|
研究報告
天野恵:騎士道と火器(3) [6/6]
アルベードの戦いはこれより一世紀も後のことだけれど、これもスイスとミラノの国境地帯の、あくまでもアルプス地域の周辺での戦いであり、しかも結局そこでは敗北している。やはり、まだピックと密集隊形による例の戦法はできあがっていなかったのだろう。
だいたい兵力からして、密集隊形というのはかなりの人数を必要とする。たかだか数百人の兵力ではあまりにちっぽけなものになってしまって、簡単に包囲され、突き崩されてしまうのである。
カルマニョーラの戦法についても、よくは分かっていない。武将としての名声が高かった一方、必ずしも何か特別な戦術を駆使して勝利を得ていたような話は伝わっていないからである。
ただ、一度撃退されもすぐに態勢をたてなおしたり、命令一下、騎士を下馬させたり、さらには野戦で包囲攻撃を展開するなど、自軍をよく統率できていた様子がうかがわれ、そこには中世の封建騎士団やコムーネの市民軍などとは比較にならない、近代的な戦争のプロの姿を見て取ることができる。
こうした芸当ができさえすれば、もうそれだけで十分に強い軍隊と呼べるような、まだそんな時代だったのではなかろうか。
ちなみに、ルネサンス期のイタリア諸国の軍隊がもっぱら傭兵部隊だったから八百長戦争に終始していた、というのはマキアヴェリの流したデマである。まァ、そういう側面もまったくなかったわけではなかろうが、15世紀末から始まるイタリア戦争の時期にイタリアの軍隊が外国軍に抗し得なかった原因がそこにあったわけではない。
マキアヴェリについてはいずれ触れないわけにはいかなくなるだろうし、今は脱線しないようにしたい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ともあれ、スイス式戦法の確立をはっきりと跡付けることができるのは、先にも言ったようにブルゴーニュ公国との一連の戦争を通じてである。そして、その完成を示す記念碑的な戦いが1477年のナンシーの戦いだった。
この有名な戦いで、ヨーロッパ最強とされていたブルゴーニュ公国の騎士団は完全に壊滅して、シャルル突進公その人も戦死し、遺骸が見つかったのは何と三日後のことだったという。
中世の戦争ならばたとえ敗北しても決して起こりえなかった事態である。そこで、次回はこのときのスイス歩兵の戦い方から見ていくことにしよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・