歯突起後方偽腫瘍 &環軸関節亜脱臼
2016/10/15
最近の医療技術に驚嘆し敬服しました。今春、急に手足が急変し、箸を持って食事がとれなくなり文字を書くのも困難になりました。
病院で検査をして頂きMRIで頸椎の中の神経が圧迫され細くなっているのが分かりました。早速、専門の神戸労災病院を紹介して頂き、
詳しい検査の結果、環軸関節亜脱臼と歯突起後方偽腫瘍という病名が分かりました。そく、入院し7月に頸椎後方固定術という手術を受けました。
手術は5時間くらいかかったらしいです。本人は気がついたときはベッドの上でしたが。
さて、1日は安静でしたが、後、そろりと歩きまわれました。直前に心配していた事は何だったのか。
おかげさまで現在は手足とも元通りになりました。
傘寿
傘寿を過ぎて2年が経ちました。この数年はいろいろ有りました。長い間HPの編集もして居ませんでした。最近やっと落ち着き(心身とも)ぼちぼちして行きます。
水泳の方はクロールがしんどく背泳専門です。肺活量のせいか上を向いて泳ぐ方が楽になりました。疲れが溜まらないよう500mで打ち切りです。
喜寿を迎えて
この年頃の人其々で、私の友人で同い年ですが、最近マスターズ水泳全国大会で50mバタフライ2位で泳いだということです。タイムがなんと40秒そこそこ。すごいですね。驚くのはまだ早い、彼はペースメーカーを埋める手術をしています。
それに比べ、わが身にかえれば、最近25mをバタフライで泳いでもあと二かきくらいで止まってしまうざま。
体力の衰退だけではない。 ぼちぼち頭のほうも気をつけなければ。 隣の部屋へ用足しに行くが、着いて、はて何をしに来たのか?しばしばの出来事です。
昨日、年1回のOB会に出席してきました。出席表を見て顔見知りが来ているのを確認。しかし探せどいない。そばに立っているが老化が早いので人相が変わっているのです。
懸命にくいしばる今日この頃。
昭和8年生れ
ネット検索で、昭和8年生れと開いて見ていると、多士済済なる各々方の思い出がいろいろとページに書かれています。
一番目につくのは、やはり集団疎開から終戦にかけての思い出でしょうか。
私も昭和19年から昭和20年3月にかけての学童疎開を小豆島で経験しました。寒霞渓の麓は極楽寺と言う寺で国民学校小学6年生でした。小学校卒業までの半年ばかりでしたが、当時の事は昨日のように思い出されます。大阪より父母から離れて不安な気持ちなどは通り過ぎ、空腹に耐えかね路上のみかんの皮を拾って食べていたのが思い出されます。
さて、国民学校小学生も卒業し中学校へ入学するため、6年生全員が帰阪したのが昭和20年3月、それまではそれほど激しくなかったB29の空襲がこの期を境に猛烈さを増します。何の為の疎開だったのか。とりあえず、大阪市立酉島工業学校(旧制)に入学。しかし勉強どころではない、登校間も無く空襲警報、淀川の堤防をトボトボと帰宅途中、いきなりバリバリと地上の砂煙り、機銃掃射です。上空を見上げると主翼の先が四角いグラマン戦闘機が飛んでいて若い飛行士の姿も見えます。最初から子供一人が歩いていて殺すつもりはありません。からかっているのです。するといきなり淀川の水面ぎりぎりにあっと!なんと伝法大橋(現在の国道43号線)の橋桁の下を通り抜けた。当時は地盤沈下も無く高さはあったのです。完全に制空権を握った彼らにはまとない遊び場でした。 やっと電車で最寄の出来島駅に降り池の傍を歩いていると、今度は空から金属片がばらばらと落ちてきて水面がプシュプシュと音がするではないか。日本軍が打った高射砲の弾丸の破片です。
ある日の事、登校して見た学校の風景は校舎の三分の一が残っているだけの無残な光景、一夜の出来事でした。
さて、時は過ぎ終戦後、後日同じく戦災に会った市立泉尾工業の仲間と一緒に集められた場所が中ノ島に隣接する或る小学校でした。
当時、北浜の交差点南西部角にGHQの施設が有り上半身裸の米兵が中ノ島の原っぱでなにやらペンキで看板を書いていました。HOSPITAL 最初に覚えた英単語です。
またも、一年位で移動です。今度は酉島、泉尾、都島、各市立工業学校が合同集結。場所は現在の大阪市都島区にある都島工業高校の場所でした。
しかし、合併間も無く3年生も終了の時現在の6.3.3製の教育制度が発足しました。
人間の知性、体力が培われる貴重な時期にかくも悲惨な時を過ごした嗚呼、昭和8年生れ(正確には昭和7年生れも)の人達よ!
