しか残っていないことが物語るように当時、
京都には数多くの造像がありましたが、遺構は極端に少なく僅かしか伝わっておりません。
 
 古都奈良では、「東大寺」「興福寺」は僧兵をもって平氏に反抗いたしましたので1180
(治承四)年、平重衡による「南都焼き討ち」に遭い、多くの堂宇、仏像、仏具を無くして
しまいました。しかし、次の源氏の時代を迎えますと鎌倉幕府はよくぞ平氏に歯向かっ
たくれたと、東大寺、興福寺の再建に多大なる援助をいたしました。そのため、次の鎌
倉時代に数多くの傑作を残すことが出来ましたのは不幸中の幸いでした。

 「仏師」は天平時代は官の位を受けましたが、藤原時代の仏師は有力寺院に属していま
したので僧侶の位を受け僧籍を持つことになりました。が、僧籍を持っているからと言
っても出家することなく在家の人間生活を送っておりました。

 作者名は前代まで控えて表面に出てこなかったのが「定朝」のように進んで名前を公に
出してまいります。これは、天平時代、官営工房の仏師であったのが、藤原時代は自営(私的)工房の職業的な仏師となったことも一因でしょう。

    
         聖 徳 太 子 像 (法隆寺)
        


 

 
     道 詮 律 師 像 (法隆寺)
  
    薬師如来坐像 (法隆寺)
            
     釈迦如来坐像 (法隆寺)
       
       持国天像 (浄瑠璃寺)
   
      阿弥陀如来坐像 (浄瑠璃寺)  
 
        
     
地蔵菩薩立像(法隆寺)

   迷企羅像 (興福寺)        

  「法隆寺地蔵菩薩立像」は地蔵菩薩像では現存最古の像で、時代は浄土信仰によって極
楽浄土に導いて頂くために貴族たちは阿弥陀如来に、庶民たちは「地蔵菩薩」にお祈りしま
した。それゆえ、次の鎌倉時代には地蔵菩薩像が盛んに造られるようになりました。

  
   吉祥天像 (法隆寺)
              
       毘沙門天像 (法隆寺)

  「法隆寺吉祥天像」は遣唐使廃止の伴う国風化の流れで藤原貴族の趣向を取り入れ、典
雅で優美な像となっております。当時の貴族を魅了した理想の女性像だったことでしょう。吉祥天の夫は「毘沙門天」で、法隆寺金堂に安置されております像は現存最古のご夫
婦像です。

                                          

 画 中 西  雅 子