和田義盛【わだよしもり】

11471213(久安3‐建暦3.5.3) 鎌倉前期の武士。源頼朝の挙兵に呼応し、,功によって侍所別当となる。

武勇にすぐれ,平家追討に活躍。頼朝死後、宿老として重きをなしたが、北条氏の専権確立に不満をもつに至り、

横山・土屋氏らと挙兵したが敗死。

来派【らいは】

鎌倉後期から南北朝初期の山城国の刀工集団。流祖国吉は鎌倉初期に高麗から渡来と伝え、

<>とは高麗または渡来の意味という。<>が通字。1290(正応3)初見の来国俊(国行子)以来、来を銘にきる。

以後、国光・国真・国次などが輩出。

吉光【よしみつ】

生没年未詳。鎌倉後期の山城国粟田口派の刀工。通称は藤四郎。近世以来,正宗・義弘とともに三作の一人とし

て珍重された。遺品は,名物一期一振の刀(御物)、名物骨喰の薙刀直し刀(重文)以外はすべて短刀か剣である。

国宝・重文計13口。

北条 朝時【ほうじょう ともとき】

建久4年(1193)、北条義時の次男として鎌倉で生まれる。母は源頼朝の仲介で義時の正室となった姫の前で、

正室の子としては長男であり、北条家の嫡子であったと考えられる。父義時31歳、側室を母とする異母兄の

泰時は11歳であった。建仁3年(1203)、朝時が11歳の時に比企能員の変が起こり、母の実家比企氏が義時

ら北条一族によって滅ぼされた事で両親は離婚し、母姫の前は上洛して源具親に再嫁した3年後に死去してい

る。のちに朝時は具親の次男源輔時を猶子にしている。

建永元年(120610月に13歳で元服。元服の前年に牧氏事件で祖父時政が失脚しており、時期は不明だが

時政の屋敷であった名越邸を継承した事により、後に名越次郎朝時とも呼ばれる。

建暦2年(121257日、20歳の時に3代将軍源実朝の御台所・信子に仕える官女である佐渡守親康の娘に

艶書を送り、一向になびかないので深夜に娘の局に忍んで誘い出した事が露見して実朝の怒りを買ったため、

父義時から義絶され、駿河国富士郡での蟄居を余儀なくされる。1年後の建暦3年(1213)、和田合戦の際に

鎌倉に呼び戻されて北条方として出陣し、勇猛な朝比奈義秀と戦って負傷するなど活躍した。その後、御家人

として幕府に復帰する。承久元年(12197月、同母弟の重時が長兄泰時に次いで小侍所別当に就任している。

承久31221の承久の乱では北陸道の大将軍となり、佐々木信実や結城朝広らと協力して転戦し、

越後や越中の朝廷軍を撃破した。この功績により、加賀・大隅・越後などの守護に補せられた。朝時の守護職は

他に能登・越中など、主に北陸道・九州にあり、祖父比企朝宗ら比企氏の地盤を受け継いでいる。

戦後は上皇方に荷担した藤原範茂の処刑を行っている。

貞応212234月、重時が従五位下に叙爵して国司(駿河守)に任じられ、朝時の官位を超越している。

元仁元年(12246月、32歳の時に義時が死去し、兄の泰時が3代執権となる。嘉禄元年(1225)に越後守と

なる。嘉禎2年(1236年)9月には評定衆に加えられるが、初参ののち即辞退しており、幕府中枢から離脱す

る姿勢を見せている。6年後の仁治3年(1242517日、泰時の病による出家に伴い、朝時も翌日に出家し

て生西と号した。朝時の出家の直接的な理由は不明だが、泰時の死の前後、京では鎌倉で合戦が起こるとの噂

が流れ、将軍御所が厳重警護され鎌倉への通路が封鎖された事が伝わっており、朝時を中心とした反執権勢力

の暗闘があった事によると見られている。3年後の寛元3124546日、53歳で死去。

祈願所【きがんじょ】

祈願をする所。特に、現世、来世の福徳を祈願するために建立された社寺。勅によってたてられた寺を勅願寺、

その他を祈願寺、御願寺という。

遺跡【ゆいせき】

故人ののこした領地、官職など。遺領(ゆいりょう)。また、それを相続する後嗣。跡目。

長尾民部大輔能景【ながお よしかげ】

長尾重景の子。長尾為景の父。上杉謙信の祖父。越後国守護代。信濃守。

長尾為景【ながお ためかげ】

桓武平氏の流れを汲む長尾氏。越後守護代・越中国新川郡分郡守護代。上杉謙信の父。米沢藩初代藩主上杉景勝

は外孫に当たる。般若野の戦いで父が戦死したため、長尾氏の家督を継いで越後守護代となった。翌永正4

1507年)8月「為景謀反の気あり」と守護上杉房能が為景討伐の準備をしていたため、その機先を制して

房能の居館を襲撃する(為景は、房能が援軍を出さずに能景を見殺しにしたことを恨んでいたとも言われる)。

逃亡中に房能が自刃すると、その養子上杉定実を傀儡として守護に擁立した。しかし永正6年(1509年)房能

の実兄である関東管領上杉顕定が為景に対して報復の大軍を起こすと、為景は劣勢となって定実とともに佐渡

に逃亡した。邑山寺にて捲土重来を期して翌永正7年(1510年)には佐渡の軍勢を加え反攻に転じ、長森原の

戦いで退却する上杉軍に猛攻をかけ、援軍の高梨政盛(為景の外祖父?あるいは伯父か)の助力もあり顕定を

敗死させた。

将監【ジョウ】

近衛府の判官(ジヨウ)(=第三等官)

水盛【みず‐もり】

細長い材に溝を掘って水をはり、土台などにのせて、その面が水平であるかどうかを測定すること。

また、その器具。みずなわ。水準。

【あた・う】

あたう。よくする(よくす)。よく。物事をなしうる力や体力があってできる。たえうる。りっぱにたえて。

しっかりと。程度、状態などによく合う。適合する。相当する。

地方【じ‐かた】

江戸時代、町方に対して田舎をいう語。都市に対して農村。転じて、農村における田制、土地制度、

租税制度などをさし、さらに広く、農政一般をさす。

【つき】

飲食物を盛る深みのある器。古くは土器、のち、木・金属などでも作った。

行基【ぎょうき】

668749(天智7‐天平21.2.2) 奈良時代の僧。河内国(のち和泉国)大鳥郡蜂田郷(後の家原寺)に誕生。

俗姓は渡来系氏族の高志氏。母方も渡来系の蜂田氏。682(天武11),15歳で出家。「瑜伽師地(ゆがしじ)論」

「成唯識(じょうゆいしき)論」を理解し,また苦行精進の修行をした。畿内で民間布教を始め,平城京に諸国から

集まった人々や官人層の支持を得たが、717(養老1)の詔で僧尼令に違反するとして糾弾された。

その後は畿内を中心に知識集団を組織し,三世一身法など墾田開発に必要な池溝など灌漑施設の修築や、相次ぐ

遷都にも対応して水陸交通の拠点に船息ふなどまり・橋・布施屋などの交通施設を作り、各施設には山崎院な

ど後に四十九院と称された僧尼別の院(道場)を併設させ、また老若男女の貧窮病者を救済した。

天平年間にはこの社会事業活動が公的に認められ,また薬師寺僧として得度申請をする優婆塞の師主にもなった。

743(天平15)には大仏造営の勧進に参加し、745年大僧正に任じられた。82歳で平城京右京菅原寺で没し、

生馬山で火葬され埋葬。行基は生前から菩薩と仰がれ、その没後は文殊菩薩の化身とする信仰(行基信仰)など

に結びつき,また諸国に行基開基とする寺が増加した。

感得【かんとく】

神仏への信心が通じて手に入れること。転じて、一般に思いがけず手に入れること。

【ゆるす, もと, ところ, ばかり】

{助辞}ばかり。数詞や指示詞に付けて、上下に幅のあることを認めることば。おおよそその程度であることをあら

わす助詞。…ほど。…ぐらい。「幾許(イクバク)(どれぐらい)」「如許(それほど)」「十里許=十里許り」

北の方【かた】 

(寝殿造りで、多く正殿の北の対に住んでいたところから)公卿、大名など、身分の高い人の妻を敬っていう

語。北の御方。北の台。

【まへ】

女性を尊敬して言う語。

憂苦【ゆう‐く】

心配し苦慮すること。

【とみ】

時間的に間がおけないさま。また、間をおかないさま。急。にわか。さっそく。

綸旨【りんじ】

天皇の命令を受けて蔵人(天皇のそばに仕える令外官の一つ)が出した文書。手続きは詔勅や詔書より簡単。

平安時代から明治初期まで行われた。

遺民【いみん】

前の王朝または前の天子の代の時から生き残っている民。また、主君が滅んだ後、義を守って他の朝廷に仕え

ない民。

脇屋義助【わきやよしすけ】

130142(正安3‐康永1/興国3.6.5) 南北朝期の武将。新田義貞の弟。新田荘脇屋村(群馬県)を本拠とし、

義貞挙兵以来,行動をともにして活躍。義貞死後は、新田軍をまとめて越前、後には伊予で活動した。

勧請【かん‐じょう】

神仏の来臨や神託を請い願うこと。また、高僧などを請い迎えること。

若干・幾許【そこば‐く】

・数量を明らかにしないで、おおよそのところをいう語。いくらか。いくつか。

・数量の多いさま、程度のはなはだしいさまを表す語。たくさん。はなはだ。たいそう。

遺跡【ゆいせき】

・ある人、また事件に深い関係のある場所、また建築物のあった跡。いせき。

・故人ののこした領地、官職など。遺領(ゆいりょう)。また、それを相続する後嗣。跡目。

捍禦【かんぎょ】

防いで相手を入れないようにする。

穿つ【うがつ】

穴を掘る。「井戸を穿つ」 ⒉棒状のものなどで貫き通す。

供奉【ぐぶ】

(―する)物を供給すること。供えること。従事する、仕えるの意を、その動作の相手を敬っていう語。

霊瑞【れいずい】

めでたく不可思議なしるし。

源信【げんしん】

平安中期の天台宗の僧。卜部(うらべ)氏。大和の人。比叡山の良源に師事。横川の恵心院に住み、

恵心僧都、横川僧都と呼ばれる。

上品上生【じょうぼん‐じょうしょう】 

仏語。上品往生の中の最上級。極楽浄土往生の九品の中の最上位の人として生まれること。

往生するとすぐ仏にまみえ、無生法忍を得るという。

腹籠【はらこめ】

仏像などの腹中に観音や経典などを入れ籠めてあること。

新田義顕にった よしあき】

元弘3年(1333)、父(義貞)の鎌倉幕府打倒のための挙兵に参加。建武元年(1334)、倒幕の功により

従五位下越後守叙任。また、春宮亮にも任官。建武の新政では武者所一番の頭人を務める。

行基【ぎょうき】

668749(天智7‐天平21.2.2) 奈良時代の僧。河内国(和泉国)大鳥郡蜂田郷(家原寺)に誕生。俗姓は渡来系氏族

の高志氏。母方も渡来系の蜂田氏。682(天武11),15歳で出家。「瑜伽師地論」「成唯識論」を理解し、また苦行

精進の修行をした。畿内で民間布教を始め、平城京に諸国から集まった人々や官人層の支持を得たが、

717(養老1)の詔で僧尼令に違反するとして糾弾された。その後は畿内を中心に知識集団を組織し、三世一身法

など墾田開発に必要な池溝など灌漑施設の修築や、相次ぐ遷都にも対応して水陸交通の拠点に船息(ふなどまり)・橋・布施

屋などの交通施設を作り、各施設には山崎院など後に四十九院と称された僧尼別の院(道場)を併設させ、

また老若男女の貧窮病者を救済した。天平年間にはこの社会事業活動が公的に認められ,また薬師寺僧として

得度申請をする優婆塞の師主にもなった。743(天平15)には大仏造営の勧進に参加し、745年大僧正に任じられ

た。82歳平城京右京菅原寺で没し、生馬山で火葬され埋葬。行基は生前から菩薩と仰がれ、

その没後は文殊菩薩の化身とする信仰(行基信仰)などに結びつき、また諸国に行基開基とする寺が増加した。

優婆塞・優婆夷【うばそく・うばい】

得度以前の段階にある在俗の仏教者。国家仏教の下では得度は官許を要したため、これを目的に師主の僧尼に

ついて学問・修行に励む者が多く存在し、その男性・女性をそれぞれサンスクリット語の音により優婆塞・優婆

夷と称し、得度に際して候補者として推薦された。

北条時頼【ほうじょうときより】

122763(嘉禄3.5.14‐弘長3.11.22) 鎌倉幕府の執権。父は時氏。母は安達景盛の娘(松下禅尼)

