深澤の古城跡(四篇)

三島郡神谷荘深澤(ふかざわ)(むら)羽黒(はぐろ)の古城跡は小山の頂上(いただき)にあり、今は老松(ろうしょう)の森林にして官有(かんゆう)なり、

寛弘(平安中期)鎮守府(ちんじゅふ)将中(しょうぐん)平維茂国守の頃より神谷左工門(これ)(おう)し、領地を南北の両郷に分つ

と古き(ふみ)見ゆ。故に其領内を神谷荘又南部を南の郷・北部を北の郷と(いえ)り。

所謂南の(ごう)は高梨、新屋敷、前島、青島、西野、飯島、笹花、道半、来迎寺、蛭田、朝日、浦村

の地方、北の郷(中古より北方(きたかた)(ごう)と云)は深澤、富岡、才津、福田、富安、下山、福山、賓地、

上除(かみのぞき)下除(しものぞき)、喜田村の地方(以上天和度の村名)とす。

同家は代々仁芯(じんしん)(あつ)かりけれバ領民()随順(ずいじゅん)せしと言傳ふ。菩提所(ぼだいじょ)は真言宗(せい)願寺(がんじ)と云ふ、

古城地の近傍(きんぼう)に今尚ほ寺跡の名称を存ぜり。又同村大瀧(おおたき)の古城跡と云ふは真宗正林寺の山上にて

(どて)(から)(ほり)の跡(かす)かに存ず。本丸跡に白山権現の社あり。斉藤別当実盛(さねもり)嫡孫(ちゃくそん)斉藤太郎左エ門盛朝(もりとも)

当地に来り城を築き住居せしが後年上杉に属し、刈羽郡(あか)()赤山(あかやま)に新城を築き移住せり。

後裔(こうえい)(後胤)は徳川将軍家に仕へ知行五千石を(りょう)し代々斉藤伊豆守と称し連綿(れんめん)相続(そうぞく)せり。