(昭和8年生まれのリンク集)を見てください。私の思い出よりもっと正確かつ詳細、上手に記されています。
我が家の家宝
古い話ですが第9回オリンピック(1928年アムステルダム)の水泳自由形で日本人初のメダリストになった高石勝男という人がいました。 ターザン映画の初代俳優ワイズミューラーと決勝を競った人です。
私の亡父が腕白時代高石勝男さんと仲がよかったせいもあり、又地元(大阪市西淀川区西島町 大阪湾淀川神崎川に囲まれた小さな島)もかなり影響がありました。当時小学校としては立派なプールもあり当然私も水泳に馴染んでいました。
時は過ぎ、私も中年の域に入り再び水泳に熱中していた頃、昭和61年に神戸のポートアイランドのNASで近畿マスターズが開催された時のことです。
私はGランク(50歳前半)で200メーター個人メドレーに出場しました。 レースが終わり何時ものことながらアナウスが始まります、 語尾を引っ張る例のあの甲高い声。
(第Tのコースマナミ君ターイム3分51秒)と、 ここまでは何時ものことで無感情で聞いていました。 相変わらず遅い記録。 しかし次の普通の低いトーンに変わったアナウンスを聞いてビックリ (このタイムは日本新記録です) なんやこれは!
当時はまだスイミングクラブもあまり普及していなく又マスターズに出場する人もあまり居ません。従って空席だったのです。
競技も終わり表彰式に入る。 頂いた記録証の表題には、日本新記録樹立の栄光をたたえる とある。
又そうそうたるメンバーの名前が。名誉会長 清川正二(70余年前ロサンゼルス大会100メーター背泳ぎゴールドメダリストでソウル大会で鈴木大地選手にメダルをかけた人)会長 北村久寿雄(ロサンゼルス大会1500メーター自由型ゴールドメダリスト)他にいろいろ書いてある。
以来この表彰状は我が家の書斎の天井近くに家宝として塵にまみれ飾ってあるが見てくれる人は皆無。 たまに来る孫に家内がしきりに説明する。 しかし、 ふんと肯くだけ。
しかし我が家の家宝はあくまで家宝 終生思い出と共に残るでしょう。
サプリメント
先日新聞に80歳になる或る有名な落語家の方が毎日1000メーター泳いでいることが掲載されていました。 ドクターよりせめて500メーターにするよう言われているらしいです。 世間には老いて益々元気にされている方がごまんとおられます、私と同年の三浦雄一郎さんなどには私など足元にも及びません。
私の在所はJR福知山線より約12kほど離れた所にありますが、私も健康維持を目的に14k離れたニュータウンにあるスポーツセンターに週4日通っております。 メニューは40分のマシンと500メーターの水泳ですが、これ位が精一杯で、40歳代の時の三分の一のメニューです。80歳までもつか怪しいものです。 シニアの方がよりいっそう人並み以上に体力を維持し頑張っていくのに日頃どうしておられるのでしょうか?
私など20年前国立循環器センターで先天性心房中隔欠損症と診断され、より人並み以上に健康には関心を持ってきました。
私は昔よりサプリメントの世話になっております。メインはビタミンEですが、アルファー型トコフェロールを1日300mg摂取しております。その他マルチビタミンを少々。 ビタミンの過剰摂取はよくないとよく言われていますが、何十年も続けている私には合っているらしい。
前述の方々はサプリメントなんか関係ないのでしょうか知りたいですね。我ながらつくずく思います。 体が二つ欲しいくらい趣味を沢山持ち、あっちもこっちにも手を出し、好きなインターネット碁を始めるのが夜になってから、おかげで頭が興奮から醒めぬまま寝床に入り睡眠障害。止む無く睡眠薬の世話になることもしばしば、大リーガーの佐々木選手も登板の前夜でも服用していたとかでたいしたことはないらしい。裏返しで考えれば睡眠薬を欲しいと感じるのは元気の証しかもと。
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