46(寛元4)執権に就任すると、ただちに一族の名越光時を配流、前将軍頼経を京都に送還、翌47(宝治1)

三浦泰村を滅ぼし、得宗(とくそう)主導の執権政治を確立した。49(建長1)には引付衆を設置している。朝廷との関係では、

46年に頼経の父九条道家を関東申次から更迭し、西園寺実氏をこれに替えた。後嵯峨院政との協調をはかり、

後嵯峨の皇子宗尊を将軍に迎えた。56(康元1)執権を辞した後も実権を掌握し、得宗専制への道を開いた。

微服【びふく】

身なりをやつすこと。人目を忍ぶ服装をすること。

奇特【きとく】

非常に珍しく、不思議なさま。また、すぐれているさま。

神仏などの不思議な力。霊験。奇蹟。*徒然草‐七三「仏神の奇特、権者の伝記」

無告【むこく】

自分の苦しみを誰にも告げ訴えることができないこと。また、その者

美挙【びきょ】

立派な挙動。ほめるべき行為や企て。

上金【あげきん】

江戸時代、幕府、諸大名への献納金の一つ。「御用金」が富豪層を対象としたのに対し、

一般庶民からの献金をいう。

苛政【かせい】

統治の仕方が残酷で、きびしい政治。圧制政治。

婦徳【ふとく】

婦人として守るべき徳義。古代中国において、婦人が修めなければならないとされた四行(婦徳・婦言・婦容・

婦功)の一つ。

阿諛【あゆ】

相手の気に入るようなことを言ったり、そのような態度をとること。おべっか。

旅寓【りょぐう】

旅先で宿泊すること。また、その場所、旅宿。

病痾【びょうあ】

長い間なおらない病気。慢性のやまい。持病。宿疾。宿病。

賑恤【しんじゅつ

貧困者や被災者を援助するために、金品を施し与えること。救恤。

弊衣【へいい】

破れた衣服。着ふるしてぼろぼろになった衣服。へいえ。

日牌【にっぱい】

毎日、位牌の前でする供養。また、その位牌。

蓮如【れんにょ】

141599(応永22‐明応8.3.25) 室町・戦国期の真宗僧。本願寺8世。若年より父存如の伝道活動を補佐し、

住持就任後も父の方針を継承し、親鸞の著作を勤行の中心とし近江伝道に力を入れた。将軍側近との姻戚関係

も有利に働き伝道は成功したが、山門を刺激し1465(寛正6)東山本願寺が衆徒に破却された。

71(文明3)越前吉崎に留錫して伝道、北陸に多数の門徒を獲得(吉崎道場)、加賀では門徒らが一向一揆

(加賀一向一揆)を起すに至った。75年畿内に戻った後も山科、大坂に本願寺を建立するなど精力的な活動を

行い、教団繁栄の基礎を築いた。

最澄【さいちょう】

平安初期の僧。日本天台宗の開祖。近江(滋賀県)の人。空海とともに延暦二三年入唐し、道僉、行満について

本宗の奥旨を学び、また僊然から牛頭禅(ごずぜん)を伝えられ、さらに順暁に秘密灌頂を受けた。八か月後に

帰国、一宗の独立を許されたが、円頓戒壇の独立の勅許がおりたのは没後である。著作に「守護国界章」「山家

学生式」「顕戒論」など。勅諡は伝教大師。叡山大師、根本大師、山家大師とも(767822)。

良源【りょうげん】

平安中期の天台宗の僧。比叡山中興の祖。勅諡は慈慧大師。通称は元三大師・角(つの)大師・御廟大師。

康保三年八月、天台座主となる。同年10月、火災のため大講堂など三十余の建物を失ったが、それを復興させ、

また「二十六条式」の制定など、教団改革も行った。(912985

魚鼈【ぎょべつ】

魚と鼈(すっぽん)。魚類とかめ類。また、水産動物の総称。

上杉 房能【うえすぎ ふさよし】

文明6年(1474年)- 永正487日(1507913日)、戦国時代の守護大名。越後守護。

山内上杉家の一族である越後上杉家の出身。通称は九郎。官位は民部大輔。父は上杉房定。兄に定昌、顕定。

子に上杉定実室、養子に龍松(八条房孝の子)、定実。長兄の定昌は早世し、次兄の顕定が山内上杉家の養子と

なって関東管領となったため、明応3年(1494)に病没した父の跡をついで越後の守護となる。守護代の

長尾能景の補佐を受けるが、越後上杉家の戦国大名化を目指して1498年に守護不入特権の停止を命じるなど、

在地領主の特権の制約を図ったために能景らと対立する。

それでもなお守護代としては忠実であった能景が永正3年(1506)、越中において一向一揆のために戦死す

ると、能景の子で跡を継いだ長尾為景は房能の養子の定実を擁し房能に公然と反旗を翻す(越中において包囲

された能景を房能が見捨て、その事を恨んでいたという説もある)。翌永正4年(1507)、定実・為景の軍勢

に拠点を急襲され、顕定を頼り関東へ向かった。しかし、逃れる途上に直峰城に立ち寄ったが為景軍の追撃を

受けて松之山に逃れ、87日に天水越で自刃した(永正の乱)。

【へい】

胴が細長く口が小さい壺。徳利の形の壺。

紺紙金泥【こんしこんでい】

紺紙に金泥で経文などを書くこと。また、そのもの。

赤貧洗うが如し 

たいへん貧しくて、洗い流したように何一つ所有物のないさま。

刎頸(ふんけい)の交わり 

たとえ首を斬られても悔いないほどの深い友情で結ばれた交際。生死をともにする親しい交わり。

藤樹学派【とうじゅがくは】

中江藤樹の学説を受け継ぎ、またはその系統に属する学派。

中江藤樹【なかえとうじゅ】

160848(慶長13.3.7‐慶安1.8.25) 江戸前期の儒者。名は(はじめ)、通称与右衛門、字は惟命(これなが)、号は〓軒(もくのき)

近江高島郡の人。近江聖人とよばれる。伊予大洲藩に仕えたが、のち脱藩して帰郷。朱子学を忠実に学習した

が、その規範主義に疑問を深め、陽明学系統の書物に接して、朱子学から離れていった。晩年入手の「陽明全

書」に没入し、日本陽明学の祖とされる。ただ陽明学の理解は十分でなく、実践性を欠く。門人では熊沢蕃山と

淵岡山(ふちこうさん)が有名。著「翁問答」「大学考」「鑑草」など。

不撓【ふとう】

(形動)たわまないこと。困難にあっても心がくじけないさま。「不撓不屈」

木内宗吾【きうち‐そうご】 

江戸初期の百姓一揆の指導者。下総国佐倉藩印旛郡公津村の名主。通称佐倉宗五郎。領主堀田氏の重税に苦しむ

二百余村の農民を救うため、将軍徳川家綱に直訴し、妻子とともに(はりつけ)の刑に処せられたという。

この事件を脚色した歌舞伎「佐倉義民伝(「東山桜荘子」の改作)」は日本最初の農民劇として有名。生没年不詳。

胆略【たんりゃく】

大胆で知略のあること。

櫛風沐雨【しっぷうもくう】

風に髪をくしけずり、雨にからだを洗うの意。転じて、風雨にさらされて奔走し苦労すること。

塗炭【とたん】

(「塗」は「泥」、「炭」は、きたないもの、また火を意味する)

泥にまみれ火に焼かれるような苦痛の境遇。きわめてきたないもののたとえ。

有司【ゆうし】

その職を行うべき官司。またそこに属する官人。官署。官吏。

面責【めんせき】

面と向かって責めること。面詰。

梟首【きょうしゅ】

斬罪に処した罪人の首を木にかけてさらすこと。また、その首。さらしくび。

余沢【よたく】

他人にまで及ぶ広大な恩沢。また、先人の恩沢。余徳。余光。おかげ。「余沢を蒙る」

鳥目【ちょうもく】

銭の異称。一般に金銭の異称。江戸時代までの銭貨は円形型穴で、鳥の目に似ている所からの名。

貫文【かんもん】

銭を数える単位。一文銭一〇〇〇枚を一貫とする。江戸幕府は、寛永通宝(一文銭)を鋳造するようになってか

ら、銭と金の比価を四貫文対一両と公定した。

【いよいよ】

正路【せいろ】

正しい道。正しい方法。正道。しょうろ。 正規の道路。広い道。本道。

為筋【ためすじ】

利益になる方法。また、商家にとってためになる客人。御為筋。

溘焉【こうえん】

物事がにわかにおこるようす。急なようす。〔多く、人の死の形容に使う〕「溘焉として逝く」

易簀【えきさく】

(孔子の弟子の曾子が、死ぬ前に病床の大夫用の簀(すのこ)を身分不相応だとして、易(か)えさせたという

「礼記‐檀弓」の故事から)学徳の高い人や高貴な人が死ぬことを敬っていう語。

亀鑑【きかん】

{亀鏡(キキョウ)}てほん。模範。▽吉凶を占う亀甲と、物を照らして見せる鑑とは、ともに人の模範となることから。

天稟【てんぴん】

(天から稟(う)けるの意)生まれつきの性質、才能。生得。天資。天性。てんりん。

堅忍不抜【けんにん‐ふばつ】 

かたくこらえて心のぐらつかないこと。

不撓不屈【ふとう-ふくつ】

たわまないこと。困難にあっても心がくじけないさま。

靡然【ひぜん】

風に草木などがなびくさま。煙や雲などがたなびくさま。転じて、ある勢力になびき従うさま。

誣言【ふげん】

(「ぶげん」とも)わざと事実をいつわっていうこと。また、そのことば。誣語。

強記【きょうき・彊記】

記憶力のすぐれていること。よく記憶すること。「博覧強記」

苟しくも【いやしくも】

〔副〕(形容詞「いやしい」の連用形に助詞「も」の付いたもの。相応する条件を充足しないけれども、

ちょっと、かりそめに、というところから、「かりそめに」の意の「苟」の字を「いやしくも」と訓読し、

さらに「苟」の持つ「まことに」「ただ」「もし」「あるいは」などの意にも「いやしくも」が用いられて、

多様性を持つことになった)

