|
研究報告
天野恵:騎士道と火器(3) [5/6]
こういうスイス式の密集隊形と言うのは、あくまでも密集隊形であり続けるところにその強さがあるわけで、バラけてしまったらおしまいである。だから、何が何でも当初の隊形を維持することが絶対に必要で、普段から訓練を積んで一糸乱れぬ動きができるようにしておく必要があるのはもちろんのこと、兵隊は戦闘中に何が起こっても、たとえ周囲の戦友が敵にやられてバタバタ倒れていこうとも、決してひるんだり動揺したりしてはならない。
傭兵とは言っても、ならず者の集団などに真似のできる芸当ではないし、それにとどまらず、個人をとことん集団の論理に従わせるこのような行き方は、当時のヨーロッパの戦士階級の常識からすると非常に特殊であり、西欧の封建社会ともイタリアの都市社会とも異なるスイス独特の社会が背景にあったことは間違いない。
スイス軍がこういう戦法を編み出したのは15世紀のことで、とりわけブルゴーニュ公国との戦争を通じてであったと言われている。1422年にミラノ公国との間にアルベードの戦いというのがあって、このときにもスイス歩兵が騎士団を相手に戦っているが、マンゾーニの悲劇で名高い傭兵隊長カルマニョーラ伯の率いるミラノ勢に完敗しているので、スイス式の戦法はまだ完成していなかったのだろう。
それでも、このアルベードの戦いでは、兵力的にも優勢であったミラノの騎士団を向こうに回してスイス歩兵がおおいに健闘し、緒戦においては敵を敗走させる一幕があったうえ、勝ったカルマニョーラの方も自軍の騎士を下馬させ、徒歩で戦わせることによって勝利をつかんだのだと言われている。だから、少なくとも騎士団だけではスイス歩兵を殲滅するのが無理であったことは間違いなさそうである。
ただし、このときの密集隊形は一隊だけだったようで、兵力的に優勢だったミラノ側はそこにつけ込んで敵をうまく包囲するのに成功したらしい。
恐らく、15世紀のスイス軍はこうした失敗の経験を積み重ねながら、その戦法を洗練させて行ったのだろう。そもそも、先に紹介したようなスイス式の密集隊形は、古代ギリシアのファランクス同様、基本的に障害物のない平坦な地形でないとうまく機能しない。
つまり、もともとスイスのような山地には向かない戦法なのである。このことからしても、スイス軍が傭兵その他として国外に出ていくようになった後に、急速にその開発が進展したものと考えるのが自然である。
例えば、いまだ14世紀も初頭の1315年のこと、モルガルテンの戦いという有名な戦闘があった。このとき、谷間の狭苦しい場所で罠にはまったオーストリアの騎士団は、山の上から石や丸太を転げ落とされて、得意の突撃もままならぬまま、混乱の中で馬から下りて戦う羽目になり、スイス歩兵に包囲されて惨敗の憂き目を見た。
こうしたアルプス地域ならではの地勢を利用した山地戦は15世紀のスイス歩兵の戦法とはまったくの別物で、武器に関しても、この頃のスイス軍はピックではなく Helmbart(イタリア名 alabarda)という斧槍を主たる兵器としていた。バチカンの衛兵が持っているあれである。
もっともバチカン衛兵のアラバルダはパレード用にもっぱら美しさを追求して造った装飾品で、実戦用のにはもっと原始的な形状をした刃が付けられていた。柄はピックのような極端に長いものではなく、斧のような刃で馬上の敵を引っ掛けて引きずり落とすにも便利だったらしい。
このころまではスイス軍が自国から遠く離れて戦うことはほとんどなく、もっぱらハプスブルク家からの独立を求めての戦争が主だったし、山地や谷間では正方形の密集隊形など採りようもないから、14世紀中は基本的にモルガルテンのときのような山地戦がスイス式の戦い方だったと思われる。ウィリアム・テルの弩もゲリラ戦での狙撃用兵器としては結構有効だったのかもしれない。