木彫像(寄木造) 

 平安時代になると仏像の制作は概ね「木彫像」に変わります。それはわが国には彫刻に
適した良質の木材が多く産出することと、木の持つ加工性の良さが大きな要因でしょう。
 この時代は多量の造仏・造寺に励めば大いなる徳があると言う思想が盛んになり、仏像
の大量生産の要望が高まります。そこでその多数の造像を短期間に仕上げられる「分業
方式」に適した「寄木造(よせぎづくり)」が起こりました。この「寄木造」を完成させ
たのが有名な平等院の阿弥陀如来坐像の仏師「定朝」だと言われております。
 「寄木造」は、一本の原木より大きな像の制作が不可能である「一木造」に比べて巨像
の制作を可能にしただけでなく、小さな素材が活用出来、素材の節約にも役立ちました。
 それら巨像の傑作が8.4メートルもある「東大寺南大門の仁王像」で、最近、仏師「運慶」「快慶」の役割で話題になりましたのは、皆さんご承知の通りです。後述の「玉眼」
を用いていないのは「仁王像の眼」があまりにも大き過ぎたからでしょう。
 「九体仏」で名高い「浄瑠璃寺の阿弥陀如来坐像」も藤原時代、大量造仏が盛んだった
証でしょう。
 大量生産に適した「寄木造」であっただけに、藤原時代は空前の数の仏像が制作されま
したが、残念なことに「応仁の乱」などの内戦で殆ど焼滅してしまいました。
 
 現在「巨木」ブームですが昔、「巨木」といえば「霊木」だったことでしょう。当時の
人にとって姿の見えない「神」よりも自分の眼で確認できる神の宿る「神木」を好んで礼
拝されたことでしょう。 
 「一木造」の霊木思想は、平安時代流行の「寄木造」のせいと「神木」扱いだった「霹
靂木」も天神さんが「雷」から「菅原道真」に代わったこととで、消滅しかけましたが、「立木仏」と姿を変えて復活しました。


      弥勒菩薩坐像(中宮寺)

  
       

         行賀坐像(興福寺)
 
   

        
     大日如来坐像(円成寺)


        
   俊乗坊重源坐像(東大寺)

   

 
   金剛力士像(興福寺)

     
     持国天像(浄瑠璃寺)

 
   阿弥陀如来坐像(浄瑠璃寺)

    
    天燈鬼像(興福寺)

           
              金剛力士像(東大寺)    
画 中 西  雅 子

 「寄木造」は 素材を2本、田の字に4本、6本と組み合わせますが「立ち木」のよう
に木の目が縦になるように継ぎ合わせるのを原則とします。それを接着剤で仮止めし、
彫刻の下絵を描きます。その後仮止めを外し、ばらばらになった素材を分業で彫刻し、
それらの彫刻素材を裏側から「内刳り」いたします。ただ、藤原時代は像の肉厚が非常
に薄くなるよう削り込むため、完全な「内刳り」が出来ますが少し油断すると、像の表
面まで削り込む失敗をするだけに慎重な作業だったことでしょう。干割れ、ひび割れが
防げるだけに巨像の制作、しかも長期の保存に耐えられる像が可能となりました。ばら
ばらになった彫刻素材を接着剤で接着後化粧仕上げをして彫刻を完成させます。接着剤
としての「膠(にかわ)」は動物の皮、骨などに水を加え煮て作るため「殺生戒」であ
ったわが国ではあまり使用されませんでした。膠着と言う言葉があるように中国では大
いに使われたようです。わが国では「漆」、澱粉質を加工した「糊」が使用されたよう
です。今はどうか知りませんが子供の頃家具製造で米粒をへらで丁寧に練り上げた白色
の糊を接着剤として使われている現場を見た経験があります。
 「内刳り」が行われた「藤原時代」は、像の肉厚が薄いため鎬だった装飾的な
翻波式衣文」などは刻まれませんでした。同じ「寄木造」でも「鎌倉時代」になると「内刳り」も少なく量感ある「一木造」のような像になります。その代表的な傑作が「興
福寺の法相六祖像(行賀坐像)」です。運慶の父「康慶」が、彫りを抑えた彫刻の絵画
のような「平安時代」の優しい雅の表現に挑戦した新しい造形で、衣文は深い彫りで流
れるような表現です。慶派の作風の先駆けとなる作品だけに是非ご覧ください。ただこ
の「法相六祖像」の中に「玄奘三蔵像」が無いのは不思議ですね。