かりにも。かりそめにも。「豈(あに)苟(イヤシクモ)時の誉れを要すること得むや」

表面では卑下して、ほんとうは自負心をもっている気持を表わす。不相応にも。柄でもないのに。

毫も【ごうも】

すこしも。ちっとも。いささかも。「毫も違わない」

正念【しょうねん】

仏語。八正道の一つ。よこしまな心を離れ、真理を求める心をつねに忘れないこと。

心の乱れを去った安らかな心。雑念を払った心の安定した状態。

一心に仏を念ずること。またはその乱れることのない信心。

平常の心。正常で乱れのないしっかりした心。正気(しょうき)。

正観世音【聖観世音・しょうかんぜおん】

仏語。七観音(千手・馬頭・十一面・聖・如意輪・准胝・不空羂索)または、六観音(七観音のうち不空羂索を

除く)の一。左手に蓮華を持ち、右手は開いた形で、衆生を救済するために種々の身を現ずる大慈大悲の菩薩。

普通の観音は、これをさしていう。聖観音。

薨去【こうきょ】

皇族や三位以上の人が死去すること。薨逝。

松平光長【まつだいら・みつなが】

生年: 元和1.11.29 1616.1.18  没年: 宝永4.11.17 1707.12.10

幼名は仙千代。父は越前国福井藩主松平忠直、母は将軍徳川秀忠の娘勝子。元和9(1623)年忠直が豊後へ流され

たため、9歳で家督を継ぎ北庄藩藩主となる。翌寛永元(1624)年高田転封を命ぜられ、北庄へ転ずる叔父の高田

藩主松平忠昌と入れ代わった。しかし当時10歳だったので母と共に江戸屋敷に入り、小栗正高、荻田隼人の

両家老が越後に下った。実際に母と高田に入ったのは10年後の同11年である。知行は始め25万石であった。寛永6(1629)年将軍家光の一字をもらって光長に改名。同年越後守。慶安3(1650)年父が配所で没したため、

4年幕府は父の遣子ふたりを光長の家臣とし、ふたりの土地5000石と父の遺領5000石の計1万石を越後に

替地したので、領地は26万石となった。その範囲は,越後の頸城全郡と刈羽、三島、魚沼3郡のうちに多数、

さらに信濃更科郡の一部におよんだ。同年従三位右近衛権中将に任ぜられ、越後様・越後中将とも呼ばれる。

光長の高田在封57年間は凶作や大火、特に寛文5(1665)年の地震などの大きな災害に遭遇したにもかかわらず、

家老小栗正高・美作の強力な指導によって藩制の整備、中江用水の開削、大瀁(頸城村)その他の新田開発、魚沼

銀山の採掘、城下町の復興整備、直江津港の改修、大鹿煙草の改良増産などが進められて高田藩最盛期を現出

し、その繁栄はいまも追慕されるほどである。しかし藩の重臣間に分裂対立があり、これに嫡子が病死した

藩主光長の継嗣問題が絡んで藩内の抗争が激化し「越後騒動」といわれるお家騒動が起きたため、その責任を

問われ伊予国松山に流された。7年後赦免。元禄6(1693)年松平宣富を養子に迎え、やがて隠居して風雅を楽し

みながら余生を送った。<参考文献>『徳川実紀』,『高田市史』

仮用【かよう】

本来、別のものを、ある事柄に仮に用いること。

見取場【みとりば】

江戸時代、地味の劣る田畑、または開発して間がない新田で、反別だけをはかって石高を付けず、毎年作柄に応

じて年貢高を定めた耕地。

定免【じょうめん】

(「免」は年貢の税率)江戸時代の徴税法の一つ。過去五年から10年の収穫高を平均して税額を定め、

一定の年限を限り、豊凶にかかわらず、定められた税額を徴収したもの。もし、災害が大きい年は、

とくに破免検見(はめんけみ)という処置をとって税額を減じた。

口米【くちまい】

荘園の年貢徴収時における付加税の一つ。平安時代末よりみられる。納入年貢に対して斗別に賦課され、

付加率は一定でないが、鎌倉時代末からは田数による段別賦課も現れる。荘園領主が徴収するものや荘官の

収納事務に関わる得分などがあった。

廻米【かいまい】

近世期最大の流通消費物資となった米の輸送およびその輸送米。幕府の廻米(御城米)は御城米船により諸藩の

蔵米は廻米船により、民間米は買積かいづみ船などにより輸送された。御城米船の場合、寛文期に幕府から

交付された取締規則により、厳格な廻船雇用・運航が義務づけられていた。

【えい】

「永楽通宝」の略。

伊勢以東の幕領で、幕府の収支勘定や、関東の畑年貢、さらに物価表示などに用いた銭貨の名目的な呼称。

永銭勘定(江戸時代から明治初年までの間に行なわれた特殊計算法。すなわち金一両永一貫文銀60匁を

規準とするもので、金1分は永250文、銀12匁は永200文というように、金貨、銀貨、銅鉄銭を交じえて

の計算を簡略化したもの)。永勘定。永銭。

助郷【すけごう】

江戸時代、宿駅常備の人馬が不足で支障をきたす場合に、幕府または諸藩が、その補充のため人馬を提供

させた宿駅近傍の郷村。また、その課役や制度。最初は臨時的なものであったが、のち、恒常化し、

定助郷となる。臨時のものを代助郷などと称した。

農村で河川の土木工事などに他の村から人馬を出して助けること。

川除【かわよけ】

堤防などの水害防止施設。また、その施設を造ること。かわよき。

検見【けんみ

鎌倉・室町時代、ある事件を監察するため、臨時に設けた職。実検使よりはやや軽いもの。

中世、幕府や領主が役人を派遣して稲作の生長状態をみて、その年の年貢の率を決めること。けみ。

除地【よけち】

江戸時代、検地帳などの記載から除かれた土地。

江戸時代、領主の証文または由緒により、年貢・諸役を課されない土地。無年貢地。

黄鐘調【おうしき‐ちょう】

雅楽六調子の一つ。黄鐘の音(イ音)を主音、すなわち宮音とする旋法。

黄鐘(十二律の一つ。イ音(aの音)に相当する。おうしきちょう。おうしょう。)

【みぎり】

「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからという。

軒下などの雨滴を受けるために石や敷瓦を敷いた所。*万葉‐3324「大殿の砌(みぎり)しみみに露負ひて」

転じて、庭。また、境界。*千載‐序「紫の庭、玉の台、千とせ久しかるべきみきりと、みがきおきたまひ」

あることの行われ、または、あるものの存在する場所。その所。*高野本平家‐三「浄土の砌(ミギリ)にの

ぞめるがごとし」

あることの行われる、または存在する時。そのころ。*百座法談‐三月二七日「このみきりも、定めて過去の

四仏あらはれ給ふらむを」

梓に上(のぼ)す 

書画を板木に彫刻し、印刷して発行する。書籍を出版する。上梓(じょうし)する。

倉稲魂命【うかのみたまのみこと】

日本神話に登場する穀物神。伊奘諾尊(いざなぎのみこと)が飢えたときに生まれた神。『延喜式』の祝詞では「屋船豊宇気姫命」と

いう神に「是は稲の霊なり。俗の詞に宇賀能美多麻といふ」との説明があるほか『日本書紀』の神武天皇の巻に

「厳稲魂女」という神名がみえ、「うか」が穀物を意味する語であることがわかる。『日本書紀』の保食神や

『古事記』の豊宇気毘売神の「うけ」は、それが転じたもの。このように古い文献に「うか」「うけ」を含む

神名が多数みえるのは穀物神、穀霊が方々で祭られ、それに応じて種々の呼称が存在したことを反映するもの

らしく、この倉稲魂命もその一例と考えられる。

課役【かえき・かやく】

日本の律令制下の税目のうち成人男子に賦課する調・庸(歳役さいえきの代納物)・雑徭ぞうようの総称。

母法である唐令では租・調・役(または役の代納物の庸)を指したが、日本令における租は田積に賦課された

(田租)ため、課役には含まれないのが原則であった。

卜する【ぼくする】

うらなう。うらないさだめる。*中華若木詩抄‐下「人の是非得失を、卜(ホク)する者也」

判断する。また、さだめる。

一条天皇【いちじょうてんのう】

9801011(天元3.6.1‐寛弘8.6.22) 円融天皇の第1皇子。母は摂政藤原兼家の娘詮子(東三条院)

諱は懐仁(やすひと)。皇后は藤原定子、中宮に彰子。984(永観2)花山天皇の東宮となり、986(寛和2)花山の突然の退位に

より7歳で即位。祖父の兼家、伯叔父の道隆・道兼を摂政・関白としたが道兼の急死後は叔父道長を内覧とし

道長と協調して政務を見た。道長の全盛が築かれ、権力関係が安定する中で一条への臣下の信望は厚く、

諸学芸・後宮文学などにすぐれた人材が輩出、王朝貴族文化の隆盛を見た。1011年病により譲位し一条院で没。

中宮【ちゅうぐう】

奈良時代、ひろく宮門内、すなわち禁中。内裏。  太皇太后・皇太后・皇后の総称。

皇太夫人、すなわち天皇の母の別称。聖武天皇の母・藤原宮子を中宮と称してから始まる。

平安時代、皇后の別称。

平安時代以降、天皇の妃。皇后のほかに並立した。一条天皇の代に、藤原道長の女彰子が入内して中宮とな

り、それまでの中宮定子(藤原道隆女)を皇后としたのに始まる。

内覧【ないらん】

天皇に奏上する文書、および天皇が裁可した文書を予め見る職務。起源は9世紀末の太政大臣の職能にあり、

本来は関白と同義だったが,10世紀後半以降、太政大臣でない関白や,関白でない内覧の例が生れ、独立の職と

見なされ,天皇の宣旨で補任されるようになった。

采女【うねめ】

宮中女官の一つで、天皇、皇后の日常の雑役に従事した者。律令制施行前代では国造(くにのみやつこ)などの

地方豪族が一族の子女を宮中に奉仕させ、律令制時代では諸国の郡司一族の子女のうちで13歳から30歳まで

の容姿端整な者を選んで出仕させて宮内省采女司が管轄し、後宮の水司、膳司などに置かれた。

原則として終身の職であった。国、郡名を冠し、「伊勢三重采女」「牟婁采女」などと呼ばれた。

平安以降は変質したが、名目的には江戸時代まで続いた。うねべ。

秀逸【しゅういつ】

他のものに比べてぬきんでてすぐれていること。古くは、特に歌、句などの選考で最高の評価をいう。 

永正の乱

越後守護の上杉氏は、その代々が守護領国の統治を守護代である長尾氏らに委任する傾向にあったが、

明応3年(1494)に越後守護職を継承した上杉房能は支配体制の強化を目論み、自身による直接支配に乗り出し

た。その具体的な政策は、文明年間末期に実施された検地台帳を基に土地の面積や収穫高を掌握し、租税徴収

の徹底を図るものであったが、明応7年5月には国人領主層の特権であった守護不入の権益をも廃止したため、

その被官である国人領主層に不満が鬱積することとなったのである。

永正3年15069月に越後守護代・長尾能景が越中国般若野の合戦で戦死するとその名跡は長尾為景が相続し

たが、為景は恭順の姿勢を示していた能景とは違い、国人領主層の不満を代弁するかのようにことごとく房能の政策や方針に反発したため、対立は必至となったのである。

永正4年8月、為景が先手を打って軍事行動を開始した。この経緯には、房能が家臣の讒言を信じて為景討伐 

の準備を始めたため、これを知った為景が機先を制して挙兵したとするものや、房能が度々の為景の諫言を容

れようとしなかったために討伐に及んだとするなど諸説あるが、いずれにしても為景は8月1日に房能の養嗣

子・上杉定実を擁立し、房能が拠る越後国府中の守護館を包囲したのである。

翌2日、房能はわずかの兵と共に脱出した。房能は兄で関東管領となっていた上杉顕定を頼るために関東方面

へと落ち延びようとしたが、その途次の松之山郷天水越で為景方の追討を受け、7日の午後2時頃に自害した

のである。この合戦ののち、為景は敵対する揚北衆の本荘氏や色部氏らを攻めて降し、翌永正5年11月には

定実が幕府より越後守護に補任され、為景もその補佐を命じられた。これは為景の行動が幕府の公認を得たと

いうことでもあった。さらに為景は来攻した顕定をも破って長森原の合戦定実をも凌ぐ覇権を確立し、

越後国における下克上を完成させたのである。

長森原の合戦

越後守護代・長尾為景は永正4年(1507)8月、主君である越後守護・上杉房能を攻めて自害に追い込み

天水越の合戦、房能養子の上杉定実を新守護として擁立した。が、これを怒った房能の兄で関東管領の

上杉顕定が永正6年7月末に関東軍8千の軍勢を率いて越後国に侵攻した。

これに応じて為景の一族である上田長尾氏の長尾房長が顕定に同調したため、坂戸城が顕定勢の関東軍の拠点

となった。この動きを見た本庄房長・色部昌長・竹俣清綱ら揚北衆や上条定憲らも顕定に味方し、越後国内の各

地で為景に与した勢力を破った。8月には上杉定実・長尾為景は敗れて越中国へと逃亡、顕定は越後の府中(現

在の上越市)に入り、越後国を統括するに至る。

対する為景は国内の諸勢力や近隣諸国の援助を受けて水面下で勢力の糾合を謀った。そして永正7年4月、

為景は軍勢を立て直して越中から佐渡へ渡り、20日に蒲原津(現在の新潟市)に上陸して顕定との決戦に臨

んだ。この報に接した顕定は府中を進発、それに歩調を合わせて顕定方諸将も戦線を拡大する。が、勢いは為景

方にあり、上条定憲の寝返りなどもあって進軍を有利に展開した。6月12日には顕定の養子・憲房の軍勢を

破って妻有荘まで後退させている。

度重なる敗戦や、北条早雲や長尾景春の動きが活発になるなどしていたために顕定勢は浮き足立ち、関東への

撤退を開始する。そうした動きの中で、坂戸城主の長尾房長までもが為景方に寝返り、関東軍は退路を遮断さ

れることとなった。そして6月20日、越後国坂戸城北方の六万騎山麓の長森原で追撃を受け、野戦を展開す

ることとなった。このときの軍容は顕定軍8百余騎、為景軍5百余騎という。数に劣る為景軍であったが、激戦

の末に高梨政盛が顕定の首級を挙げた。顕定の敗死により関東軍は総崩れとなり、散り散りになって落ち延び

たという。この合戦により、為景は名実共に越後の支配者となり得たのである。

上杉 顕定【うえすぎ あきさだ】

室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名。越後守護上杉氏の出身で山内上杉家を継ぎ、関東争乱期の

40年以上にわたって関東管領を務めた。

諫争【かん‐そう】

争ってまでも強く目上をいさめること。

勘解由使【かげゆし】

令外官。国司(のちに官人一般に拡大)の交替の監査を行なった。797(延暦16)創設か。806(大同1)一旦廃止され

824(天長1)再置。長官(かみ)1次官(すけ)2判官(じょうう)3主典(さかん)3のほか、史生(ししょう)8書生(しょしょう)10を加えた。官人交替の基準として交替

式を編纂。国司交替に際して前司と後司の主張が対立すると、両者の言い分を記した、不与(ふよ)解由状が作成され、

勘解由使がこれを審査して勘判を加え、前司に官物の填納などをさせた。10世紀以降機能を弱める,勘解由使

勘文(かんもん)受領功過(ずりょうこうか)(さだめ)での重要な審査項目となった。

懸命の地【けんめいのち】

主家から与えられた、生計のたのみとする大切な領地。一所懸命の地。

一刀三礼【いっとう‐さんらい】 

仏像を彫刻するとき、信仰の心をこめて、一刻みするたびに三度礼拝すること。仏像を彫刻する態度が敬虔で

あること。

平維盛【たいら‐の‐これもり】 

平安末期の武将。重盛の子。桜梅少将、小松中将と呼ばれた。治承四年、頼朝と富士川で対陣したが、水鳥の羽

音に驚いて敗走した。寿永元年には義仲を討とうとして、倶利伽羅峠に敗れた。

人日【じんじつ】

(東方朔の「占書」に見える中国の古い習俗で、正月の一日から六日までは獣畜を占い、七日に人を占うところ

から)五節供の一つ。陰暦正月七日の称。七種の粥を祝う。

上巳【じょうし】

五節供の一つ。三月三日の称。古く中国で、はじめ三月の初めの巳(み)の日、後に三月三日に、みそぎをして

不祥を払う行事が行われたのにならい、わが国でも朝廷・貴族の行事として川辺に出て曲水の宴を張り、

はらえを行った。また、民間では、古くから婦女子の祝い日として草餅、白酒などを食したが、のちこの日に

ひな祭をするようになった。桃の節供。重三(ちょうさん)。じょうみ。

端午・端五たんご】

月の五日の日をいう。

五節供の一つ。陰暦五月五日の男子の節供。邪気を払うために菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)を軒にさし、

粽(ちまき)・柏餅を食べる。江戸時代以降、男児のある家では鯉のぼりを立て、甲冑(かっちゅう)、刀、

武者人形などを飾って子の成長を祝う。現在は国民の祝日「子供の日」。端午の節句。

濫觴【ランショ】

物事のおこり。物事のはじめ。▽長江のような大河も水源にさかのぼれば觴(さかずき)を濫(ヒタ)せるほどのわず

かな水量であるの意。また、一説に、觴からあふれるほどの水量の意。

白和幣【しらにぎて】

古くは「しらにきて」とも。生地(きじ)のままの白いにぎて。梶(かじ)の皮の繊維をさらして作ったもの。

和幣【にきて】

(後世は「にぎて」「にきで」とも。「て」は「たえ(栲)」の変化というが、「つまで」などの「て」と同

じく、「〜するためのもの、材料」の意の「て(手)」と考え、神意をなごめるためのものとする説が穏当

か)神に祈るとき、榊の枝に取り懸けて神をまつるしるしとする麻・楮の布。後には絹や紙を用いた。

あまのこやねのみこと【天児屋命】

大和朝廷の祭祀をつかさどった中臣氏の祖神。天照大神が天の岩屋戸に隠れた時占いを行ない、祝詞を唱え

た。天孫降臨に従った五部神の一神。

手草【たくさ】

(「たぐさ」とも)歌ったり舞を舞ったりするときなどに、手に持つもの。神楽の採り物としての笹などをいう

ことが多い。

俳優【わざおぎ(‥をぎ)

(上代は「わざおき」。「わざ(業)おき(招)」の意。「わざ」は重大な意図をもつ行為、神のしわざをいい、

神意を招くことが原義という)。滑稽な動作をして舞い歌い、神や人を楽しませるわざ。また、そのわざをする

人。わざびと。*涅槃経集解巻十一平安初期点「作倡(ワサヲキ)をし、伎楽し」

日前国懸神宮【ひのくまくにかかすじんぐう】

和歌山市秋月にある旧官幣大社。祭神は、国懸大神。同境内に日前神宮と国懸神宮が並立。天照大神が天岩戸に

かくれた時に作られたとする日像(ひがた)鏡と日矛(ひほこ)をまつると伝えられ、古来その神性は伊勢神宮

につぐとされる。紀伊国の一の宮。

上杉遺民一揆

兼続の催促、三成からの書状により、上杉譜代の兵達が八千人、鉄砲が二千挺集まった(『北越太平記』)。

兼続は身分の低い兵の内、智謀に富み、忠義のあるものを越後に浪人を装わせて潜入させ、寺社などに検地入

を苦情の一つとして一揆を起こさせ、堀家の会津入りを遮らせようとした(『越後風土記』)。81日、一揆は

奥広瀬から起こり、小倉主膳の守る下倉城を囲んだ。小倉主膳は討死したが、救援で駆けつけた直寄が数百人

を討ち取り一揆を鎮圧した。直政も柏崎方面へ出陣し、一揆を鎮圧した。

721日、上方で石田三成が挙兵していたため、家康は江戸に戻った。兼続は家康追撃を景勝に進言するが、

景勝は「此度の儀は堀直政の讒言により、家康が仕掛けるため、ひと合戦と支度をしたり、されど家康が此方に

構はず、江戸に引取るに於いては、此方も会津へ引取るべきは理の当然である。」と出陣を拒否した。921日、

一揆鎮圧の功により家康から感状を賜った。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いを境に一揆は自然消滅してい

った。

引付ひきつけ

後日の引合せ照合用の台帳として作成された書面をいうが、それ以外にも中世には引付と名付けられた史料が

数多く存在する。評定記録のような日録、受信文書・発給文書の控え、先例を知るための文例集等,形態は様々

である。

大彦命【おおびこのみこと】

日本書紀では大彦命、古事記では大毘古命。孝元天皇の皇子。崇神天皇が北陸・東海・西道・丹波に将軍を派遣

した際、北陸(紀。記では高志国)に派遣された。

城柵【じょうさく】

7世紀半ば〜10世紀,古代国家が、1)蝦夷・隼人などの化外けがいの民の支配や、2)唐・新羅などの外敵の侵入

に備えるためにおいた軍事的機能を有する施設の総称。とくに1)をさすことが多い。何々柵または何々城と呼

称されたが、その訓はいずれも<き>。1)は、隼人に対するものは実態が不明であるが、北辺では陸奥・越後・

出羽の各国の縁辺部に、古代国家がその支配領域の拡大とより遠方の蝦夷集団の支配を目的に城柵をおいた。

周囲に材木塀・築地塀などの外郭施設をめぐらし、中央部に諸国の国府と同様の形態の政庁を配置する。

代表的なものとして、越後の渟足(ぬたり (沼垂))柵・磐舟(石船)柵、陸奥の多賀城・桃生(ものう)城・胆沢(い

さわ)城,出羽の出羽柵・秋田城・雄勝城などがある。周辺一帯に坂東・北陸などから柵戸(さくこ)を導入して特

殊な移民郡(近夷きんい郡)を編成した。また国司の一員が城司として常駐し,軍団兵・鎮兵などの常備軍の統率

や城下の近夷郡の統轄,蝦夷の朝貢の受納などにあたった。2)は対馬、九州北部,瀬戸内海沿岸,畿内に設けられた

山城で、その多くは7世紀後半代に造営されたとみられ、神籠(こうご)石式山城と朝鮮式山城の2類型に大別さ

れる。これらは1)と異なって政庁施設を伴わない。

渟足(ぬたり (沼垂)

沼垂城(養老年間(71724)新潟県三島郡和島村八幡林遺跡出土木簡の文字)