 「一木造の割矧造」は「寄木造」の時代になると必要性がなくなりますが、地方では
仏師が少人数のため分業作業が困難なため「寄木造」を採用せず「一木造の割矧造」の
技法が続きます。

  「目は口ほどに物を言う」の諺通り、対人関係では相手の目を見て話せと言われます
が像の場合も「眼」の表現が大切なポイントです。仏像の眼を人間の眼のように潤い輝
いた表現にするためのテクニックが「玉眼(ぎょくがん)」の採用です。
 「玉眼」とはまず最初に像の顔を「能面(おもてとも言う)」のように薄く削り取り、
その面の眼の部分を刳り抜き貫通させます。凸状薄片状の「水晶」に裏側から目玉を墨
で描き、 さらに、目頭、目尻に色付けすることによって「澄んだ眼」とか「怒りの眼」
を表現いたします。それから白目の部分となるところに和紙か綿を当てて完成させます。その「玉眼」を像の眼のところへ嵌め、上から薄い板を接着剤の漆か竹釘を用いて押さえ、「玉眼」が動かないよう固定します。「玉眼」は水晶の「眼」を用いたので、像は「眼」を見張るばかりの迫力のある出来栄えとなります。
 「寄木造」と「玉眼」を可能ならしめたのは何と言っても木口から真っ直ぐ割れる針
葉樹の「桧」が多く伐採出来たからで、それゆえわが国独特の技法と言ってもよいでし
ょう。
 
 閑話休題:我々の目の「水晶体」の呼び名も仏像の眼に「水晶」を用いたところから
きているのでしょうか。

 「玉眼」を最初に用いた仏像は奈良県天理市にある「長岳寺の阿弥陀如来坐像」で、1151年の作です。

 「円成寺の大日如来坐像」は「運慶」の若い頃の作品ですが「玉眼」は憤怒像でしか
用いない「運慶」にしては珍しく如来像に用いた貴重な尊像です。

 「中宮寺の弥勒菩薩坐像(寺伝では如意輪観音坐像)」の素材は規則正しい組み合わ
せでなく、古刹の尼寺にふさわしい何か由緒ある貴い素材を無理して組み合わせ完成さ
せた像です。 それは例えば、蓋口が狭まったアルミ製茶瓶を轆轤(ろくろ)作りで行な
った場合、出来上がってから型をばらばらにしないと狭い口から金型を取り出すことは
出来ないことからも、何かの型に使われたような彫刻不適な素材で造像されています。
ですから「弥勒菩薩坐像」を「寄木造」の原点と考えるのは少し無理があるようです。
 「法隆寺」にいらっしゃいましたら飛鳥時代作の「中宮寺の弥勒菩薩坐像」を拝観さ
れることをお奨めいたします。「弥勒菩薩坐像」の素材は飛鳥時代流行の樟材を使用し
ており、この像を拝まれますと自然と敬虔な気持になります。神聖にして清楚な像で堂
内は優しい雰囲気に包まれております。「弥勒菩薩坐像」の「榻座(とうざ)」は裳懸
座の一種ですが椅子に座った像は中国、韓国ではたくさん造られましたがわが国では希
少な尊像です。
 「菩薩」は性別で言えば男性ですがこの「弥勒菩薩坐像」は女性的な像のように見え、典雅して優美な像です。時代が下ると女性的な菩薩も造られます。

 「俊乗坊重源坐像」は80歳代の肖像彫刻と言われ、肖像彫刻では最高齢で、額、頬
は皺が大きく刻まれ、眼のまわりは大きく窪み、頬、頚はげっそりと痩せ、姿勢は猫背
で老僧の像です。
 平重衡の「南都焼打ち」にあって、荒廃した「東大寺」は、東大寺大勧進職に就任し
た「俊乗坊重源」の血の滲むような努力によって再建されました。
  ところが、偽勧進の山伏になり すました「源義経」の方が、芝居などに取り入れられ、「俊乗坊重源」より有名になってしまいました。

    
      行基菩薩像     

 80歳代にしてはかくしゃくたるもので、物事の達
成には確固たる意志で望む毅然とした姿が像に表現さ
れております。 
 「快慶」の作とも言われております。
 「社会・福祉事業」にも多大な貢献されたうえ「東
大寺再建」に20余年もの歳月を注がれた「重源上人」は、その業績の偉大さに対して天平時代の「行基菩薩」の再来と敬まれたとのことです。「行基菩薩」の像は
近鉄奈良駅前の広場にあり、待ち合わせ場所として賑
わっております。