沼垂郡(10世紀、和名抄)。故に新潟市沼垂に沼垂柵は実在。

柵戸【さっこ】

古代・東北および南九州における城柵の造営にともなって周辺地域から組織的に送り込まれた城柵付属の民。

陸奥国では坂東諸国、越後・出羽国では北陸および坂東諸国、日向・大隅・薩摩の諸国では豊前・豊後・肥後な

どの民が移配された。身分的には公戸で、城柵の周辺に居住して兵役・租調庸・出挙などを負担し、緊急時には

正規軍とともに城柵の防守にあたるなど、城柵の人的基盤として不可欠の存在であった。

判官

律令官制の四等官(長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典)の第三番目。その所属する官司の職員を糾判

し、主典の作成した文案を検査して署名し、公事および文書の稽留失錯の罪を勾勘し、宿直の順番を定めるこ

となどを司る。

【じょう】

大宝令の四等官の一つ。国司の第三位の官。

やくさ‐の‐かばね 【八色の姓】

天武天皇13年に制定された姓制度。従来の姓制度を改めて新たに真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰(すくね)

忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなき)の八姓を定めた。天皇を中心とした新体制

確立のための政策。はっしきのかばね。

御悩【ごのう】

天皇、貴人などの御病気。御悩気(ごのうき・ごのうけ)。

職原鈔・職原抄【しょくげんしょう】

南北朝時代の有職書。二巻。北畠親房著。興国元年(暦応三年)成立。日本の官職とその沿革などについて中国

との対比をまじえて詳述。

直寄【ほり なおより】

安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。越後坂戸藩、信濃飯山藩、越後長岡藩、越後村上藩主

慶長31598、堀家が越前北ノ庄城から越後春日山城へ転封となる。直寄は秀吉に直訴し、「父監物(直政)

事、老齢にして此の度、北国へ罷越し、自然彼の国にて一揆など起らば、落着くことも成り難く、是れのみ心元

なく、何卒三年の御暇を賜りたし、」と申し、秀吉も感心し、「丹後(直寄)の申し様奇特なり、早々に久太郎

(秀治)のあとより下るべし、」といい、「丹後守は器量あるものなり、父兄と共に国政を聞くべし」といって越

後魚沼郡坂戸城に2万石を与えた(坂戸藩)。

秀治【ほり ひではる】

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。越後福嶋藩初代藩主。文禄元年1592、文禄の役で

は肥前名護屋城に参陣する。文禄21593には伏見城工事に貢献した。これらの功績から、豊臣秀吉の死

の直前の慶長315984月、越前北ノ庄18万石から越後国春日山45万石へ加増移封された。

越後に移封された際、前国主の上杉景勝の家老である直江兼続が領主交代の時は半分を残す事が例とされてい

たのに、年貢米を全て会津に運び出していたため財政的に困窮した。慶長315988月に秀吉が死去する

と家康に接近し、一族の堀直重を人質として江戸に送った。慶長51600、関ヶ原の戦いが起こると東軍

に与し、それ以前の4月に直江兼続の密命で越後国内で発生した上杉景勝旧臣・神官・僧侶の一揆を鎮圧した

(越後一揆、上杉遺民一揆)。戦後、その功により徳川家康から所領を安堵された。

上杉景勝【うえすぎかげかつ】

15551623(弘治1.11.27‐元和9.3.20) 安土桃山時代の武将、江戸前期の大名。越後の長尾政景の子で

叔父謙信の養子。謙信死後の157879(天正67)、同じく謙信の養子(北条氏康の子)上杉景虎を破って家督

奪取(御館の乱)。織田信長と争うが、豊臣秀吉に屈服。その後盾により1587年越後統一を実現。翌年従三位参

議。関東平定に従軍し、ついで出羽方面の検地を実施,庄内領を加増され、1595~97年に領国検地。

1598年会津120万石(旧領を含む)に転封。秀吉晩年は五大老の一人。秀吉没後,徳川家康と対立、家康の会津討

伐は関ヶ原の戦の引金となった。敗戦後、出羽米沢30万石に減転封。

別当寺【べっとうじ】

神仏習合が許されていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺のこと。神前読経など神社の祭祀

を仏式で行い、その主催者を別当(社僧ともいう)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と言った。

神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同義。

天平勝宝4年(752)、良弁が東大寺の別当に任じられる。

荏苒【じんぜん】

歳月のめぐりゆくさま。物事がのびのびになるさま。歳月が経過するさま。のびのびになるさま。

山吹の前【やまぶきまえ】

山吹御前のことで、巴御前と共に義仲の女武将で、妻と見られることが多いけど、妾であったり、義仲の身の回

りの世話をした女。

古渡り【こわたり】

古く外国から渡ってきた品物。特に、室町時代またはそれ以前に渡来した織物、薬品、陶磁器などの称。

源頼義【みなもとのよりよし】

9881075(永延2‐承保2) 平安後期の武将。頼信の嫡子。射芸に秀で、父とともに平忠常の乱平定に従い、

後に相模、武蔵、下野等の国守を歴任、東国武者の信望を得た。1051(永承6)陸奥守として赴任し、国衙と対立

していた俘囚の長安倍頼時を帰順させた。任期終了をむかえた1053(天喜1)、頼時とその子貞任を圧迫して

挙兵に追いこみ、1062(康平5)に至り安倍氏を倒した(前九年合戦)。この功により正四位下伊予守に任じられ、

帰京途中に鎌倉で石清水八幡宮を勧請し、源氏の氏神とする(鶴岡八幡宮)

上杉 房定【うえすぎ ふささだ】

室町時代後期から戦国時代前期の守護大名。越後・信濃守護。上条上杉家の上杉清方の子で上杉房朝の養子。

上条房実の兄。定昌、顕定、房能の父。15世紀後半の約46年という長きにわたって越後を支配し、関東で享徳

の乱や長享の乱を戦う過程で守護領国を完成させた。

平城京への再遷都

弘仁元年(81096日、平城上皇によって平安京を廃し平城京へ再び遷都する詔が出された。これに対し

嵯峨天皇が迅速に兵を動かし、912日、平城上皇は剃髪した(薬子の変)。これによって平城京への再遷都

は実現することはなかった。

出挙【すいこ】

古代、稲や財物を貸しつけて利息を取ること。春の耕作前に貸し出し、秋の収穫後利息と共に収納。

元来は勧農と貧民救済のためのものであったが、奈良時代以降一種の税として諸国の有力な財源となった。

官が貸し付けるものを公出挙(くすいこ)、私人が行うものを私出挙といい、利率は公出挙で5割、ときに3割、

私出挙で十割。後世ひろく利息付貸付をいう。

ぎょう

律令制で官位を称する際、官職と位階が相当せず、位階が官職より高すぎる場合、位階と官職名の間に挿入す

る語。

善淵永貞よしぶちの-ながさだ

813−885 平安時代前期の官吏。弘仁4年生まれ。美濃 (岐阜県)の人。貞観4年弟愛成(ちかなり)とともに善淵

朝臣の氏姓をあたえられる。大学寮助教から15年大学博士となり、死ぬまで教官職にあった。陽成天皇に

「御注孝経」を講じた。仁和元年死去。73歳。本姓は六人部(むとべ)。初名は福貞。

助教【じょきょう】

律令制の大学寮で、博士を助けて授業や課試にあたった官人で、明経科にのみ置かれた。すけはかせ。

うぶすな【産土・生土・産社・産神】

⒈人の出生の地。生地。故郷。⒉=うぶすながみ(産土神)

産土神【うぶすな‐がみ】 

生まれた土地の守護神。近世以降は氏神と混同。鎮守神。うぶすな。

菅原 峯嗣【すがわら みねつぐ】

延暦12793- 貞観12870330日)は、平安時代前期の貴族・医師。氏姓は出雲朝臣のち菅原朝臣。

信濃権守・出雲広貞の子。官位は従五位上・典薬頭。左京の出身。大同類聚方の編纂に参画するなど優れた医師

であった父・出雲広貞の意志により、当時皇太子であった大伴親王(のち淳和天皇)の身近に仕える。

奉試に及第して弘仁13822左兵衛医師に任ぜられ、翌弘仁14823医博士に転じる。

天長4827内薬佑、天長7830侍医を兼任し、天長8831には医博士を物部広泉に譲り摂津大目を兼

ねた。天長10833春宮坊主膳正を兼帯。承和2835)従五位下に叙爵。淳和上皇は皇太子の頃身近に仕え

ていたことにより、峯嗣を侍医に任じて非常に寵遇したという。承和4837尾張権介、承和6839美濃

権介に任ぜられるがいずれも遙任で務めた。嘉祥2849越後守に任ぜられるが、当時峯嗣は淳和院で太皇太

后・橘嘉智子の薬湯方に携わっていたことから、翌嘉祥3850には比較的平安京に近い播磨国の国司(介)

転任されている。仁寿元年(851)従五位上に昇叙。天安2858典薬頭に任ぜられ、貞観元年859には詔勅

を受けて備中国で鍾乳石の採取をしている。貞観5863自ら老齢を理由に典薬頭を辞任し、摂津権守に転じ

て同国豊島郡の山荘に隠居。俗世間との交流をせず、薬を飲んで養生に努めたという。貞観10868既に菅

原姓に改姓していた土師氏と同族であることを理由に菅原姓に改姓している。貞観12870330日死去。

享年78。最終官位は散位従五位上。

次侍従【じじじゅう】

正員の侍従の外に、八省その他の諸官から、四位・五位の中で年功のある人が選抜され、侍従と同じく御前に

伺候(しこう)したもの。

侍従【じじゅう】

律令制で、中務省の官人。天皇に近侍して護衛し、その用をつとめる。従五位下相当官で定員八人であったが、

のち20人ばかりに増えた。

漏刻博士【ろうこく‐はかせ】

律令制で、中務省、陰陽寮に属し、時守(ときもり)を率いて、時刻の計測と報知をつかさどるもの。

時守の博士。

綵帛あやぎぬ】

美しい綾のあるきぬ。(采帛・さいはく)

官田【かんでん】

⒈律令制で、皇室の供御(くご)料を生産する田。五畿内諸国にあり、宮内卿が総括し、宮内省あるいは国司が経

営した。御宅田(みやけだ)。

⒉元慶三年設置された国有田。五畿内の田四千町を割いて、その収穫するところの稲を公用に供し、

位禄などにあてた。

玄蕃寮【げんばりょう】

律令制で、治部省の管轄下にあり、外国人客の送迎・接待や、仏寺、僧尼の名籍等を扱う所。

ほうしまろうどのつかさ。げんばのつかさ。げんばんのつかさ。

観察使【かんさつ‐し】 

平安初期の令外の官。大同元年に設置、弘仁元年に消滅。諸国を視察し、国司・郡司の治政状況を検討するも

の。日本では、平安時代最初期の797年頃、地方行政の遂行徹底を狙う桓武天皇により、地方官(国司)の行政

実績を監査する勘解由使が設置された。勘解由使は国司行政を厳正に監査し、地方行政の向上に一定の効果を

上げていた。しかし、大同元年806、桓武天皇が崩御すると、後継した平城天皇は政治の刷新を掲げ、同年6

月、その一環として勘解由使を廃止し、新たに観察使を置いた。観察使は当初、東山道を除く六道

(東海道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)ごとに設置され、六道観察使とも呼ばれた。また、観察

使は議政官の一員である参議が兼任することとされていた。観察使は、参議に比肩しうる重要な官職だった。

翌大同2807、東山道および畿内にも観察使が置かれた。併せて、参議を廃止して観察使のみとした。

観察使による地方行政の監察は、精力的に実施されていたようで、『日本後紀』には、各観察使が民衆の負担を

軽減するため、様々な措置を執っていたことが記録されている。弘仁元年810、前年に譲位した平城上皇

と嵯峨天皇の関係が悪化していく中、同年6月、嵯峨天皇は、観察使を廃止して参議を復活する詔を発令した。

これにより観察使は4年間の歴史を終えた。

御葬司【ごそうし】

奈良・平安時代、御大葬の一切の事務をつかさどった臨時の官。

大舎人寮【おおとねり‐りょう】

律令制で、中務省に属し、大舎人律令制での下級官人。交替で宮中に宿直し、行幸の供や雑用をしたに関する事

務、宮中の宿衛、行幸供奉などのことをつかさどる官司。大同三年、左右合併して一つになった。頭、助、允

(じょう)、属(さかん)などの職員を置く。

勅旨省【ちょくししょう】 

奈良時代に置かれた令外の官制。具体的内容は未詳。《続日本紀》の天平宝字8(764)10月の記事に勅旨員外

大輔の任命がみえるから淳仁天皇の時代に藤原仲麻呂の政策によって新しく設置された省と思われ。

782(延暦1)4月、桓武天皇の行政簡素化の方針によって廃止された。《続日本紀》等にみえる官人任命の記事

によって、卿・大輔・少輔・大丞・少丞等四等官制で構成された省で、雑色匠手など服翫の諸用具を製作した技

術者がいたことが判明するが、その具体的組織・活動は史料がなく未詳である。

民部省【みんぶしょう】

律令制の八省の一つ。国家財政の計画を立て、その運用を考え、諸国の戸口戸籍・租庸調・田畑・山林・道路・

橋・河川などに関することをつかさどり、主計寮・主税寮を管轄する管司。職員は、長官である卿以下、大・

少輔、大・少丞、大・少録、史生、省掌など。大宝令制定により、太政官被官の一省として確立された。

たみのつかさ。

主計寮【かずえりょう】

律令制で、民部省に属して当年の調庸その他の貢納分を計算し、翌年の収支の予算をたてる官司。

職員は頭(かみ)、助(すけ)、大少の允(じょう)、大少の属(さかん)の四等官のほかに、算師(さんし・か

ぞえのし)、史生など。おもな税である稲の収納にかかわる主税寮に対する。かずえのつかさ。かぞえのつかさ。

かぞえりょう。しゅけいりょう。

茨田の堤まんだのつつみ 

上代、河内国(大阪府)茨田郡茨田郷に築かれた堤。淀川に沿い、水害を防ぐために設けられた。

得業生【とくごう‐しょう】 

古代の学制で、明経・文章(紀伝)・明法・算各道の学生から選抜された成績優秀なごく少数の者に与えられた

身分。また、その身分の者。

【ふ】

封戸(ふご)・食封(じきふ)のこと。特定の課戸を指定して租・庸・調を収取し、これを禄とする。みふ。

左(右)将軍【うしょうぐん】

奈良時代、外国使来朝などに際して、騎兵を率いて警護にあたった職。左(右)大将。

辞見【じけん】

外国使・将軍や使者となった貴族など が、出退と来還のときに天皇と対面する儀礼。

大炊寮【おおいりょう】

律令制で宮内省に属し、諸国からの田租のうち舂米(つきごめ)を収納し、雑穀も納め、その種類によって諸司

に分給する事務などをつかさどる官司。職員に、頭・助・允・大少属各一人のほかに大炊部その他がある。

節刀【せっとう、せちとう】

奈良時代〜平安時代において、天皇が出征する将軍または遣唐使の大使に持たせた任命の印としての刀。

「節」は符節(割り符)のことで、使臣が印として持つ物の意。任務を終了すると、天皇に返還された。節刀を持

たされた将軍を持節将節刀を持たされた大使を持節大使という。持節将軍は、辺境の反乱を鎮定するため

に派遣される軍団の総指揮官で、鎮定する対象により、征隼人将軍、征夷大将軍、征東将軍などと呼ばれた。

【こう】

律令制では親王または三位以上の死去にいう。

装束司【しょうぞくし】

朝廷の儀式や天皇の行幸の際に、その衣装や設備の設営を担当する役人のこと。神亀3726年)の聖武天皇

の播磨国行幸の際に任じられたのが最初の例とされる。後に長官(三位・1名)・次官2名)・判官3名)・主典3

名)の制度が導入され、斎宮の伊勢神宮下向や皇族・大臣の葬儀の際にも任命されるようになった。

巡察使【じゅんさつ‐し】 

奈良・平安時代、諸国地方官の治績を巡察、人民の生活を視察する官。律令制では太政官に属し、臨機に設置さ

れる。平安時代に消滅。

京職きょうしき

律令制の官職の名。左京職右京職の二つに分かれて、京師(「京」は大、「師」は衆。大衆の居住する所の意

の行政、司法、民政、警察などのことをつかさどった役所。長官を大夫(だいぶ)といい、正五位相当官。

みさとづかさ。

造山司【ぞうざんし】

山稜(天皇・皇后などの墓)造営を担当する臨時の官司。

山作所【やまつくりどころ】

陵墓を造営するため臨時に置かれる官司。

大膳職【だいぜん‐しき】 

律令制での官司の一つ。宮内省に属し、宮中の食饌を作り、配膳することを司る。職員に大夫、亮、大少進、

大少属各一人の四等官のほかに、主醤、主菓餅、膳部その他がある。おおかしわでのつかさ。

国使【こくし】

国家の命を受けて外国に派遣される使者。 国司が朝廷に派遣する使者。

摂津職【せっつしき】

律令制で、難波宮の管轄と摂津国の行政のために置かれた官庁。職員は大夫・亮・大少進・大少属など。

主税寮【しゅぜい‐りょう】 

律令制で、民部省に属し諸国の田租、穀物倉の出納などをつかさどった役所。ちからのつかさ。ちからりょう。

鍛冶司【かぬちつかさ】 

律令制で、宮内省に属し、銅、鉄などで雑器を作り、また、それを作る鍛冶部(かじべ)を支配した役所。

かぬちづかさ。職員に正(かみ)、佑(すけ)、大小の令史(さかん)などがある。大同三年、木工寮に併合。

縫殿寮【ぬいどの‐りょう】

律令制で、中務省に属し、天皇および賞賜の衣服を裁縫し、組紐を編み、また女王、命婦の名帳の作成やその人

事をつかさどった役所。ぬいづかさ。ぬいのつかさ。ぬいどののつかさ。ぬい。

主油司【あぶらのつかさ】

大宝令によって設置された役所。宮内省(みやのうちのつかさ)の所管で、諸国から付加税として上納する

(こうゆ)のことをつかさどった。

式部省【しきぶしょう】

律令制で、太政官八省の一つ。朝廷の礼式および文官の考課、選叙、禄賜などをつかさどり、大学寮を所管し

た。二条大路をへだてて大学寮に面し、大内裏のもっとも南側、朱雀門のすぐ東にあった。のりのつかさ。

式部の司。式部。

大学寮【だいがく‐りょう】

律令制による官吏養成のための最高の教育機関。式部省の管轄に属し、明経・文章・明法の三本科と、算道・

書道の二付随学科があった。教官として、明経の博士一人、助教二人、算博士・書博士各二人ずつ、全学生に漢

字の発音を教える音博士二人、事務官として頭、助、大・少允、大・少属以下の職員がいた。おおつかさ。

文章博士【もんじょう‐はかせ】 

古代・中世、大学寮に属して詩文と歴史とを教授した教官。天平二年設置。平安時代には多く東宮学士、

大外記を兼ね、侍講としても仕えた。もんぞうはかせ。

東宮学士【とうぐう‐がくし】 

律令制で、皇太子に経書を進講する官。春宮坊に属し、皇太子の侍講役。学者の家から選ばれて任命された。

法王宮職【ほうおうぐうしき】  

767(神護景雲1)に設置された令外官。道鏡が法王として家政と政務を執行した官庁。道鏡は766(天平神

2)10月法王に任ぜられた。翌年3月に法王宮職が置かれ、造宮卿但馬守従三位高麗福信(こまのふくしん)

大夫(兼任)に任じ,大外記遠江守従四位下高丘比良麻呂を亮(兼任),勅旨大丞従五位上葛井道依を大進(兼任)

し、少進1人、大属1人、少属2人がおかれた。法王の月料は天皇の供御に準じたとあるから、衣服、飲食は

天皇と同じものを用いた。

内匠寮【たくみりょう】

神亀五年に設置された令外の官。中務省に属し、調度の製作、殿舎の装飾に従事した。のちに典鋳・画工・漆部

の三司を併合。頭・助・大少允・大少属などの事務官と多くの技術者がいた。うちのたくみのつかさ。

中衛府【ちゅうえ‐ふ】 

令外の官。神亀五年設置。平安時代、授刀衛を改めた近衛府と並んでもっぱら宮中の守護に当たった天皇の親

衛隊。大同二年右衛府と改称。中衛。

近衛府【このえふ

平安時代、六衛府の一つ。初め、天平神護元(765)授刀衛が近衛府と改称され、大同二(807)近衛府を左近

衛府の改め、中衛府を右近衛府と改めたもの。兵仗(ひょうじょう)を帯びて宮中を警固し、朝儀に列して威容をと

とのえ、また、行幸に供奉(ぐぶ)、警備した武官の府。左右の府に、大将、中将、少将、将監(しょうげん)

将曹(しょうそう)、府生(ふしょう)などの官があった。親衛。羽林。このえのつかさ。こんえふ。近衛。

中宮職【ちゅうぐう‐しき】

律令制の宮司の一つ。中務省に属し、中宮に関する文書事務および庶務を取り扱う。中宮は本来太皇太后・皇太

后・皇后の総称であるが、現実には特定の個人を指しており、従って中宮職も特定の個人に付された官司を意

味する。大夫(だいぶ)などの職員もその人に縁故のある人が選ばれることが多かった。きさきのみやのつかさ。

征夷使【せいいし】

蝦夷征討のために設けられた職(使節)。

征夷大将軍

征夷使の長官。天皇から節刀を賜与され、「持節征夷大将軍」「征夷大使」「征夷将軍」とも称した。定員は一人。

征夷将軍の初任は720年の多治比県守、征夷大将軍の初任は794年の大伴弟麻呂。

征夷副将軍

征夷使の次官級。「征夷副使」とも称した。

検校【けんこう

物事を調査し考え合わせること。取りしらべること。けんぎょう。

大納言【だいなご】

律令制で、太政官の次官。大臣と共に政事を議し、大臣不在の時は代行した。令に規定する員数は四人である

が、慶雲二年ん定員を二人に減じて、他に中納言三人(令外の官)を設けた。のち平安時代に権大納言を置くこと

となり、この員数は漸増し、平安末期には八人に達したから、定員を六人と定めた。唐名、亜相・亜槐。

おおきものもうすつかさ。おおいものもうすつかさ。

治部省【じぶしょう】

律令官制で太政官八省の一つ。家々の姓氏を正し、五位以上の継嗣・婚姻・祥瑞・喪葬・贈賻・国忌および外国

使臣の接待、族姓の席次の訴訟などをつかさどる。雅楽寮(うたのつかさ)、玄蕃寮諸陵司(後に諸陵寮)、喪儀司

が属していた。職員は、卿、大・少輔、大・少丞、大・少録がいた。おさむるつかさ。

兵部省【ひょうぶ‐しょう】 

律令制で太政官八省の一つ。諸国の兵士・軍事に関する一切のことをつかさどり、また隼人司を管轄する。

他に兵馬(ひょうま)・造兵・鼓吹(くすい)・主船・主鷹司の五司も被管であったが、他の官司に併合されたり、

廃絶したりした。卿、大輔・少輔、大丞・少丞、大録・少録などの職員を置く。つわもののつかさ。

養役夫司【ようやくぶし】 

葬儀のために人夫に衣食を提供する司。陵墓造営の役夫(やくぶ)に糧食などを支給 する養民司。

中務省【なかつかさ‐しょう】

律令制での八省の一つ。宮中の政務を取り扱い、八省のうちで最も重要と考えられていた役所。

卿以下の四等官は天皇に近侍し、詔勅の宣下や位記の発行、上表の受納、国史の監修、女王・命婦・宮人の名

帳、僧尼の名籍などをつかさどる。職員は、四等官のほか、侍従、内舎人、内記、監物、典鑰(てんやく)、

主鈴があった。管轄下に中宮職のほか、六寮(大舎人・図書・内蔵・縫殿・陰陽・内匠)、三司(画工・内薬・

内礼)がある。なかのまつりごとのつかさ。なかのつかさ。

大内記【だいないき】

律令制で、中務省に属して詔勅をつくり、御所の記録のことをつかさどった内記六人のうち、上位二名の官名。

図書寮【ずしょりょう】

律令制での官司の一つ。中務省(なかつかさしょう)に属して、官有の書籍・仏具の保管、図書の書写・製本を行い、

紙・筆・墨などを製造して諸司に給付し、また、国史の修撰を掌った役所。ふみのつかさ。

大蔵省【おおくら‐しょう】 

律令制で太政官八省の一つ。諸国からの調(ちょう)を収納し、銭貨、度量衡、購入物の売り値の決定、貢献され

る雑物の管理等を行なう。典鋳司・掃部司・漆部司・縫部司・織部司の五司を被管とした。職員には卿、大輔、

少輔、大丞、少丞、大録、少録、史生、大主鑰、少主鑰その他がある。大蔵のつかさ。

刑部省【ぎょうぶ‐しょう】 

律令制での八省の一つ。太政官の右弁官局に属して、訴訟の裁判や罪人の処罰などをつかさどった役所。

九世紀以降は、その機能のほとんどが検非違使庁に移った。うたえのつかさ。うたえただすつかさ。ぎょうぶ。

諸陵寮【しょりょう‐りょう】 

奈良時代、天平元年諸陵司(代々の天皇皇族の陵墓を管理し、喪葬・凶礼・陵戸の名籍などを掌り、正、佑・令

史の職員がいた)を天平元年諸陵寮と改称。頭・助・大少允・大少属などの職員がいた。

奉幣【ほうへい】

(「ほうべい」とも)神に幣帛(へいはく)を捧げること。

奉幣使【ほうへい‐し】

奉幣のため、陵墓・神社などに参向する使者。

勘奏【かんそう】

いろいろ調べて上奏すること。

奏議【そうぎ】

君主に意見を申しあげること。また、その意見。

侍読【じどく】

主君のそば近く仕えて書を講ずること。また、その人。じとう。

相撲司【すもうのつかさ】

平安時代に相撲節会(毎年7月)にあわせて式部省(後に兵部省)に設置された臨時の機関及びその任にある者。

左右に分かれており、後に長として左右の相撲司の上に親王が任じられる「(相撲司)別当」が設置された。

奈良時代には抜出司(ぬきでし)と呼ばれていた。毎年節会が行われる1ヶ月前の6月に中納言・参議・侍従級か

ら複数選んで中務省が選任した。定員は三位から五位までのうちから左右併せて24名程度左右それぞれ12名)

が選出され、その指揮下に置かれた丞や大舎人、楽人らが付けられた。

当日は別当である親王以下、相撲司の面々が中務省の官人や前駆を務める近衛府・兵衛府の将兵とともに参加

者である相撲人・楽人・舞人を衛門府の南門から宮中に置かれた儀場まで誘導するとともに、節会の前には

相撲人ら参加者とともに乱声・入場行進・厭舞などのパフォーマンスを天皇の前で披露した。

馬寮【めりょう】

律令制における官司の一つ。兵衛府の被管で、官牧から貢する官馬の調習・飼養および供御の乗具の調製など

をつかさどる役所。左右に分かれ、各寮に頭・助・大少属允・大小の四等官のほか、馬医・馬部などの職員を置

く。桓武天皇のころ、左右を合わせて主馬寮としたが、のち旧に復した。うまつかさ。

蟻集・蟻聚ぎしゅう

蟻(あり)のように数多く寄り集まること。

碩徳【せきとく】

徳の高い人。高徳の人。学徳ともにすぐれた僧にいうことが多い。

口永【くちえい】

江戸時代、金納の貢租に付加された銭、または銀。本租永一貫文に対して三〇文を定率とした。

銀納の場合を口銀、銭納の場合を口銭(くちせん)といった。

取箇【とりか】

「箇」は数で、出来高の意。収穫物のうち幕府または領主の取分、取前の意)江戸時代、田畑に課した年貢の

こと。成箇(なりか)。物成(ものなり)。取り。

石盛【こくもり】 

検地に際して田畑・屋敷地の公定収穫量(石高)を算出することをいうが、その反当り換算率すなわち斗代のこと

をもさす。石盛によって算定された石高に一定の率をかけて年貢・諸役が賦課されたので、石盛の高低は貢租量

の多少に関係した。斗代の決定は、田畑の優劣によって上・中・下・下々などに位付けし、上田と見立てた場所

23ヵ所で1(3.3m2)ごとの坪刈りをし、もし坪当り平均籾1(1.8g)があれば1(991.7m2)

3(541.2g)あり、それを五分摺りすれば玄米15斗を得るから、1(18g)15倍ということで

15の盛〉または〈15斗代〉といった。

平維茂【たいらのこれもち】 

平安時代前期の武将。生没年不詳。桓武平氏平国香の次子繁盛の孫。兼忠の子。平貞盛の十五男として養子にな

ったので、のちに余五将軍とよばれた。従五位上に叙し、信濃守、出羽介に任じ、陸奥国に所領をもち本拠とし

た。みずからは鎮守府将軍を称した。《今昔物語集》に藤原秀郷の孫諸任と合戦する維茂の話がある。

維茂の子出羽介繁茂は、のちの越後城氏の祖となった。

地券【ちけん】

地租改正は税収の安定化を図り、年貢に代わる新たな税制度を確立することを目的として行われた。

それまでの検地や検見は廃止され、一律に地価に課税することになり、地券が発行された。このとき発行され

た地券を改正地券と言う。改正地券は土地の権利証というだけでなく課税と納税の証書でもあった。

  地券には、この改正地券とそれ以前に発行された壬申地券がある。壬申地券とは、地券発行が開始された

明治5年(1872)の干支による呼称で、市街地券と郡村地券の2種類があります。市街地券は、江戸時代に無

税地であった町地に課税することが目的で、郡村地券は、田畑売買の解禁による土地の異動を明確にする目的

で発行された。しかし壬申地券発行期限までに発行を完了した県府は少なく、明治6年(1873)の地租改正法

公布後も、地租改正の前提作業として壬申地券の発行は継続された。

  明治6年(1873)の地租改正法により、地租は地価の3%となり、全国で地租改正事業が開始され、明治8

1875)から本格化していく。明治8年(1875)には、1%であった市街地の税率も郡村と同様に3%となり、

地租改正の様式も統一されます。明治10年(1877)に税率は2.5%に引き下げられた。2種類の壬申地券は地

租改正の過程で改正地券に書き換えられたが、改正地券も明治22年の土地台帳規則により廃止となる。

血取場【ちとりば】

や牛の食欲を増すため、あるいは元気を出すために上顎に溜まった悪い血を取り除く行為のことだそうで、

この血取りをした場所が、血取り場だったようです

郷蔵【ごうぐら】

江戸時代、年貢米の保管、または凶作に備えての貯穀のためなどに村々に設置された蔵。

里俗【りぞく】

地方の風俗。土地のならわし。

本草綱目【ほんぞうこうもく】 

中国の本草書。五二巻。明の李時珍撰。万暦六年成立。「本草」および梁の陶弘景の「名医別録」などの本草書

を整理し薬の正名を綱とし、釈名を目とし薬となる品目千八百余種を分類し、産地・形状・処方などを記した

書。日本には慶長一二年伝来、わが国本草学に大きな影響を与えた。その虫之2に「大曰蝶小曰蛾」また

「百合花化蝶北戸録謂樹葉(じゅよう)蝶」

新撰字鏡【しんせんじきょう】 

平安前期の漢和辞書。一二巻。僧昌住著。寛平4(892)年草案、昌泰年間の成立。漢字約21,300を偏・旁など

によって分類・排列し、字音・意義・和訓を記したもの。現存する日本最古の漢和辞書として資料価値が高い。

その虫部に「蝶、可波比良古」とある。

白蝶はくちょう】

トビゲラであろう。毛翅(もうし)目に属する昆虫で小蛾類によく似ている。完全変態で幼虫は水中に住み、

円筒状又は扁平な巣をつくる。時に大発生して低く群れ飛ぶことがある。

蟻集・蟻聚ぎしゅう

蟻(あり)のように数多く寄り集まること。

東首【とうしゅ】

東に頭をむけて寝ること。東枕。

「方里」

一辺1里の正方形の面積を示す「方里」( = 1555.2町≒15.423平方キロメートル)を用いる。

単位度量衡)

長さ・距離(度)は、尺を基本の単位とする。他の単位は尺と独立に発生したと考えられるが、

後に尺と関連づけられ、その整数倍または整数分の一となった。

1 = 36                 ≒3.927キロメートル

1 = 60 = 360             109.09メートル

           1 = 6               ≒1.818メートル

               1 = 10 = 10/33メートル 0.303メートル

1 = 10              3.03メートル

面積

古代中国の周代に、歩幅2歩分(右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足まで

の長さ)を「歩」という長さの単位(身体尺)とした。その歩を一辺とする正方形の面積のことも「歩」と呼ん

だのが面積の単位「歩」の始まりである。このときの1歩(面積)は現在の歩よりも小さな面積であったが、

後に6尺四方の面積と定められた。

明治時代に1=(10/33)mと定められたので、1=(10/33×6)² = 3.305785uとなる。

また、1u = 0.3025坪(正確に)である。

坪または歩は、尺貫法における面積の基本単位となっている。坪の倍数単位には以下のものがある。

-- 1 = 0.1

-- 1 = 0.1

-- 1 = 30 = 99.174平方メートル = 1アール(a)

反(段) -- 1 = 10 = 991.74平方メートル = 10アール

町(町歩) -- 1 = 10 = 9917.4平方メートル = 1ヘクタール(ha)

畝・反・町の値は1アール・10アール・1ヘクタールの値に非常に近いので、

面積の単位についてはメートル法への移行はスムーズに行われた。

引堤【ひきてい】

河川改修工事で既設の堤防を、川の外側に移動させ水路幅を拡大し、流水可能な流量を増やす。

冥加金【みょうが‐きん】 

神仏の加護を得るために、また、神仏の加護に対する謝礼の意として、寺社に奉納する金銭。冥加銭。

江戸時代の雑税の一種。本来は農業以外の種々の営業者が営業を免許され、または特別の保護を受けた報償

として、利益の一部を金銭で領主に上納したもの。のちには一定額を年々課税するようになった。冥加銭。

出目【でめ】

二つの数量を比較して、一方が他より多い場合の差額。

江戸時代、再検地や貨幣改鋳などの結果、従来より数量が増加した場合、その差額のことをいう。出目高。

出目高【でめたか】

江戸時代、再検地や貨幣改鋳などの結果、従来より数量が増加した場合、その差額のことをいう。

高張提灯【たかはり‐ぢょうちん】

長い竿サオの先につけて高くあげるようにこしらえた提灯

反間【はんかん】

敵国に入りこんで敵情を味方に知らせたり、その混乱を図ったりすること。また、その人や任務。間者。間諜。

進退【しんたい】

(―する)心のままに取り扱うこと。意のままにすること。自由に支配すること。心のままに、土地や人間を取

り扱うこと。所領・所職について宛行(あてがい)・没収や補任・改易の権利を持ち、その権限を自由に行使す

ること。また対象である所領・所職。進止。

除地【よけち】

江戸時代、検地帳などの記載から除かれた土地。江戸時代、領主の証文または由緒により、年貢・諸役を課され

ない土地。無年貢地。領主の証文または由緒により、年貢・諸役を課されない土地。無年貢地。

草高【くさだか】

江戸時代、領内から産出する米の総高をいう。

色高【いろだか】 

空閑地または畑の周囲に桑・漆・楮コウゾ・茶などを栽培する者に課税し、小物成(物成または本途物成以外の

雑税・運上などの税額を石高に換算し、村高に組み入れたもの。

七箇國分

以前に宗盛に畿内(山城、摂津、和泉、河内、大和)五カ国と丹波、近江が与えられ、四国(讃岐、伊予、阿波、

土佐)は行家に、九州(筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隈、薩摩)は義經に与えられ、

頼朝には東海道、東山道なので、北陸道(越前、若狭、加賀、能登、越中、越後、佐渡)かもしれない。

代官【だいかん】

.中世、主君の代理として事にあたる者。幕府の職制に定められた正官の代理を勤める者。諸国では守護の

代官を守護代といい、知行国では目代を知行主の代官といった。とくに守護代、地頭代をさすことが多い。

2.中世、荘官の下で荘園管理など、その職務を代行した者。預所や請所、下司代(げしだい)など。

3.江戸時代、幕府の直轄地(天領)数万石を支配する地方官の職名。勘定奉行に属し、管轄地の年貢収納と

司法検察を主務として民政一般をつかさどった。

御蔵入おくらいり】 

年貢が領主の蔵に直接はいったところからいう)戦国・江戸時代、領主の直轄地のこと。徳川氏の蔵入地

(御料)は、幕府領七百万石のうち約四百万石を占めたが、諸大名では給地(名領主から知行を分給された土地)

が蔵入地を上回るのが普通。御料。御料所。蔵入。

請所【うけしょ】

毎年一定額の年貢公事の納入を請負う契約、およびその所領。荘園公領の本所より年貢徴納に関する一切の荘

務権を委任された。平安時代の郡郷司による請負い,鎌倉時代の地頭請、南北朝・室町時代の守護請、土倉・

酒屋や武家被官人による所務代官請、地下(じげ)百姓請などがある。所領内外の所務違乱に対処したり豊凶にか

かわらず代官の立替えによって年貢を収納するなど、その主たる目的は請負人の下地経営能力や武力・資力を

頼んで一定の年貢を収納することにあった。しかし、未進(みしん)の増大は一般的趨勢であった。

封土【ほうど】

諸侯や大名が、主君から領知権を与えられて支配する土地。

封戸ふこ】

封戸には皇親の品位によって支給される品封(ほんぷ)、役人の位階によって支給される位封(いふ)、職掌による

職封(しきふ)特別に天皇の命令で支給するもの(功封や別勅の賜封、増封など)があった。また寺への封戸(寺封)

の支給は天皇の勅があった場合のみみとめられ、5年間に限って支給された。品封は一品(800)から四品(300

)までの4段階により、位封は正一位(300)から従三位(100)までの6段階により支給し,妃,夫人,

嬪を除く女性は半減して支給した。

知行概念の変質中世期の特徴は、土地の支配権および収益権をめぐって、中央貴族や有力寺社、在地領主・地

頭・名主など様々な主体が入り組みながら重層的な権利関係を形成している点にあった(これを職の体系とい

う)。しかし、鎌倉時代後期頃から、主に地頭によって、重層的な関係を解消し、一元的な支配体系が指向され

るようになっていった。このような一元的支配を一円知行というが、こうした動きは室町時代に入ると一層加

速していき、守護大名による守護領国制が形成され、さらに戦国時代の戦国大名による大名領国制へ発展して

いった。その中で、様々な主体が担っていた所領支配は、武士の手中へと収まっていき、「知行」の語は、

武士が主君から給付・安堵(保証)された所領を意味するようになった。知行面積=知行高は、

主君が武士に賦課する軍役の基準となり、その知行高の算出は、戦国期においては貫高により表された。

江戸時代になると、知行高は石高で示された(一部では永法も用いられた)。平和で安定したこの時代、

知行高は、厳格な体系を持つ武士内部の身分指標の役割を持つようになった。

賜封【しふう】

律令制下において、政治面、軍事面で功績のあった者などに別勅で与えられた封戸。

【しかり】

江戸時代、庶民に科した最も軽い刑罰。奉行所の白州に呼び出し、その罪を叱責するだけで放免するもの。

そのうちの重いものを急度叱(きっとしかり)という。犯罪者本人だけでなく、連座した者にもしばしば適用さ

れた。

宥免【ゆうめん】

寛大に罪をゆるすこと。おおめにみること。

追払【おいはらい】

江戸時代、追放刑のこと。江戸前期に用いられた語で、御定書では追放の名に統一された。

追込おいこみ

自由刑の一種。押込【おしこめ】:江戸時代の刑罰で、門を閉じ蟄居させ、外出を禁ずるもの。

太刀取【たちとり】

罪人の首を切る者。また、切腹の介錯(かいしゃく)をする者。

同心【どうしん】

江戸時代、諸奉行、所司代、城代、大番頭、書院番頭などの配下に属し、与力の下にあって、

庶務や警察の事に従った下級の役人。

先途【せんど】

これからさき。進んで行くさき。ゆきさき。前途。結局のところ。ゆきつくところ。最期。人の死。

熊野の牛王【ごおう】 

熊野三社が発行する牛王宝印。熊野の神使として古来信ぜられている烏を七五羽点綴して、「熊野牛王宝印」

と記した護符。熊野神社の神は妄語(もうご)の罪を責めるところから、起請文を記すのに用いられた。

熊野牛王。

当路【とうろ】

交通の要路にあたること。 重要な地位についていること。枢要の地位にあること。

進達【しんたつ】

下級の行政機関から上級の行政機関に対し、一定の事項を通知し、または一定の書類を届けること。

進達書【しんたつ‐しょ】:進達の書状。また、役所などへの上申書の添え状。

下付【かふ】

政府や役所などから人民に金や物、書類等を授け与えること。

愁眉を開く【しゅうびをひらく】 

(しかめた眉をもとにもどす意)悲しみや心配がなくなって、ほっと安心した顔つきになる。

悲しみや心配がなくなる。安心する。

優曇華【うどんげ】

⒈(「うどんはらげ(優曇波羅華)」の略)クワ科のイチジク属の一種。インド原産で、ヒマラヤ、インド、セイロンなどに分布。葉は長さ1018cmの先がとがった楕円形。花は小形で壺状の花托に包まれ、外からは見えない。果実は長さ約3cmの倒卵形で食用となり、葉は家畜の飼料となる。仏教では、花が人の目に触れないため、咲いたときを瑞兆とみ、経典には三千年に一度咲くと伝える。咲くときは転輪聖王(てんりんじょうおう)が出現するという花。霊瑞華。空起花。希有花。うどんげの花。うどんげばな。

仏にあいがたいことや、一般にきわめてまれなことのたとえに用いる。優曇波羅華(うどんはらげ)。

うどんげばな。*虎寛本狂言・花子「たまたま逢ふこそ優曇華なれ」

法会【ほうえ】

仏語。経典を講説・読誦すること。また、その集まり。法華会・最勝会など。広義には仏事・法要を含み、

仏菩薩を供養し、仏法を説き、また、読経して死者の追善供養をすること。また、その行事、集会。法養。

一掬【いっきく】

(「掬」は水などを手のひらですくう意)ひとすくい。ひとにぎり。また、わずかな量。「一掬の涙」

後鑑【こうかん・後鑒・後監】

後日の亀鑑(きかん)。のちのちの手本。「前規後鑑」

罪累【ざいるい】

罪をかさねること。罪に連座させること。罪を他に及ぼすこと。まきぞえ。

断獄【だんごく】

罪を裁くこと。裁判をして罪状に判決を下すこと。断罪。

加重【かちょう】

累犯、または一名数罪、数名数罪の場合、罪名を変えないで法律上の範囲で刑を重くすること。

累犯加重、併合加重の二種。

弓矢八幡【ゆみやはちまん】

弓矢の神である八幡大菩薩。武士が誓いを立てるときに、「照覧あれ」などを伴って用いた。

寸毫【すんごう】

(「毫」は、秋になって生え変わった獣の細い毛。)きわめてわずかなこと。秋毫。

割元【わりもと】

「割元総代」の略。江戸時代、郡代・代官の下にあって一郷の名主・庄屋 を支配し、おもに法令の伝達と

年貢の諸役の割り当てにあたった半官的職名。時代や場所により大庄屋、割元名主、庄屋、惣庄屋とも称した。

百姓代【ひゃくしょう‐だい】 

村方三役の一つ。名主、組頭とともに、江戸時代に郡代や代官の支配下で名主以下村内のすべての職務を監督

し、事あるときは村民を代表したもの。村内の大高持の中から選挙によって決定される。

蔵入地【くらいり‐ち】 

(年貢が領主の蔵に直接はいったところからいう)戦国・江戸時代、領主の直轄地のこと。徳川氏の蔵入地

(御料)は、幕府領七百万石のうち約四百万石を占めたが、諸大名では給地が蔵入地を上回るのが普通。

御料。御料所。蔵入。

附洲【つきす】

新しくできた川洲

出作・入作 【でさくいりさく】

世において、百姓が他村・他領に田地をもち、その村へ出かけて耕作することを出作といい、田地のある

村のほうでは、これを他村よりの入作といった。近世初頭に行われた検地・村切りは、中世的な郷・庄を分割

し、「年貢村請」の単位として、複数の近世的な村を成立せしめたが、この過程は、中世末以来、

郷規模村落の中で展開していた複雑な請作(うけさく)関係、出作・入作関係を全体としては整理する役割を

果たした。たとえば、A村の百姓が周辺に新田を開き、これを同郷のB村の者に請け負わせ耕作させていた場合

B村からみるとA村への出作)、この土地は直接生産者たるB村の百姓の保有地=年貢負担地としてB村の村高

に編入された。しかし、検地・村切りは、出作・入作関係を完全に断ち切るまでには至らず、数か村にまたが

る出作・入作関係として残存される場合もあった。こうした旧来の出作・入作関係の一定の残存のうえに、

近世中期以降の、居村を越えた土地の質入れ、上層農民の土地集積、広範な地主小作関係の展開などが相まっ

て、出作・入作は近世を通じて存続した。なお、小作のことを入作という場合もあり、さらに、他村に塩浜を

有する者が、その村へ行って製塩することを出作という場合もあった。

天水【てん‐すい】

天から降った水。雨水。